誠実な矢矧   作:Гарри

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06.「完全に等価」

「こりゃあ、確かに大した土産物じゃねえか」

 

 歪み掛けた表情を取り繕い、至って感心したかのような様子で、初春型駆逐艦娘五番艦「有明(ありあけ)」は言った。視線は手に持ったウイスキーのボトルに向いているが、それは中々お目に掛かれないような高級酒に興味を惹かれたからではなく、目の前にいるそのボトルの贈り主から目をそらしていたいからだった。しかし遅かれ早かれ、どうせ相手とは向き合わなければならなかったので、有明は可能な限り平気そうな風を装って、顔を上げた。すぐさま贈り主の艶やかな緑髪と、自慢げににやついた顔が目に入り、有明の脳はほとんど意識せずして自動的に、焦点を背後に合わせた。彼女たちがいる休憩室の壁には種々のポスターや掲示物が貼ってあり、心中おだやかならぬ駆逐艦娘は、それを読むことで落ち着きを保とうとしていた。

 

 それを知ってか知らずか、贈り主──やはり駆逐艦娘、夕雲型ネームシップの「夕雲(ゆうぐも)」は、彼女の座ったソファーの上でわざとらしく身じろぎをして、ぎしりと耳障りな音を立てた。集中を乱され、有明の顔が苛立ちの色に染まる。その後に出た言葉は、全く反射的なものだった。「流石は佐世保鎮守府様ってとこか? いや、悪く思わないで欲しいんだけどよ、輸送船団()()()の第四艦隊でも、こんな土産が持って来られるってんだもんなあ」今度は夕雲の笑顔にひびが入る。そのひびから羞恥と怒りが漏れ出てくるのを、有明は敏感に察知して気分を良くした。佐世保鎮守府の艦娘に一発食らわせたとなれば、有明が所属するリンガ泊地*1の艦娘たちから、一目置かれることは確実だったからである。

 

「艦隊は関係ないでしょう? 毎回、手土産を用意しているのは、私個人なんだもの。そちらこそ、よく返礼品を用意できるわね? あなたは第二艦隊で、旗艦をお務めだけど……お給料、安いんでしょ? まあ、リンガ泊地ではねえ」

 

 駆逐艦娘らしい激情に身を任せることなく、有明は極めて上品に対応した。特別気に入らない相手の為に、普段は使わず温存している厳しい視線を向けて、口をつぐんだのである。夕雲もそれ以上踏み込めば、今向けられている視線よりも、遥かに質量を伴った返事が来るものだと分かっていたから、相手の黙ったのをいいことに調子に乗ったりはしなかった。夕雲は有明がしたのと同じくらい礼儀正しく振舞い、ほんの数秒、彼女と視線を絡み合わせた。

 

 二人は打ち合わせたかのように、同時に緊張を解いた。ソファーの背もたれに身を預け、軽く溜息を漏らしながら、有明は先ほどの視線が嘘のように穏やかな声で言った。「いつも通り、帰るまでには余裕があるんだろ」質問というよりは、確認のような言葉だったので、夕雲は軽く頷くに留めた。「じゃあ、それまでにはお返しを渡すよ」話は終わりだ、とばかりにひらひらと手を振られたので、緑髪の駆逐艦娘は素直に立ち上がって、その場を辞すことにした。

 

 有明の背後で休憩室のドアが開き、夕雲からの、失礼にならない最低限の別れの挨拶を挟んでから、そのドアが閉まる。たっぷり十秒は待ってから、有明はずっと押し留めていた特大の溜息を吐き出した。全身から力を抜き、目を閉じる。彼女としては、そのままうたた寝でもしていたかったのだが、そういう訳にも行かなかった。夕雲が持ち込んだ土産への返礼品をどうするか、考えなければならなかったからである。正確には、考え直さなければならなかった。今回の交換の為に有明が用意していたのは、夕雲のものよりも格的に劣る、別のブランドの酒だったのだ。そのまま渡せば、嘲りの種になるのは決まっていた。有明の自尊心は、それを決して許せなかった。また、彼女だけの自尊心を超越した問題もあった。艦隊の名誉の問題である。

 

 この取引がいつから始まったものか、佐世保にもリンガにも、知っている艦娘はいない。リンガ泊地で最古参の艦娘によれば、彼女が新兵として着任した時には、既に「伝統的な行事」として多くの艦隊が適当な相手とやり取りをしていたという。それから時間が経ち、人類が伝統と見なした他の多くの事柄と同じように、この物々交換も廃れていった。有明の艦隊は、リンガ泊地においてそれを墨守する最後の存在であり、それ故に敗北は許容できる結末ではなかった。同じことは、佐世保鎮守府所属の夕雲たちにも言えたろう。

