あたしの目の前、食堂の長机に置かれたプレートの上には、あれほど待ち望んでいた温かい食事が、湯気まで立てた状態で給仕されていた。左には混ざりもののない白い米。右には具入りの味噌汁。真ん中に置かれたメインはカツレツだ。それらの間には小鉢が二つあって、片方は醤油の掛かった小松菜、もう片一方には何とまあ、間宮の期間限定新製品、苺アイスクリームまで付いていた。その器は冷蔵庫で冷やしてあって、すぐにアイスが溶け出さないよう気が使ってある徹底ぶりだ。これをご馳走だと思わない艦娘がいるとしたら、そいつは本土の広報部隊で歌でも歌っていたんだろう。
一刻も早く食いつくべきだった。疲れ切って海から戻ってきた艦娘ならそうするのが当たり前だったし、しかもこのご馳走はあたしが自分で身銭を切って用意したのではなかったのだ。前の席に座っている重巡艦娘「
ところが、あたしは食べられないでいた。海の上にいた時はあれだけ欲して妄想したものを、陸の上に戻って現実になると、途端に受け付けなくなっていた。白米のてらてら輝くその白さは、深海棲艦のちぎれた手足の肉、その脂肪の色とそっくりだ。奴らがどてっぱらを撃ち抜かれた時に口と鼻から吐き出した何かは、味噌汁によく似ていた気がする。カツレツにせよ、小松菜にせよ、こじつけのようなイメージの重なりが、あたしの食欲を奪っていた。愛宕はあたしが食べ始めるまで待つつもりだったのか、テーブルにだらしなく肘を突いて手であごを支え、明後日の方向を見ながら何か考え事をしていた。だから、早く食べ始めなければいけなかったのに。
と、その愛宕が様子に気づいて、こっちを見た。経験豊かな彼女は、一目であたしの状況を見抜いたようだった。そして大変な出撃を終えた艦娘らしく疲れた顔で、ぎこちなく彼女は微笑み、付属のスプーンでアイスクリームをすくうと、それをあたしの口元に差し出してこう言ったのだ。
* * *
頬を軽く叩かれた衝撃で、あたしは顔を少し上げた。こっちの鼻先から十センチばかり離れたところに、
それでも、彼女の機嫌はまあまあ直ったように見えた。踵を返し、あたしの眼前を離れて、今いる執務室の中をぐるぐるうろちょろと歩き回りながら、何だかんだと話をしている。提督が止めてくれればいいんだけども、その頼みの綱はここにいない。余程重要な用事でもあるんだと思う。それに、提督は木曾秘書艦を実に信頼していた。
実際、秘書艦は素晴らしい経歴の持ち主である。関東で最も厳しい訓練が課されると言われる、横須賀艦娘訓練所の出身であり、彼女はそこで上から三番目の成績を修めて艦娘になった。一番と二番は正規空母であったというから、戦艦と重巡艦娘たちは、さぞかし肩身の狭い思いをしたことだろう。彼女にとってもそれはいい思い出のようで、執務室の秘書艦用のデスクの上には、成績優秀者に贈られる記念品のメダルが、彼女の同期たちと撮影した写真と並べて飾ってある。
そして、よくいる訓練所でだけ優秀だった奴らとは違って、彼女が素晴らしいのは経歴だけではないのだ。書類仕事がまた、大の得意と来ている。紙切れ相手に切った張ったの大活躍だ。まだ訓練所を出て間もない時分、彼女は壊れた裁断機を前にして、右往左往して事務を滞らせている当時の秘書艦と提督に出くわした。木曾は慌てず、近くにいた別の艦娘に
で、腰に提げてたサーベルで一仕事成し遂げた。提督はその機転にいたく感じ入って、伝統的に第一艦隊旗艦が務めていた秘書艦任務を、所属艦隊のない補充兵だった木曾に任せた。元の秘書艦は面子を潰されてキレるかと思いきや、まあ自尊心が低かったんだろうな、面倒な秘書艦業務から逃げられてありがたいって、木曾に礼まで言った。その日からずっと、彼女は秘書艦の地位を占め、新規配属されてくる艦娘たちを中心として、ある程度の特別な尊敬を集めていた。
秘書艦はまだ話し続けているが、こちらに背中を向けていた。気取られないように小さく首と目を左右に動かし、あたしの他にこの大演説を聞かされ続けている哀れな面々に視線をやる。正規空母艦娘「
そういう訳で、あたしたちは艦隊内の上役、戦艦と空母なしで海に出ることになる。イェー。あたしは頭を抱えたくなる。艦隊内指揮序列のいっとう上から四番目までが陸に居残り、五番目のあたしと六番目の川内が、昨日か一昨日この泊地に来たばかりの新人二人を指揮して、連れ帰ってこなければいけない。行先は遠く、一日掛かりの任務になる筈だ。どうやってこれを無事に片付けられるものか、あたしにはさっぱり分からなかった。せめて空母が一隻いたら話は別だったのだが。
艦隊内の序列四番目、隼鷹のにやけ面を思い浮かべる。至極燃費のいい軽空母の癖しやがって、大雑把な木曾がひとまとめに空母と言ったのをいいことに、出撃逃れをするだろう。短くない付き合いだから、それくらい分かる。彼女の小賢しいのが役立ったこともあるのだけれども、とにかく今は憎たらしいだけだった。それで、あたしは出撃前に泊地の通信兵に少しばかり握らせてやって、出撃する海域の付近にいる、別の艦隊に前もって渡りをつけておく。そうすれば大型艦娘なしでひどい戦闘に臨まなければならなくなった時、彼女たちが支援に駆けつけてくれる。少なくとも、そうしてくれることを期待できる。
そういうことを済ませている間中、川内は黙っていた。これは想定内のことで、彼女は時刻が夕方以降であるか、海上にいない時は、滅多なことでは口を開かなかった。新人二人も黙ってくっついて回っていたのだが、これは僥倖というもので、願わくばそのままお互いに何も話さずに別れられたら最高だった。もちろん、そうは行かないので、あたしは自分からこの心地よい沈黙を破らなければならなかった。溜息を吐くと、新人たちが動揺したのが分かった。申し訳ないことだが、この二人、松型駆逐艦娘「
蹴り一発でその後を放置しても良かったのだが、一時的に、不本意にでもリーダーとなってしまったからには、責任というものがある。あたしはそのまま、川内を引き連れて、松と竹の二人の尻を後ろから適度に蹴りつけながら、工廠まで駆け足をさせた。別に蹴る必要はないが、とにかくこれはあたしの個人的な気晴らしになるし、しかも蹴られた側は二つのことを身につける。つまり、蹴られる前に動く機敏さと、いつか機会があったら百倍も蹴り返してやる、という敢闘精神だ。二人にはどっちも入用なものだろう。重巡艦娘のあたしの尻を蹴飛ばせる駆逐艦はざらにいないが、ともあれ仕返しを試みようとする気持ちがちっともないような手合いには、駆逐艦娘は務まらない。機敏さについては、言うまでもない。
工廠であたしがしてやれることは少なかった。工廠付の明石に二人の艤装を用意させ、点検させ、二人自身にも重ねて点検させ、最後にあたしがチェックしてやったくらいだ。明石の腕は信頼しているけれど、あたしらと違って、工廠担当の彼女は海に出ることがほとんどない。翻ってあたしや川内は、ベテランってほどじゃなくても中堅どころだ。何度も実戦を生き延びてきた。そういう実績がある艦娘が、
新兵二人の艤装を準備したら、自分の番だった。川内はきちんと手順ってものを了解しているから、指示なんか待たずに準備を済ませている。旗艦役がもたもたしていてはいけない。用意された艤装を手早く身につけ、動作チェックを終わらせる。艤装の中から顔を出した何人かの妖精は、チェックが雑だとご不満らしかった。でも検査項目を省略しなかっただけ、真面目にやった方だ。これが忙しい時だと、砲弾と魚雷がきちんとフルに積載されていて、水上機とそのパイロットが艤装に乗ってるかだけ確認して出ることも多い。
