木造の立派な門をくぐった先で、視界の端に和風の庭園を見ながら石の階段を上がり、これまたご立派な玄関の引き戸を開けると、視線の先、私より一段二段上で待っていたのは、昔見たのとよく似た女の顔だった。これはおかしな話で、私が彼女を見たのはもう八年も前になるから、本当ならもっと違う、成熟した顔になっていてしかるべきなのである。しかし実際、彼女のかんばせには少女の面影が色濃く残っていた。ただしそれは、彼女が母の腹から持ってきた顔の面影ではなく、むしろ人生の中の数年ほどに限って、彼女のものであった顔かたちの名残と言うべきだった。
少しの間、私はその顔を見続けていた。シンプルに首の後ろで束ねられた、艶やかな黒髪。片方を前髪に遮られてなお相手を射すくめるような、鋭い目つき。やや浅黒く陽に焼けた、健康的な肌の色。総じてその場の空気をぴんと張り詰めさせる、真面目な雰囲気。そこには思い出があった――輝かしく、忘れがたい、よき思い出が。そしてもちろん、そうでない思い出もたっぷり。第一声を何と発していいか分からず、とりあえず挨拶くらいしてみなければいけない、との義務感に駆られて、私は言った。
「
かつての名前を呼ばれた彼女は、軽く頷いて、私の古い名で答えた。
「
その声、喋り方までおぼろげな記憶の中のそれとそっくりだったので、私は笑ってしまった。無論、これは熊野丸の顔をむすっとさせる役にしか立たなかった。というのも、私の声だって、それに顔だって、重巡艦娘「衣笠」のそれにかなり似せてあったからである。私たちはどちらも、退役艦娘のちょっとした役得*1を活用している立場だったから、私に彼女を笑う権利などないという訳だ。それは全くその通りだったので、私は頭を下げて謝りつつ、玄関に入って靴を脱ぎ、熊野丸の家へと上がった。
広々とした家に一人住まいの主に案内され、短い廊下を通って客間へと通される。畳敷きで、
今更気後れし始めて、私は熊野丸に促されるまで、腰を下ろすつもりにもなれなかった。畳の上に敷かれた、ふかふかとした座布団に正座すると、その思いはますます強まった。座敷机を挟んで向こう側にいる彼女を見るにつけて、間違った場所に来てしまった気がしてならなかった。なるべくきちんとした恰好をして訪ねてきたつもりだが、こんなに大層な家の大層な客間でも見劣りしないかと言われると、胸を張ってそうだとは答えられない。こういう場所に似合うのは、高級な和装だとか、ぱりっとしたスーツとか、あるいは制服なんかだ。どうせだったら、箪笥の奥深くにしまってある、重巡「衣笠」としての制服*2を着てくればよかったか。
床の間を背にして座り、私は熊野丸を見ていた。熊野丸はそんな私を暫く見つめ返していた。彼女に私の気持ちが分かっていたのかどうかは、分からない。でも、こうしていてはらちが明かないというのは分かっていたと思う。彼女はすっと立ち上がると、手短に「茶を淹れてこよう。貴様はくつろいでいろ」と言って、私が返事をする前に部屋から出て行ってしまった。くつろげる筈もなかったが、一人になったことで、肩の力を幾分か抜くことはできた。このままこっそりと逃げ出してしまいたいという、臆病な欲求が生まれるのを感じる。けれども、今日ここに来た理由を考えてみれば、そういう訳にも行かないと理性が働くのだった。何しろ、私はここに、助けを求めてやってきたのだから。
忸怩たる思いである。世の退役艦娘はおおむねうまくやっていることを考えると、どうして私はそうなれなかったのだろうと不思議にも感じる。が、厳然たる事実として、私は経済的な困窮状態にあった。自尊心の為に弁護するなら、これは私の放埓や放蕩だけが招いた事態ではない。確かに、海軍での現役時代、私は月給を預貯金に回すことなどほとんど考えもしなかった。翌日には海の藻屑になっているかもしれない時代に、十年後や二十年後のことを考えていられる者は少ないからだ。だから戦争が終わり、生きたまま退役できることが現実味を帯びてきた時には、少し焦ったりもした。染みついた習慣を変えることは困難だったが、平和な世界で金遣いの荒い人間が苦労することになるのは、私でさえ直感的に理解できていたからである。
