春の天皇賞でメジロマックイーンと対決するライスシャワー。マックイーンの三連覇への期待に沸き返る観衆の下で、ライスとトレーナーはある約束をする。

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夜の海

 自分は病気かもしれない、とライスシャワーは思った。

 レース場の観客全員が自分を嫌っているなんてあり得ないことだと頭では分かっていても、”ヒーロー”を差し置いて先頭を走る自分を、ネガティブな目線の束がつらぬくイメージがいつも頭から離れなかった。

 ミホノブルボンのクラシック三冠を阻んで勝利したあのとき、あのときの場内全体を包んだ異様なざわめきの声が、ライスの耳にはっきりと刻まれている。

 自分の全部を呑み込んでしまうかのようなその灰色の波音を思い出すたびに、ライスは恐怖と悲しみで身を竦めるのだった。

 

 

 

 ある四月、天皇賞、京都レース場。

 地下控え室の天井を通してなお響いてくる十二万人の大音声は、夜の海の低い波音のように混ざり合ってひとつになり、立ったまま向かい合うふたりを包んでいた。

 

「走りたくない」

 夜の海の色のドレスに身を包んだライスシャワーは今にも波に攫われるかのように足を震わせ、睫毛を海の水に濡らしながら、やっとの思いで肺から空気を絞り出すようにして言葉を発した。

 ライスシャワーのトレーナーは壁の時計を一瞬だけ見る。出場時間まで、あと10分。

 

「だれもライスに走ってほしくなんかないんだよ」

「みんなライスがきらいなんだ」

 涙と一緒に、堰を切ったように卑屈な言葉があふれてくる。言いながら、自分の中にずっと押さえつけていたものが解放されるような、昏い心地よさがうまれるのをライスは内心に感じた。

 こんな土壇場で、これまで積み上げてきたもの、この日のために努力してきたことを、みんなめちゃくちゃにして、みんなを困らせて、トレーナーを困らせて。

 ライス、いまとっても悪い子だ。なさけない、かっこ悪い、恥ずかしい。そんな気持ちと並んで、しかしこんなにも悪いことをしてしまえる勇気が自分にあったのだという、得体の知れないエネルギーが身体をめぐる感覚に、ライスは不思議な歓びを覚えていた。

 

 ーーーーーーーー!……

 頭上の波音が、いっそう大きくなる。

 ライスはビクリとして俯き、トレーナーは部屋の天井を見上げた。

「マックイーンさんがパドックに出たな」

「……」

「……どうしよう、ライス。どうしても、いやかい?」

 俯いたまま、顔を覆う前髪のあいだからライスはそっとトレーナーを見た。

 トレーナーの顔は困惑と苦悩、焦りと、目の前の少女への思いやりが混ざりあった複雑な感情を表していた。

 

 走るなら、勝たなければいけない。少なくとも、勝つために全力を尽くさなければいけない。コースに立つ以上、自分が一番になるつもりでいなければいけない。

 それがレーサーとしての矜持であり、礼儀だ。

 ずっとそう教わってきたし、ライスにとっても、それは月の運行と同じくらいにあたりまえのことだった。だって、そうでなければ……

 そうでなければ、どうなるのだろう?

 

 そう思った途端、ライスの心臓は一度だけぎゅっと激しく鼓動した。それが何を意味する高鳴りなのかライスにはわからなかった。ただ、それはなにか良くない、恐ろしいもののように感じて、胸のなかに渦巻く混乱を、トレーナーに吐き出したくて、あえぐように唇を開いた。

「……なら」

 頭上の波音にかき消されそうなその声を拾おうとして、トレーナーは膝をつき、少しだけ少女に顔を寄せた。

「走るなら…勝たなきゃいけない。勝つために、がんばらないといけないのに、でも、いやなの。マックイーンさんに勝ちたくない。今日はだって、マックイーンさんの日だから。みんな、マックイーンさんが勝つところを見に来てるんだよ。なのに、もしライスが邪魔をしたら……あのときの、ブルボンさんのときの、ことを、いつも思い出すの。みんなが、ライスを、怒ったような、あきれたような目で見るの。それで、わあっていうみんなの声のなかに、こわい声が、まざ、混ざってて、それ、で」

 

「ライス」

 トレーナーは、嗚咽で震えるライスシャワーの肩にそっと触れた。大波に翻弄されるかのようになすすべもなく揺れるライスの小さな肩。トレーナーはライスの感じている恐れと不安に胸を痛めながら、しかし思わず口の端が吊り上がりそうになるのをぐっと堪えていた。

