転生先の学友の顔が強すぎる件   作:流水麺と豪州侍

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本日2本目の投稿です。
第63話のおまけ用に作っていたのですが、あまりに字数が増えたので分けました。
一応、本編の見落としに注意してください。

https://syosetu.org/novel/277527/63.html



【一周年記念】人物特集 六角高村

 

 六角高村

 

 統率94 武勇98 知略89 政治71 イメージCV島崎信長

 本作の主人公。前世では歴史趣味の高校生だったが、六角義秀の息子として転生。通称は新十郎。

 父から軍略などを学ぶが、8歳の頃に父が没すると、大叔父の六角定頼に育てられる。定頼にはかなり恩を感じていたようで、当主になってからは定頼の目指した畿内鎮定を意識した戦略を取っている。また、この頃に学び舎で人質として六角家に預けられていた猿夜叉丸(のちの浅井長政)と親友になり、やがて異性として意識するようになった。

 猿夜叉丸が浅井に帰ると恋心を抑え、共存を望みながらも倒すべきライバルとして近江の覇権を争った。

 初陣では北畠具教の奇襲に敗れ、武勇を振るって救おうとするが及ばず、学び舎での友をほとんど失う。残ったのは義定と氏郷、吉継含め両手で数えられるほど。この経験は人格形成と武将としての方向性にかなり強く影響を与えており、軍略と訓練に力を入れて精鋭騎馬隊を作り上げる一方、自覚は薄いが総力戦や人に去られることを厭うようになった。

 以後の活躍は本編を参照。

 特殊な技能としては未来知識と大坪流馬術とそれに合わせて最適化された二刀流を持つ。得物は六角定頼から継いだ太刀と数打ちの扱いやすい太刀の二本。

 軍略の傾向としては機動力を最重視しており、馬の行動を阻害するからという理由で騎馬隊の長物の装備を禁止するほど。挟撃や調略など色々手段を講ずるが、結局のところ敵の力点を散らし、崩すことに重点を置いている。

 政略面では、合理を重んじるタイプで「理屈が合ってるから相手も従うだろうな」と信用し過ぎる悪癖が本人の自覚はないがある。要するに軽度のロジハラ体質。内政面では公正だが、豪族たちに対しては厳しめ。特に伊勢では顕著で北伊勢の豪族たちを改易しまくり中央集権を進めた。

 プライベートでも馬が好きで遠駆けはもちろんのこと、休みの時にはたまに自分で競馬を開催している。後で繁殖にも手を染めたためか、現代では日本競馬の祖として扱われるようになった。当時、高村杯と呼ばれた重賞は今でも名が残り、中山ダート2400mの古馬G1として親しまれている。

 

 ○史実で実在した場合のざっくり生涯

 

 信奈世界ではなく、こっちの現実にいた場合のシミュレーションです。

 現実補正で本編よりややマイルドに。一部違うところもあります。

 

 1、本能寺の変まで

 

 1544年生。六角家中では一門として列せられ、各地の戦いで功を挙げるも疎まれ観音寺騒動で排斥の危機に遭うも一門の義定と山岡景隆の助力を得て軍勢を調えて近江石山で三好軍二万を撃退。浅井長政の介入をくぐり抜けて六角義治を討ち取り、家督を奪った。

 その後は領内を再建するも、その間に織田が侵攻。愛知川で一定程度戦い勝つも国力的に継戦不能になり降伏。領地はほとんど召し上げられ、伊賀十万石と南近江栗東二万石しか残らなかった。

 織田軍に降伏してからは畿内方面の有力な将として重用され、武勇を活かして柴田勝家とはよく先陣を争った。

 信長包囲網崩壊後は信長の妹の雛月院を娶り、伊賀伊勢十八万石を所領として与えられる。また、この時に京の都市改造を開始。のちの越後転封まで秀吉政権下でも京都所司代を務めることになる。

 以後は大合戦に呼び出されつつも織田信忠の与力として動き、対武田上杉で活躍。甲州征伐では滝川一益と共に副将を務めた。

 織田家臣時代の主な戦績は大河内城の戦い、姉川の戦い、小谷城攻略、対武田の東美濃攻略戦、月岡野の戦い、紀州征伐、甲州征伐。紀州征伐では大砲と騎馬隊を駆使して雑賀衆を撃破し雑賀庄まで制圧。これが石山本願寺を降伏させる最大の要因になった。

 

 2、本能寺の変~小田原征伐

 

