悪魔の護り手   作:ケーキ食べたい

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第一話

 

 

 

 

 目の前にフランス兵の死体が転がっている。見るに()えない姿だ。顔面の皮が半分剝がれており、まるで古い花瓶のように白い頭蓋骨が、射て刺すような太陽の下に晒されている。

 

 左の塹壕にも死体が横たわっている。ドイツ帝国の兵士だ。こちらは腰から下を何処かに忘れてきたようで、ピンク色に濁った腸を、まだ乾ききっていない断面からこぼしてしまっている。ああ、たった今下半身を見つけた。自分が踏んでいる、この土まるけの柔らかい塊がそうだ。

 

 右を向いても死体がある。こちらはイギリス兵だ。もちろん自分の背後にも。これはどこの誰だか判別できない。崩れた児童館の玄関にも、土で埋もれた塹壕の中にも、ひっくり返った砲台の真下にも死体。見渡す限り死体、死体、死体…………。

 

 ここは地獄か。

 

 いや。あいにく、まだあの世ではない。だが、地獄に一番近い場所なのは見たらわかる。さしずめ煉獄と言ったところだろうか。どちらにしろ碌な場所ではないのは確かである。

 

 なぜ自分がこんな場所に立っているのだろうか、と何度自問したか分からない。

 高地連隊(ハイランダーズ)に入隊したからだろうか。

 それとも射撃にのめりこみすぎたからだろうか。

 あるいはセルビア人がオーストリア皇太子を銃で撃ち殺したからか。

 またあるいはイギリスが海を挟んだ西部戦線に参戦したから?

 もしかすると、生まれた時からこの場所に立つことが決まっていたのかもしれない。

 

 いずれにしろ、これまで答えが出たことは一度もなかった。

 

 クレーターだらけの野原をひたすら歩く。隣や後ろを歩く仲間はいない。少なくともこの付近には。今頃は順調に陣を後退させ、起死回生の一手を探っていることだろう。もしくは本土(ブリテン島)に帰還している頃だろうか。自分を置き去りにして。

 

 自分は脱走兵だ。

 仲間を置いて、一人戦場から文字通り背を向けた。何故、と問われれば、ただただ死にたくなかったからと答えるほかない。

 

 自分の所属していた隊に下された指令は無謀の一言だった。

 “アルゴンヌ付近にいるフランス軍を救援し、味方の撤退が完了するまで時間を稼げ”。

 

 実際はもっと長ったらしかった上に、かなり言葉を選んでいた気がするが、自分には〝死んでこい〟と言われたようにしか聞こえなかった。

 

 何故なら、指令が下された時点で、件のフランス軍はドイツ軍の圧倒的な戦力を前に、ほぼ壊滅状態となっていると知らされていたからだ。そんな場所に今から突っ込む。これを死刑宣告と言わずしてなんと言うのか。そう周りの戦友にも訴えたが、総じて聞く耳を持たなかった。女王陛下のご決断なのだからと。

 

 それを聞いてスッと愛想が尽きた。戦友にだけではない。イギリスに、いや、戦争自体に愛想が尽きたのだ。 

 

 だから自分は戦いから背を向けた。正面切って突撃していった戦友は、フランス軍の残党とドイツ軍の半分もろとも皆死んだ。今歩いているこの戦場跡がその証である。彼らは最期までバカだった。心底そう思う。

 

 

 野原を越えて森へ入る。もう数時間も歩きっぱなしだ。目眩もしてきた。喉も渇いた。どこかで一休みしたい。が、無防備に木にもたれ掛かって寝てしまえば、すぐにドイツに見つかってマヌケにも捕虜になるか、ライフル弾で瞬く間に蜂の巣だ。洞窟か小屋を探してそこで休むのが得策だろう。

 

 そして、今すぐここから離れたい。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 森を2時間ほど歩いて川を見つけた。

 

 小さな川だ。

 深さは足が膝まで沈むくらいで流れも比較的穏やか。幅も肩幅二人分と狭めで、苔まみれの大樹の根の下を潜りながら自分とすれ違うように流れている。

 

 飲めればいいが……と手で器を作り、恐る恐る手を水面に突っ込む。まち針で突き刺すような水の冷たさが手の器に纏わりつき、瞬く間に触感を麻痺させていく。そうしてコーヒーカップ半分ほどの水を掬ってゆっくりと口に注ぐ。舌に纏わりつく穏やかさと内側の皮膚を貫くような荒々しさを感じさせるそれを、自分はゆっくりと味わいながら胃に流していく。

 

 我が肉体は体感の数倍は水を欲していたらしい。水を汲む手が止まらない。(すく)っては飲み、掬っては飲み────それを5回ほど繰り返したところで、縁の地面に不自然な凹みを視界の隅で見つけた。

 

 それは縦長で自分の手のひらよりも若干大きく、指の第一間接の半分ほどの深さしかなかった。

 

