わずかに傾いてきた日の差す部室で、私は半ば無意識に言葉を紡いでいた。
「──まだあまり一般的ではないけれど、サテライトオフィスという形でテレワークが実施されている例もあるわね。IT化の進んだ今だと、職種によってはわざわざ同じ場所に集まって仕事をする必要性が薄くなってきているかもしれない。もちろん、対面コミュニケーションの重要性というものも決して無視できるものではないのだけれど」
「へえ……。よくわかんないけど、じゃあそのテレワーク? ってやつが普及したら、パパも仕事するために家を出かける必要がなくなるってことかぁ」
「そうだよ。だからな、将来的には人類は家から出なくて済む未来が来るはずなんだよ。俺がしているのはその予行演習に過ぎない。むしろお前たちが遅れてるとまで言える」
「うわあ。ヒッキー、そこまで家から出たくないんだ……」
「引きこもりくんらしいわね」
「ほっとけ。……」
由比ヶ浜さんの言葉に同調する。しかし私の罵倒文句を聞いた比企谷君は、気だるげに一言返すだけだった。何か言おうとして口を噤んだようなその態度に僅かな違和感を覚える。けれど私も何か言うわけでもなく、手元の読めていない文庫本へと目を落とした。
部室に漂う空気は、夏休みを経て大きく変わった。明確な諍いがあったわけではない。由比ヶ浜さんも比企谷君も休まず部室に来ているし、私だって欠かさず出席している。
けれど、交わされる会話に、どこか距離があった。原因はきっと私だ。私と比企谷君の関係が、少し変わってしまった。夏休み前は、良く言えば遠慮のいらない関係だったのだが、今ではお互いに微妙な遠慮が生まれ、会話が弾まない。
やはり比企谷君に、思う所があるのだろう。虚言など吐かないと言っていた私が、隠し事をしていたこと。あの事故の当事者だったことを黙っていたこと。
分かっている。それは私が紙面上で読み、知っていたことだ。比企谷君の、完璧な人間である雪ノ下雪乃像が裏切られたことへの失望、勝手に幻想を抱いて勝手に失望してしまった自分への失望。
でも、本当にそれだけだろうか。偽物である私に比企谷君が抱いた失望は、本当にそれだけだったのだろうか。あまり目の合わない比企谷君の真っ黒な瞳を眺めていると、不安になってくる。
例えば、疑念。私の語る信念が、全て噓っぱちだったのではないかという疑いを比企谷君が持ったとしたら。ひょっとしたら部室にすら来なくなるかもしれない。
物語の通りに、私は振舞えているのだろうか。答え合わせの機会は訪れない。台本はないのにエンディングだけが決定している演劇をしているようだ。演者である私には、観客の表情を伺うことすら許されず、ただ愚直に滑稽に踊るしかないのだ。
そして、私が物語を正しく導けているのか、試される時が来た。高校生たちの一大イベント、文化祭だ。
文化祭実行委員会の最初の集まりは放課後、会議室で開催された。予定通り実行委員になった私は、早めに席に座ってあたりをぼんやりと眺める。二人組の女子。キョロキョロとあたりを見渡す男子。部屋に着くなり、既に到着していた生徒の方へと駆け寄っていく女子。
そして、いた。特徴的なアホ毛の、目の腐った男子高校生。彼は私と目が合うと、少し驚いたように目を見開いた。けれどそれ以上何か言ってくるわけでもなく、視線を逸らすと気だるげに席へと向かっていく。
やがて定刻が過ぎる頃には、静かだった会議室はざわめきに満ちていた。至る所からおしゃべりの声が聞こえてきて、とてもこれから何か始めようという雰囲気ではない。
しかしそんな秩序のない空間に、突然華やいだ声が聞こえた。
「はい、ではみなさん、文化祭実行委員会を始めますよー」
不思議と人の気を引き寄せるその声に、ざわめきがスッと収まる。
「今日はみなさん集まってくれてありがとうございます、生徒会長の城廻めぐりです! みんなで、文化祭成功させるぞ、おー!」
ふわっとした感じの挨拶に、すかさず生徒会員たちが拍手すると、実行委員たちも釣られて拍手をした。こうして、寄せ集めの実行委員は、一応のスタートを切った。
城廻先輩の挨拶が済むと、早速委員会最初の活動が始まった。良く言えば大役、悪く言えば貧乏くじである役職。委員長決めだ。
「雪ノ下さんもダメか……。誰かいませんかー?」
城廻先輩が可愛らしい声で委員長の立候補者を呼びかけるが、静寂の会議室からは中々声が上がらなかった。私が内心まだかまだかと待っていると、やがて自信なさげな小さな声が響いた。
「あの……誰もいないなら、私がやってもいいですけど……」
