※作中よりも過去における死ネタが含まれます。ご注意ください。
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「
恋人の問いに、そら来た、とのぞみは唇の端を吊り上げた。部屋に行きたい、もしくは部屋に来てほしい、と珍しくねだられたときから——いや。
「タイトルを見たときから、これは
その返答を受けて紅実が浮かべた笑みも、にやり、と形容できるものだった。
演劇サークルの後輩が今回の公演のために書き下ろした台本は、一年前の台本と題名も登場人物も基本的な設定も同じものだった。が、無論、全く同じでもなかった。それぞれに異なる副題がついていて、違うのだぞと予め主張してもいた。
同じサークルといっても、男女はほぼ分かれて活動している。大学公認の資格を保つには既定の人数を満たしていなくてはならないから、看板を共有しているにすぎない。だから、サークル員ではない紅実と同じく、のぞみも本番で初めてあの劇を観た。
魔法の砂時計を手に入れた主人公が、悩んだ末にそれを使って時間を戻す。
時間を戻す動機は、物語の開始前に起こっている事件に、主人公の仲間が巻き込まれたことだ。前回の一本目の台本では、命と体は助かったものの、心に傷を負ったとされていた。今回の二本目では、二人だけが生き残って、他は命を落としている。
一本目も二本目も、最後に主人公が砂時計をひっくり返して幕となる。少なくとも一度は、ひょっとしたら何度も、既に誰かが砂時計を使っているとも劇中で示
「砂時計なの、ちょっとしっくり来ないんですよ。使い切ったらなくなるっていう意味での時間の比喩でしょう。寿命とかの」
来がけに買った
「舞台ですからね。懐中時計の針を逆に回す方が
舞台上で映えなくては意味がないのだ、とのぞみは日和たちの肩を持った。映像作品であれば、あるいは小説であれば、また話は違っただろう。
他にも二、三の設定や演出について、二人は褒めたり疑問を呈したり、同意したり擁護したりした。相手が喋っている間も聞き入っていれば手が止まるから、大した量でもないゼリーがなかなか減らない。
「あの二人はどうして、時間が一度戻されていることを知っていたのかしら」
何個目かの疑問として紅実が触れたのは、事件に巻き込まれつつも生き残ったと設定されていた二人のことだった。一人は何度同じ目に遭わせるつもりだという言い方で砂時計の使用を拒み、一人は自分だけ助かっても無駄だとはわかっていたと諦め顔で語る。
そろそろ本題かなと考えながら、のぞみはスプーンを握ったまま指を一本立てた。
「記憶が残っていたわけじゃなかった、に一票。やり直したら今度は自分が死ぬかもしれないんだから、もう散々繰り返してるなんて事情がなくたって、反対するのはおかしくないでしょう。仲間を見捨てることになったって」
「何度同じ目に遭わせるんだ発言は?」
「芝居」
「性格わる」
未だ互いに敬語を崩せぬままの恋人の、素に返ったような一言に笑う。
「感情移入してたんですから台無しにしないでください」
「どちらに?」
「どちらにもです。時間を戻す手段があると——本物だと、知ってしまったおかげで——問題の事件から全員生還したって、いつまた誰にどんな理由で時間を戻されて、それまでのことをご破算にされるかわからないでしょう。そのことを知ってしまっているのは——悲劇ですよ」
いい加減にしろと拒む気持ちや、どうせ終わらないのだと諦める気持ちよりも手前の話だった。何かを得ても何かを成し遂げても、なかったことになるかもしれない、という恐れが常につきまとうのだ。何も知らないままご破算にされるのも悲劇だろうが、知ってしまえばご破算にされなくても悲劇である。
かといって、いずれ戻されると決まったわけでもないのだから、開き直って自堕落に生きるわけにもいかない。どうせリセットされるものと思っているうちに、そのまま一生が終わってしまったら目も当てられない。
「砂時計を破壊するしかありませんかね」
「同じ砂時計が他にもあるかもしれないし、同じ効果の懐中時計や腕時計があるかもしれませんよ」
「そんなことを言ったら、砂時計を破壊したら一番最初の、一度も砂時計を使っていない段階に戻ってしまうかもわからない」
「そもそも、破壊できるものだとも限りませんね。呪文だけで発動するようだったら」
真面目に指摘しているのか混ぜ返しているのかはっきりしないことを一
「日和さんはわかってるんでしょうか」