 

 また双方の対抗心という炎に油を注いだのは、まさにこの点、彼女たちの所属の違いであった。リンガ泊地はインドネシアの産油地、パレンバン近くに建てられている。その目的は当然、燃料の集積や周辺海域の確保による輸送の安全化・円滑化にあり、リンガ所属の艦娘には、自分たちは全海軍の艦娘や一般艦艇を支えているという自負があった。パレンバンからの燃料だけで日本海軍が動いている訳ではないのは百も承知だったが、全体から見ても少なくない割合の燃料がパレンバンからリンガ泊地に集められ、本土や他の泊地などに送られていることは、紛れもない事実だからである。

 

 しかし燃料ではない物資、すなわち弾薬を筆頭として鋼材や補充用の艦載機、艤装の補修に用いる高度な部品などになると、種々の理由でインドネシアの工場では生産できず、本土から長々と時間を掛けて送られてくるのを、焦れながら待つしかなかった。弾薬を切らすようなことはなかったが、艤装の部品はほとんど常に不足しており、工廠付の工作艦らはその対応に苦慮していた。これは、有明に言わせれば、本土は自分たちを軽視している、ということになり、夕雲のような本土側の艦娘からすれば、リンガ泊地の連中は、自分たちだけで戦ってるみたいな勘違いを起こしてないで、身の程を知って分を弁えなさい、ということになるのだった。

 

 そういった対立を忘れれば、実際のところ、有明自身は面倒臭い上に得るものも少ない伝統など、あっさりと投げ捨ててしまいたかったのだが、夕雲が負けを認めるよりも先にそんなことをすれば、彼女がそれをどう捉えるかは明白だった。勝ち目がないからやめたのだ、などとあちこちで吹聴されれば、艦隊の名誉が水底に落ちるだけでなく、リンガ泊地全体の不名誉にもなる。そうなれば、泊地の艦娘たちの怒りは、夕雲よりもむしろ、勝負から逃げた有明へ向かうに違いなかった。では、勝った後でならやめられるだろうか? どう考えても、そうは思えなかった。負けた駆逐艦娘が負けたまま生きていようとするのは、かなり珍しいことなのだ。

 

 目を閉じてソファーに身を任せたまま、有明はこれまで自分と夕雲が投げつけ合ってきた、「贈り物」の数々を思い起こそうとした。飲食物。装身具。絵画。家具。衣服。ブランドもののバッグ。靴。化粧品。骨董品すぎて逆に価値のあるゲーム機。その中のどれか一つでも、今回の返礼品の参考になればと思ってのことだったが、生憎とそうはならなかった。舌打ちして、まぶたを開ける。高級酒に目をやって、眉を寄せた。酒でこんなに気分が悪くなるなんてな、と歴戦の駆逐艦娘は、苦々しい気持ちを抑えることなく心中を漏らした。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。呟いて、はっとする。()()()

 

 打開策を思いついて、有明の気分は一気に良くなった。元気さを取り戻して立ち上がると、彼女はさっきまで半ば憎んでいた酒瓶を掴み、恭しく胸に抱えて休憩所を出た。休憩所前の廊下を歩き始めてすぐ、彼女は自分の艦隊員の一人を見つけた。その艦娘が自分の旗艦に夕雲との会談の結果を訊ねるよりも先に、有明は相手の首に腕を回し、こめかみ同士をくっつけ、互いの顔の前に酒瓶をちらつかせながら言った。「夕雲からあたしらへ、心ばかりの贈り物だ。みんなで飲まなきゃ失礼に当たるよな?」誰の手から渡されたものでも、酒は酒だ。そして艦娘たちは大抵の場合、酒が大好きだった。

 

 翌々日の夕方、有明は夕雲を泊地の施設外に呼び出した。普段、交換の場所には施設内の一室が使われていたので、夕雲は少し不安に思った。よもや外でないと渡せない、特別で掛け替えのないものを持ち出して来たのではないか、と警戒したのである。艦隊員からは考えすぎだと笑われたが、彼女は有明が何かこれまでと違うことをしようとしているのを、半ば確信していた。それはこれまでの対戦で培った風変わりな信頼、という訳ではなく、もっと一般的で単純な過去の事実、二人が艦娘訓練所の同期だったということに起因した。

 

 ものの数か月ほどの短い間ではあったが、二人は互いを間近で見続けてきたのだ。ただの人間、ただの少女が、艦娘になるまでの具体的な軌跡を、彼女たちは知っていた。つらい訓練の最中に泣き言をこぼし合ったり、励まし合ったりしたこともあった。砲撃訓練の成績で勝ったり、雷撃訓練では負けたり、訓練生同士の演習で肩を並べて戦ったりしたことで、夕雲と有明は相手の性分を、浅いとは言えない段階まで理解していた。