工廠から出撃用の水路に歩いて移動し、水路のスロープを降りて水面へと立つ。流石に訓練所を出ているだけはあって、松と竹の二人も危なげなく動けるようだった。いっそ、ここで動けなくなっていてくれれば、置き去りにする理由になったのだが。そういった真っ当な理由もなしに、居残りを命じることはできない。特に今回は、木曾秘書艦のありがたい命令によって、二人の試しも兼ねているのだ。あたしの独断でそれを台無しにすれば、秘書艦はいたくその繊細な心を傷つけられるだろう。傷ついた艦娘は同時に、激怒した艦娘になりやすい。提督に最も近しい艦娘から、怒りを向けられるのは避けたかった。
無線機器のテストとして、泊地の通信室に繋ぎ、出撃することを報告する。どの提督のどの艦隊が何名で、どんな任務を受けて出撃するのか、簡単に伝えるだけのものだ。しかしこれを怠ると、最悪の場合は無許可離隊や脱走扱いになる。通信室から報告を記録したとの返事が来て、初めてあたしたちは水路から海に出るのを許されるのだ。ハンドサインで艦隊員たちに指示を出して、微速前進を始める。水路は狭くはないが広くもなく、速度を出したり左右に動くには心理的なプレッシャーが掛かる。水上機動に慣れればここで隊列を組むこともできるが、今日は新兵が二人だ。広い海に出てからでも遅くはないだろう。
薄暗く、長い水路を抜けて、外に出る。空はようやく明るみ始めたばかり。びゅう、と風が吹きつける。あたしはこの、水路から出た瞬間が好きだった。泊地のすぐそばであっても、海の上にいるという感覚はいいものだ。視界が色づいたように思える。無線機をいじって、艦隊員たちに単縦陣と、速度の上昇を指示する。一番簡単だし、先頭にあたしが立って、最後尾に川内が付けば、松と竹がはぐれたりする心配もない。艦娘は深海棲艦ぐらいしか恐れないと世間では思われているが、実際は違う。深海棲艦も恐ろしいが、それと同じくらい恐ろしいのが、行方不明だ。戦闘中行方不明ではなく、ただの行方不明。
海は常に凪の海という訳ではない。雨も降れば風も吹く。晴れていたって、波が荒立つこともある。そんな時、ふと気づくと、隊列の端にいた誰かが、いなくなっていることがある。そいつは十中八九、もう二度と見つかりはしない。波でバランスを崩して水面下に飲み込まれ、艤装の重さに引っ張られてそのまま沈んだか。敵の潜水艦に引きずり込まれたか。神隠しにでも遭ったか。行方不明の理由はあれこれと噂されるが、本当のところは誰も知らないし、どうだったって結果は同じだ。しかも、単なる行方不明というのは、そんなに名誉な末路ではない。戦死と違って遺族年金も出ない。死後の受勲も基本的にはない。だから、恐れられる。
幸いと言うべきか、松と竹は艤装の動かし方だけはまあまあだった。海も平常通りの波で、無風ではないが強風でもなかった。これなら、少なくとも移動中は足手まといにもならないだろう。ベビーシッターをしなくてもいいのは、ありがたい話だった。けれど、面倒を見る相手が幼稚園児から小学生に変わったからって、責任の重さやその大変さが大きく変わる訳ではなかった。
「加古先輩、その、右足に下げていらっしゃるのは何なんですか? 水筒ですか?」
これからどうしたものかと考えていると、無線機から松の声が聞こえてくる。海に出て早々に無駄口を叩くとは、新兵にしては肝の据わった艦娘だ。あたしは右足に目をやる。そこには大きめの水筒のようなものがあって、それは伸縮性素材のベルトで、足に直接縛り付けてある。これは艤装ではなく、あたしの私物だった。中に入っているのは液体だが、飲用水ではない。それについては別の水筒を用意して、艤装に装着したポーチに入れてある。また、負傷箇所を迅速に止血・治療する為の、希釈した高速修復材の水筒でもない。それも同じくポーチの中だ。
さて、では中身は何かということになると、酒であった。しかし、あたしが飲む為ではなかった。これは後々、役に立つものなのだ。でも正直に話すのは、はばかられた。松や竹の口が堅いかどうか、あたしは知らない。余計な話を知らないところで漏らされるのは、気に入らなかった。かと言って、黙って無視するのも得策ではない。旗艦は、艦隊員がなるべく、口を開きやすいようにしてやらなければいけないのだ。何かがあった時、たとえばちょっとした違和感や、気のせいかもしれない発見があった時、旗艦が怒ったり、機嫌を損ねるかもしれないと艦隊員が思っていたら? そして違和感の発生源が、そこに隠れていた深海棲艦の潜水艦だったら? 発見していたのが、漂流中の戦友だったら? どちらにせよ、大きな損失を受けることになるだろう。
「ちょっとした交易品ってところだよ。使う時には教えてやるから、暫くは静かにして、水上警戒をきっちりやってなって」
具体的に答えず、質問をはねつけず、こんな返事でいいだろう。松は納得したのだろう、黙ってくれた。竹も、今の言葉が自分にも向けられたものだと了解してくれたのか、余計な質問は来なかった。察しのいい新兵には少々の好感を持てる。あたしたちは静かに海上を進んだ。左腕にはめた腕時計を見て、小さく毒づく。本当なら、朝食を取っている時間だ。それから出撃任務があれば、準備の時間を取って出撃。なければ一日中、泊地でごろごろしてたって良かったんだ。ここにいるあたしら以外の艦隊員たちは、きっとそうしているだろう。
文句を言うのは艦娘の基本的な権利の一つで、海軍で最も人気のある娯楽でもある。あたしはぶつぶつと不平を言うのを楽しんだ。が、川内の鋭い声が無線機越しに言った。「注意。方位〇-四-五に動きあり」
「大丈夫、友軍だった。交戦の形跡もないから、深海棲艦から逃げてるってんでもないみたいだね」
三人に無線でそう伝える。川内が言った。「じゃ、挨拶でもしてあげる?」海の上で友軍と会うのは、艦娘の数少ない喜びだ。敗走中だとか、特段の理由がなければ挨拶くらいはするのが礼儀だった。見たところ、今から針路を調整すれば、声を掛けるには丁度いい距離ですれ違える。あたしは返事代わりに、針路変更の命令を出した。水平線の手前に、小さく見えていた艦娘の姿が、段々と大きくなっていく。あっちも早くからこちらに気づいていたらしく、複縦陣の先頭に立つ二人の内の一人は、大きく手を振ってこちらにアピールしていた。もう一度双眼鏡を通して、今度は低倍率で見る。手を振っている艦娘は、見た顔だ。同じ泊地の、別の提督隷下の「
彼女はあたしが双眼鏡で見ているのに気づくと、忙しなく数字を意味するハンドサインを送ってくる。無線の周波数をそれに合わせろ、という意味だ。読み取った数値を川内たちに伝達してから、周波数を変更する。ただし松だけは元の周波数のままにさせ、竹と並走させて通信を傍受できるようにしてやった。でないと、元の周波数宛に連絡が来た際、反応できる者がいなくなってしまうからだ。
「おはよ、筑摩。夜間哨戒の帰り?」
「おはようございます、加古さん。ええ、そうなんですけど、驚かないで下さいね、潜水艦を四隻もやっつけたんですよ!」
確かにそれは、大した成果だ。俗に改二と呼ばれる、改造された艤装を使用する許可を得たベテランの艦娘でも、航空巡洋艦一隻で四隻の潜水艦を撃沈するというのは中々例がない。彼女の艦隊における今回の任務の
互いに情報交換をしていると、いよいよ彼我の艦隊の距離が縮まってきた。有益な情報も粗方聞けたことだし、そろそろ楽しい会話も打ち切るタイミングだろう。手を振り合い、すれ違う瞬間、「この後も気を付けて!」と声を掛け合う。筑摩にはもう一言の別れの挨拶をしてから、周波数を元に戻すよう、艦隊員たちに知らせた。
「なんか、いいよなあ、ああいうの。艦娘っぽくてさあ」
筑摩らの艦隊から少し離れたところで、気が抜けた調子の竹が言った。まあ、気持ちは分かる。けれど、敵の潜水艦がいるかもしれない方向に進む時には、気を張っていて欲しかった。軽く後ろを向いてじろりとにらむと、松が既に注意していた。この上、あたしから何か言うのはやりすぎか。代わりに、筑摩たちに寄った分ズレた針路を、修正するように命じる。