それでも軍籍を抜ける時には、少々の貯蓄はできていた。それを切り崩しつつ、民間人として故郷で次の仕事を探し、平穏に働く。これが私のプランだった。今なら分かる。これは、何も考えていなかったようなものだ。私の出身地は内陸県*3だったのだから、そのことを勘案に入れて動くべきだったのだ。海軍の用意してくれた退役艦娘向けの特設高校に通ってもよかった。他の土地に引っ越してもいいし、リモートワークでできるような仕事を探してみてもよかった。自分のことを緩やかに排斥しようとしていた地元にしがみついている以外のことなら、どんな道でもよかったのに、私は艦娘らしくもなく、最初の計画にこだわってしまった。
結果として、私は他所に引っ越してやり直す余裕さえない状態に追い込まれてしまった。サポートしてくれる家族がいれば、もうちょっと踏ん張れていたかもしれないが、彼らはむしろ、私が当てもなく故郷から出て行くか、その辺で野垂れ死んでくれることを願っているようだった。理性的に考えると、責めることはできない。私が海軍のプロパガンダに誘引され、志願して艦娘になって以来、自治体内で私の家族たちは愉快ならざる思いをしてきた筈である。その期間は
時給の安いバイトを転々としながら、自分がかつて艦娘だったことさえ何だか嘘だったように感じ始めた頃、ふと思い立ち、軍から持って帰ってきてそのままになっていた荷物をほどいてみた。そこには色々なものがあったが、中でも私の目を惹いたのは写真だった。艦隊の誰も、別に写真の趣味を持っていなかったから、枚数自体は少ない。精々四、五枚だった。何かの拍子に誰かが撮ってくれたようなスナップ写真や、大規模作戦終了後にみんなでその辺に倒れ込んでいるところを撮られた写真、どういう理由からだったか、提督
旗艦に金剛型高速戦艦の二番艦「
指揮序列三番艦は正規空母「
戦後のままならない民間人生活に疲れ果てた私は、その写真に写っているもの全部が懐かしく、愛おしく思えた。それで、荷ほどきを始めた時と同じような思い付きで、鳳翔を訪ねてみることにした。艦隊員の中では最も頼りやすい人でもあったし、退役前に家の電話番号や住所を含む連絡先を交換していたので、会いに行くことに躊躇いはなかった。久々の連絡は、衝動的に掛けた電話だったこともあって、留守電に繋がっただけだったが、翌日の夕方に彼女の方から掛け直してくれた。この時ばかりは、バイト代の中から少なくない額を持っていく、携帯電話という民間人の象徴のようなガジェット*4に対して、感謝の気持ちを持ったものだ。家の電話だったら、あんなに長電話はできなかっただろう。
鳳翔が教えてくれた電話番号は、彼女が以前、家族と共に住んでいた家のものだったそうで、私が留守録に吹き込んだメッセージを聞いた彼女の家族が、用件とこちらの番号を鳳翔に伝えてくれたらしかった。どうして家族と一緒に住んでいないのかと聞くと、彼女は笑って答えた。「終戦後すぐはどうしようかと迷っていたんですけど、やっぱり海軍に残っちゃおうと思って、今は教官職に就いているんです」なんと賢い女性だろう、と私は思った。平和な世界に慣れるまで海軍に残って、適当なところで退役という手があったのに、私はそれに気づきもしなかったのだ。けれど鳳翔はそれに気づき、選択してみせた。
ぜひ会いに行きたいと話すと、彼女は喜んで承諾してくれた。「いつでも来てくださいね。その時は私、御馳走しますから」そうして二人で予定をすり合わせ、電話が切れた後、戦争が終わって以来ずっと忘れていた艦娘らしいきびきびとした手際で、私は荷物を作った。まあ、そんなに沢山の私物を持っていくつもりもなかったから、そもそも手間なんてそんなに掛からなかったのだが。それでも幾ばくかの金や着替え、それから件の写真を含む思い出の品々なんかを、軍隊から持って帰ってきた大きなバッグに詰め込むと、あの頃に戻った気がして気分がよくなった。