 本能寺の変では近江に在国。本能寺の変を知るや否や、山岡景隆に命じて瀬田の唐橋を崩落させ、明智軍の近江進撃の勢いを削いだ。それでも安土まで押し込まれるが、秀吉が大阪に到着すると反転。京まで取り返した。この功から伊賀伊勢十八万石から安土日野四十万石に加増される。清洲会議後は領国経営に専念するため羽柴と柴田の勢力争いは静観に努め、賤ヶ岳の戦い後に長島の滝川一益を攻め、秀吉側に帰属した。四国征伐では羽柴秀長に次ぐ副将として渡海。白地城の戦いで抜群の戦果を得て、秀吉から功を称された。

 九州征伐は自分で開催した競馬で落馬骨折して不参加。小田原征伐では加藤嘉明の水軍で補給を締め上げる役割を担った。

 

 3、桃山時代の転封

 

 小田原征伐後は会津に転封した上杉の故地・越後七十五万石に転封させられる。また、家臣だった藤堂高虎と大谷吉継、山内一豊、京極高次がそれぞれ秀吉から所領をもらい独立した。

 越後に着いた高村はまず春日山城から長岡城に本城を変更し、街道の整備や信濃川下流の干拓に従事した。開発の結果、次代の高信(嫡子。母は雛月院)が継いだ時点で実高は百十万石に達していたという。これが現在の新潟県が米どころと言われる下地になった。

 秀次事件後は六大老に列せられ、伏見城にて国政に参与する。六大老の中では石高は徳川上杉毛利前田に次ぐ5番手だったが、かつて家臣だった四大名に強い影響力を持っていたため政権内の発言力は高かった。

 朝鮮出兵の際は高信に四千をつけて送るに留めた。

 

 4、秀吉没後~晩年

 

 秀吉死後、豊臣家では武断派と文治派が対立。当初は中立派に属していたが、前越後国主の上杉景勝が遺民一揆を仕掛けてきたのを機に武断派と家康派に転身。家康に調略のことを伝え、会津征伐の引き金を作る。

 この時、吉継は高村に従うつもりでいたが、途中の佐和山城で親友の三成から挙兵の話を聞かされるとこれに加わった。

 関ヶ原の戦いでは東軍として参戦。越後遺民一揆平定後に米沢に向かい最上義光と共に上杉景勝を攻めて降伏させる。戦後に最上は庄内、六角は仙道筋十五万石の割譲を受けるが、会津は家康に召し上げられて榊原康政の管轄となった。仙道筋は分家の義定が知行し支藩として存続した。

 なお、西軍に属した大谷吉継は本戦に参戦した山内一豊隊によって討ち取られ、それを知った一豊は悲嘆の涙を流した。

 1611年死去。後は嫡子の高信が継いだ。この高村の死を聞いた家康は惜しみながらも喜び「これで、ようやくわし一人の天下となった」と呟いたという。後世の作り話とされるが、当時の家康が高村をどれほど恐れていたか分かる好例である。

 以後の六角家は高村の嫡流こそは途絶え、義定の流れが本流となる。また寛政の改革の際に六代藩主の高増が後述する六角馬騒動を起こして減封され、最終的には豊後府内四十三万石で明治維新を迎えた。

 

 5、逸話

 

 ・浅井長政とは人質時代から親交があったものの、信長包囲網の際にこれを断ち切り浅井家を滅ぼした。長政は自刃したものの妻子や遺臣を保護し、その手段は次女の初を養女とし同じ佐々木源氏の京極高次と縁組させる、藤堂高虎を登用、画家として大成した海北綱親の子の友松のパトロンを務めるなど多岐に渡る。

 ・嫡子の高信には定頼に倣い徹底した教育を施したが、若い頃に比べて無自覚なロジハラ気質が上がっていたため、高信からかなり怖がられていた。実際のところ、高信は高村より軽妙洒脱な義定の方に懐いていたという。

 ・馬を好み、競馬を開催しそれに合わせて馬の品種改良を進めた。越後入国後は浦佐に競馬場を作り体系だった開催を行ったことから高村が日本競馬の祖として認識されることになる。

 ・この競馬開催は寛政の改革の際に松平定信に厳しく取り締まられ、「馬は我が六角の誇りであり、文化である。縮めはしても絶やすことはできぬ」と抵抗した時の藩主である高増が叱責され、六角馬騒動が勃発。高増は隠居謹慎させられ、豊後府内四十三万石に減封された。なお競馬開催そのものは高増の孫の高遠が再興し明治維新まで続くことになる。なお、現代に於いては高村杯が中央開催中山2400mの3歳ダートG1、高増記念が中央開催新潟芝3200mの古馬長距離G1、高遠賞が中央開催小倉の芝1800mのG1として名が残り顕彰されている。

 ・李衛公問対と三国志演義を愛読。晩年には所領に明人建築家の楊恵尚を招き、中国庭園の盛楽園を築かせたこともある。

 

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