来た。やっとだ。おずおずと手を上げたのは、相模南だ。
「やってくれるんだ! ありがとう!」
城廻先輩に促された相模さんが自己紹介をして、前に出ていく。……少なくとも、委員長を決める段階までは上手くいったようだ。後は、私が彼女の依頼を受けるだけだ。
前に出て、緊張した面持ちで話している彼女を見る。私が知っている通りなら、失敗する彼女。私は、それを知りながら止めることはしない。
◇
「うち、実行委員長やることになったけどさ、こう自信がないっていうか……。だから、助けてほしいんだ」
部室を訪れた相模さんの依頼は、だいたいこの言葉に要約されるだろう。
「あなたは自己成長を目標に掲げていたはずだけれど」
すぐに承諾するにはあまりにも他人頼みな態度に、私は小首をかしげてみせる。相模さんは、少し慌てたように連れてきた取り巻きに話しかけ始めた。
「い、いやあ、なんていうの。仲間と助け合うのも成長っていうか? 一人でやるのもちょっと心配だなっていうかさ」
「うんうん」
「そうだよね。初めてだから不安だよね」
付和雷同といった様子の友人たちに気を良くしたらしい。相模さんは少しふてぶてしさを取り戻し、私に向き直った。
「ってわけで、手伝ってもらえないかなあ」
「……それって……」
「ええ、構わないわ。私実行委員だから、出来る範囲で手伝いましょう」
由比ヶ浜さんが何か言おうとしていたので、それを遮るように了承の返事をする。比企谷君と由比ヶ浜さんが、驚いたような顔をしているのが嫌に印象的だった。
「──それじゃあ、明日からよろしくね!」
終始軽い調子の相模さんは、これでもう全部解決したとでも言いたげな表情で私に言うと、足取り軽やかに奉仕部を去っていった。
「どういうつもりなの、ゆきのん」
いつもとは違う由比ヶ浜さんの低い声。自然、応答する私の声にも硬さが混ざる。
「どうもこうも、私が個人で依頼を受ける。ただそれだけよ」
「部活は文化祭までは無しって言ってなかった?」
「ええ、だから私一人でやる」
由比ヶ浜さんの瞳の鋭さに内心たじろぐが、決して態度には出さない。真っ直ぐに彼女を見つめる。
「でも、それってなんかおかしいよ! なんでゆきのん一人でやるの?」
「その方が効率がいいというだけ。それに由比ヶ浜さんには関係ない話よ」
「でも、ゆきのんは困ってる人をただ無条件に助けるような人じゃなかったよね! ……なんていうのかな、今回の依頼の件、なんかゆきのんらしくない!」
「え──」
「私、今日は帰るね!」
由比ヶ浜さんはそう言い捨てると、脇目も振らずに部室を出て行ってしまった。やや遅れて、比企谷君が追従するように出ていく。
けれど、私はそれどころではなかった。彼女が発したある一言がきっかけで、私は懊悩と恐怖に支配されてしまった。
例えるなら、今立っている床が突然消え去ってしまい、何もない奈落へと落ちていく浮遊感にも似た恐怖が、全身を支配していた。
「らしく、ない……?」
私が、雪ノ下雪乃らしくない? どうして。なぜ。どこが。どうやって分かった。偽物だって、由比ヶ浜さんにバレた? 比企谷君にも?
らしくない。それは、私にとって呪いの言葉だった。その言葉をかけられた過去の記憶を思い出す。小学校で、足を広げて座ってしまった時。ピンクではなく青を選んでしまった時。転んだ子に手を差し伸べた時。中学校で、テストで百点を取れなかった時。友達になれそうな子ができた時。
そして、事故を起こしたハイヤーに乗ろうとする私を見る、比企谷君の驚いたような表情。
それらを思い返すたびに私の心は恐怖に支配される。私らしくない。雪ノ下雪乃らしくあらねばならないのに。でも私は、本当は雪ノ下雪乃ではなくて──
「……違う。由比ヶ浜さんがそんなこと思うわけない。そんなのは、弱くて完璧じゃないボクの妄想だ」
何を考えているんだ。由比ヶ浜さんの言葉にそんな深い意味なんてありはしない。少しいつもと違う行動をしたボクに対して違和感を覚えただけだ。その、はずだ。
いくら言い聞かせても、ボクの不安定な心は恐怖を訴え続けていた。
ドクドクという音が聞こえそうな心臓のあたりに手を当てる。前世のボクには存在しなかった緩やかな膨らみの感触。
ああ、根拠のない恐怖に、おかしくなってしまいそうだ。あるいは、こんなことを考えてしまうボクは、とっくにおかしかったのかもしれない。
「せめて、文化祭実行委員くらい務まらなきゃ雪ノ下雪乃じゃない、かな」
誰もいなくなった部室を眺める。がらんとしたこの部屋は、ひどく広く感じた。