そして数日、それまでと同じようにつまらない仕事をして過ごした。でもそれまでと違って、鳳翔のところに行くという楽しみが控えていたので、そんなに苦にはならなかった。やがて彼女を訪ねる日の朝が来て、私は家族に何を言うこともなく、荷物を持って家を出た。バスに乗り、電車に乗り、歩き、またバスに乗って……昼過ぎに私は目的地に着いた。海軍基地からそう遠くないところにある、家の主と似て控えめな雰囲気の一軒家。鳳翔の家。もう戦時ではないので、彼女は泊地宿舎に泊まらなくてもいいのだ。腕時計を見れば、立てた予定通りの到着時間だった。奇妙な満足と共に、私はチャイムを鳴らした。
その後私が感じたことについては、思い返すにも勇気が要る。が、事実は事実だ。私は、ドアを開けて出迎えてくれた鳳翔に、失望したのだ。その様子が、私と大差ないように見えたから。そして聞けば実際、彼女も決して余裕のある暮らし向きではないそうだった。戦争が終わり、艦娘の増員が止まって、新規に入隊する少女たちが減った以上は、教官への対応もそれなりのものになる、ということだ。鳳翔が海軍から事前に聞いていた結構な給料も、何だかんだと引かれてしまえば、後に残るのは今の生活を保っていける程度だけ。
「何だか騙されたような気分ですけど、他にやりたいことも、できることもありませんから、ね」
リビングでお茶を飲みながら、鳳翔はそう言って、恥ずかしそうに笑った。意外に思って私は訊ねた。「鳳翔さんは、貯金とか沢山していたんじゃないの? よく、能代と話してたんだけど。そういうところ、きっちりしてそうだよねって」そうすると鳳翔は、目を真ん丸にして、それからおかしそうに大笑いし出したのだった。「私が?」笑いながら彼女は言った。大笑いであっても、品を保った笑いだった。私の勝手な失望や、鳳翔の境遇を聞いたせいで少し暗くなっていた室内が、それで明るくなってくれた。
「私は艦隊で一番、浪費家だったんですよ? 比叡さんが、一体何度支払いを肩代わりして下さったか、あなたたちが知ったらびっくりするんじゃないかしら」
「教えてくれなくったっていいからね。今で十分、びっくりしてるんだから!」
私たちは大いに笑った。戦中、鳳翔も比叡も決して、艦隊の頼れる二番艦がそんな人物だとは、針の先ほども感じさせなかった。葛城も神風も知らなかった筈だ。知っていたら私や能代に伝わっていない訳がない。二人は見事に隠し通したのだ。「それじゃ、今は大変なんじゃないの?」こちらがそう聞くと、彼女は穏やかな顔で首を横に振った。「今は、何かにお金を使おうって気も、そんなにしないんです」私は頷いた。何となく、分かる気がしたからだ。私たちは死ぬのだから、残り少ない人生を精一杯楽しめ、という風潮が、戦中の艦娘には存在した。しかし戦争は終わった。私たちは死なずに済み、残りの人生は思っていたよりも長いということに気づいた。それに気づいてしまえば、生き方も変えずにはいられなかった。鳳翔は、そこのところを上手にやれた*5のだ。
嬉しかったのは、彼女にそういう大きな変化があっても、変わらない部分があったという点である。彼女には変わらない優しさがあり、昼過ぎに着く予定だった私の為に、食事を用意して待っていてくれた。電話で言っていた通り、御馳走だった。彼女の経済状況では小さくない負担だったろうに、嫌な顔一つせず、手ずから料理を作って振舞ってくれたのだ。夕食も作りますから、一杯食べていって下さいね、と彼女は言い、私は慌ててバッグの中からお金を取り出して、せめて食費くらいは出させてくれるよう、頼まなければならなかった。
二人の戦友同士は、長く話し合った。食事をしながら、お茶を飲みながら、夕食の為の買い物に食料品店へと行きながら、その店から帰りながら、調理をしながら。私たちは本当に沢山の思い出と、今についてを話し合った。夕食ということもあって、お酒が出てくると、二人の舌はより一層滑らかになった。私がバッグから写真を取り出して見せると、鳳翔は喜んでそれを手に取った。「懐かしいですねえ」と笑みを浮かべながら、彼女は一枚の写真を指差した。「これを覚えていますか?」それは工廠で撮られたと思しき写真だった。ぶすっとした顔の比叡と、同じくふてくされた顔の私が、どちらも疲れ果ててぐったりとした様相で、工廠の床に座り込んでいる。比叡はずぶ濡れで、私は血まみれだ。でも服に損傷が見えないから、私が怪我をしたのではないだろう。大破した艦隊員の誰かの退避に、手を貸したのかもしれない。
