朝、リビングのテレビから聞き覚えのある景気のいい行進曲とレポーターの能天気な声が聞こえてきた時、即座に椅子から立ち上がって画面にリモコンを投げつけなかったのは、彼女にそれだけの体力と感情が残されていないからだった。一月の寒さは防寒のしっかりした室内でも、なお手足の先からじわじわと染み入るようだったし、彼女の両腕はここ暫くずっと、肩より高い位置に動かされたことがなかった。それに彼女が人生のある地点から育み始めた、理性的な部分が、リモコンを投げるということに見られる感情的な何かを、多少なりとでも嫌悪させていた。何よりも、彼女には投擲という行為に用いられるべき筋肉が、いささかならず欠けていた。彼女は、全くのところ、老婆だった。
人生の終わりに近づきつつあるこの女性は、胸中の痛みが精神的なものか肉体的なものか、判断しかねていた。ただ、テレビはこれ以上見ていたくなかった──忌々しいその機械には、新たな一年の始まりを祝う催しの様子や、人々の歓声、そして新年の祝賀パレードに参加して、雪の降る中でも堂々と市中を行進する、彼女の友人たちの姿が映されていた。もちろん、老女の本当の意味での友人、直接に触れ合い、苦しみを分かち合い、喜びを分かち合った者は誰一人、そこにはいない。だがそれでも、そこにいるのは、その友愛の情が老人からの一方的なものであったとしても、友人だった。何故ならテレビを消すことを選んだ老婆も間違いなく、昔、今そうしている者たちと同じように、陰一つない笑顔であのパレードを歩いたからである。同胞と肩を並べ、誇りに胸を満たし、背筋を伸ばして。彼女はかつて、艦娘だった。
遠い過去の話である。終戦からは、彼女が戦争の中で過ごした時間の何倍も経っていた。当時を知る者も既にほとんどが鬼籍に入り、戦友会が機能不全となって久しかった。彼女と同じ艦隊で戦争を生き延びた幸運な艦隊員たちも、時と共に一人欠け、二人欠け、今となっては老婆の他にもう一人がどうにか生きているだけだ。その一人とも、連絡は取っていなかった。話せば思い出話になるに決まっているし、そうなれば現状と過去の栄光を比べて、どうしたって惨めな気持ちになると思っていたからだった。
努めて客観的に考えるようにすれば、老女は彼女自身の尺度を用いてみても、そこまで不幸という訳ではなかった。終戦して、名誉除隊して、軍隊以外の仕事もした。恋愛もしたし、結婚もした。出産に子育てだってやり遂げた。子供たちは大人になって家を出て行き、夫には先立たれたが、未だに恩給が貰えているお陰で、一人でだって安穏と暮らしていられる。近所の人々は、若い人たちも含めて、彼女に善良な注意を払ってくれている。小ぢんまりとした家に住む、小柄で口数少なく控えめな老婆が、戦争に行って命を懸けて戦い、人類を守り抜いたことを知っていて、そのことに純粋な感謝と、敬意を感じているのだ。
これ以上を望むのは贅沢だと分かってはいたが、老婆にはそれでも時折、鬱屈としたものを感じることがあった。もう一度だけ艦娘に戻れたら、どんなに気分のいいことだろうと、彼女はよく夢想した。風を切って海を走り、轟音を響かせて砲を撃ち、戦友とざっくばらんで乱暴なやり取りを交わす自分の姿を、何度も思い描いた。そうしてその度に、不意に現実の自分がもうそんなに若くないことや、二度と海の上に立つことがないのを思い出して、怒ることもできずに落胆するのだった。考えるのをやめてしまえばいい、と分かってはいたが、実際にそうするには、過去に浸るのは余りにも魅力的な時間の過ごし方だった。
ふと思い立って、老婆は椅子から立ち上がった。肘置きに立てかけてあった杖を取り、転ばないように体を支えながら、寝室へ向かう。眠りたい訳ではなかった。寝室のクローゼットに用があったのだ。そこにたどり着くと、まず彼女は杖をその辺に放っておいて、クローゼットのドアを開けた。ハンガーで棒から吊り下げられたあれこれの服を無視して、衣装箪笥に手をやり、引き出しに手を掛ける。そうして彼女はそこから、樟脳の香りをふわりと広げながら、一着の服を取り出した。それはお世辞にも女性らしいとは言えない服だった。それは、軍の礼装だった。艦娘としての制服ではなく、艦娘たちが軍の式典などに出る際、見た目を統一する目的で与えられる、至って面白みのない服だった。
しかし、正しく読み取ることのできる者が見れば、きっと目を見開いて驚いただろう。それどころか、知識のない者が見たとしたって、一定の感銘は与えられた筈だ。何故ならその礼装には勲章が幾つもぶらさがっており、略章はまるで鎧であるかのように胸部の片側を覆っていた。