 

 心の中で不安と期待が半分ずつ混じり合ったまま、夕雲は有明の呼び出しに応じた。彼女の艦隊が、荷物を積み込み終えた輸送艦隊と次の目的地に出発するのは、更に二日後のことだったから、外出する許可を取るのは難しくなかった。指示されていた方角へと、海沿いの道を歩き続ける。お粗末ながら舗装はされているが、泊地近辺は市街地ではない。人通りがある筈もなく、車だって一台も通らなかった。じきに夕雲は退屈になってきて、海側へと目をやった。深海棲艦から見えないようにと、植林されて鬱蒼と茂った木々の隙間から、僅かに海面が見える。夕陽でオレンジ色に染まったそれがきらきらと輝くのを、何の感慨に耽るでもなく眺めていると、不意に夕雲は自分を背後から呼び止める声に気づいた。

 

「おい、何処まで行く気だよ」

 

 その声が低い位置から聞こえてきていたので、夕雲は足を止め、振り返ると、視線を下にやった。道端に座り込んだ有明が、呆れ顔で彼女を見ていた。本土鎮守府で五人の艦娘を束ねる優秀な旗艦は、ここ暫く覚えがないほどの羞恥心に頬を赤らめたが、色づいた陽の光がそれを隠してくれたのは疑いないところだった。有明が何の反応もしなかったからである。「それで」気分を落ち着かせようと、片手で己の髪の毛をいじくり回しながら、腰を下ろしたままの駆逐艦娘に訊ねる。

 

「こんなところに呼んで、何がしたかったの?」

「そう早まんなよ、目的地はここじゃねえ。もうちょっと歩いた先さ」

 

 よっ、と掛け声を掛けて、有明は立ち上がった。尻を二度三度と軽く叩き、埃を払う。そう短くない間をその場で過ごしていたようで、凝りをほぐすみたいに腰を捻り、肩を回すと、彼女はにやりと笑った。夕雲はそれが、どんな笑みかということを知っていた。それは、優勢を確信している敵の鼻を明かしてやろう、と有明が考えている時の笑みだった。そして彼女がその笑みを浮かべた場合、それを向けられた相手にできることは少なかった。

 

 道を外れ、木々に分け入っていく有明を、夕雲は不快な気分で追った。身体が熱く、それでいて背中だけは、じっとりと湿った汗で奇妙に冷えていた。やがて二人が林を抜けると、目の前には海が広がった。出撃中に見るのとも、母港に帰還してきた時に見るのとも違う、高いところから見下ろす海。二人は崖の上に立っていた。その端には杭が点々と打たれ、それに沿って転落防止のロープが張られている。だからか、有明は平気な顔で端へと歩いて行ったが、夕雲は本能的な忌避感に打ち勝つ為の時間を数秒要した。

 

 深海棲艦に立ち向かう際に発揮されるものにも匹敵する勇気で、緑髪の艦娘は崖の端へと近づく。有明は彼女のそんな内心を一顧だにせぬ様子で、足元に置いていたものを取り上げて見せた。それはライバルが持ってきたウイスキーのボトルだった。夕雲は初め怪訝に思った。ボトルの中身がそっくりそのまま残っていたからである。一人で飲んだにせよ、艦隊員たちと分け合ったにせよ、艦娘が良質のアルコールを手に入れて数日が経過している以上、その中は空でなくてはおかしかった。()()()()()()()()()()()()()()

 

 有明は瓶の注ぎ口を握り込み、空ではないことを再三明確にするように揺らして、瓶の中でぽちゃりぽちゃりと音を立てさせた。

 

「今回はしくじったなあ、夕雲」

 

 演技がかった言い回しで、彼女は言った。言われた側の艦娘は、早くも推測をほとんど確信に近いものにしていた。

 

「確かに、リンガ泊地でいい酒を手に入れるのは難しいさ、無理じゃないにしてもな。でも、あたしらは酔う為に飲んでんだよ。そこで問題なのはアルコールが入ってるかどうかってことだけで、いい酒かどうかなんてのは、はっきり言ってどうでもいいんだ。分かるだろ」

「そのボトル一本で、あなたを半年は雇えるって言っても?」

 