川内から通信が来た。「ねえ加古、そろそろ瑞雲を飛ばしといた方がいいんじゃない?」うーん、と声が出てしまう。確かに、筑摩の話を聞いた後ではそんな気にもなる。しかし、あたしの水上機の搭載数は僅か二機だった。一機を飛ばして、もう一機は休憩とメンテ、というローテーションをするつもりではいるが、妖精たちは無尽蔵のスタミナの持ち主ではない。今、水上機による警戒を始めてしまうと、もっと危険な海域に着いた後で、へとへとの妖精たちを空に送り出すことになる。それは避けたかった。筑摩たちが何処で潜水艦と接敵したかは聞いていたので、その海域に近づいたら航空哨戒を始めるとしよう。それまでは、あたしたちの両目と、艤装のソナー、それから艦娘の勘だけが頼りだ。
考えを伝えると、川内はそれを受け入れた。彼女は本来、艦隊の六番艦、艦隊内指揮序列最末尾だ。自分の具申した意見が却下されるのには慣れているから、気にもするまい。むしろ、人の意見を退けることに慣れていないこっちの方が、不安になりそうだった。川内の意見には正しい点も大いにあるのだ。ここで瑞雲を飛ばさなかったことで、後で悔やんでも悔やみきれないような出来事が起きたらと思うと、気が気でない。あたしは自分が普段、艦隊の下っ端でいることを、とてもありがたく感じた。上からの命令に従うだけなのは楽でいい。
艦隊は無言で進んだ。時々、艦隊員たちは見つけたものを報告してきたが、そのどれもが浮木などの漂流物か、でなければ見間違いだった。駆逐艦娘の二人のソナーにも引っかかるものはなく、もしかしたら潜水艦隊は壊滅したか、そうでなくとも大被害を被ったことで自分たちの基地か何かに引っ込んだのかもしれなかった。順当に考えれば、単にまだ連中の狩場にあたしたちが入っていないだけなのだろうが、希望を持つのはいいことだ。その輝きに目をくらまされるようなことさえなければ、幾つでもどんな希望でも、持っていないよりは持っている方がいい。
と、竹が声を上げた。彼女は陣形内であたしの後方、松の前についていたのだが、水上警戒に意識を割きすぎて速力の調整をしくじっていたから、こっちからするとほとんど真後ろにぴったりくっつかれたような形になっていた。事故を起こしかねない距離だ。彼女が無線を通さずに出した声が聞こえたことでそれに気づき、あたしは舵を切って距離を開けた。陣形を崩すことにはなるが、後ろから衝突されて海面に頭から突っ込むのを避けられるなら、それくらいのデメリットは甘受するべきだ。それから怒鳴りつける。何事も順番が大事だ。
「何やってんだこの馬鹿野郎、前に出すぎなんだよ! 心中したいならあたしじゃなくて後ろの
叱るのが苦手なもので、最後の方は厳しさが抜けてしまった。竹は慌てて無線機を掴むと、艦隊どころか、半径一キロに聞こえそうな大声で叫んだ。「ええと、方位……あっちに敵影!」帰ったら川内経由で友達になった、訓練好きの軽巡艦娘「
双眼鏡で敵の数と種別、陣形を確認する。肉眼で見たものを、信じすぎるのは良くない。目は嘘をつかないが、目を通して送られる画像・映像を認識するのは脳だ。そして、脳は大嘘つきなのである。見たところ、敵は軽巡一隻に率いられた駆逐艦五隻、梯形陣だった。他の深海棲艦の艦隊と組んで、連合艦隊を形成している風には見えない。きっと、今のあたしたちと同じように、哨戒任務に当たっているのだろう。そして互いに運悪く、ここで出会ってしまった。
軽巡と駆逐の組み合わせなら、気を付けるべきは雷撃だ。すぐさま雷跡への注意を呼び掛ける。今度は松が発見した。軽巡や重巡艦娘は、駆逐艦と比べて背が高い傾向にある。駆逐艦娘たちの方が雷跡の発見が早かったのは、視点が海面により近いことが理由かもしれない。竹のような間抜けな報告ではなく、きちんとした伝達だったので、あたしはただちに次の行動に移れた。敵艦隊の方向へ転針して、針路上に置かれていた予測雷撃をかわす。彼我の間にはかなり距離があったので、敵艦隊もこちらの未来位置の予測が困難だったのか、魚雷と魚雷の間隔は広かった。難なく回避して、反航戦に入る。艦隊員に増速を指示した。ほとんどトップスピードだ。
こういった場合の砲撃は、原則として、数を撃って当てるものだ。同航戦などなら距離を取って向かい合い、しっかり狙いをつけて撃つのも大事だが、反航戦だとお互いの進行方向が逆向きであるから、時間を置けば置くだけ距離は縮まり、砲弾の命中率が上がってくる。余程の大物と刺し違えて死のうというつもりでなければ、乱射してまぐれ当たりを起こし、相手を転舵させるか、もしくは左右どちらかに弧を描いて進むことだ。深海棲艦も艦娘も例外はあるが、火力の投射方向は、前面百八十度以内に収まることがもっぱらである。片方が敵艦隊の尻を取ろうとすれば、それを嫌がる相手は逃げながらも背後を逆に取ってやろうと動き、結果として二つの艦隊は円を描いて死のダンスを始める。できればそうなりたくはないので、命中を出したいものだ。
あたしは重巡艦娘で、搭載している砲は敵旗艦のそれよりも、遠くから撃つことができた。あたしの二〇.三センチ連装砲は、右腕に一つ、左肩の艤装部分に二つ、砲門を有している。それを全部敵に向けて、撃てるだけの速度で撃ち始める。残りの三人にも、射程内に入ったらとにかく攻撃しろと言ってあった。あたしの放った弾が、敵艦隊の傍に落着する。仕返しの弾も飛んでくるが、こちらに届く前に水面へ着弾し、水柱を立てただけだった。せせら笑ってやる。数の上では四対六だが、それくらいの不利は覆せる筈だ。
こちらの最後尾から、川内が撃ち始めた。ということは、じきに深海棲艦側は六隻が撃ち始めるだろう。この辺りで仕掛けておきたい。あたしはハンドサインで陣形の変更を通知する。無線でもいいが、周囲で砲弾が炸裂している時には、耳より目の方がまだ使えるものだ。新兵二人を背に庇う形で、あたしと川内が横並びになる。こうすれば、後ろの駆逐艦娘たちも少しは落ち着いて戦えるだろう。それに、川内の大得意、雷撃の邪魔にもならない。彼女の両腰に装着されているのは、酸素魚雷だ。当たれば一発、形勢逆転である。
本人としては左右に積んだ八発全部を放ちたかったろうが、後のこともある。まずは四発を発射させた。酸素魚雷は、通常の魚雷と違って雷跡がほとんど出ないのが特徴だ。加えて、長射程なのもいい。大規模な海戦だと、外れた酸素魚雷が随分と離れたところにいる味方の艦娘に命中することもあるから、使いどころが難しいが、今日のこの戦いなら遠慮はいらなかった。敵艦隊との距離には余裕があったので、雷撃それ自体にも気づかれていない。命中を期待せず、砲撃を続ける。圧力を掛け続け、魚雷を放ったことを気取られないようにするのだ。
息を忘れるような待ち時間が過ぎた後、狙いは当たった。川内の魚雷は、三発までが命中した。軽巡には当たらなかったが、被害を受けた駆逐艦は一撃だった。敵は反転を試みる。その背中を追うかどうか、あたしは迷った。数の有利も逆転したし、追いかけて片付けるのも悪くない。だが、敵が逃げた先に別の深海棲艦の艦隊がいない保証はないのだ。一個艦隊、六隻が向こうの援軍として現れたら、四対九だ。最初の時点よりも悪化している。空母や戦艦だって現れるかもしれない。決めた、追跡はなしだ。停止と警戒の指示を出す。砲弾や燃料の補充もしておきたい。加古の艤装が出しうる最高速に近い速度で動いていたせいで、燃料がそれなりに消費されてしまっている。今後も戦闘が起こりうることを考えれば、補給の要があった。ついでに、やりたいこともある。