老婆はかなり苦労して、その服に着替えた。腰に負担を掛けないようにしながらズボンを穿き、少し緩めにベルトを締める。シャツとジャケットを着る時、久々に大きく動かした肩が不精を責めるように痛みを発したが、彼女は息一つ漏らさずにその痛みを耐えた。ボタンの一つ一つを留め、ベルトを締め直し、制帽を被って、姿見の前に立つ。背筋を可能な限り伸ばして、恰好をつければ、鏡の中に若かりし頃の己の姿を見られる気がしていた。
無論、そんなことは起こらなかった。老女は単なる老女だった。鏡の中には、軍礼装を着た老人の姿しか映っていなかった。そうなるのを半ば予期していた彼女は、がっかりしながらも、今更服を脱ぐ気にもなれず、体を引きずるようにしながら寝室を出ていった。その途中で杖を忘れたことを思い出し、取りに戻ろうかとも思ったが、それすらも億劫に感じさせるほどの疲れが、彼女の体にまとわりついていた。服を着替えただけでそんな調子になる自分に、彼女はますます落胆し、我が身を情けなく思った。
残された僅かな力で、さっきまで座っていた椅子の背もたれを掴み、部屋の窓際へとそれを持っていく。老女の家は通りに面したところにあり、リビングの窓際からは、道の様子がよく見えた。椅子に腰を下ろし、外を眺める。その日その日にやることが終わってしまった後、残りの一日そうしているのが彼女の日常だった。白い雪が、誰も通る者のない道に積もり、車道や歩道を埋めて、その区別を奪っていく。幾らか暖房の効いた部屋の中から、老女は雪の冷たさを思った。北極海で、芯から凍えるほどの寒さを味わった時を思った。こんな風に雪が降った日に、泊地の艦娘用兵舎にあった暖房機器が壊れ、艦隊員たちと身を寄せ合って押し合い圧し合い暖を取ろうとした際のことを思った。駆逐艦たちは体温が高い気がする、と言った誰かのせいで、駆逐艦娘の奪い合いになった記憶がよみがえり、老女は壁に目をやった。
壁には写真が幾つも飾ってあった。除隊してからのものや、家族写真もあったが、ほとんどは戦中の写真だった。写っているのは見目麗しい少女、艦娘たち。日本海軍の艦娘に交じって、何人かは海外艦娘もいる。その表情はどれ一つ取っても今の老女とは似ても似つかない、
数人の女性がそこを歩いていた──若い女性が──艦娘が──老女の家の前、車道を挟んだ向こう側の歩道を、積もった雪を踏み荒らしながら、仲間と騒ぎつつ、通り過ぎていくところだった。新年の休暇に外出許可でも取って、遊びに出かけるところなのだろう。自分だってやった覚えのあることだから、老婆にはすぐにそれと分かった。心臓発作でも起こしたかと思うほどの痛みが、彼女の胸を襲った。
身勝手な怒りとは分かっていたが、彼女は唇を噛み締め、敵を見るかのように、その艦娘たちをにらみつけた。自由に、元気に、思うがままに振舞う彼女らが憎らしかった。自分も彼女たちの仲間だと言いたかった。共に騒ぎ、外に出ていきたかった。どちらも叶う訳のない望みだった。涙がにじみそうになるのを、老女は必死でこらえた。すると、視線を感じ取りでもしたのか、無邪気にじゃれあいながら外を歩く艦娘たちの一人が、老婆の方を見た。その目と目が合ったのが、老いた元艦娘にははっきりと分かった。
視線の交差が続いた時間は、一秒にもならなかった。現役艦娘はすぐに道連れの方を振り向くと、はしゃぎ続ける仲間の肩を叩いて老女への注意を示した。そして何か言って頷き合い、みな揃って
その安寧を邪魔したのが、大音量の音楽である。閉じ切った窓の向こう側から響いてなお、それは老女の穏やかな眠りを完膚なきまでに破壊してしまった。はじめ彼女は驚き、それから怒り、疑念を抱き、次いで確信した。朝、テレビの前で聞いた、あの行進曲。遥か昔に、その曲に合わせて元艦娘自身もパレードを行った、あの曲だ。かくりと落ちていた首をもたげて、彼女は窓の外を見た。音の響いてくる元を見た。
艦娘が、雪上を走っていた。足を動かすことなく、艤装に任せて海の上を走るのと同様に、雪の上を滑るように走っていた。脚部艤装の代わりにスキー板を履いて。砲の代わりにポータブルのミュージックプレイヤーを持って。しかも一人ではなかった。先頭を行く艦娘の後ろに、一糸乱れぬ隊列を組んで、さっき老女が見たよりもずっと沢山の艦娘たちが、無線スピーカーやその為の電源を背に負い、あるいは小脇に抱えて続いていた。その誰もが、老女の家の方を向き、輝かんばかりの笑顔で敬礼を送っていた。その姿に、はっとして老女は、慌てて床に落ちていた制帽を拾って被り直し、背筋を伸ばして、海軍式の敬礼を行う。
そして元艦娘は、確かに見た。最初に彼女と視線を交えた艦娘が、そのパレード隊の中にいるのを、確かに見つけたのだ。彼女はその視線にも敏感に気付いたようで、老女を見やって、にやりと笑った。
それは戦友への罪なき悪戯が成功したのを喜ぶ笑みだった。その笑みを浮かべたまま、彼女は叫び、老女は、元艦娘は、艦娘は聞いた。「新年おめでとう、艦娘!」