「無意識だと思いますよ。機会があれば探りは入れてきましたけど」
「……『探りを入れる』なんて言葉を口頭で聞くことに違和感がなくなってきました」
違和感を覚えて然るべきだとは思っている、と最後の抵抗のように表明してから、紅実は嘆息した。
「どうして本人が覚えてなくて、わたしたちが覚えてるんです?」
答えを求めたわけではないだろう。今に始まったことではない、二人の間に大分前から共有されている疑問——というよりも、ぼやきである。
時間が戻っている。
二人が認識しているところでは、二回。認識していない分を含めて三回以上である可能性も否定できない。この認識を共有できるから、時間が戻る前の記憶を共に持っているからこそ、二人は互いにとってかけがえのない存在となっているのだった。恋人という肩書きは、だから実情に照らせば不正確かもしれない。
一回目も二回目も、のぞみも紅実も、日和がやったのだ、と考えた。それらしい振る舞いがあったというだけで、他人に提示できるような頼もしい裏づけはないけれども、少なくとも二人は別々に同じ結論に至っている。
が、当の日和に二人と同じことを認識している様子はなく、ましてや自分が戻したという自覚があるようにも見えない。こちらはそういう先入観を持って見ているにも
「本当は僕らがやったんですかね」
「え?」
「彼女が『砂時計』を——比喩ですよ、持っていたとして。実際にひっくり返すのは持ち主じゃなくてもいいわけでしょ」
時間が戻る前のことを覚えている。そのような特別扱いが降りかかるとしたら、そのトリガーを引いた張本人であろう、というのは妥当な想像だろう。飽くまで想像の域で、推測とは呼べるまいが。
紅実はまじまじとのぞみをみつめた。
「……できそうですね」
「何が」
「日和さんから『砂時計』の在処を聞き出して自分で使うこと」
「紅実さんも共犯ってことですからね」
のぞみだけでなく紅実にも記憶があるのだから、同じことをしたはずである。
「その方がいいな。自分がしたことの報いであってくれた方がいい」
投げやりな口調は大袈裟でわざとぶっているようだったが、伏せた視線と薄い笑いとは本物のようだった。
本当は、手の届く範囲に原因があると想定すること自体が願望ではある。日和でも紅実でものぞみでもなく、サークルとも大学とも何なら日本とも関係のないところで、今後も一生涯関わることのない人物がトリガーを引いたのかもしれないのだから。そうだとしたら手懸かりのつかみようもないし、手の打ちようもない。
そんなことはわかっているし、話し合ったこともある。そのことに触れないのは失念していたためではなくて、一種の思考停止にすぎないからだ。とはいえ、思考を進めたところで、解決に近づくわけでも真相に近づくわけでもないが。
「絶対彼女が持ってたし、使うつもりもあったとは思いますけど」
「絶対使う気でしたよね?」
途端に跳ねるように頭が上がって、力の入った同意が返ってきた。結局、絶対日和だ、と二人は共に思っているのである。見解の一致は恋人たちの何より強い絆だった。証拠がない分、なおのこと。
「ただ、僕らだとしても彼女だとしても、時間を戻した目的は果たされたはずですから。今回は大丈夫じゃないですか」
多分に希望を交えていることは自覚しながら、のぞみは楽観的な見込みを述べた。今回は、大丈夫だ。今回は——サークル仲間の誰も、心を病んでも命を落としてもいない。
正直に言えば、日和の目的が本当にそれだったのか、のぞみは少々疑っている。何か別の、個人的な、自分自身のための理由があったのではないかと。が、真の目的が何であっても、仲間たちの救出が口実にされたのであっても、本質的にはどうでもよい。
この先二度と、その秘密兵器に手を出さないかどうか。重要なのはそれだけだ。
「日和さんが覚えてるんなら追及したかったんですけどね」
紅実はゼリーの最後の一
「元に戻しなさい」
紅実が日和に詰め寄ったことを覚えている。
「——あなたが殺した! 余計なことをするから! 生き延びていた人たちを、死地に送り返すから……!」
目を白黒させていた日和の、表情が変わった瞬間をのぞみは見た。何を言われているのか唐突に理解した——では、自分は「あれ」を使ったことがあるのだ、と
証拠にはならない。だが、時間を戻す手段の実在を日和は知っていたと、このとき以来のぞみは確信している。——今のこの現実を
紅実のおかげだ、という認識を持てていることに限っては、記憶が残っていることに感謝したい。