さて、しかし補給したいと思ってみても、燃料入りのドラム缶が海の底から浮いてくることはない。方法は二つだ。一つは泊地に連絡して、空中投下して貰うこと。これはまずもって無理な話だった。そんな贅沢が許されるのは、中規模・大規模作戦の時くらいだ。でなければ、余程政治力に長けていて、権力のある提督の指揮下にある艦隊で、しかも旗艦がその提督から非常に気に入られている、とかでないといけない。そのどっちでもないから、この案は使えなかった。となると本命の第二案、補給所に行くしかない。
役に立ちそうなものなら何でも突っ込んでいる艤装のポーチから、海図を引っ張り出す。現在地は分かっていたが、ここから近い補給所を探すのには、海図の力が要る。あたしは紙に穴が開きそうなほど見つめて、じっくりと検討すると、行先を決めた。海図を片付けてから、針路変更を艦隊員に伝え、移動を再開する。無論、速度は巡航速度だ。燃料計の数値によれば、全速力でも補給所に着くまでは十分に持つが、それは邪魔が入らなかった場合に限る。意味のない賭けをする気はなかった。
「補給施設がこの先にあるんですか?」
松が訊いてきた。黙らせるのは簡単だが、あたしは先任の艦娘だ。同じ艦隊にいる限りは、こいつを教育する義務がある。それに、さっきの水筒に関する質問と違って、これは教えておくべきことだった。
「海軍の基地とか、そういうのを想像してるなら、そんなものはないよ。あるのはちっちゃな、秘匿された無人の物資集積所ってとこだね。作戦中にどうしても弾や燃料が尽きたら、そこで補給するんだ。言っとくけど、正式な補給施設じゃないから、提督や艦娘以外の連中が聞いてるようなところで、ここの話なんかしちゃダメだからな。それから、所属泊地の違う艦娘に喋るのも禁止だよ」
その場所を管理して、資材を置いているのはあたしたちの泊地の艦娘だ。それが誰なのかは知らないが、かなり几帳面なのは間違いない。これまでに彼女が設置させたという秘匿補給所を何度も使ってきたが、いつ行ってもそこには欲しいものが置いてあった。多分だが、潜水艦娘を使ってこっそりと運ばせているんじゃないかと思う。擬装も完璧で、下手に外にいるより安全だということで、そこで一晩過ごしたこともあった。寝具も何もなかったが、ただ地面に横になれるというだけで、出撃中だとは信じられないほど、快適に過ごせたものだ。
あたしたちは二時間ほど掛けて、補給所へと移動した。もう少し早く着く予定だったが、時間が掛かってしまったのは、道中で交戦を避けたせいだ。今回の任務は指定された海域を哨戒してくることであって、見つけた敵に片っ端から喧嘩を売ることではない。なので、敵を見つけても逃げるか、息を潜めて気づかれずに済むよう祈るかだった。空母系の敵と遭わなかったのは運が良かった。もしそうなっていたら、緊急用の周波数で助けを求めつつ、一目散に泊地まで逃げる以外、助かる手立てはなかったろう。
「さあ、見えてきた。あそこが補給所だよ」
指で示してやるが、新米二人には分からなかったらしい。川内が優しげに言った。「あそこだよ。ほら、あの岩礁が見えるでしょ?」「岩礁が補給所なのか?」無線越しの声だけでも分かる。竹は目を丸くしてぱちぱちとまばたきしているんだろう。あたしたちは小さな丸い岩礁に近づいた。一軒家よりは少し大きいかな、というくらいのサイズで、塀のように反り立った岩の壁は、人一人半ぐらいの高さがあって、その向こう側がどうなっているかを全く見せてくれない。
岩と色合いが同化して見つけにくいものの、岩壁には金属の梯子が打ちつけられていた。それを使って、壁をよじ登る。後から竹、松、川内の順番で上がってきた。感心の意を含んだ低く小さな歓声が、二人の駆逐艦娘の口から漏れる。この岩礁は、本当はドーナツ型になっていた。大岩がくりぬかれたかのように、岩壁の内側は海になっていたのである。でも大したサイズではなかったので、この補給所を作った艦娘は、その内側に床と屋根を付け、土を敷いて擬装ネットを被せ、中空の小島のようにしてしまった。竹が言った。
「なんか、ここ、この前食べたチーズタルトみたいだ」
松と川内が明るい声を上げて笑った。あたしもにやっと笑った。竹は自分の発言が艦隊員の笑いを誘ったことに、恥ずかしがったようだった。川内には突っかかりづらいからだろう、松に「笑わないでくれよう」と情けない声で絡んでいる。それを尻目に、あたしは内部への入り口を探した。擬装ネットの端を持ち上げ、その下に隠されているハッチを見つける。それを持ち上げて、艦隊員たちを中に入らせた。岩壁と似たような梯子で、三人が下に下りていく。内部は暗いので、あたしが上から艤装の探照灯で照らしてやった。フルパワーだと目潰し以外の何物でもないので、投光部に被せるフィルターを使って、かなり弱めに調整してだが。
下りていく艦隊員たちを見ながら、床までの距離を測る。梯子の長さからして、この補給所の床は海抜マイナス一、二メートルくらいのところにあるだろう。全く、ここを作った艦娘は一体、どうやってそんなことを成し遂げたのやら! 三人が下りたのを確認してから、あたしも下りる。ハッチを閉めれば、もう安全だ。その頃には、川内が手際良く彼女の艤装と補給所内の電力設備を繋いでくれていたので、探照灯の明かりがなくても補給所内は真っ暗ではなかった。補給所の天井から吊り下ろされている蛍光灯が、ぼんやりと光を放っている。
あたしは半分本気で、ここで今日一日を過ごし、指定された海域での哨戒を済ませた、ということにして翌朝帰るのはどうだろうかと考えた。この場所ならほぼ安全だし、床もあるから寝るのも難しくない。四人だから広さは十二分で、仮にもう一個艦隊が宿を求めてやってきたとしても、やや窮屈ではあるが過ごせるだろう。魅力的な考えだった。けれど、そうやって哨戒任務を完了したと木曾秘書艦に告げれば、彼女はその嘘を基にして次の動きを考えるだろう。そして、別の艦隊の別の艦娘たちが、あたしの手抜きの報いを受けることになるかもしれない。考えるだけでも恐ろしいことだ。やはり、任務はやり遂げなければならなかった。
気が重い。聞かれないようにしながら溜息を吐き出すと、腹がぐうと鳴った。連鎖して、松と竹の腹も鳴る。時計を見ると、食事時を少し過ぎてしまっていた。食べていていい、と川内たちに告げて、あたしはその前にやっておくことを済ませる。補給所には緊急連絡用の無線機があり、万が一艤装の通信機能がやられても、近隣の艦隊に呼び掛けることができるようになっていた。至れり尽くせりの非公式補給所だ。あんまり濫用していると、無線を傍受されて深海棲艦に位置がバレるかもしれないので、無駄遣いはできないが、短い交信ならリスクはほとんど皆無である。あたしは頭の中のメモ帳にある周波数に合わせて、短いメッセージを送った。そのままでは、何の意味もない文章だ。数分待つと、同じく意味のない文章が帰ってくる。運がいい。彼女はこの付近にいるようだ。
無線機を置き、あたしも適当な場所に腰を下ろして食事を取ることにした。食事と呼べるほど文化的ではないが、水とブロック型の栄養食は、任務中に艦娘が食べる代表的なメニューだ。あたしはそこに、手製の苺ジャムの小瓶を用意していた。松と竹が今にもよだれを垂らしそうな顔でこっちを見ている。苦笑いで手招きをすると、川内までやってきた。「あんたはジャムくらい持ってるでしょ」「ちぇっ、ケチぃ」ぶうぶうと文句を言うが、新兵でもないなら優しくしてやるつもりはない。だが彼女の自家製ブルーベリージャムとの交換なら、二対一のレートでまでなら、交換してやってもよかった。彼女のジャムは泊地でも有数の味わいで名高いから、それだけの価値はある。
