その軽巡艦娘「
単純に判決を下すことができなくても、矢矧は当事者たちと一緒になって、親身になって悩むような艦娘だった。その姿を見せられる内に、初めは妥協など到底考えられないと思っていた二者が、訴えを取り下げたり、和解したり、示談しようという気になったりするので、また人々は矢矧への信用をますます強めるのだった。矢矧本人としては、幼少期に親から教えられた道徳的観念に従い、自分が正しいと思ったことをするようにしているだけで、特別なことは何一つしていないのだったが、彼女のそういう考えは、謙虚さの現れとして捉えられた。
時には彼女の誠実さを利用してやろうとする者もあったが、強い意志のこもった矢矧の目と対峙して、それでもそう考え続けていられる者は少なかったし、矢矧も誠実なだけの間抜けという訳ではなかった。彼女は優秀な艦娘であり、優秀な艦娘が誰でもそうであるように、その場その場を切り抜ける能力に長けていた。戦友たちは、きっと矢矧が海軍で一番名誉のある艦娘になるに違いないと噂して、そうなるまでに掛かる日数を賭けの対象にしては盛り上がった。
その評判や彼女の輝かしい未来を一挙に崩したのが、ある中規模作戦における出撃の際の出来事だった。この時、彼女と彼女の艦隊は、本来の提督とは違う人物に指揮されていた。作戦の半ばというところで作戦拠点だったタウイタウイ泊地が深海棲艦による逆撃を受け、指揮系統が大いに混乱していた為である。その“違う人物”は無能ではなかったが、混乱の中で正確に指揮できるほど優秀ではなかった。彼は長距離砲撃による別艦隊の支援を矢矧たちに命じたのだが、射線上に位置する島を考慮に入れていなかった。無論、仰角を取って砲撃すれば、島を越えての砲撃支援は可能である。水上機による観測支援もあったから、精度もある程度は確保できた。
問題はその仰角と、島に存在する施設だった。その島には近隣諸島で最も大きな病院があり、矢矧たちのいる場所から支援砲撃に適切な仰角を取った場合、狙いを逸れた砲弾が病院をかすめる、もしくはより悪い場合、直撃する可能性があった。これを避ける為には、時間を掛けて迂回し、射線をクリアにするか、もしくは島に接近して仰角をより大きく取って発砲しなければならなかった。しかしその時、指揮を執っていた男は、ただちに支援砲撃を始めるように指示したのである。支援対象の艦隊が非常に危険な状態にあり、迂回や接近をしている間に彼女たちの壊滅が発生すれば、元も子もないというのがその理由だった。
しかし深海棲艦の攻撃が完全な奇襲であったことにより、近隣住民の避難は全く進んでおらず、それはその病院のある島でも同様であった。矢矧にはとてもではないが、病院とそこにいる医師、看護師、患者を殺傷しかねない危険な砲撃は行えなかった。ただでさえ、当時の彼女たちは正規の提督の指揮によって動いているのではなかったから、それも余計に矢矧に躊躇させた。彼女は頑として臨時指揮官の命令を跳ね除けた。軍法会議や、それ抜きでの抗命による処刑をちらつかされても、決して意見を変えることはなかった。だが、彼女の二番艦以下となると、これは別だった。射撃中止を叫ぶ矢矧を無視して、彼女たちは砲撃支援を開始し、継続し──残念なことに、矢矧の懸念は当たってしまった。
この中規模作戦終了後に作成された公的な記録では、病院への被害は深海棲艦の砲撃によるものとされている。また、矢矧の艦隊へは、支援対象の艦隊とその提督から、感状が送られている。少なくとも、砲撃支援は一つの艦隊とそこに所属する艦娘を救ったのである。しかしながらその対価は、患者たちが避難できる準備が整うまで、病院を離れることを拒否した勇敢な医療関係者と、彼らが守ろうとした患者たちの命だった。誰かが、その責任を取らなければならなかった。矢矧はそれに打ってつけだった。
