私*1が戦争時代、艦娘訓練所を出て最初に配属されたのは、パラオ泊地だった。元艦娘、あるいは現役艦娘ならその地理的な情報も、風土についても訓練所で叩き込まれてよくよくお分かりのことだろうが、そういったことに全く触れてこなかった方の為に、ここではごくごく基本的な点を二、三ほど記述しておきたい。パラオ泊地はフィリピン南部で恐らく最も有名な都市、ダバオから千キロほど東にある、パラオ共和国に設置された日本海軍の軍事拠点である。戦争時代には、日本に限らず深海棲艦と戦う有力な国家の多くが、こういった海外拠点を有していた。その中の一部は未だに稼働しているが、大半は終戦と共に役目を終え、今は記念碑が残るばかり、という地も少なくない。
パラオ共和国は太平洋、ミクロネシア地域に位置しており、三八六個の島から構成されている。内、実際に人が住んでいるのは六つ*2の島に限られ、人口は戦中から大きく回復した現代でも、一万人を少し超える程度である。国民の気風として余り農業を好むところではなく、食糧生産に難のあったこの国では、戦中もしばしば食糧難が発生した。その度に、私や他の艦娘たちは配給任務を与えられ、炊き出しなどを行ったものだ。
しかし、日本三軍とて、いつでもそういう助けの手を伸ばす余裕がある訳ではなかった。特に深海棲艦によるパラオ泊地の包囲が行われた際には、私たちさえ飢え死にしかねないところまで追いつめられたのだ。包囲それ自体は異常なものではなく、定期的に行われるもので、その度に空軍による輸送と、トラック泊地*3、タウイタウイ泊地*4からの援軍を受けて、包囲網を破壊、離脱する深海棲艦たちを追撃するというのが、ある種のルーチンと言ってもよかった。ただその時は、天気が悪かったのである。
パラオの気候は、熱帯雨林気候に分類される。一年は雨季と乾季に分かれるが、スコールなどもあって年間を通して雨量は多く、特に七月と十月に晴れた空を見るのは中々ないことだ。でも日本と違って台風は少ない。その少ない台風が、ゆっくりと、包囲下の七月にやってきた。気象学者たちがそれにどういう理屈をつけたかは知らない。けれど事実として、それはそうなったのだ。困ったのは我々だった。空軍が輸送任務を中止しようとしたからだ。確かに、空輸には良好な天候が不可欠である。雨や風が着陸も離陸も著しく困難なものにするのは、空母艦娘としてよく分かっていたから、空軍がパラオへの空輸を厭ったのも頷けた。だが、食料の輸送がなければ立ち行かないのも、目に見えた話だった。
海軍はかなり粘り強く空軍を説得したらしい。泊地一つ丸々干上がるかもしれないとなれば、上層部も必死になれたのだろう。それで輸送が来ることになったのだが、これが
私たちは歯噛みして悔しがった。嵐が影響を及ぼすのは何も、艦娘に対してだけではない。艦娘にとってのライバルとも呼べる、人型の深海棲艦たちにもその悪影響は降り注いでいたのだ。包囲網は駆逐イ級など、荒波による転覆の恐れが少ないが、戦力的には弱小の深海棲艦たちによって成されていた。彼我の戦力差だけを見れば、包囲網突破の好機だった。事実、何度か出撃が試みられている。結果は
それでも私たちが耐えられたのは、永遠などないという事実を知っていたからだった。台風が動くのをやめることはない。もう数日も待てば、いつもの雨季と変わらなくなる。波は鎮まり、深海棲艦も増強されるだろうが、人生は都合よく行かない時もあると、艦娘たちは一人残らずわきまえていた。そして、私たちの考えは正しかった。台風は去った。風は収まった。雨は、まあ、マシになった。で、深海棲艦の大攻勢が始まった。
幸いなのは、それが東南アジアから遠く離れた場所*5で起こったことで、パラオに向けてのものではなかったということだ。もし我々への大攻勢だったなら、タウイタウイやトラックからの援軍も間に合わなかっただろう。が、不幸なのは、この大攻勢で海軍も空軍も大わらわになってしまい、パラオ泊地への支援が滞ってしまった点だった。空輸は再開されなかったし、輸送船も来なかった。包囲網はまだ健在だった。援軍に来てくれる筈の両泊地からは、大攻勢に対抗する為としてかなりの戦力が抽出された。一方でパラオ泊地に来た命令は、待機だった。正確には、包囲網に加わっている深海棲艦たちをその場に釘づけにしておけという内容だったが、意味するところは大差ない。私たちは食料もなく、単独で包囲網を打ち破る力もなく、そこにいることしかできなかった。
泊地司令官がその命令に必ずしも忠実でなかったのは、配下にとっての
当時のパラオの人口は今の半分ほどだったことや、状況が状況であるが故に、パラオに駐屯する陸軍との協力体制をすんなりと築けたことで、私たちはどうにか日々を過ごせていた。それでも食事は一日に二回になり、その量もかなり不満のあるものになった。だが雨のお陰で水だけは潤沢にあったので、この時は野菜くずや骨を煮込んだ薄いスープで腹を一杯に満たして、誤魔化すことができた。
他に私たちを慰めてくれたのは、戦友たちとの会話だった。普段は出撃もあって、中々じっくりと腰を据えて話をするのが難しい相手でも、夜間哨戒を割り当てられていなければ、夜の食堂でたっぷり話し込むことができた。私たちは実に沢山のトピックについて語り合った。家族自慢や戦歴自慢、今までに沈めた一番大物の深海棲艦。行った外国、そこで見たもの、聞いたもの、食べたもの。イタリア遠征経験のある艦娘はジェラートの話をしようとして、口に水差しを突っ込まれて止められていた。みんな普通の食事以上に、甘味に飢えていたからである。
会話はよく、議論になった。パラオで三年過ごすのと、ショートランド泊地*6で一年過ごすのでは、どちらがより受け入れられるか? 深海棲艦の中でもその強力さから別格とされ、鬼級・姫級と呼ばれる類の連中と一対一でやり合うのと、通常の深海棲艦の一隊と単独で交戦するのでは、どちらが勝ちの目があるか? 戦艦と空母、自分が艦種を変更できるならどちらにするべきか? 犬と猫のどちらがペットとして適切か?*7 この泊地で最も勇敢なのは誰か?
