昔、インドに悪いウマ娘がいた。
名をラッジュマーラ。
草陰からさっと現れ、こわい言葉で脅かしながら野良レースを挑んでは、履物をぶん取っていく超恐ろしいウマ娘であった。
当時インドのウマ娘の履物といえばサンダルのような形をしていた。古今東西の例に漏れず、お金と、お手入れと、お洒落心を注ぎ込んだ一品物だ。それを無理にぶん取られるというのは筆舌に尽くしがたい辱めであった。
犠牲者は既に九九人。また彼女はあろうことか、ぶん取った数々のサンダルから革紐を抜き、それを編み込んで首飾りにするという、(ウマ娘にとって)とんでもなく恐ろしいファッションをしていた。
それ故に『
さる高名なクシャトリヤのウマ娘が意気揚々と討伐に出たことがあった。しかし数時間もしないうちに、しくしく泣きながら裸足で帰ってきた。
それからというもの、ラッジュマーラの名は土地のインドウマ娘にとって恐怖の代名詞となっていた。
ある時、尊者カンタカはその土地に足を向けた。妹弟子アーナンダをはじめ、人々は口々に言った。
「カンタカ様、危のうございます。ラッジュマーラといって、超悪いウマ娘がいます。どうぞ迂回してください」
尊者は白毛の尾っぽを揺らし微笑んだのみで、黙って歩いていった。カンタカは基本的に他人の言うことを聞かない。
さて、いつも通り両手に木の枝を持って、下手っぴな草むらの擬態をしていたラッジュマーラは驚いた。向こうから輝く白毛のウマ娘がしずしず歩いてくるではないか。
「あれは誰かしら。近頃はクシャトリヤさえも、このラッジュマーラ様を恐れ、おどおどして道を歩くものよ。それなのに、あの白毛のウマ娘は、まるで象さんの様に泰然と歩いているわ。一体何者なのかしら」
それからラッジュマーラは色とりどりの紐で編まれた首飾りを撫でつけ、思った。
「これにある九九のウマ娘たちは、どれもこれも軟弱で歯ごたえがなかった。記念すべき百人目には、ああいう徳の高いウマ娘が相応しいというもの……ようし!」
木の枝をぽいして、ラッジュマーラは尊者の前にさっと姿を現した。
「やあやあっ、私はラッジュマーラ様だ!」
「こんにちは、私はカンタカです」
「こんにちは!」
丁寧に両手を合わせて挨拶する尊者カンタカに、ラッジュマーラは世にも恐ろしい首飾りを見せびらかした。
「ここで会ったが百人目。駆け比べに勝ったら履物をいただいて、この首飾りに編み込んでやるわっ!」
「分かりました、そのようにしなさい」
相手がちっとも怖がらないことにラッジュマーラは怯んだが、重ねて脅かす。
「この首飾りの……どこだっけ……ここよっ! 赤い部分はクシャトリヤのお嬢様から獲ったやつ。それにこっちの青い部分は大商隊の護衛ウマ娘から──」
しかし、尊者は静かに聞いているだけであった。悪いウマ娘はぷるっと震えたが、武者震いだと自分に言い聞かせた。
野良レースのあれやこれやの誓約をさっさと済ませて、直ぐに出走体制に入る。
ようい、どん──尊者カンタカは、たったか走り出す。ラッジュマーラは拍子抜けした。
「楽隠居の走りじゃないの、楽勝ね」
しかし、どうしたことだろう?
全然追いつけない。慌てて足を回す、されど、どんどん背中が遠ざかる──ああ負ける、初めて負ける、足が竦んで動かない、いやだ──堪らず叫んだ。
「比丘尼よ、止まれ!!」
尊者は振り返って言った。
「私は止まっている。あなたこそ止まったらどうか」
「お前は走っているのに止まっていると言い、私の足は動かないのに止まれと言う。一体どうした訳なの」
挑戦者の反駁に尊者は応えた。
「ラッジュマーラよ。私の心は何物にも脅かされず、静かで、安立している。楽しい。しかるに、そなたは害心と恐怖の紐でぐるぐるに縛られ、呼吸すらままならず、もがき走っている。楽しくない。だから私は止まっていて、そなたは止まっていないと言う」
それを聞いて、全インドウマ娘が恐れ憎んだ悪バは、ぺたりと膝と耳を折った。
「ラッジュマーラよ。その紐で自らの首を締め上げることはバカバカしいと思わぬか。走ったら楽しいな、って気持ちを犠牲にしてまで自慢をして一体何になろう」
「尊者よ、その通りです。ああ、でもどうすればよろしいでしょう」
「されば紐を解きほぐし、履物と合わせて持ち主に返しなさい。返せないものは、きちんと供養するが良い。その後で私に会いたくなったら、いつでも来なさい」
ラッジュマーラは、ゆっくりと九九の首飾りを外した。それから尊者に右肩を向け、周囲を三度くるくる旋回して最高の礼を表した(右繞)。
このようにして尊者カンタカは、すごく悪いウマ娘でさえも弟子に取ったという。
──ラッジュマーラ経より、意訳
(転輪教説話が多いのは尊者カンタカがすきだからです)