 流石にこの言葉には、有明も反応を示した。ごくごく僅かに顔を歪めただけだったが、夕雲はそれを「お前そんなもんをこんな場末に持ってくんなよ……」という意味に受け取った。だが、それを反撃の糸口として彼女が活かす前に、相手は駆逐艦娘らしい傲慢さと大胆さで言い放った。「なめんなよ。値札じゃ酔えねえんだ、お前ら本土のお嬢様方とは違って、な!」あ、と夕雲は思わず声に出した。有明が掴んでいたボトルは、既に空中にあって、二人から高速で離れつつあった。放物線を描いて飛んだそれは、少しの間だけ水平線の上にあったが、やがてその下へと落ち、遂には彼女たちどちらの視界からも見えなくなって、海へと消えていった。

 

 呆気に取られたままの夕雲に、有明は何かを放った。受け止められず、胸に当たって、地面に落ちる。彼女が目をやると、それは葉巻の箱だった。封は切ってあって、拾って開けてみれば、一本吸われた後だった。

 

「やるよ、それこそホントの値打ちものだ。何しろ、あたしがこの手で提督の執務室から拝借して来たんだからな。付加価値って奴さ。大変だったんだぜ? だからこそ、金じゃあ手に入れられねえ特別さってものがあるんだ」

「たった今あなたが海に投げ捨てたボトルだって、そうだったのよ、有明さん。そうでなかったら、一本だけ持って来るなんてこと、しなかったわ」

 

 夕雲は咄嗟に嘘を言った。言ってから、こんなに分かりやすい嘘なんて言わなければ良かったと後悔した。が、言わないでいることもできなかった。それは敗北を認めることに他ならなかったからである。有明の言う「特別さ」に打ち勝てるほどの何かを提示できないからには、彼女に渡したものもそうだったのだと言い張り、同格であったかのように偽るしかなかった。有明は鼻白んだ様子で、言い返そうとしたが、やめた。彼女の葉巻だって、提督からの盗品であることを証明なんてできなかったし、そこを突かれれば不毛な水掛け論になるに決まっていた。

 

 黙り込んだライバルを尻目に、夕雲は泰然を装って崖に近寄り、何でもないように、価値のないものを扱うみたいな素っ気ない手ぶりで、葉巻の箱を投げ捨てた。有明はやはり止めもせず、沈黙を保って、それを見ていた。二人はどちらからともなく崖の端に並んで、転落防止用のロープを掴んで軽く身を乗り出し、箱が水面に落ちるまでを見送った。とどのつまり、二人の交換は今回も引き分けに終わったのである。しかし有明が相手の贈り物の価値を貶め、投げ捨てるという手に出たことで、そして、それに負けまいと夕雲が同じく有明からの贈り物を投げ捨てたことによって、この「交換」はそれまでの慣習とは決定的に違ってしまっていた。その上、彼女たちは相互に信じていた──次もきっと同じようなことになる、と。

 

 果たして、それは、そうなった。崖での出来事から二日と三ヶ月後のことである。前回と同様、夕雲は輸送船団の護衛艦隊としてリンガを訪れた。前回と同様、二人は件の崖で待ち合わせた。前回と異なり、今度はお互いに艦隊員を連れていた。彼女たちの贈り物が、一人では運びづらいものだったからだ。夕雲はリンガ側の持ってきた大きな黒檀の飾り棚付き箪笥を見て、ぐっと心惹かれるものを感じた。()()()()()()()()()()()()()()()胸中でのみ呟ける、素直な本心を隠す為に、硬い表情を装う。一方で有明だって、佐世保鎮守府からはるばる密輸されてきた、マホガニー製の立派な執務机の偉容に見とれていた。()()()()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()()()()()()()()()()() 想像するだけで、彼女は自分が実際の何倍も有能な艦娘になった気がした。

 

 しかし、それらはもちろん、彼女たちのものにはならなかった。二人は互いに言い合った。「こんなものは、投げて捨てるほどある!」そうしてその言葉通り、素晴らしい重厚感のある箪笥も、光沢と高級感溢れんばかりの執務机も、海に投げ込まれた。双方の艦隊員は、思わず悲鳴を上げた。どちらも実に見事な工芸品であり、きちんと手入れさえすれば、この場にいる者たちの曾孫の代までだって使えるほどの家具だった。それが、無造作に海の底へと落とされたのだ。僅かのみでも芸術的感性を備えた者なら、決してそれを悼まないということはできなかった。だが、十人の艦娘たちが味わい、表した深く大きな悲痛さえ、彼女たちの旗艦二人を翻意させることは(あた)わなかった。

 