あたしがスプーンで彼女たちの栄養食にジャムを乗せてやると、松と竹は目をきらきらさせながら礼を言った。それからちびりちびりと、なめるようにして食べ始めた。日本で艦娘になるのは、大抵が十五歳、次いで十八歳だ。中学を卒業してすぐになるか、高校卒業直後になるか、である。二人はどっちだろう? 体感で七割くらいの艦娘は、それが許される最下限年齢である十五歳で、海軍に志願入隊した者たちだ。片方は十五で、もう片方が十八であったっておかしくはない。だがどちらにせよ、今は二人とも見た目通りの幼さに見えた。
「ちょっと計算してみたんだけど、マズいかもだよ、加古」
隣にやってきた川内が、どっこいしょ、と座り込んで横から海図を突き出してきた。既に彼女の食事は終わったらしいが、あたしの食事が済むのを待つのは嫌だったらしい。海図にはラップが張り付けてあって、その上からマジックで線を入れたり、点を打ったり、数字を書き入れたりしてあった。口の中のものを噛み締めながら、身振り手振りで説明を求める。
「このまま行くと、指定の海域に到着した頃には夕方で、哨戒を済ませると日没、帰りは夜の海を行くことになりそうなんだよね。そりゃ、私は夜戦大好きだしいいんだけど、松と竹の二人は夜戦なんて絶対経験ないじゃん? 精々訓練所で真っ黒のサングラス掛けて、夜戦ごっこしたくらいに決まってるよ」
「ん、じゃあ、この後の移動を全速力で済ませるのはどう? それなら、大雑把に計算してだけど、日没直後ぐらいには、泊地近海まで戻れるんじゃないかって思うんだけどさ」
「うーん、それ、現実的じゃない気がするけどねえ。敵を無視して突っ走るったって、まだ明るい内に空母と出くわしでもしたら、一発で破綻する計画だし」
「哨戒して、ここまで戻ってきて、一晩泊まる?」
それがマシなんじゃないかな、ということであたしたちは合意に至った。この任務を一日で終わらせられたならそれに越したことはなかったが、無理をして危険を冒してまで、今日中に泊地に帰ろうとは思わない。口の中の栄養食を水で流し込み、ジャムを一口分だけ舌に乗せると、食後の楽しみとしてそれを味わいながら、松と竹を呼び寄せた。二人も食事を終えたところだったようで、反応は食後の幸福感が邪魔してか、少し鈍かった。川内が、ジャムを楽しんでいるあたしの代わりに決定事項を伝達する。
「二人とも、燃料と弾薬の補給を済ませて、いつでもここを出られるように準備しておくこと。いいね?」
彼女たちは返事をして、早速取り掛かった。あたしは二人の作業を監督して、川内の艤装への弾薬補充を行わせた。自分の艤装しか触り方を知らないで許されるのは、訓練所までだ。手の空いている者が、他のことで忙しい者の補給を代わりに行ってやらなければならない時もある。今日の川内は忙しくないが、彼女も楽ができる分には文句を言わなかった。監督と並行して、あたしも自身の補給を済ませる。四人ともが完全に補給を終えたら、さあ、出発の時間だ。
梯子を上り、竹いわくチーズタルトめいた岩礁の上に出る。三人が外に出たら、ハッチを閉じ、擬装ネットを掛ける。最初に来た時と同じように隠してから、あたしは岩壁から水面へと飛び降りた。三人は先に降りていたので、そのまま方位を確認し、移動を始める。単縦陣を形成し、周囲に気を配りながら、巡航速度と艦隊員との距離を保つようにする。また竹とぶつかりそうになるのはごめんだ。
訓練所の教官に感謝すべきなのか、新兵二人の様子におかしな点はない。初の実戦で悪条件が重なったにしては、平気そうだ。新兵が出撃中の食事で人心地ついてしまって、海に戻るのを嫌がるってこともあるが、二人はそうでなかった。しっかり育ててやれば、立派な駆逐艦娘になれそうだ。早めにあたし以外の誰か、下っ端を育てるのが大好きな変わり者の艦娘にでも、引き渡してやりたかった。友達の神通はダメだ。他の神通ならいざ知らず、あれはただ訓練が好きなだけで、下を育てるって感じじゃない。そりゃ、あいつについていけたなら、能力は嫌でも向上するだろうけど。あたしなんかあいつの訓練を横で見てるだけでもつらくって、立ったまま現実逃避して、そのまま眠ってしまったくらいだ。
「そろそろ瑞雲を出すよ」
新兵二人を驚かせないよう、無線で前もって知らせてから、水上機を発艦させる。瑞雲はぐんぐんと高度を上げて、やがて視界の中で、豆粒のような大きさになった。乗り組んでいる妖精たちと交信し、異状あらばただちに伝えてくれるように頼む。すると、早速の報告があった。あたしたちの進行方向から、駆逐イ級が一隻向かってきているという。改良された、より高い実力を持つ「エリート」でも「フラッグシップ」でもない、ただのイ級だ。艦隊を持たない
行きがけの駄賃として、始末していくか──そう考えてから、いや、と考え直す。松と竹にやらせよう。駆逐一匹なら、新米の駆逐艦娘二人にはぴったりの難易度だ。あたしや川内からしたらただの敵に過ぎないが、自分の手で深海棲艦を倒すのは、彼女たちにはいい経験になるだろう。妖精に、そのままその駆逐イ級を監視するように命じて、接敵するように針路を調整する。それから二人に無線で呼び掛けた。
「前方に駆逐イ級が一隻見つかった。多分、どっかで別の艦娘たちとやり合って、壊滅した艦隊の生き残りってとこだろうね。どうかな、二人とも。やってみようって気はある?」
「やります!」
「松姉がやるなら、俺もやる。加古さん、どうしたらいい?」
どちらも、怖気づく様子はなかった。初めての出撃をした時の自分に比べれば、かなりいい度胸だ。「ようし、じゃあ、あたしに付いてきて!」速度を上げ、瑞雲からの情報を基に進む。やがてまっすぐ前方に、黒い点が見えてきた。あれがイ級だろう。その時点で、あたしは陣形を複縦陣に組み直し、松と竹を前に立たせた。巡航速度に減速し、彼女たちを肩がぶつかりそうなほど接近させる。最初の接敵時の竹は注意散漫だったが、今は意識できているから、危険はないだろう。二人の後ろに付き、彼女たちの肩に左右の手をやって、艤装の駆動音や風の音に邪魔されながら、聞こえるように大きな声で話す。
「見えてるよね、あの黒い点が駆逐イ級だ。今は小さく思えるけど、すぐに大きくなる。二人なら大丈夫だろうけど、焦りは禁物だよ。当たるもんも当たらなくなっちゃうからね。あいつらの主砲は口の中だから、真正面に立たなければほとんど心配はない。魚雷に気を付けて、それと近づきすぎるのは絶対に避けるんだよ。あいつらの口は見掛けだけじゃない」
戦艦や空母艦娘が駆逐イ級に沈められることもあるが、その内の八割は乱戦の中で、接近されたことに気づかなかったという状況下での出来事だ。奴らの口は大きく、頑強で、艦娘の肉体を平気で噛み砕く。海軍のお偉方どもは、駆逐イ級は深海棲艦の中でも最弱の部類に分類されると主張するが、それは戦争を数値か何かで見ている人間の考え方だ。あたしは、生きながら食われる艦娘の絶叫を聞いたことがある。無線越しにだったが、それでも一週間は耳から離れなかった。そんなことができる敵を、弱いと侮るなんてことは、できない。
二人の肩を叩き、「好きなようにやっちまえ!」と送り出す。もしどちらか、または両方が失敗して、マズい状況になれば、すぐに助けに入れるように、準備はしていた。瑞雲も何かあれば、爆撃で援護するようにと命じてある。川内は過保護だと笑ったが、あたしが初陣の時に、先任艦娘からして欲しかったことをしているだけだ。アドバイスと、励ましと、バックアップ。あたしの時には三つともなかった。当時は戦況が著しく悪かったので、仕方のないことではある。