軍法会議に掛けられた彼女の、表向きの罪状は抗命のみだったが、海軍の上層部や病院に対する戦争被害調査委員会に向けては、彼女が強引に艦隊員の射撃を中止させようとして、相手の体に触れたことで狙いが狂い、病院に着弾したという虚偽の報告が上げられていた。矢矧は誠実さを武器に戦った。堂々と、胸を張って。それが相手にいかなる感銘を与えたかは不明である。が、最終的に、彼女には有罪判決が下った。だが多くの予想に反し、言い渡されたのは絞首刑ではなかった。単なる転属である。
言うまでもなく、それは単なる転属ではなかった。それは、懲罰部隊への転属だった。最低限の装備と危険な任務を与えられ、生還を期待されない、処刑こそできないが、この世から永遠に消えて欲しいと思われている艦娘たちが、最後に行きつく場所だった。そこに集められた艦娘たちは、矢矧の事情を知れば馬鹿にして笑った。彼女の責任感、誠実さ、彼女が任務を通して貫こうとした人類防衛という大きな使命、矢矧自身にそこまで大きな考えはなくとも、彼女がしようとしたあらゆることが、懲罰艦隊の艦娘たちにとってはいい笑いの種だった。一番の新入りはどんな艦隊でも、そういった手荒い出迎えを受けるものだ。矢矧の新しい居場所では、それが他の何処よりも過酷で、手厳しいというだけのことだった。
自分が世界の何処にいるかも教えられず、基地内で軟禁状態に置かれ、自由な外出など夢物語という環境下で、矢矧の美徳は格好の攻撃対象になった。彼女も実戦を数多く経験した艦娘である。やられてばかりではなかったが、外に深海棲艦という敵がいる時、内にも敵がいては、消耗は避けられなかった。それも、本来は戦友として絶対の味方である艦娘が敵になるのでは、避け得ない致命的な敗北を、矢矧には遅延させ続けることしかできなった。
そんな中、ほぼ日常となった、先任艦娘たちとの
この怪我はどうしたんだね、と軍医は訊ねた。医療従事者らしい、相手への思いやりが感じられる、柔らかな口調だった。矢矧は嘘を言わなかった。殴られました、と答えた。眉をひそめた軍医が、犯人は誰なのか訊く。でも傷ついた艦娘は、口を閉ざして答えなかった。憲兵や憲兵付の艦娘がきちんとした治療の確約と引き換えに、口を割らせようとしたが、状況は変わらなかった。矢矧は忍耐強く、沈黙を守った。医者は根負けして、これだけは教えてくれ、と言うのが精一杯だった。「どうして犯人を庇う? 密告への報復を恐れているのか?」矢矧は微笑んで言った。「海に出れば、彼女は優れた艦娘ですから。私の肋骨と引き換えにするのが惜しくなるほどの、ね」軍医は困ったような顔になったが、追加の質問はしなかった。憲兵たちに向かって、彼女の治療をするから出ていけ、と有無を言わせない口調で命じただけだった。
ごく微量の修復材による治療を受けた後、矢矧はまた憲兵たちに連れられて、元の場所へと戻された。そして、日常が再び始まった。不十分な装備で、信頼できない艦隊員と共に出撃し、命からがら生き延びて帰り、薄い肉粥やパンの配給食を食べて、自分と同じくへとへとの艦隊員たちと同室で、錆びた鉄製の寝台に寝転がる。矢矧は執念深く、生き残り続けた。一度などは艦隊からはぐれてしまい、弾切れの状態で海上に一人きりになってしまったが、無事に帰投した。脱走しようとしたんじゃないかと言いがかりをつけられ、独房に入れられても、食事を抜かれても、歯を食いしばって耐えた。気づけば彼女は、懲罰艦隊でも古株の艦娘になっていた。新しく転属させられてきた艦娘はみんな、矢矧を頼った。彼女が他の古兵と違い、穏健で公正、誠実だったからである。
そうなると、部隊内での統制が問題になった。矢矧にその気はなかったのだが、彼女を慕う者たちは、かつて矢矧の肋骨を折った艦娘とその一派に対して、かなりはっきりとした対抗の姿勢を見せていた。このままでは、艦隊内で内戦が起きるのも時間の問題だと見なした艦隊上層部は、矢矧を出撃部隊から故意に外すように仕向け、代わりに軍医の下で彼の手伝いをさせるようにした。出撃をしないことにより、矢矧の影響力を削ろうとする他、これには別の目的もあった。彼女の処分である。もし、医薬品の横流しであったり、意図的に治療の妨害をしたとあらば、それを口実として即座に処断する手筈だったのだ。