 次の三か月後には、夕雲は艤装用の四十六センチ砲を持ち出してきた。有明が出したのは改良型三式弾*2だった。二人はそれらを崖下に投げた。更にその三か月後には、夕雲が弾薬の詰まったコンテナを、有明はそれと同じだけの重さの、燃料の入った携行缶を提示した。彼女たちは双方を海の底に沈めた。加えて三か月後、これなら匹敵するものは用意できまいと、緑髪の駆逐艦娘が意気揚々としてイタリア製の三百八十一ミリ三連装砲を出すと、初春型五番艦はたまたまリンガ泊地に寄港していたアメリカ海軍の艦娘たちから、手練手管で五インチ砲をもぎ取ってきた。付き添いの艦隊員たちが声にならない悲鳴を上げる中、これらの貴重な装備は海の藻屑と消えた。

 

「いい加減にして下さい!」

 

 最後の対決がそれまでのように引き分けで終わり、泊地の艦隊旗艦向け個室に戻った後、有明は艦隊員の一人に詰め寄られた。その艦娘は、有明が彼女の率いる艦隊で最も信頼する人物であり、艦隊の指揮序列第二位に当たる、綾波型駆逐艦娘六番艦の「狭霧(さぎり)」だった。彼女はいつになく決心した様子で、二人の駆逐艦娘が繰り広げる、際限のない意地の張り合いを止めようとしていた。心配だったのだ。箪笥はジャワ島*3の工芸品店から購入したものだったが、後のは銀蠅か、それに近しい不正な手段での入手だった。発覚すれば、厳しい処罰を受けることになる。まして、使う為でなく、捨てる為だけに手に入れたと知られれば、一層手酷い処置を受けることさえ考えられた。

 

 軍法会議で鞭打ちや給料の剥奪、謹慎を宣告されるだけで済めばいい。不名誉除隊なら、いっそ生きて本土に帰れるだけ悪くない結果かもしれない。でもまかり間違って利敵行為として認定されでもすれば、待っているのは良くて懲罰艦隊への配置換え、悪ければそのまま絞首台行きだ。狭霧は長らく連れ添った旗艦と、そんな風に別れたいとは思わなかった。有明は彼女にとって人生最高の親友ではないし、これまでの海軍生活で見た中で最良の艦娘でもなかったが、しかしそれでも有明は狭霧の旗艦なのだ。何もしないではいられなかった。もしも相手が狭霧の忠告を聞き入れないなら、他の艦隊員も含めた総掛かりで、力尽くでも意見を押し通すつもりだった。

 

「今回は海外製の主砲。この前は燃料。その前は改良型の三式弾。ちゃんと使っていれば、少なくとも何かの役には立っていたでしょうね。資材や装備は、深海棲艦を倒し、仲間を守る為のものです。下らない見栄を張る為に浪費していいものではありません。ましてや銀蠅など、仲間から盗んでおいて、どうして艦隊やリンガ泊地の名誉を守ることに繋がるとお思いですか」

「あんたにそう言われると、言葉もないけどさ。じゃあ、夕雲にデカい顔させとけってのかい? あたしらの泊地を馬鹿にさせといて、それをほっといたら、他の艦隊の連中はどう思うだろうね?」

「それでも、止められる筈です。今回だって、止められた筈なんです。この艦隊の旗艦が有明さんじゃなかったら、ダメだったかもしれません。向こうの旗艦が夕雲さんでなければ、無理だったかも。けど、狭霧は知っていますよ。お二人は同期だったんでしょう? ここで終わりにしよう、って、そう言えば彼女だって」

 

 鼻を鳴らして、有明は不同意を表した。

 

「かもね。でも忘れてないか? 今みたいなやり方を始めたのは、あたしなんだぜ。どの面下げて“大変になってきたからもうやめよう”なんて言えるもんかい」

「個人の自尊心よりも大切なものがあるのは、有明さんなら、私が思い出させるまでもなく、分かっているべきことでしょう。旗艦なんですから」

 

 有明は長い間、狭霧の意見に反論できる言葉を探した。だが見つからなかった。何度考え直してみても、狭霧の意見の正しさは揺らぎそうになかった。「分かったよ」とうとう、有明は白旗を上げた。「次だ。次で最後にする。次回のやり取りが終わったら、夕雲に話す。それでいいか?」目に見えて、狭霧は安心したようだった。旗艦の両肩に手を置き、「きっと大丈夫ですよ。狭霧にも何かお手伝いできることがあれば、何でも仰って下さい」と励ました。励まされた側は、諦念を感じさせる笑顔で言った。

 

「とりあえず、今日はもう出てってくれよ。一人でゆっくりしたいんだ」

 

 艦隊の二番艦がその言葉に従って退室すると、有明は溜息さえ出ない憂鬱さに負けて、部屋のベッドに倒れ込んだ。随分前からの後悔の念が、今もって彼女の胸をむしばんでいた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()有明は枕に顔を押し付け、くぐもった呻き声を上げた。そんな都合のいい手など、存在しなかったかもしれないにしても、贈り物の価値を貶めるというのは悪手だった。艦娘が艦娘を侮辱したのだ。これで話は、ごく個人的で、感情的なものになってしまった。狭霧はそこまで重大に受け止めてはいないようだが、夕雲までそうだと楽観的に考えられる理由はなかった。