 ライスはいま、自分が走れば王者・メジロマックイーンを破り、彼女の天皇賞三連覇を()()()()()()()()自信のあることを自ら宣言して、しかし自分ではそのことに気がついていないのだった。

 

 

 

 第3コーナー、上り坂。

 右前方、3メートル前にマックイーン、そのすぐ右にムッシュシェクル、そしてその先、先頭に逃げのメジロパーマー、差が詰まる、マックイーンから、6メートル、5メートル、マックイーンが動く、速いストローク、土埃が顔にかかる、土と、芝生のにおい、ついてく、ついてく、トレーナーの言ったとおり、マックイーンの尻尾、触れられそうな距離、2メートル、残り、800、下り坂、加速、躱す、ムッシュシェクル、視界から消える、メジロパーマー、並んでいる、マックイーンの右、波音、聞こえてくる、カーブが終わる、正面、大観衆、声、ついてく、歓声、2メートル、大歓声、呑まれる、大波、黒い波、スパート、マックイーン、2メートル、3メートル、トレーナー、お兄さま。

 お兄さま。

 風そのもののように鋭くなびくマックイーンの尻尾を見つめながら、ライスの頭のなかで、トレーナーの言葉が何度もこだまする。

 

 

「勝たなくてもいい」

 そう聞いた私はびっくりして、お兄さまと目を合わせた。そんなことって、あるはずがない。勝たなくていいレースなんか、あるはずがない。

 どんなレースでも、出走を決めたら勝利を目指すのは大前提なんだって、授業でも、デビュー前の基礎トレーニングでも、何度も何度も教えられてきた。故意に負けたり、やる気のない走りをすることは、レーサーとして一番やってはいけないことなんだって、ずっと言われてきた。

 レースを汚す行為だ、って。それなのに。

「ライスはなにも悪いことをしていない」

 お兄さまは、背の低い私と同じ目線にかがんでくれたまま、少し怒ったような声で、私に言う。

「あの菊花賞で、君はとても立派だった。なにも悪いことなんてしていない。君は一生懸命走って、それで一番になった。それなのに、君が祝福されないのは、間違っている。ライスがじゃない、ライス以外のみんな、観客も、記者どもも、SNSも、みんなだ」

「ブ、ブルボンさんは、ちがうよ」

 私がとっさに補足すると、お兄さまはんふふ、と笑った。

「そうだった。そうだね、ミホノブルボンさんは、君を祝福してくれた。そして僕も、君を心から誇りに思ってる」

 あの日のレース以来、何度もしてくれたお話でお兄さまは私を励ます。ライスは悪くない。ライスを誇りに思う。お兄さまがそう言ってくれるときだけ、私はほんの少しだけ嬉しい気持ちを思い出した。

 レースに勝つと、いつもお兄さまがいちばん喜んでくれる。喜んで、緊張して口下手な私の代わりに、レースの後のインタビューを受けてくれて、私たちをいつも応援してくれている乙名史記者に、私の良かったところやがんばったところをたくさん褒めて話してくれるのを、そわそわした気持ちで横で聞いているとき、その時間が、私はいちばん好きだった。写真を撮られるから、いつもはそんなこと絶対できないのに、隣にお兄さまがいてくれるから、勇気が出て、このときだけはできるだけ胸を張って、ライスはすごく頑張ったんだよって、みんなに伝えたい気持ちがあふれて、これが誇らしいってことなのかなって、そのときだけはわかるような気がした。

 

「だから、ライス。今日は、勝つことは考えなくていい」

 お兄さまが、両手で私の手を包む。私よりずっと大きくて、温かい手。

「観客席から、君を見ている。ずっとライスを応援しているから、ライスは、ゴールまで一生懸命に走ってきてほしい。順位は関係ない。ただ僕のところまで無事に帰って来てくれれば、それでいい」

 お兄さまの手から、私の手に、熱が伝わる。

 冷たくなっていた私の指先に、じんわりと感覚が戻ってくるのを感じる。

「勝者を祝福しないレースになんて、誇りはない。もしも今日もそんなレースだというのなら、君の言うとおり今日はマックイーンの日だと、上の連中がいっているのなら」

 お兄さまはもう一度天井を見上げた。その目は、私には一度も向けたことのないような、蔑むようなこわい目をしていて。

「そんなレースで、勝負に付き合う必要はない」

 私の指先を温めるこの熱、この手の熱は、お兄さまの怒りの熱なのかと、そのとき私はぼんやり思った。

 