でもそうすると、比叡や私が不機嫌な理由が分からなかった。比叡は艦隊員や友軍の退避に手を貸したことで、目標が達成できなかったからと言って、機嫌を損ねるような旗艦ではなかった。私もそんな薄情な艦娘であったつもりはない。「これは何の時の写真だったっけ?」質問すると、鳳翔はすぐに答えてくれた。「熊野丸さんを助けた日の写真ですよ。ほら、あなたが真っ向から噛みついて!」数秒の間、私はよみがえる記憶の奔流に身を任せた。「ああ」懐かしさに、声が漏れる。
「あの時のかあ」
「そう、あの時の」
* * *
「
戻ってきた熊野丸の手で、座卓にことりと盆が置かれた。小皿に盛られた数切れの羊羹と、
熊野丸は口の端を吊り上げるようにして笑い、お茶を口に含んで喉を湿した。私もそれに倣って、お茶を飲む。お互いに茶碗を戻して、見つめ合う。今度は、さっきよりも幾らか落ち着いた気持ちだった。「七年ぶりか」と熊野丸が言い、「八年ぶりだよ」と私が訂正する。そうだったな、と彼女は呟いた。虚空をにらむように視線を鋭くして、それでいて笑うように熊野丸は言う。
「調子の悪い日なんかは、今でも夢に見る。艦隊からはぐれてしまって、一人っきりの俺に向かって殺到する深海棲艦ども。それも駆逐イ級だのロ級だの、殺されてやるにはぞっとしない連中ばかりだったな」
それには反対できなかった。私は連中に襲われた熊野丸を間近で見たのだ。体中あちこちの肉をちぎり取られたように負傷し、いびつな形の人形のようになってしまった彼女のことを抱き上げ、泊地に連れ帰ったのは私なのだ。どれほどおぞましい経験かは、想像することしかできないが、彼女がしなければならなかった経験を、その半分の半分だってしたいとは、たとえ泥酔していたって思えない。艦娘の肉体は容易に再生できるが、それは艦娘の心が傷つかないことを全く意味しないし、その傷ついた心に投与できる高速修復材は存在しないのだ。
熊野丸の心だって、戦争を生き延びたとは言え、無傷でとは行かなかった。私の心もそうだ。ひどく落ち込んだ時は、あの戦争を生き延びられなかった艦娘たちのことを、どうにも羨ましく思うこともある。少なくとも、彼女たちは今や、安息の中にいる。生きていくという難事に、始終頭を悩まされることもない。海軍の宣伝放送でしか艦娘を知らない世間の無理解や、艦娘になれなかった、あるいはならなかった人々からの嫉妬や、艦娘嫌いの連中から向けられる嫌悪の情にうんざりさせられることもない。それはまさしく、平和だった。軍の教えによれば、私たちが血の対価として手に入れる筈だったもの。名誉の代価として、世にもたらすことになっていたもの。ところが実際には、戦争が終わったら、また別の戦争が始まっただけだった。血は流れないが、前のと違って随分と込み入ったルールで運営されている、いやらしい戦争だ。しかもルールブックは、私たちには読めない言葉で書いてあるのである。
「そういえば、比叡殿はお元気か? 確か貴様の艦隊の旗艦だったろう? 後は鳳翔殿と、ええと、葛城に能代、それから神風、だったか」
よく覚えてるねえ、と応じた後、彼女のシンプルな質問に答えるのが遅くなったのは、現役と退役とを問わず、艦娘同士の話し合いでちょくちょく起きる、ありきたりな事情からだった。私は、この話題に触れなければいけない時、どんな表情をしたらいいのか、いつも分からなくなる。それで結局、微笑みとも無表情とも言えないような、微妙な顔で答えるしかなくなるのだった。
「比叡さんは終戦前の、最後の作戦*6で轟沈したよ。友軍艦隊の退避を援護するのに、十分に動けるのが自分しかいなかったからって、たった一人で敵の艦隊丸々一つ引きつけてさ。最後はその艦隊も道連れにしてね。勲章を貰って、故郷の大通りに名前が付いたらしいよ。葛城と神風も、その後」