 

 こんなことになる前に、両者が相互に気持ちよく引き分けを認められるほど、等価の品を贈り合うことができたら、そこでやめにできていただろう。あるいは今でも、そうできるかもしれなかった。ぴったり等価だと、相手も、自分たち自身も、無責任に娯楽として見ている泊地や鎮守府の艦娘連中も、納得させられるような品が、ただ有明と夕雲、この二人の手中に実在しさえすれば。しかし、価値というのは相対的なものだと、有明は信じていた。個々人の感性によって、認める価値が一致し得ないのであれば、妥協なしの等価というのは極めて幻想に近い概念となる。有明には、勝利なしに夕雲を納得させられるとは、到底思えなかった。

 

 けれども、勝ちさえすれば、そしてその上で夕雲に譲歩して引き分けという形にするならば、あるいはこの無益な対立も終わらせられるだろうか? 考えてみても分からなかったが、有明にはそれ以上の案がなかった。それなら、そうだと信じるしかない。()()()()()()()駆逐艦娘らしく、彼女はすんなりと覚悟を決めた。長らく胸を占めていた憂鬱さは、いつの間にか消えていた。枕から顔を上げ、壁掛けの鏡に映った己の顔を見る。その目には、意志の光が宿っていた。

 

 夕雲は、これまで通りに三か月の間を置いてやってきた。今度こそ相手に負けを認めさせてみせるとばかりに、自信に満ち溢れた表情で泊地の波止場に現れた彼女は、待ち構えていたライバルの奇妙な落ち着きに調子を崩されると同時に、警戒感を強めた。有明は邪気のない苦笑でそれをいなし、狭霧と話して決めていたのとは違って、先に終わりを切り出した。「今回の交換が済んだら、このクソったれな伝統を終わりにしたいんだ。どっちが勝っても、負けてもな」決着がついた後に話すより、先に言っておいた方が受け入れられる確率も高くなるだろう、という魂胆だった。「それを私たちが受け入れるメリットは何かしら?」緑髪の駆逐艦娘は、純粋な疑問を口にしているみたいに、穏やかに訊ねた。

 

「分かってんだろ? あたしら、必要もなく危ねえ橋まで渡って、すげえ無駄な馬鹿をやってるってのはさ。このままじゃ遅かれ早かれ、どっちかが憲兵にでも取っ捕まって破滅する。そうしたらどうなる? 先に捕まった方を手掛かりにして、残った方もおしまいだ。夕雲よう、あたしらは二人して生き延びるか、二人してクソ地獄に落ちるか、どっちかしかないんだよ。さあ、答えな」

「やめられる訳がないでしょう? 私たちのこれは、本土鎮守府と海外泊地の代理戦争みたいなものよ。明白に勝って終わるか、明白に負けて終わるかしかないの。これまでの引き分けだって、本質的にはどちらかが勝って、どちらかが負けてた……今みたいなちょっとした脅しで、夕雲が怯むと思ってたなら、見当違いもいいところね」

「違う違う、脅そうってんじゃねえよ。むしろ、理性に訴えかけてるのさ。まあいい、同期の義理は果たしたんだ。これから先、どう転んでも、恨みっこなしだぜ」

 

 からっとした笑いを浮かべて、有明は埠頭を去っていった。狐につままれたような気持ちで、夕雲はそれを見送る。相手が最後に見せたのは、二人が対立するようになって以来、見ることのできなくなっていた類の笑みだった。今になってそんなものを自分に見せてきたことに、不可解な違和感と不安を覚えて、夕雲は有明を追おうとした。しかし、遅かった。彼女は荷揚げの為に忙しなく動き回る、船員や作業員たちの中に紛れ込んでしまっていて、既に姿を消していた。

 

 翌日になって、狭霧が夕雲の下を訪れて、例の崖で落ち合う時間を伝えた。事務的な態度だったが、夕雲は彼女の声の中に存在する失望と軽蔑の意図を鋭く見て取った。それで夕雲は、多分彼女が有明に奇妙な考えを吹き込んで、埠頭であんなことを言わせたのだろう、と察することができた。相手のこれまでにない行動は警戒するべきだというサインだが、その原因が分かれば、もう恐れることはない。本土鎮守府の駆逐艦娘はすっかり自信を取り戻し、艦隊員たちを連れて、台車に乗せたコンテナと共に、時間通りに崖へと向かった。

