水着。それは普段隠れているあれやこれやが露わになってしまう、悪魔の装束だ。
「ゆきのん、早く早く!」
「ええ」
朝日が、川の水面に反射してキラキラと輝いている。川の深さは、腿のあたりまで浸かる程度。
ブルーの水着に身を纏った由比ヶ浜さんが私に大きく手招きをすると、その動きに合わせて大きく開かれた胸部がたゆんたゆんと揺れた。誇示するまでもなく私に敗北感を刻みつけてくるそれは、まさしく非人道兵器だ。
「食らえ結衣さん!」
「キャッ! やったなあ小町ちゃん!」
元気な様子の小町さんは、淡いイエローの水着が良く似合っていた。
仲良さげに水を掛け合う二人の下へと、私も歩いていく。パレオで体が隠れているとはいえ、肌を見せるこの格好には少し抵抗があった。でも、私に水着を持っていかないという選択肢はなかった。由比ヶ浜さんにお願いされたのだ。雪ノ下雪乃たる私が断ることなんてできなかった。
足をひんやりと冷やす川を進んでいく。
「……あれ」
いつの間にか、元気な二人の姿が見えなくなっていた。少し足を早めて、川を進んでいく。すると、女の子らしい高い声に交ざって、聞き覚えのある低い声が聞こえてきた。木の陰から様子を見ると、比企谷君が水着姿の二人と相対していた。ぽりぽりと頬を掻きながら、比企谷君が由比ヶ浜さんに言う。
「その、なんだ、いい感じだな。似合ってるし」
「そ、そか。……ありがとう」
少し顔を赤くして由比ヶ浜さんの水着姿を褒める比企谷君。……なんだろう。青春ラブコメの波動を感じる。彼らの下にツカツカと近寄る。
「比企谷君、あまり気持ちの悪いニヤケ顔を晒すのはやめなさい。通報するわよ」
振り返った比企谷君は、私の姿を確認すると固まった。その顔は、先ほどと同じく赤みがかっている。
「……な、何をいつまでも見ているのかしら」
風でひらめいたパレオが元に戻ると、比企谷君の視線も外れた。
少しの気まずい無言の時間を過ごしていると、私たちの来た方から、平塚先生、三浦さん、海老名さんが現れた。
次々と現れる容姿の整った女性たちの水着姿に、比企谷君は釘付けになっていた。今までになく彼が青春ラブコメの主人公している気がする。
少し離れた場所で楽し気に水をかけあっている小町さんと由比ヶ浜さんを眺めていると、いつの間にか、三浦さんが私の下に近寄ってきていた。昨日泣かせてしまったので、少し気まずい。しかし三浦さんは昨日のことなど気にしていないように私にずんずんと近寄ってくると、私の胸を見下ろして呟いた。
「フッ、勝った」
コイツ……私が気にしていることを……! 言い負かされてあっさり泣いちゃったくせに! 普段偉そうに接している由比ヶ浜さんに赤子みたいにあやされてたくせに!