 足跡だ。一人分の足跡。自分のものではない。それよりおおよそ一回り小さい。おそらく子供のもの。深さや土の柔らかさから察するに、この足跡が作られてからまだそれほど時間が経っていない。

 

 つまり、足跡の主はまだ近くにいる。

 

 しかし、ここは霧が立ち込めるほど深い森な上にそもそも戦場のド真ん中だ。そんな場所に子供の足跡とは。しかも一人で。 

 

 正直違和感しかない。しかし、その違和感を払拭できる可能性が一つだけある。

 

 それは子供の家がこの付近にあるという可能性だ。ここから歩いてたどり着ける距離に子供の家があるのなら辻褄が合う。

 

 家だ。この近くに家がある。

 そう頭に浮かんだ時、身体は暖かい高揚感で満たされた。恐らく、これが今の自分に出せる最後の高揚だろう。ならば自分は当然、この高揚を燃料にしてここから進み始めなければならない。生き残るために。今の自分にとって子供の家が最後の頼みの綱なのだ。いかにここに飲み水があろうとも、ここに留まっていてはいずれ死ぬだけである。

 

 小川の水に囚われかけていた足を、両腕を使って無理やり動かし、肩に下げていたエンフィールドライフルを杖にして立ち上がる。そして次なる足跡という道標を探すために苔に覆われた地面へ一歩踏み出した。

 

 

 自分は故郷に帰らねばならない。こんな道半ばで死んでいられない。生き残らなければならない。

 

 たとえ他の命をこの世で一番残酷な方法で踏みにじることになろうとも。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 足跡の主のものとみられる住居だが、ただ小川を十数分遡るだけで見つかった。

 森の中に一軒だけ不自然にポツンと存在する木製の掘っ立て小屋で、壁の木材はところどころ皮が剥がれ落ちているなど、見た目はかなりボロボロだ。おまけにガラス張りの窓には粗悪な木の板でが打ち付けられている。失礼ながら言わせてもらうと、ほとんど廃屋だった。しかし、それでいて小屋の屋根から突き出ている細い煙突からはモクモクと白い煙を吹かしているのだから、それがまた不気味である。

 

 流石に時間が経ちすぎたのか、川辺で見つけたような足跡はどこにもない。この場に昔馴染みの戦友がいたなら、本当にここで合っているのかという至極真っ当な疑問を自分にぶつけただろうが、自分の本能はここだと戦友の幻聴を一蹴していた。

 

 朽ち果て棘まみれの柵を越え、小屋の玄関まで重く傷だらけな我が体を連れていく。そして、ほとんどもたれ掛かるようにして、ドアを叩いて誰かいないかと呼び掛ける。

 

 しかし、それに応えたのは虚しい沈黙。再度ドアを2回叩く。そして今度は喉を潰す覚悟で叫ぶ。

 

 もう蹴破ろうか。そう思い立って勢いをつけるためにドアから数歩後ろへ下がったところで、ドア越しに木の床を踏みしめる音が聞こえてきた。音は、ゆっくりとだが、確かにこちらに近づいており、そして遂にドアのすぐ向かい側で歩みを止めた。

 

 自分は一歩後ろに下がり、扉が開くのを待つ。そしてギィ……という木材同士が擦れる不快な音を立ててゆっくりとドアが開く。

 

 その向こうに立っていたのは、川辺の足跡の予測通り、少年だった。

 

 手足は小枝のように細く、全体的に痩せっぽち。背丈も高くない。歳はだいたい14から16歳といったところだろうか。そして彼の頭からは、まるで燃えカスを想起させるような灰色の髪が、生気を失ったかのように肩までダランと垂れ下がっていた。

 

 思わず、その奇怪な彼の姿に呆気に取られていたが、すぐに本来の目的を思い出し、疲労と貧血とその他多数の原因により震えている体をどうにか抑えながら口を開く。何か食べ物と寝床を恵んでくれないか、と。

 

 が、ここで己の犯した間抜けな失態に気がついた。今、自分が喋っているのは紛れもなく英語。しかし、立っているこの場所は、英語が日常的に飛び交う我が身に馴染み深いスコットランド(故郷)()()()

 

 イギリスと海を挟んだ大陸の国。すなわち、フランス。さらにその辺境である。公用語はもちろんフランス語。都市部の富裕層になら英語を話すことができるフランス人もいるだろうが、こんな森の奥深くにまで海を挟んだ異国の言語が伝わっているはずがない。

 

 つまり、今まで叫んだ「誰かいないか」や「パンよこせ」はおそらく全部伝わっていない。

 

 しかし、無理だと分かっていても試さないわけにはいかない。今回は、このボロ小屋の少年が実は都市部の学校に通っていて、将来通訳の仕事に就きたいがために英語を勉強している可能性がある。もちろん、薪が全て燃え尽きたあとに残った灰カス程度の小さな可能性だが。

 

 だが、それでも諦めるわけにはいかない。全ては故郷に帰るためだ。

 