 

 もう見慣れてしまった道を歩き、うっとうしい木々の合間を抜けて、崖に出る。そこに、有明は狭霧と二人で待っていた。他の艦隊員たちはいないのかと見回すも、夕雲の目には他に誰も映らなかった。「今回は狭霧だけです」彼女の疑念に答えるような言葉に、有明が不平めいた呟きを漏らす。「お前だって呼んじゃいなかったんだけどな」彼女の足元には、大きなボストンバッグが置いてあった。夕雲は軽くそれを指差して、分かり切った質問をした。

 

「そのバッグが今回の?」

「ああ。でも、中身の発表は後に取っとこう。先にそっちのを教えてくれよ」

「構いませんよ。では」

 

 後ろに控えていた艦隊員が、台車を押して前に出てくる。夕雲は台車の操作を代わると、有明の近くまで持っていき、そこでコンテナの蓋を開けた。狭霧が顔をしかめるのと対照的に、本来はもっと不愉快そうな顔をするべきライバルが、楽しそうな笑いを上げたことに、夕雲は困惑した。「いや、何、こいつを見たらうちの明石は泣いて喜ぶぞ、と思ってさ」コンテナの中身は艤装の修理に用いられる、種々のパーツだった。リンガ泊地では年中不足していて、本土から必要な物資の種別や数量を聞かれる度に、要請が百件も二百件も行くような部品だ。

 

 有明の言葉を聞いて、夕雲は彼女がこの品を受け取って負けを認めるのかと思ったが、そうではなかった。彼女はそれをただ脇に退けると、足元のボストンバッグを持ち上げ、開けて中を見せた。狭霧も用意された品を知らなかったのか、夕雲と二人でバッグの中を覗き込む。視界に飛び込んできたのは、バッグに入るギリギリのサイズの檻だった。夕雲は隣で、狭霧の上げた、悲鳴を押し殺したような声を聞いた。檻の中には、艤装を内部で操作して共に戦う、全ての艦娘の戦友、妖精たちが詰め込まれていた。意識はあるらしく、顔には一様に怯えの表情が張り付いていた。夕雲の艦隊員たちにも聞こえるように、有明が大音声(だいおんじょう)で叫ぶ。

 

「バッグの中身はあたしの艤装付の妖精たちだ! こいつらに比べたら、お前らのパーツが何だってんだ? そんなものは幾らでも手に入るんだよ、こいつらと違ってな!」

 

 予期せぬ内容に凍り付いていた二人の艦娘を振り払い、有明はバッグを頭上高くに振り上げた。転んで尻を打ちつけ、夕雲はその姿を、恐怖に囚われたまま見ていた。しかし、狭霧は違った。転ぶ寸前のところで踏みとどまると、歯を食いしばった必死の表情で、彼女は有明に掴み掛かった。投げる寸前の不安定な体勢だったことや、両手がバッグを持ち上げる為に塞がっていたこともあり、彼女の突撃は一切の迎撃を受けずに有明へと命中した。バッグは手放されないまま、二人はもつれ合って地面に倒れ込む。その時のどすん、という振動で、夕雲は我に返った。急いで狭霧に加勢し、他の艦隊員たちにも指示を出して、有明を取り押さえようとする。

 

 リンガ泊地所属提督の下、第二艦隊旗艦を拝命する駆逐艦娘──その立派な肩書に見合った通りの荒れ狂う力で以て、有明は大いに暴れ回った。とうとう、夕雲が彼女の手からバッグをもぎ取り、狭霧に押し付けてここから逃げ出させた時、体の何処からも血を流していない者は、その場にいなかった。夕雲の艦隊員の一人などに至っては、地面にひっくり返ったまま、安らかに寝息を立てているという有様だった。有明は残った面々から距離を取ると、疲れ切った顔で転落防止のロープに寄り掛かり、夕雲に微笑みかけた。

 

「なあ、夕雲、今からでも遅くない。こんな伝統なんか、なかったことにしようぜ。文句を言ってくる奴らがいたらさ、あたしとお前、それからお互いの艦隊で連合艦隊組んでさ、殴り込みに行くんだ。提督だろうが何だろうが構いやしねえよ、ぶっ飛ばしてやるさ。悪くないだろ? どうだ、ん?」

「無理よ。あなたは……有明さん、あなたは自分の艤装付の妖精を殺そうとした。そんな艦娘と手を組むなんて考えられない。今からあなたを捕まえて、狭霧さんに引き渡す。旗艦ではいられなくなるでしょうね。私はあなたの後任、きっと狭霧さんになるでしょうけど、彼女と続きをするわ。どちらかが勝つまでね」

 