雪ノ下雪乃らしからぬ罵倒を心中で一通り吐き捨てて、前を見る。すると、比企谷君が何か憐れむような目でこちらを見ていた。
「なんだ、その、姉を見るに可能性はあるから」
「そうですよ雪乃さん、元気出してください」
比企谷兄妹が慰めの言葉を口にする。比企谷君は、言い終えると、少し唇の端を上げた。その慰めるように浮かべた下手くそな愛想笑いは、なんだかとてもムカついた。
「ボ……私の胸についてそれ以上言及するのはやめなさい。そもそも女性の価値を胸の大きさで決めようという極めて男性的な価値観には違和感しかないわね。小さいからどうとか、大きいとかどうとか、そういう二元論的な思考に囚われていること、それ自体が恥ずべきことだとどうして分からないのかしら。ねえ、比企谷君?」
ぎろりと睨みつけると、比企谷君は胸とは一言も言ってねえし、などと呟きながらすごすごと退散していった。
「雪ノ下、お前にはまだ将来がある。まだ悲観するような時期じゃないさ」
「大丈夫だよゆきのん、小さくても可愛いよ!」
その後も平塚先生と由比ヶ浜さんにまで励まされる。なんだろう、私の胸はそんなにも憐れまれたり励まされたりするようなものなのだろうか。みんなの愛想笑いが痛い。むしろ自信がなくなった気がする……。
◇
その後、川辺での留美さんとの会話を終え、私たちは彼女を救うという決意を改めて固めた。
その具体案実施の舞台は夜、小学生たちのお楽しみイベント、肝試しだ。
原作通り、比企谷君が問題の解決策ならぬ解消策を出した。
概要としてはこうだ。肝試し中、葉山君など小学生と仲良くしていた高校生たちが突如豹変し、留美さんのグループを恫喝しだす。信じていた人たちによって窮地に立たされた小学生たちは、その醜い本性を晒すことになる。グループ内での責任の擦り付け合い。罵り合い。
そんな内紛をした彼らは、その不安定な友情を根本から破壊されることになる。そうすれば、留美さんの周囲の人間関係は崩れ去り、彼女を取り巻く嫌な雰囲気は消え去ることになる。
「みんながぼっちになれば争いも揉め事も起きないだろ」
比企谷君の言葉には、なんだか重みがあった。
目の前では、留美さんたちグループが葉山君たちに脅されていた。真っ暗な森の中には、小学生たちの動揺から震えた声とすすり泣きだけが響いていた。
「ここからね」
「ああ。鶴見留美を取り巻く人間関係をぶっ壊す」
もうすでに十分怖がらせているが、本番はここからだ。怯え切った小学生たちに、最後の追い込みをかける。
「さあ、あと一人残るやつを選べ。早くしろ」
五人のうち半分だけは舐めた口をきいたことを許してやるから、半分は残れ。そう冷酷に告げた葉山君に真っ先に差し出されたのは、留美さんだった。
予想通りの展開。葉山君の顔が、いつか見たような苦々しいものになり、すぐに元の無表情に戻った。
しかし明らかにのけ者である彼女の他に、もう二人犠牲者が要る。
「由香のせいじゃん」
「違う! 仁美が最初に言い出したじゃん」
「もうやめようよ。みんなで謝ろうよ……」
小学生たちの醜い争いは紛糾し、すすり泣きが静かな夜の森に響いた。
「……そろそろ頃合いか」
「待って」
比企谷君がネタばらしに出て行こうとすると、由比ヶ浜さんがその袖をそっと掴んだ。
「五、四、三……」
「あの……」
留美さんが手を上げる。カウントダウンをしていた葉山君の視線が彼女に向かった、その瞬間だった。夜闇に閃光が走った。光の奔流が視界を埋め尽くす。カメラのフラッシュ音。その後に、留美さんが同級生を逃げるように促す声。
「……留美ちゃんがみんなを助けたの……?」
「……ああ」
「本当は仲良かった、のかな?」
由比ヶ浜さんは、少し嬉しそうに言った。けれど、きっとそういうわけではなかったのだろう。
「誰かを貶めないと仲良くしていられないようなのが本物なわけねえだろ」
比企谷君が否定する。忌々し気に。でも、彼の言葉はそれで終わらなかった。
「……けど、そうやって偽物だってわかってて、それでも手を差し伸べたいって思ったなら、そいつは本物なんだろ、きっと」
「……そう、なのかしら」
僅かな憧憬の籠った彼の言葉に、思わず自分を重ねてしまう。私は偽物だ。偽物の雪ノ下雪乃だ。それでも、本物に手を伸ばし続ければ、いつかこのボクが本当の自分だと認めることができるだろうか。