ところが、これは矢矧の誠実さを計算に入れていない策謀であったから、完全な成功とは行かなかった。確かに新入りの艦娘が彼女に傾倒することはなくなったが、負傷したのがどの艦娘であれ、人間であれ、可能な限り公正に扱い、非の打ちどころのない態度で職務に臨んだものだから、今度は古参艦娘たちの一部が彼女を認め始めたのだ。長らくこの懲罰部隊で権力者の座にあった艦娘は、ますます矢矧への敵意を強める結果となってしまい、泥沼の内戦は避けられぬものと見えた。
そこに現れたのが、艦隊上層部、つまり提督との橋渡し役を務める、軽巡艦娘「
大淀はここに至って、矢矧の余りにもひたむきな実直さと誠実さを聞き及び、部隊運営の臨時手伝いとして軍医の下から引き抜いたのであるが、それで矢矧の生活が大きく変わることはなかった。個室だけは与えられたが、相変わらず寝台は錆びていたし、食事にも変わりはなかった。出撃せずに冷暖房の効いた部屋で書類仕事をするのは一種の特権だが、大淀がそれを意図していたかどうかは別として、常時監視されつつの仕事は、矢矧をして精神的に容易いものではなかった。
それに、これまで彼女が見た中で、大淀は最も打ち解けられない人物だった。顔色は常に悪く、目つきは懲罰艦隊に相応しいもので、表情は抜け落ちたかのよう。鉄の塊と喋った方がまだ、相手から人間味を感じられるかもしれない、と矢矧が思ったほどである。たまに何がしかの義務みたいに、職務に関係が薄く、時に突拍子もない雑談をぽつりぽつりとしたが、それ以外では作業上の必要性がなければ、口を開くことがなかった。
だがそれにもかかわらず、矢矧は奇妙にも、彼女と過ごすのが段々と好きになっていった。大淀が、彼女自身の立てた労働計画に頑固なまでに忠実で、どれだけ好調に仕事をさばいていても、定期的に小休憩を取るところだとか、その時には必ず飴を一粒口に含み、それが溶け切るまで口の中で転がすところ、その飴を当然のように臨時秘書もどきにも渡してくるところが、矢矧の気に入っていた。この仕事が臨時でなく続けられればいいな、と彼女はよく考えた。目に入る書類はどれも彼女個人にとって大したことのないものだったから、気兼ねなくそう思うことができた。
けれども、一つ二つ季節を越えて、そろそろ寒くなってきた、と大淀が例の途切れ途切れの雑談の際に漏らした頃、大規模作戦が始まった。懲罰艦隊の任務は飛躍的に増え、その危険度も跳ね上がった。この頃には大淀一人では増え続ける書類の山をさばき切れなくなっており、限定的ながら矢矧に書類の処理を任せていた。当然ながら大淀名義での署名、大淀の判を使っての処理だったが、それを実際に記入捺印するのは矢矧だったのである。時折、大淀は立場に伴う義務としてか、矢矧の仕事を確認し直し、不正や歪曲のないことを確かめては、文句のないことを示す為に、機械的に頷くのだった。
数日に一度、矢矧はその中で特に懲罰艦隊の艦娘に“紙”と呼ばれる書類を処理しなければならなかった。それはごく少数での偵察任務を命じるもので、多くとも三隻、少なければ単独で敵支配領域の深くまで侵入することを求められた。生きて帰ってこられる者は少なく、生き延びても十分に情報を持ち帰れなかった場合は、敵前逃亡扱いされるか、次の偵察任務にも参加させられるかだった。この忌み嫌われる命令書が現れた際、それを伝達するのは矢矧の仕事だった。これは大淀に押し付けられたのではなく、彼女の執務室で矢矧が一人になる訳にはいかないと、矢矧本人から意見したからだった。
彼女の評判は、あっという間に悪化した。艦娘たちは大淀を死神と呼んで忌み嫌い、矢矧のことは死神の鎌と蔑んで恐れた。そうでなければ、どうにか自分への“紙”を誤魔化してくれと泣きついてくる者もいたが、矢矧は沈痛な表情でそれを断り、彼女自身で意味などないと分かっている謝罪を口にするだけだった。やがて、彼女にすがる者はいなくなった。食堂に行けば、彼女の席の周りには誰も近寄らず、ぽっかりと空白地帯が出来上がった。以前に矢矧の肋骨を折れるほど殴りつけたあの艦娘さえ、今や彼女が復讐の為に書類を操作するのではないかと怯え、死神の鎌に触れられることのないように、身を縮こまらせて隠れていた。