 唐突に言葉を途切れさせた自分を見てキョトンと目を丸くしている少年に、自分の言っていることが分かるかどうか恐る恐る問いかける。ついでに手で空気を掴んで食べる仕草をしてやるが、効果は今一つ。

 

 ダメそうだ。いっそのこと、このガキと親を殺して小屋ごと強奪するか? と思い始めた、その時。

 

 

「なら対価は?」

 

 

 少年の口から、まるで同胞(英国人)のような英語が飛び出た。自分の口から思わず間抜けな声が出た。

 

「『え?』じゃないよ。何か求めるならそれなりの対価を払わないきゃ」

 

 しかも妙に厚かましい。少しイラッときた。ここは来世で払うということで手打ちとさせて貰おう。

 

「今世で払って」

 

 じゃあ出世払い(ツケ)でどうか。

 

「ふざけてるの?」

 

 なんでこうも拒否するのか。たかが怪我人一人くらい匿ってくれたっていいじゃないか。

 

 そんな自分の心中を見透かしているかのように少年は言葉を続けた。

 

「なんでって顔してるから説明するけど、見たところ君はイギリス兵だよね。で、ここにはもうすぐドイツ人がやってくる。そうだよね?」

 

 自分は首肯を返す。少年はそれを見て続けた。

 

「じゃあその時イギリス兵を匿っているところをドイツ兵に見られた僕はどうなると思う? 特に善意で匿ってるとバレた時とか」

 

 まあ良くて野晒しだろう。あるいは拷問にかけられた後、野晒し。結局行き着く先は同じか。それを聞いた少年は若干引いていた。お前が聞いてきたんだろうが。

 

「……まあつまりはそういうこと。軍人なら分かるよね? 僕は君の巻き添えを喰らいたくないの」

 

 自分は真っ白な曇り空を仰ぎ見て大きくため息を吐く。あまりこの手段はとりたくなかったが仕方がない。自分は肩から下げていたエンフィールドライフルの銃口を少年の鼻先へ向けた。

 

 すると──これまた予想外なのだが──少年は厄介者と相対するような態度から一転して、口を三日月のように曲げ、ニタリと笑った。

 

「話が早くて助かるよ」

 

 そして体を反転させて部屋の奥に消えた後、腕だけを影から出して『こっちへおいで』と言わんばかりに手招きをした。

 

 しばらく呆気に取られていたが、とりあえず深呼吸をして目の前の状況の理解に集中する。

 

 正直信用に値しないが、こんなものでも最後の望みなのだ。自分は『もうどうにでもなれ』と覚悟を決め、一歩を踏み出す、はずだった。

 

 あれ。

 

 足が動かない。口も動かない。視界が端から暗くなる。遂に限界が来たのだ。体の力が抜ける。無理やり足を動かそうとしてバランスが崩れる。体が前へ傾く。だが止められない。銃を支えに──できない。手を壁につけ──無理。

 

 

 結局抗えないまま、自分の視界は真っ暗闇に覆い尽くされた。

 

 

 

 

「なんとまぁ、丁度いいところに来たねえ。君は」

 

 少年の口から漏れたその言葉は、彼の目線の先で倒れる青年の鼓膜に届くことはなく、床に開いた小さな穴に吸い込まれた。

 

 

 

 

 .....

 

 

 

 

 

 少年が招き入れ、青年が倒れたのと、丁度同じ瞬間。

 

 森の影からそれを観察する影があった。影は二人。二人ともグレーグリーンの野戦服を着用していた。それぞれ木製の肩当て(ストック)が印象的なボルトアクションライフルを持っており、そして片方のみが、首から双眼鏡を下げている。典型的な狙撃手と観察者のペアだった。比較的装備が軽装なことを見るに、今は偵察任務中だろうか。

 

 影たちは、小屋の玄関で倒れた青年を白髪の少年が室内へ引きずり込むという奇怪極まりない光景を見届けた後、互いに顔を見合わせる。

 

「……まさか、あれが?」

「信じられないが、多分そうだろう。()()()が言っていた特徴と大体合致する」

 

 彼らの口から飛び出たのは、このフランスの森ではほとんど聞くことのないドイツ語だった。

 

「ピンポイントで場所を言い当てるとは。流石()()使()()だな」

 

 観察者が達観したようにボソリと呟く。それを聞き逃さなかった狙撃手は途端に眉間にシワを寄せた。

 

「よせ。どうせたまたま言い当てただけだ」

「けど実際目の前にいたじゃないか」

「だから運が良かっただけだ。まさかたった一回の予言を当てただけで魔法使いと言うつもりか? くだらない。そんなことよりもまずは大佐に報告だ」

 

 狙撃手が静かに立ち上がる。それを観察者は不安そうに見つめる。

 

「なんて報告すればいい?」

 

 狙撃手は深く考えることもなく、すぐに結論を出してみせた。

 

 

 

「見たままを言うしかない。『例のユダヤ人を見つけた』と。それだけでいい」

 

 

 

 それきり、影たちは森の奥へ消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





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