かつての比企谷君の言葉を思い出す。私の笑った顔が、本物だと言ってくれた。正直、どういう意図で言ったのか私には分かりかねる。姉さんの嘘のように完璧な笑みよりも自然だったとか、単にそれだけだったのかもしれない。
私に背中を向けて佇んでいる彼に、聞きたくなってしまった。私は本物になれるのか、偽物のままなのか。裁決を、下して欲しくなった。
◇
その後は、少しキャンプファイヤーを楽しんで、私の奉仕部の夏は終わった。夏休みはまだまだあるけれど、もうおしまいだ。その理由は、このキャンプの終わりにあるイベントだ。
行きと同様に私たちを乗せた平塚先生の車が、学校に到着する。そこで私を迎えたのは、あの事故の時と同じ車だった。
「はろーゆきのちゃん、迎えに来たよ」
姉さんのその宣言は、私の夏休みが終わったことを告げていた。
でも、それどころではなかった。私は後ろを振り返り、比企谷君と由比ヶ浜さんの反応を確認する。
……ああ、やっぱりだ。比企谷君は、驚いたような、失望したような、それ以上の何か複雑な感情が渦巻いているような、そんな表情をしていた。何に対する失望なのか、私には良く分かった。
由比ヶ浜さんの方も、また違った複雑な感情を抑え込んだような顔をしている。
「……、じゃあね、比企谷君、由比ヶ浜さん」
扉を閉めると、ハイヤーは静かに走り出した。
ああ、嫌になるほど原作通りみたいだ。キャンプの終わり、比企谷八幡は自分を轢いた車の持ち主が、雪ノ下家であることを悟る。その時彼は、虚言など一切吐かない潔白な雪ノ下雪乃像に裏切られることになる。
虚偽を憎み欺瞞を嫌う彼にとってのある種の理想像であった雪ノ下雪乃が隠し事をしていたこと。それから、何より雪ノ下雪乃に理想を押し付けていた自分自身への失望。
そんな複雑な感情から、二人の距離は少し遠ざかることになる。けれどこれは、きっとあの事故を防ぐことができなかった私の罰なのだろう。回想する。あの日の思い違いを。過ちを。
◇
あの事故のことは、よく覚えている。忘れられるわけもなかった。私が総武高校への初めての登校のために、雪ノ下家の運転手である都築の運転する車に乗っていた時のことだ。
揺れ一つない高級車の座席で、私はその時が訪れる瞬間を今か今かと興奮を抑えきれず待っていた。だってこれは、原作が始まる瞬間に他ならないのだ。奉仕部の面々を巡る縁、その始まり。さらに、比企谷八幡と由比ヶ浜結衣に実際に会えるのだ。一ファンとして、見逃すわけにはいかなかった。
ハイヤーは進む。この先に訪れる事件など知らずに。早朝の通学路には人気がない。後部座席の車窓から眺める景色も単調だ。
私が僅かに眠気を感じ始めた頃、事件は起こった。唐突だった。法定速度の六十キロちょうどで進む車の前に、突如として犬が躍り出た。都築が急ブレーキをかける私の体が前のめりになり、シートベルトが体を締め付けた。けれど視線は前にやったまま。
ハイヤーは犬を轢いてしまうか、という瞬間、小さな影の前に立ちはだかる少年の姿があった。犬を抱き、車から逃れようとする比企谷八幡。けれど、間に合わない。車の速度が速すぎる。──そこで私は、ようやく自分の過ちに気づく。
「──都築!」
ハイヤーは、少年と衝突するにはあまりに速度が乗りすぎていた。ともすれば、少年を殺しかねないほどに。
血の気が引く。そうだ。この事故で彼が死なない保証など、どこにあったというのか。どうして私の知っている通りの物語が進むと確信できたのか。急ブレーキの甲高い音がけたたましく鳴る。私は祈るように、顛末を見届けた。
結果として、比企谷八幡は重傷を負ったが命に別状はなかった。
けれど今回の事故は、私の認識を正すのに十分すぎた。彼らは登場人物などではない。今ここで、生きている。どうしてそんな単純なことに気づけなかったのだろう。私だってこの世界で生きているのに。
なぜ比企谷八幡が事故に遭っても五体満足で総武高校に通えると信じられたのだろう。運転手の都築に一言言えばよかったのではないか。今日の登校時間をずらすとか、道中気を付けるように告げるとか、方法はいくらでもあったのではないか。
そんな重大なことを、私はただ原作の重要シーンが見られるなどというふざけた理由で、怠ったのではないか。
車内から、倒れる比企谷八幡を眺めていた時、私は自分の過ちに気づいた。言ってしまえば、この時から、私と彼の関係は間違っていたのだ。