最後の議論はいつまでも結論が出なかった。ほとんどの艦娘はこの議題を話す時、「まあ私が一番なんだけれども、それを除くなら」というような前置き抜きには話せなかったし、それを聞いて反論もせず冷静に話ができる艦娘は更に少なかった。でもある時、これについて珍しくきちんと話ができていることがあった。食堂の長机に並んで座った艦娘たちは、神妙な態度で考えを巡らせていた。そこに酔っ払った私の艦隊の那智がやってきた。何処に隠していたものやら、空腹にアルコールを流し込んだ彼女は、見るからに正気ではなかった。「貴様ら」と彼女は座っている私を特に指さして喚いた。「加賀の右に座っている貴様ら全員クソったれだ」十把一からげの侮辱は、行儀の悪い艦娘たちからしても、褒められた行為ではなかったが、那智は意に介さなかった。「それで、左に座ってる貴様ら、貴様らは腰抜けだ」
私のすぐ左には、長門が座っていた。恐れることなくワニを一撃で殴り倒した長門である。彼女はわざとらしく服を整えると、立ち上がってゆっくりと酔っ払いの戦友に言った。「私は、自分が腰抜けだとは思わないな」傍にいた何人かの艦娘も頷いた。彼女が誰よりも勇敢だという意見に反対する者はいただろうが、彼女が勇敢だということに反対する者はいなかった。「そうか?」那智は好戦的で危険な笑みを浮かべた。「ならとっとと加賀の右に行ったらどうだ、このクソったれ!」その言葉を皮切りとして、誰がこの泊地で最も勇敢かを決めようとする集まりは、誰の腕っぷしがこの場で最も強いかを決めようとする集まりになってしまった。本来の議論に曲がりなりにも答えが出るには、もう暫くの時間を必要とすることになる。
欧州での深海棲艦との戦いは、長く続いた。まず日本海軍が向こうまで行くのにかなり掛かった。防衛戦力の足しにする為の先遣隊は空路での移動だったが、本隊は海路を用いて、道中の深海棲艦を蹴散らしながらの進攻となったからである。そうすることで、欧州方面にいる深海棲艦たちが、日本海軍本隊側に誘引されることを期待しての海上強行軍だった。これは成功したのだけれども、その分、彼女たちの足は遅くなり、欧州での深海棲艦の攻勢を本格的に頓挫させるのは遅れてしまった。まあ、後からならば何とでも言えるので、所詮は一艦娘でしかなかった私から、この判断に対してあれこれと文句をつけるのはやめておこう。
でもパラオ泊地で私たちが飢えたことについては、何を言っても言い足りない。私たちの食料調達は懸命なものだった。陸軍だって協力してくれた。彼らが貯め込んでいた糧食は、私たちが包囲されている間、大いに助けになった。戦中戦後と色々な経験をしてきたが、あの頃、腹を空かせた艦娘と腹を空かせた陸軍の兵士が、肩を並べて畑を耕したり、野に分け入って食べられるものを探したことは、今でもよく覚えている。それでも食料は十分でなかった。パラオには数千人の民間人がいて、彼らも彼らで食事を必要としていた。山で現地民の男と鉢合わせ、収穫を巡ってあわや乱闘になり掛けたこともある。彼は私たちがパラオの人間から盗んでいると主張したが、その山は公有の土地であり、日本軍はそこで必要に応じて食料調達をする権利を、既に公式に与えられていた。男は渋々引き下がったが、彼の意見が彼だけの意見だと考える艦娘は少なかった。
こういった食料に関するトラブルが、現地人たちに対してのみならず日本人同士、艦娘同士などでも頻発した為、泊地司令官は手を打たなければならなかった。彼が取った方策は、今回の状況における治安維持を専門に扱う役職の臨時的な設置だった。あくまで臨時であり、常設ではないとすることによって、その役職には大きな権限が与えられたのである。そのポストに納まったのが、パラオ泊地にいた、ある海軍中佐殿だった。
彼の前職についてはよく知らない。私とは別の艦隊にいたが、仲の良かった駆逐艦娘「
中佐はもしかしたら、艦娘たちをできるだけ営倉に入れておきたかったのかもしれない。そうすれば、中に入っている連中には、少なめの配給で済むからだ。そう思いたくなるくらい、彼は営倉処分を乱発した。口論をした? 営倉で頭を冷やせ。服装規定違反? 好きなだけ好きな恰好をしていろ、ただし営倉で。無許可離隊だって? 食料調達中にトイレに入りたくなったから? おやまあ、最後に営倉にも入ってみたらどうかね! 飢餓が迫っているという状況でなければ、誰かが声を上げていたろうが、その時は誰にも彼のことを止められなかった。止める元気もなかった。