松と竹は二手に分かれ、前進した。イ級も遅ればせながら察知して、転舵で逃げようとしたが、それでは間に合わないと諦めたようだ。砲戦距離に入ると松に狙いをつけて、移動しながらの砲撃を始める。当然、精度は低いが、近距離への着弾のは怖いものだ。だが松は前回の交戦で洗礼を済ませていたから、動揺することはなかった。教科書通りの回避機動を取りつつ、イ級の正面に立たないように立ち回る。そこを竹が砲撃で支援する。何発かは外れたが、一発がイ級の横っ腹に当たった。当たり所と砲の威力のせいで、一撃で仕留められはしていないが、大きなダメージなのは確かだ。
回避に徹していた松が、もがき苦しむイ級を見て、攻撃の態勢に移る。接近し、左手に装備した単装砲を構えた。あたしは無線機を掴んで怒鳴る。「射線確認!」はっとしたように、松が構えを下げた。砲口の向こうにいた竹が距離を取って離れて、やっと松は撃った。およそ戦闘行動を取れないでいたイ級は、それで完全に沈黙した。死んだのだろうが、注意深く、松は二発目を撃ち込んだ。それについては何も言わないでおく。死んだふりをする深海棲艦も実際にいるから、弾の無駄ではない。
戻ってきた二人の表情は対照的だった。竹は初戦果に顔を輝かせているが、松は射線のことで叱られたのを気にしてか、落ち込んだ様子だ。だが、それでいい。もう同じミスはしないだろう。「二人とも、よくやったね!」川内がにこにこ顔で、そう褒める。あたしもそれくらい素直に褒めてやれればいいんだけれども、手放しに褒めそやすのも何か違う気がするし、にやっと笑って川内の言葉を借りるしかなかった。「そうだね、よくやった!」それで松の顔も、多少は明るくなった。
反省点などを話しながら移動したいところだったが、瑞雲から連絡が入る。駆逐イ級が来た方角から、艦娘の一隊がやってきているとのことだった。一個艦隊、六人がいたが、その中の二人が隊列を抜け、先行してこちらに近づいているという。その二人の名前を訊けば、妖精は戦艦「
あたしたちは、普通に話せる距離まで近づいた。彼女たちと会うのは初めてではないので、緊張はない。松の方は困惑が強いようで、とにかく今は旗艦の言う通りにしていよう、という雰囲気だ。あたしとガングートが以前会った時みたいに、今度も彼女から口を開いた。
「
「
「
「
ガングートは笑った。タシュケントもけらけらと笑った。あたしも合わせて笑った。松はきょとんとしていたが、言いつけを守って黙っていたご褒美に、小声で教えてやる。「合言葉だよ。暗記してるんだ。あたしがロシア語なんか喋れると思ったか?」ガングートはロシア海軍所属で、彼女の艦隊では旗艦を務めているのだが、一時期、日露艦娘交換協定で日本海軍に籍を置いていたので、日本語も流暢に喋る。それで時折、遠方での任務を受けた時なんかに、現地の艦娘たちと連絡を取って、ちょっとした取引をしているのだった。
タシュケントは彼女の護衛で、腹心と呼べる存在であり、取引の中で険悪なムードになり始めると、出番が来そうだとばかりに露骨ににやにやし始める。日本海軍の艦娘たちはそれを見て、そろそろ妥協すべきラインかな、などと見定めるのだった。
「それで、何が欲しい? 何を持ってる?」
「これを」
右足に下げていた水筒を取り、タシュケントに渡す。彼女は蓋を開けて香りを嗅ぎ、問題ないことを確認してからガングートに渡す。彼女も香りを確かめると、嬉しそうに相好を崩した。「確かに、加古スペシャルだ。いいな」あたしはそんな風にその酒を呼んだことはないが、ガングートがそう名付けるのを止める力も理由もなかった。その酒は、あたしが密造したものだ。色々な材料を使い、あたしの艦隊の四番艦、大の酒好きの隼鷹に試作品を何度も飲ませて反応を窺い、品質を高めた傑作である。ガングートと彼女の艦隊員は、これに目がなかった。ガングートはタシュケントに水筒を返すと、胸を叩いて言った。
「何でも好きなものを言え。適正な取引をしよう」
「じゃあ、高速修復材が欲しい」
「お安い御用だ。
「
「
日本では液体の量について言う時、リットル系の単位を使うのだが、ロシアでは違うのだろうか? どれほどの量になるか分からないので二百グラム分の高速修復材を見せて貰うと、十二分だった。合意して握手し、修復材入りの水筒を受け取って右足に結わえる。他に欲しいものはないかと聞かれて、ふと思いつき、お菓子はないかと言ってみた。ガングートは意外な要望だと思ったのか、即答しなかったが、やがて「飴があるぞ。それと軍用チョコだな。それと、暫く待ってくれれば、他の艦隊員が確かグミを持ってた気がする」と答えた。
「チョコと飴、安い方を貰うよ」
「じゃあ、飴だな。支払いは何にする?」
艤装のポーチを探り、煙草を一箱出す。あたしは喫煙者じゃないが、愛煙家の艦娘は少なくない。ガングートもそうだ。そういう相手に頼みごとをする時、煙草を持っていると、ぐっと難易度が下がる。彼女は手ずから煙草を受け取ると、今度はタシュケントに渡さず懐に入れた。前に聞いた話では、タシュケントは健康意識が高いらしく、艦隊旗艦が喫煙していることを快く思っていないのだという。引き換えに飴を二握りほど貰い、ポーチに収める。取引はそこまでで、次は情報交換の時間だった。まあ、大したことを話しはしない。近辺で見た敵の話とか新兵器の噂、次の作戦海域の予想くらいだ。
最後に倒した大物の深海棲艦について話していると、不意にタシュケントが何か小声でガングートに耳打ちし、それを聞いた彼女はこっちの話を止めて言った。
「話の途中で悪いな。言い忘れていたんだが、加古。言えないなら言えないでいいが、貴様らの任務はこの辺りの哨戒か?」
「ああ、うん。ここからもうちょっと進んだところのね。ええと、海図持ってる? ……ああ、ありがとう、そう、この辺だ」
「やっぱりそこか。それなら、我々が済ませておいたぞ。貴様たちを待っている間、暇だったからな。私たちが来る前に、そっちで深海棲艦の駆逐艦を沈めただろう? あれは打ち漏らしさ」
なるほど、と納得する。この場合はどうしたらいいだろう? 目の前の相手が、適当な哨戒をしたとは思えない。ロシア海軍の代表として、日本海軍にやってきたほどの人物なのだ。その能力は疑えない。でも、そうしたら、どう報告書を書けばいい? 迷っていると、その理由を察知したガングートは、「心配するな」と言った。そして服のポケットから小さなノートを取り出すと、数枚のページを破ってこちらに渡してきた。
「片付けた敵の種類や位置、時間なんかは、ここにメモを取ってある。大丈夫、日本語だ。こうなるんじゃないかと思っていたからな。報告書はそれを参考にすれば書けるだろう」
そういう要領の良さを見るにつけ、彼女の優秀さを感じることだった。あたしはありがたく彼女の厚意を受け取り、それを大事にポーチへと片付けた。「それじゃあ、また次会えるのを待っているぞ」別れの挨拶を交わし、踵を返して川内と竹のところに戻ろうとして、あたしたちは水平線の向こうから、夕焼けの空に勢いよく噴き上がる黒煙とオレンジ色の光を見て、それに次いで轟音を聞いた。補給所のある方角からだった。ガングートも足を止めて、こっちに近づいてくる。
「今のは何だ?」
「確信はない、けど、あっちにはあたしたちの補給施設がある。弾薬や燃料があるから、もしそれが吹っ飛んだなら、ああなりそう」
「それをやったのが深海棲艦なら、今度はこっちに来るかもしれない。確かめるしかないな。案内してくれ」
心強い申し出だ。タシュケントが無線で呼び掛け、残りの艦隊員を呼び寄せた。彼女たちを先導し、川内と竹を回収しつつ、補給所に向かう。近づくにつれて、推測は確度を増していった。そして補給所があった場所で、それはシンプルな事実になった。岩礁は全壊していた。黒い煙を吐き出しながら、ネットや物資の残骸が、赤々と燃えている。それだけではない、流出した燃料にも火が付き、まさに火の海の様相を呈していた。何があったのかは分からないが、二度とここは使えないだろう。それはすなわち、川内と話し合ったプランが使えなくなったことをも意味していた。