 有明の表情が陰った。哀れみの色が多分に混じった声で、諭すように話す。それがひどく、夕雲の気に障った。ついさっき、艦娘として恥ずべき、とんでもない所業をしでかそうとした張本人に、哀れまれる筋合いなどなかった。

 

「何でそうこだわるんだ? 引き分けで終わらせたって、別にいいじゃねえか。それであたしらもお前らも、何を失うって言うんだ? 名誉か? そんなもの、海の上で幾らでも取り返しがつくだろ。戦死でもすれば、お釣りだって返って来るさ」

「名誉は、そうね。有明さんの言う通りよ。でも信頼はそうは行かない。期待についてだってそう。あなたの取引を受ければ、佐世保の艦娘たちはみんな、こう思うことになる。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()実質敗北の引き分けなら、それはそのまま敗北と見なされるし、実質勝利の引き分けなら、名実共に勝利にできなかった以上は敗北だって言われる。そんな艦娘は信頼されないし、信頼されない艦娘に名誉なんてない」

「つまり、実質的にも引き分けの引き分けだったらいいってことだ。あたしもお前も、そこの艦隊員たちも、あたしの艦隊員たちも、リンガの艦娘も、佐世保の艦娘も、みんなが納得するくらいぴったりの引き分けだったら。そうすれば、あたしらはこれを終わらせられる。これについては、夕雲、お前も同意できるんじゃないか?」

「ええ、それには頷いてもいいわね。問題は、そんな取引なんて実在し得ないってことよ、有明さん」

 

 名前を呼ばれた有明は、夕雲の顔を真っ向から見返し、それから海の方を見やった。その横顔に、にやりと笑みが浮かんだ。およそ一年ほど前にも、夕雲が見た笑みだった。顔の向きを海から、緑髪のライバルの方に戻し、有明は静かな声で言った。

 

「いや、あるさ。どうしても、その取引に付き合って貰うぜ、夕雲。狭霧に押し付けて一抜けなんて、できねえからな。悪いけど、お前だってあたしの立場なら、同じことをするだろうよ。でなきゃ、お前が恐れてたように、負けるだけだ」

 

 夕雲は目の前で見たことを信じられなかった。とん、と軽い音を立てて有明が地面を蹴ると、彼女の体は既に、転落防止のロープの向こう側にあった。最後に見えた彼女の顔は、やはり、あのにやけ顔のままだった。悲鳴も上げられず、夕雲はその場に膝から崩れ落ちた。彼女を追い抜いて、艦隊員たちがロープの方へ駆け寄っていく。その向こうにどんな光景が広がっているか、想像したくもなかった。それに、できなかった。想像するよりも先に、夕雲の脳を、幾つもの冷たい考えが走り抜けていたからである。彼女は我知らず立ち上がり、ふらふらと、艦隊員たちがいない崖の縁へと近づきながら、ぼそぼそと空に向かって、その考えを語り掛けた。

 

「価値は本来、相対的なもの。私とあなたが同じように艦娘であっても、私にとってのあなたの価値と、あなたにとっての私の価値が違うように。でも、私にとっての私の価値と、あなたにとってのあなたの価値なら?」

 

 崖の端に打たれた杭を掴み、片足ずつ、ロープを跨ぐ。有明が落ちていった方にいた艦隊員の一人が、ふと気づいて自分の旗艦を振り向き、血相を変える。「ああ、なんてこと」夕雲は自嘲するように笑った。有明の言ったことを散々否定し、口論に勝ってきた彼女は、ここに来て敗北を素直に認めた。掴んでいた杭をぐい、と押して、有明が示した式を完成させる為の、最後の一手を打ち終わった時、彼女は感心したように呟いた。

 

「完全に等価だわ」

*1
戦争中、シンガポールから南南東に二百キロほどの場所に設置されていた日本海軍の基地。教義で飲酒を禁じられているイスラム教徒が国民の大半を占めるインドネシアの領土であり、非常に酒が手に入りにくかった。

*2
三式弾は、主に戦艦・巡洋艦娘向けの対空砲弾。大量の焼夷・非焼夷子弾を散布する性質から、しばしば対地攻撃にも用いられたが、暴発事故を起こすことがあった。改良型ではこの欠点は解消されていたものの、型を問わずして、戦中は常に需要に対して供給が追い付いていない状態だった。

*3
インドネシアの首都、ジャカルタが存在する島。かつては世界一の人口を誇る島として知られたが、深海棲艦との戦争により多くの被害を出したことで、その座を失った。現在最も人口が多い島は日本の本州であるが、戦後の人口増加速度から言って、二十年以内にはジャワ島が一位に返り咲くものと考えられている。

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