食事は一日一回になっていた。その一回の量も、前より減っていたと思う。中佐はどんどん過激になっていった。彼自身も空腹に苛まれていたのだろう。こんなに早く食料がなくなるのはおかしい、誰かが私腹を肥やしている、というのが彼の言い分だった。それを暴き出してやる、と彼は息巻いた。その日から、私たち艦娘や、それ以外の陸軍を含む軍人たちは、中佐殿の突然の訪問を恐れなければならなくなった。彼は何の兆候もなしに現れ、部屋を荒らし回り、隠し持っている食料を探した。ある艦娘の部屋で、彼はチョコレートを二つ見つけた。二箱じゃない。二つだ。親指くらいのサイズのチョコが、二つ。ビニールの包装紙に包まれた、一個十円で買えそうなやつだ。
私はたまたま、そこにいた。見たまえ、と彼は私にわざわざそれを見せつけた。これは何だと思う、と。チョコレートだと私が答えると、彼はいきり立って、違う、と断言した。これは風紀の乱れだ。これは治安の乱れだ。海軍への、国家への反逆の証拠だ。彼があんまり大真面目にそう言ったので、私は吹き出すところだった。この話を聞いた、また別の艦娘が言ったことを覚えている。子供のおやつで国家への反逆になるなんて、
危惧は正しかった。彼は
絞首台はパラオ泊地の運動場に組み立てられ、犠牲者を待っていた。艦娘たちは刑場と化したその場に予め集められ、今回の処刑がどういった事情で行われることになったのかを、中佐殿じきじきに教えられた。聞きながら、私たちは俯いていた。空腹が、私たちから考える力を、立ち向かう力を奪っていた。その場にいた者の中で元気なのは、中佐だけだった。その彼だってげっそりと痩せて、腰のベルトなんかは限界まで引き締めてあった。彼が命令を下すと、頭に布袋を被せられた艦娘が、ライフルを携えた憲兵に連行されてきた。その後ろには、軍属の清掃員が続いていた。処刑が済んだ後で、彼の仕事をさせる為に。
顔が見えなくても、これから処刑される彼女から立ち上る絶望の気配は、明確に感じ取れた。それを止めるには、一歩前に出て、憲兵と中佐殿に向かって、失せろと一言ばかり言ってやるだけでよかった。それだけのことが、私にはできなかった。艦娘は促されるまま、全てを諦めたように、絞首台に上がった。中佐は手ずから縄を彼女の首に掛け、二歩退くと、刑を執行せよ、と命令を発した。そうすれば、脇に控えた憲兵が絞首台のレバーを引き、死刑囚の足場がぱかりと開いて、彼女を死の落下に誘う筈だった。しかしその憲兵は、命令を聞いてもレバーを引けないでいた。中佐は居心地悪そうに、命令を繰り返した。憲兵は動かなかった。誰も動かなかった。しん、とその場が静まった。
私の耳に、えへ、と笑い声が聞こえた。それは処刑台に立たされたままの、艦娘の笑い声だった。恐怖に引きつった、死を前にして反射的に出たような笑い。中佐は激怒した。彼は拳銃を腰から引き抜くと、警告も抜きにレバー担当の憲兵に向かって発砲した。弾丸は彼の腰に命中し、血を巻き散らして、彼は絞首台から地面へと転がり落ちた。誰もが唖然とする中、中佐殿は叫んだ。よろしい、出来ないというなら、自分がやるだけだ。そして彼は、肩を怒らせ、大股の足取りでレバーのところまで行き、そこでふと絞首台の下に目をやった。彼が連れてきた清掃員が、地面に倒れた憲兵のライフルを構え、彼に狙いをつけていた。
中佐は即死だった。その後、清掃員は長い溜息を吐き、ライフルを地面に投げ捨てた。銃声を聞きつけた泊地の副司令官が武装した憲兵隊と共に来て、撃たれた憲兵を医務室へ、そして清掃員の彼を泊地の監獄に連れていく時、処刑される筈だった艦娘の艦隊員たちは、ただの人間、しかも軍人ですらないにもかかわらず、仲間を救ってくれた男を、守るように付き従った。「見たか?」中佐の遺体も、撃たれた憲兵も、名も知れぬあの清掃員もいなくなった後で、那智が言った。
「あれがここで一番勇気のあるやつだ」
空輸は二日後に再開された。