私たちの艦隊があの日まで生き延びられた理由は、個々人の努力の中にもある。そこは否定できないが、比叡の指揮がなければ、最後の作戦を六人で揃って迎えるということもなかったろう。私たちを強固たらしめていた最大の要因を奪われた我が艦隊は、戦闘の混迷の中で、一人たりとも失わずに戦い抜けるほど、幸運ではなかった。ここにいるのが私で、葛城でも神風でもないのは、単なる偶然に過ぎない。
熊野丸は沈痛な面持ちになった。慰めになるかは分からなかったが、鳳翔は元気で、この間も訪ねて行ったのだと話す。能代はどうだか分からないが、彼女は私と違って内陸出身ではなかったから、元艦娘が得るに値する敬意や、配慮を向けられて、戦後を生きているだろう。最後に話した時には、海軍にはうんざりだと言っていたから、そういう扱いだってそれはそれで、彼女の気に入らないところかもしれないが。
「複雑な気分だな。いや、葛城と神風については、素直にお悔やみを申し上げるが、その……比叡殿に関しては、な」
お茶をもう一口すすって、熊野丸はそう言った。まあ、彼女は比叡に対して、そう言う権利がある。何しろ比叡は、熊野丸を助けないという決断を一度下しているのだ。正確には、彼女の救援任務に就くかどうかの打診に対して、否で以て答えたのである。私の旗艦を弁護するなら、その判断に、海軍と陸軍という所属の違いから来る悪感情は差し挟まれていなかったと断言しよう。彼女はそういう狭量な人物ではなかった。ただ、その時の艦隊は既に別の任務を果たしてきた直後で、燃料や弾薬、体力を消耗した状態だった。後は泊地への帰還だけ、という状況で、艦隊員を危険な任務に従事させたくなかっただけなのだ。
まして、任務の種類が捜索救援任務である。要救助者の場所も大まかにしか分かっていないから、探して見つけ、連れ帰らなければならない。周囲には、彼女をそんな状態に追い込んだ有力な敵がうろつき回っているだろう。比叡は任務の達成の次に、旗艦として艦隊員を可能な限り守り通すことを誇りとしていた。だから彼女は、救助対象が陸軍のお偉いさんの娘であるというだけの理由で、陸軍船舶司令部から海軍泊地司令部経由で、提督を飛び越えて艦隊に直接かつ非公式に打診された任務など、一考にも値しないと思ったのだ。特にその打診が、当該海域――北方海域付近に展開している艦隊に、手当たり次第送られているものだと泊地司令部から教えられた後では。
成功してもメリットは陸軍艦娘の小娘一人が助かるだけだ。でも挑戦して失敗したら? 陸軍上層部の誰かからの逆恨み、その具体的な対象になるかもしれない。そうしたら何が起こるか、分かったものではなかった。では、もし打診を拒否したら? その結果、哀れな両親が、娘の為に用意した空っぽの棺を焼くことになったとしても、彼らの恨みは海軍全体に向くだろう。比叡以下、艦隊は守られる。冷たいが、実際的な計算だ。比叡は見ず知らずの誰かを死なせてでも、私たちを守ることを決意していた。鳳翔はその気持ちを聞く前から理解していて、他の艦隊員に先んじて「どうして拒否を?」と訊ねることで、比叡がそれを鳳翔に説明し、その言葉を私たちが聞けるようにしていた。葛城はそれを聞いて納得した。能代はそれを聞いて納得した。神風も納得したようだった。
でも私は、その頃、あんまり賢くなかった。いや、馬鹿だった。それもかなりの馬鹿だ。海軍嫌いの多い土地にいて、何故か軍のプロパガンダを真に受けた挙句、周囲が止めるのを振り切って艦娘になってしまうくらい愚かだった。だから、比叡に噛みついた。今でも覚えている。思い出せば出すだけ、何やら恥ずかしい気持ちになる。私は言ったのだ、私よりも遥かに長く、遥かに多くのものを見てきた大ベテランの上官に向かって、まるで民間人が観る戦争映画に出てくる艦娘のようなことを。
「友軍を見捨てる理由に、私を使わないで!」