矢矧はそれにすっかり失望しつつも、彼女たちが勝手に追い詰められるのも哀れに思った。それで、いつも執務室で食事をする大淀に、食堂外での食事と同席の許可を貰えないか訊ねてみれば、あっさりと許しが出て、それからは二人は昼と夕とを共にするようになった。大淀は相変わらず無口だったが、矢矧としてはそちらの方がずっと食事相手として好感の持てる態度だった。
大規模作戦の終わりが近いという通達が来た翌々日も、二人は共に仕事をし、一休みしては飴を舐め、仕事をし、食事を取り、雑談とも呼べない二言三言の会話を交え、仕事をし、夜までを過ごした。作戦の開始に伴って増加傾向にあった書類も、終了間際とあってか減り始めており、もう何日かすれば、矢矧は書類の処理をしなくても大淀だけで間に合うようになりそうだった。いつものように休憩の時間になり、二人は手を止めて、儀式的に飴の受け渡しを行った。口の中に放り込み、無言で転がす。この時間は休憩時間なので、ぼんやりと物思いに
が、大淀が一枚の書類を手に取って眺めているのを見つけて、彼女は意外に思った。これまでには見なかった行動だ。以前、矢矧が休憩時間中に書類へ目を通しておこうとすると、無視し得ない重みのある口調で、大淀は言ったものだった。「休憩中は、休んでください」その彼女が、書類を読んでいる。同じことを言ったらどんな反応をするだろうと思って、臨時秘書が口を開こうとしたところで、大淀が先に言った。「矢矧さん。あなたの認識番号は、なんでしたか?」面食らって、矢矧はまばたきをした。重ねて、大淀は慇懃な口調で言った。「認識番号です。お忘れでなければ」もちろん、彼女は覚えていた。つっかえそうになりながら、それを伝える。急な質問だったが、脈絡のない雑談や問い掛けには、大淀と過ごす内に慣れてしまっていた。
ふうん、と感慨もなさげに息を漏らすと、提督代理の軽巡艦娘は独り言のように呟いた。「部隊の運営が最優先だということは、あなたもお分かりかと思います。よろしいですか」矢矧はそれが自分への言葉だと気づくのに遅れて、聞き流すところだった。理解を放棄して首を縦に振る。大淀は彼女が臨時にその地位につけた秘書艦もどきの顔をじっと見つめて、頷いた。「結構です。私たちには、しなければいけないことが、まだ沢山ある……」そして、持っていた書類をひょい、とシュレッダーに放り込んだ。耳障りな音を立てて、それは紙屑になっていく。その音が止まって、会話ができるようになった時には、大淀はもういつもの、閉じた本のような調子だった。彼女は言った。「さあ、仕事をしましょう」
その後、色々なことがあった。戦争が終わるまでには何度も大規模作戦があったし、中小規模の作戦にも多く関わった。それらの中で、矢矧を殴って肋骨を折った艦娘は轟沈した。彼女の仲間だった艦娘も、同じ作戦か、別の作戦で轟沈した。矢矧が懲罰艦隊に入る前にいた艦隊も、終戦を迎えることなく壊滅したと、彼女は後で聞く機会があった。誰もが沈んだ。大淀も終戦前の最後の作戦に召集され、そこで沈んだと彼女の後任から知らされた。だが矢矧は生きていた。戦争の中でも、戦争が終わっても、彼女は生き延びた。海軍は渋々、普通の艦娘たちが終戦後にそうしたように、彼女を名誉除隊させた。恩給も出る。就職か就学かの選択肢もある。矢矧が貫き通した彼女なりの誠実さは、彼女の人生を救ったのだ。
時々、矢矧はあの夜の大淀の姿を思い浮かべる。あの時、大淀がシュレッダーに掛けた書類が何だったのか、彼女は知らない。しかし、それが自分への“紙”だったのだと、彼女は信じている。そして思い出す。その時の大淀が、どんな風に矢矧の目を見つめてきたか。疲れ、やつれて、凍りついた表情で、その目に浮かべた決意の光が、どのように死の闇を打ち払ってくれたのか。