舌打ちをする。補給所の残骸を見ていても仕方がない。一刻も早くここを離脱するべきだ。声を掛けようとすると、上空にいた瑞雲から緊急連絡が入った。こちらに接近する敵機の一群を発見したという。即座にその情報を艦隊員とガングートに伝えると、川内が苦々しい表情で言った。「見られてたんだ」補給所に出入りするところを深海棲艦に見られていて、拠点だと知られてしまった。それはもっともらしい仮説だった。そうして補給施設を破壊したら、様子を見に戻ってきた艦娘を航空攻撃でアウトレンジから撃破する。深海棲艦のやりそうなことだ。だが、今はそれよりも敵機への対処が急務だった。ガングートと協議しようとすると、彼女は手を突き出して止めた。
「貴様ら四人ぽっちがいても、連携が取れん。かえって邪魔になるから、早くここを離脱しろ。敵機は我々が引き受ける。じきに日も暮れるから、奴らも長くは飛んでいられまい」
「そういう訳には行かないでしょ」
「そこの駆逐艦娘はまだ新兵だろう? 無事に連れ帰ってやれ。それで、次はもっと酒を持ってこい。助けてやった分、買い叩いてやろう」
それが狙いだとばかりに、ガングートは悪役めいた笑みを浮かべる。けれど彼女の人間的な魅力と、戦艦の艦娘にしては低めな背丈が、それを好ましいものに感じさせていた。彼女たちに押しつけるのは本意ではないが、ここは受け入れるしかなさそうだ。上空の瑞雲に帰還命令を出し、回収しながら泊地への帰り道を全速力の単縦陣で行く。じきに、背後で砲声と爆撃音が始まった。激しく絶え間ないそれも、距離が離れるにつれて、小さくなっていく。ちらりと後ろを見てみると、松と竹は硬い面持ちで、緊張状態にあるようだった。ポーチの中からさっき受け取った飴を取り出し、二人に一つずつ渡してから、先頭に戻った。これで、気を取り直してくれればいい。ここからは、これまで以上に気を張らなくてはいけないのだから。
以前には川内が、その後にはガングートの言った通り、夜はすぐそこまで迫っていた。雲は薄く、月明りを消し去ってしまうようなことはなさそうだ。それでも、ハンドサインは使えなくなるだろう。川内なら読み取れても、間に挟んだ二人は気づくまい。無線を使い、陣形の間隔を狭めるように指示を出す。これではぐれることなく泊地まで帰れたら、万々歳というものだ。探照灯の光を目印に再集合させるのは避けたい。そんなことをすれば、付近の深海棲艦は、誘蛾灯に誘われた虫たちのように集まってくるだろう。あたしたちは言葉少なに、帰路を急いだ。光はどんどんと陰ってゆき、遂には自分の手さえも、はっきりとは見えなくなってしまった。
そういう夜の世界では、昼の世界よりも音を強く感じるようになるものだ。艤装の機関部から出る音、波の音、己の心臓の音。パッシブソナーを装備した艦娘なら誰でも、今のあたしの心拍音を聞き取れるかもしれない。それぐらい、大きく感じた。唇を噛んで、夜の闇の恐怖に耐える。川内が羨ましかった。さぞかし今は、わくわくしているだろう。敵が出てくればいいと思っていたとしても、不思議には思わない。川内の夜戦好きは、艦娘を知っている者なら誰でも承知というほどの、有名な話だからだ。自分自身にさえ聞こえないほどの、小さな声で罵る。帰ったら、木曾秘書艦を殴り倒してやる。こんな馬鹿な任務によくもまあ、あたしらを出しやがって。その次は隼鷹だ。口八丁でこの任務を免れたのが気に入らない。
あたしがぶつぶつ唱えていた呪詛に深海棲艦が怯えたのか、数時間が経っても、接敵はなかった。気づくと艦隊は、筑摩たちと出会った場所の近辺まで来ていた。腕時計を見る。針に塗られた夜光塗料のお陰で、現在時刻が分かった。このペースなら、今日が終わるまでには帰れそうだ。そこから艤装への補給と片づけ、簡易報告、入渠。それが終わったらようやく、晩酌付きの夕食でも食べて、安穏としていられるようになる。
今日の食堂のメニューは何だろう? 温かい食事なら何でも喜んで食べるが、できればシチューやスープみたいな、体の芯から温まるような食べ物がいい。夜は寒いし、風は昼夜関係なく冷たい。艤装の機関部の排熱を暖房代わりにしているので、凍えることはないのだが、手先足先の冷たさはどうにもならないのだ。しぼみそうになる気力を、帰り着いた後の希望を思い浮かべることで、何とか保とうとする。なので、認めよう。あたしはぼんやりしていた。それは、旗艦が絶対にしてはいけないことだった。
「敵艦、方位二-六-〇、同航戦! 距離はおよそ……」
川内は彼女の計測した概算距離を言ったが、聞き取れなかった。それよりも先に、敵の発砲した砲弾が、辺りに降り注ぎ始めていたからだ。明らかに、あたしたちは先手を打たれていた。「元の間隔に散開、各個に反撃!」固まっていたら、いい的だ。速度を落とさず、適度に蛇行しながら、周囲に更なる敵影を探す。探照灯を使うか? いや、ダメだ。敵弾が集中し、轟沈するのが目に見えてる。旗艦を失って動揺した駆逐艦娘たちは、容易く沈められるだろう。川内だって、一人では生き延びられまい。
発砲炎が視界の端に映った。川内が見つけたのとは違う個体だ。発砲炎の大きさからすると、軽巡か? 暗くて分からないが、そいつのいる辺りに砲撃を加える。やった、命中だ! 燃料に火がついたか、海上に深海棲艦を薪として、かがり火が発生する。闇に隠れていた敵艦が数隻、その光にあぶり出される。駆逐や軽巡ばかりだ。大物がいないのは救いだが、駆逐も軽巡も、夜戦では昼より恐ろしい存在になる。あたしは牽制の砲撃を加えながら、無線機を掴み、緊急用の周波数に呼び掛けた。“優勢な深海棲艦の艦隊と交戦中、こちらは四隻しかいない。重巡「加古」、軽巡「川内」、駆逐艦「松」と「竹」。至急救援求む。”位置情報を加え、もう一度同じ内容を叫ぶ。返事はない。誰かに届いたことを祈ろう。戦闘指揮もしなければならないのだ。
「松、竹、あたしが撃った辺りの敵に雷撃! 適当でいいからばら撒いて!」
新兵の雷撃に、命中などもとより期待しない。それでも全部ぶち込んでやれば、一発くらいは当たる確率はある。でなくとも、雷跡に気づけば大きく回避行動を取ることになる。昼と違って夜は雷跡が見づらいから、必要なだけ動いて避ける、というのが難しいのだ。二人は単装砲をやたらに撃っていたが、あたしの指示を聞いて、雷撃を行った。それに合わせて、あたしも雷撃を行う。魚雷なんて、後生大事に抱えておくもんじゃない。結果を待っていないで、砲撃を続ける。
かがり火は遠ざかり、また闇が戻ってきた。不意に、水柱が二つ立ち上がる。白い泡を含んだ柱は、月光を反射して目立った。魚雷が当たったのだ、それも二発も。これで、キャンプファイアになった一隻と合わせて、三隻は仕留めたか。六隻編成だとすれば「加古!」川内の声。背後から車にでもぶつかられたような、強烈な打撃を受けて、転びそうになる。咄嗟に足が動いてなければ、転んでそのまま深海行きだったろう。腰を捻って、弾が飛んできたのだろう方向を見る。「あ」と声が出た。駆逐イ級が、大口を開けて、あたしの顔面目掛けて、飛びついてきていた。
衝撃。音が消える。水面に体が打ちつけられる。今度も、無意識が体を動かした。手を海面に叩きつけて一瞬の猶予を稼ぎ、その間に強引にでも立ち姿勢へと戻す。足が水面下に入ってしまっていてもいい。そこで脚部艤装を全力で動かせば、戦闘復帰だ。くそ、でも何があった? 耳鳴りで何も聞こえない。ふらふらしながら、それでも前進だけは止めずに、周囲に目をやる。離れたところで、あたしを後ろから襲ったと思しきイ級が、頭を失って浮かんでいた。そうだ。誰かに助けられたんだ。誰だ? 松を探す。いる。敵に応射しながら、ついてきている。竹もその近くだ。畜生、川内か!