戦中、私個人が比叡に強い印象を与えられたのは、この時くらいではないかと思う。彼女は、最初面食らった様子だった。普段、彼女の言うこととあらば疑いもなく従う私のような一艦隊員が、いきなり反旗を翻したのだから、さしもの彼女と言えど、戸惑わずにはいられなかったのだろう。しかしすぐに気を取り直すと、海上における旗艦が備えておくべき厳格さで、私を抑え込もうとした。けれど、突発的に反感を爆発させた馬鹿を抑えるのは、彼女のような優れた旗艦にとってさえ、難しいことだ。私も一度声を上げた以上、そうそう簡単に引っ込む訳にも行かなかった。「一人でだって、探しに行くから!」当時の私はそう大口を叩いたが、時間が経った今、内心はそこまで勇敢ではなかったのを認めよう。有り得ないことだが、私の意見に比叡が折れてくれるのを願う気持ちが半分。そして彼女が強引に、私をこの場から泊地へと連れ戻してくれることを願う気持ちが半分。それがあの時の、正直な気持ちだ。
結局、助け船は旗艦の右腕、誰もがその言葉に耳を傾けずにはいられない、鳳翔から出されることになった。彼女は比叡を宥めると、いつの間に検討したのだろうか、泊地司令部から伝えられた要救助者のおおよその位置が、私たちの帰り道からそう遠くないことを、海図の何か所かを指差しながら示してみせたのである。
「これなら、燃料の消費は最低限ですよね。それにもう打診は断った後。なら、これから私たちが救援を試みて成功すれば、偶然その場に居合わせただけ、で済みますし――もし失敗しても、上には伝わりません、でしょう? 様子見くらい、どうですか?」
比叡は少し口を閉じて考える素振りを見せた後で、「弾薬の残量は?」と私たち全員に訊ねた。順番に報告を受けてまた数秒考えると、救助対象のいる方へ、針路の変更を指示した。その指示を受けて隊列を組み直そうとしていると、私は比叡に呼ばれた。彼女の隣には鳳翔がいたが、間違いなく、お褒めの言葉を頂くのではないことは分かっていた。案の定、私はキツめに絞られ、海の上で旗艦に軽々しく逆らう艦娘がどういう目に遭わされるかを、なんと七十四通りも教えて貰うこともできた。それから旗艦は海図を出し、救助対象である熊野丸が、何処にいると思うかを私に訊ねた。
もちろん、何もないところからそんな仮定はできないので、比叡や鳳翔が泊地司令部から聞けた情報は、全部教えてくれた。熊野丸との連絡が取れなくなる前に、彼女の艦隊員が報告した敵の数や種類、どの方角から来たかなど、それなりに情報は出揃っていた。私は余り迷うことなく、熊野丸がまだ生きているという前提の上でだが、彼女の退避ルートを想定することができた。比叡は頷いて、自分でもそうするだろうと認めた。が、私が認められて喜ぶ前に、彼女は言った。
「一つ忘れてなければ、とても正しい洞察なんだけどね」
そして比叡は、図の一点を指した。そこには陸地があった。
「彼女は陸軍艦娘、熊野丸。私たち海軍艦娘は海しか知らないけど、彼女は陸のことも知ってる。海上と違って身を隠す場所もあり、救援が来るまで日数が掛かっても、知識と能力さえあれば生活していける」
ずっと後になって、陸軍における艦娘の訓練がどういうものだったか、知る機会があった。確かに彼女たちは、海での振る舞いだけでなく、陸でどう戦うかも教えられていた。それは深海棲艦の日本上陸という、最悪のシナリオを想定して行われていた教育だったが、サバイバル訓練*7と呼ばれるものを含んでいた。比叡がどうしてそれを知っていたのかは分からない。陸軍で訓練を受けた訳がないから、誰かから聞いたのかもしれない。長く軍にいれば、話を聞くこともあるだろう。とにかく、彼女の言うことには説得力があった。しかし、その一点に全賭けで動くには確証がなかった。それで比叡は、私と鳳翔を彼女自身の推定する地点に送ることにし、私が提示した退避ルートを追うのは、比叡他三人でやる、ということにした。
二手に分かれるのにはリスクがあるが、鳳翔が指揮する熟練の艦載機隊で索敵しながらであれば、接敵の危険は減じられる。私に不満はなかった。あったとしても、改めて逆らう気はなかった。比叡は私をまっすぐに見て言った。「もし私の推測が正しかったとしても、ヒーローになろうだなんて思っちゃダメだからね」島に逃げ込んだのなら、比叡たちが私と鳳翔に合流するまでの時間くらい、稼げる筈だと。彼女は同じようなことを鳳翔にも言ったが、多分あれは、私に二回目を聞かせただけだと思う。それだけ彼女は、私の危なっかしさを把握していたのだ。
そのことは流石の私にも分かっていたから、鳳翔と二人で移動している間も、彼女の声は常に頭の中で響き続けていた。ヒーローになろうと思っちゃダメ。すぐに連絡して、合流を待つ。そうして六人の力を合わせれば、怖いものなんかない。最後の一文は比叡が言わなかったことだが、私はこれが文字通りの事実だと信じていた。鳳翔と葛城の航空支援の下で、比叡を先頭に突っ込む時ほど、気分が高揚し、自分を力強く頼もしく感じたことはなかった。今度も、熊野丸を追いつめたと思っている深海棲艦の尻を、六人がかりで散々に蹴飛ばしてやるのだ。比叡の読みが外れるなんて思いもしないで、私はその時を楽しみにしていた。
そう、比叡の読みは外れたのだ。全部ではない。一部がだ。熊野丸は確かに陸へと逃れることを選んだ。彼女はその為の訓練を受けていて、能力があったのだろう。ここまでは正しかった。間違っていたのは、もう陸に上がった後だろう、という推測だった。彼女の艤装は攻撃を受けて不調になっており、速力を低下させていたのである。それで、陸に上がる前に、敵に捕捉されてしまっていたのだ。
鳳翔の艦載機は、重巡軽巡一隻ずつと、駆逐四隻からなる深海棲艦の艦隊に、執拗に追い回されている熊野丸を見つけた。遠くから低く轟く砲声の一つ一つが、私の肌を
クソったれのヒーローになる時だった。
二番艦に止められる前に、機関をフル稼働させて全速力で海上を走り始めた私は、じきに敵影を見た。でも、撃てなかった。当てられる気がしなかったし、六対一なのだ。冷たく強い海風が吹きつけ、ほんの少しこちらの頭から熱を奪っていっただけで、私の臆病な心が、邪魔をし始めていた。けれども、それがむしろよかったのだと思う。勇敢過ぎたなら、当たりもしない距離から撃っていただろう。それで、敵に対応する余裕を与えてしまった筈だ。そうすれば彼女たちは隊伍を組み直し、私を粉砕できた。だがこの時は、発砲を控えていた為に、私がすぐ近くに来るまで、彼女たちはこちらに気づかなかったのである。
鳳翔が私を止められないと悟って、航空支援に切り替えてくれたのが更によかった。敵は突然の爆撃に、パニックになった。私も半ばパニックになりながら、爆撃の音で我に返って撃ち始めた。そして爆撃を避けようと散開した敵の艦隊のど真ん中を通り過ぎざま、残っていた魚雷をばらまき、それが彼女たちの統制に致命傷を与えた。爆撃を避けた重巡が、確かリ級だったと思うが、その魚雷の直撃を食らったのだ。恐らく旗艦であり、最大の砲戦力でもあった重巡を失った深海棲艦の艦隊は、ばらばらになって一目散に逃げ出した。
その後、私たちは呆然となっていた血まみれの熊野丸を救助し、傷に希釈した高速修復材を振りかけて、出血を止めた。艤装は今にも動作を停止しそうなほど壊れていたので、妖精をこちらに移乗させ、燃料と使えそうな弾薬を貰った上で、投棄しなければならなかった。私が熊野丸を抱え、鳳翔の先導の下で比叡たちとの合流ルートを走っていると、水平線の向こうから、ものすごい勢いで私の旗艦がやってくるのが見えた。ある程度近づいたところで彼女が拳を振りかぶっているのを認めて、あ、これは殴られるな、と思ったが、こちらにとっては幸運なことに、比叡はどんなに怒っても理性を失わない人だった。私が熊野丸を抱えているのを見ると、拳を下ろしたのである。無論、これはただ延期されただけに過ぎなかったが。