音が戻ってきた。決断の為の時間は数秒も残っていなかった。「松と竹はそのまま泊地まで前進!」無線機は壊れていなかったようで、二人はこっちを見た。撤退と言わなかったのは、初陣で仲間を失って撤退した、ということを今印象付けたくなかったからだ。返事を待たずに、あたしはイ級の残骸の辺りに取って返した。川内はあたしと同程度には戦える艦娘だ。まして、大得意の夜戦なら、あたしよりもずっと上手に戦える。あれっくらいで死んだなんて、絶対に信じられなかった。「川内!」腹の底からの怒鳴り声を上げる。すると、水面近くで、発砲炎が見えた。弾はあたしにも、敵にも関係のない方向に飛んで行ったが、お陰でそこに彼女がいるのだと分かった。
松と竹を追いかけるのを諦めたか、それとも二手に分かれたのか、深海棲艦の攻撃は続いていた。だが回避機動も取らずに、川内のところに駆けつける。月光の下で見た彼女の体は、右腕が肩のところからなくなっていた。意識はないが、沈むのを避ける為に左腕の砲一門を除き、脚部を含むほぼ全部の艤装を解除したらしく、お陰で何とか水面に浮いていられるようだった。胸元を掴んで、強引に引っ張り、担ぎ上げる。体中がずぶ濡れなのに、熱い液体が彼女の体から流れ出していた。敵の砲撃に応戦しながら、右足の水筒を取って、中に入った希釈前の高速修復材を、川内の負傷箇所にぶちまける。
あっという間に肉が盛り上がり、神経が繋がり、骨が再生して、元通りの腕になった。そのタイミングで意識を取り戻し、あたしの肩の上で咳き込みながら、彼女は言った。「命がけで助けてあげたのに、戻ってきちゃったの?」至近距離に敵の砲撃が着弾し、破片が脇腹に突き刺さる。痛みが怒りを呼び、戦意を奮い立たせる。恐らく彼我は一対三。その上、守らなければいけない戦友が肩に乗ってる。敵の艦種も何も分からない。それでも、あたしは叫んだ。
「あたしゃね、やる時はやるんだよ!」
探照灯を灯す。ただ灯すんじゃない。妖精に指示して、点灯と消灯を可能な限り素早く行わせた。激しく点滅する光は、点けっ放しの状態と比べて、発光元を捉えにくい。深海棲艦は混乱したのか、砲撃が不正確になった。その隙を突いて、反撃を行う。一隻はそれで仕留められた。軽巡だった。だがもう二隻は、早くも状況に順応し始めていた。命中弾を期待せず、至近弾を繰り返し落とし続ける。何を狙っているのかに気づくと同時に、飛び散った砲弾の破片が、探照灯を破壊した。灯火の消えた戦場で、あたしと、残った二隻は向かい合う。月を覆っていた薄雲がはがれ、光が差し込んだ。一隻はさっき仕留めたのと同じ、軽巡だった。もう一隻は、重巡リ級。素のあたしと同格の戦力だ。
分が悪い。負けを認めたら帰らせてくれればいいのに。泣き言が胸中をよぎるが、肩に掛かる重みを思い出せば、それも引っ込んだ。川内は命がけであたしを守ったのだから、あたしだって同じことをやってやる。やってやる。あたしは叫ぶ。砲を構え、全速で敵に突っ込んで──リ級の首が変な方向に曲がった。軽巡が驚いたように向きを変えようとして、何発もの小口径弾に撃ち抜かれ、動かなくなった。あたしは、救い主に初めて会った時のように、溜息を吐いた。命拾いをした、らしかった。
二人組の我が救い主、松と竹はあたしの命令に従って、途中までは撤退していたらしい。けれど、竹の言葉で言えば「途中で気が変わったもんで」引き返して来て、松が重巡を、竹が軽巡を、近距離からの不意打ちで仕留めたのだった。竹もそうだが、松はとんでもない駆逐艦娘になるだろう。なんと、彼女は駆逐イ級に倣って重巡相手に飛び掛かり、向こうが事態を把握する前に全力で首をねじ折ってしまったのだ。こんな敵の仕留め方をする駆逐艦娘は、そういないだろう。
彼女たちに助けられた後、泊地までは敵と出会わなかった。むしろ、あたしの緊急無線を聞いて救援に駆けつけようとしていた、夜間水上警備任務中の艦隊と接触し、護衛を頼むこともできた。彼女たちは間に合わなかったことを謝ったが、駆けつけようとしてくれただけありがたい話だ。それに川内も、松と竹も、あたしも、揃って生きていた。
泊地に戻っても、拍手でのお出迎え、ということはなかった。腹も立たないほどいつも通りに、あたしたちは受け入れられ、川内は何より先に入渠ということになった。肉体的には治療済みとはいえ、一度は腕を失ったってんだから、当たり前だろう。輸血だって受けないといけない可能性はある。だが、まあ、命の心配はもう必要なかった。艤装を下ろし、その後始末なんかほったらかして、木曾秘書艦のところに行く。松と竹は、別に来なくたっていいのに、あたしの後を追ってきた。明るいところで互いの顔を見て、押し殺した笑い声を上げる。松も竹も、多分あたしも、ひどい顔になっていた。戦闘のストレス、死のストレスに晒された艦娘の顔だ。目をぎょろっと大きく開いて、瞳が落ち着きなく左右に振れる。廊下の曲がり角から戦艦ル級がこんにちは、ってこともないだろうに。
すっかり夜になっていても、木曾秘書艦は執務室にいて、提督はいなかった。彼女は専用のデスクに座って書類仕事をしていた。ノック前に開けてしまった扉を、こんこんと叩く。書類に目を落としたまま、ちらりとも見ずに、彼女は言った。
竹がくしゃみをして、その音で秘書艦と書類の蜜月は終わった。彼女は握っていたペンをデスクのペン立てに戻し、背伸びをして、こちらに近づいてくる。みんなに敬愛される秘書艦の、頼もしく、人当たりのいい笑顔で。彼女はあたしの肩を馴れ馴れしく叩いた。
あたしは内心の罵声を押し殺して返事をする。
あたしたち三人は黙って執務室を出る。食堂に行き、何らかの理由で遅めの夕食を取る艦娘たちや、非番でやることもなく、艦隊の仲間とたむろっている艦娘たちの中に加わって、食事を受け取る。木曾秘書艦の心尽くしだ。だが、彼女がどんな風に厨房の職員に言ったものか、間宮のアイスクリームは六人分あった。きっと、艦隊単位で注文したのだろう。松と竹は困り顔だが、あたしは気にしない。貰えるものは全部貰って、適当なテーブル席に三人で座った。それぞれの食事のプレートの横に、二個ずつアイスの皿を置いてやる。川内には、後であたしからアイスをおごってやればいい。彼女にも二個ほど食わせてやれば、満足するだろう。
あたしは目の前に座った二人の新兵に目をやる。初陣帰りの彼女たちは、今になって色々と思い出している。あたしには分かる。同じ道を通ってきたんだから。だから、あたしは微笑んで、アイス用のスプーンを手に取り、二人の口に差し出してやる。そして言うのだ。