比叡は、気を失いかけている熊野丸に、何か話し掛け続けるようにと私に命じた。初対面の相手に何を話せばいいのか、さっぱり思いつかなかった私は、あろうことかその日一日のことを事細かに話してしまった。熊野丸が比叡の「彼女を見捨てる」という最初の判断を知ってしまったのは、こういう事情なのである。それと引き換えにというのでもないだろうが、私は彼女からの大きな感謝を得た。熊野丸が生きたまま泊地まで着いて、病院に搬送される前には、「敬意の証」として連絡先まで貰ったのだ。何でもいい、何かに困ったらいつでも助けになると、担架に乗せられながら彼女は言った。こうして、ちょっぴり血で汚れてしまったメモ用紙は、私の小さな勲章になった。
鳳翔の家を訪ねた時、彼女と写真を見ながら話して思い出したことの中には、このメモについても含まれていた。それで私は、鳳翔の家から自宅へと帰ってきた後、荷物を洗いざらいひっくり返してメモを探し、どうにか見つけ出して、実に八年ぶりに熊野丸へ連絡を取ったのだった。まあ、鳳翔の時と似て、まず繋がったのは熊野丸の母親にだったのだが……彼女は私のことをはっきり覚えていて、熊野丸が無事に生きて終戦を迎え、退役して今は一人暮らしをしていることを教えてくれた。彼女は熊野丸と私を繋いでくれて、そしてそのお陰で今日、私はここに座って、お茶を飲んでいる訳である。
立派な家の、立派な部屋。外見も中身も、綺麗に保たれている。私の故郷であれば、こうは行かないだろう。時々、塀の落書きを消したり、あれこれと近所の住人に嫌味を言われる日々になる。ここに引っ越して来れたらな、と思わなくもなかった。が、こんな素敵な家の中に、私の居場所は用意できそうにもなかった。私はすっかり、熊野丸に助けを求める気を失っていた。彼女とは、元艦娘同士でいた方がいい。熊野丸だって、自分の命を助けてくれた相手が、落ちぶれているのはいい気持ちがしないだろう。今日は鳳翔と私がそうしたように、思い出話をして、楽しく別れたらいい。そう覚悟すると、気が楽になった。私が歩くのを決めたのは緩やかな破滅への道かもしれないが、とりあえず今がよければいいじゃないか?
多分、鳳翔は言うだろう。「ダメですよ」そして彼女は、私がそんな、しょうもない覚悟をするのを見抜いていたのだろう。あの日、私たちが思い出話に花を咲かせた時に。
「貴様、ここに越してこないか」
突然に熊野丸が言い出したことに、私は目を白黒させた。脈絡もない申し出だ。こちらが返事に窮しているのを見て、彼女は髪をかき上げ、説明を始めた。
「俺に会いに来る前に、鳳翔殿にも会いに行ったろう? 俺は鳳翔殿にも連絡先を渡していたんだ」
「まさか、鳳翔さんが先に連絡をしてたってこと? 熊野丸に?」
「ああ、ひどく心配していたよ。何とかしてやってくれ、と俺に言っていた。それで、その……悪い、貴様の現況を聞いたんだ。だから、無理を言うつもりはないが、よければ、と思ってな」
望むだけここに住んでいてくれたらいいし、出て行きたくなったらそうすればいい、と熊野丸は言った。とにかく、ここでゆっくり心身を休めながら仕事でも探して、これからのことを考えていけばいいんだ、と。それからのことは、余り覚えていない。そういうことにしておこう。大泣きに泣いたとは思う。翌朝、目元が腫れていたし、喉はガラガラだったから、きっとそうだ。体はそんな具合で不調だったが、けれど心は晴れやかだった。荷物をまとめて送る為に前の家へと戻る時、門の前で私たちは短く話をした。
「持つべきものは友達って感じね」
熊野丸はわざとらしく、誤りを正すように、「友達だって?」と言った。「初めて会ったあの日から、貴様をそう思ったことは一度もなかった」家に引っ越して来ないか、なんて持ち掛けてきておいてひどい言い草だ。昨日一晩で深く打ち解けていなければ、傷ついていたところだった。
「大事なことを勘違いするな。俺が敬意を払ったのは、命懸けで友を救おうとした艦娘にではない。友でもない相手を助ける為に、その身をなげうってくれた者にこそなんだ」
私は笑って、彼女の言うことを心に刻んだ。その価値のある言葉だった。行きにも見た木造の大きな門を通って、家の一歩外へ出る。そこで振り返って、熊野丸に言った。
「じゃあ、次はこの門を、友達としてくぐるからね!」
「ダメだ、その門は客人用だからな――次は隣の、通用門を使え、衣笠。俺の友達はみんな、そうしているんだ」