「……うん、わかった」

 お兄さまの手を、私はそっと握り返す。

 私とお兄さまだけの、悪い企み。

 秘密の約束。

 私の心臓はもう一度、どくんと高鳴った。

 

 

 

 残り、500。

 メジロパーマーが下がってくる。

 マックイーンは、上がっていく。

 ライスシャワーはメジロマックイーンの後方3メートルを維持したまま、二人とともに最終直線へ突入した。

 お兄さま、とライスは心のなかで何度も唱えた。

 体の左側から、津波のような声がぶつかってくる。それはほとんどライスにとって物理的な圧力のように感じられる。バ脚が乱れる。回転する左右の脚がもつれないように神経を集中させなければいけなかった。

 マックイーンとの差は、埋まらない。

 

 埋まらない、つまり、離れもしない。

 もっと突き放してほしい、とライスは思った。マックイーンの加速は、こんなものじゃないはずではないのか。10メートルでも、20メートルでも、絶対に手が届かないくらい遠くまで差を広げて、早くゴールしてしまってくれたらいい。

 

 その瞬間を、ライスは想像する。みんなが拍手をして喜ぶ。三連覇おめでとうと、マックイーンを祝福する声が割れんばかりに聞こえてくる。マックイーンの姿を撮る大勢のカメラマン、ウィニングサークルで待ち構える記者たち、彼女のトレーナー、彼女のファン、ここにいるみんな、観客席の全員が、歓びと幸せに包まれる。

 歓喜と誇りに頬を紅潮させるマックイーンを見て、やはり勝ってくれてよかったと、自分もそう思うことがきっとできるだろうと、ライスは思った。

 だから、いいよ。マックイーンさん。今日はやっぱり、マックイーンさんの日なんだよ。みんな、マックイーンさんに勝ってほしいと思ってるんだから。ライスも、そう思うよ。だから、あげる。

 それでいいんだよね、お兄さま。

 

 ライスはなかば無意識に、観客席に目線を向けた。砂粒のような人、人、人の群れ。みんななにかを叫んでいた。歓声、声援、怒号、名前。名前。

 みんなが誰かを呼んでいる。マックイーンの名前を。

 マックイーン。メジロマックイーン、マック、行け、そのまま、マックイーン、三連覇だ、メジロマックイーン。メジロマックイーン。メジロマックイーン。ライスシャワー。

 

ーーーーーライスシャワー!

 

 耳の毛が、尻尾の毛が、ぶわっと粟立つ。声が聞こえた。大きな声。でも優しい声。聞こえるはずがない。十二万人の中からひとりの声を聞き分けることなんて、できるはずがない。

 

 ここへ来い!ライス!

 

 聞こえる。絶対に聞こえている。トレーナーの声がした。どこかにいる。この巨大な海のような群衆の中に、トレーナーもいる。

 [[rb:みんな > ・・・]]がマックイーンの勝利を願っているなんて、嘘だ。

 ここにいるみんな、そのみんなのうちの一人は、私のトレーナーなのだ。

 まっくらな夜の海に浮かぶ、ただ一隻の小さな船の灯。

 私を先導してくれる光。

 ライスの頭に、トレーナーの言葉がよみがえる。

「ずっとライスを応援している」

 お兄さま。

「ライスはなにも悪いことをしていない」

 お兄さま。

「勝たなくてもいい」

 お兄さま、それって……

 

 残り、300。3メートル先、マックイーン。

 

 勝ってもいいって、こと?

 

 

 

「ライスシャワー!頑張れ!!」

 目が合った。ゴールライン、すぐ向こう、最前列。砂粒のように小さく、けれど間違いない。手を振って、叫んでいる。大きな手。指先を温めてくれた熱。熱がよみがえり、伝わる。手から、腕、肺、心臓。心臓が高鳴る。何度も、何度も。 

「お兄さま!」

 ライスシャワーは船を漕ぎ出す。

 夜の海へ、波を蹴って。

 沖に見える灯を目指して。

  

 

 

 メジロパーマーはすでに視界から消えていた。2メートル右、1メートル後ろ、さらに下がっていく。前にいるのは、メジロマックイーンただ一人。前傾姿勢、ラストスパートの体勢。

 逃がさない。

 脚に力を込める。シューズの裏で、芝が地面にミシミシとめり込む音を感じる。ああ、ごめんなさい。踏みつけられて、痛いよね。でも今だけ、どうか今だけは許してください。蹴り上げる。右足、左足、右足、近づく、尻尾、マックイーン、2メートル、息が上がる、心臓が脈打つ、熱、巡る、もう一息、左足、右足、左足。

 左へ、30センチ。

 前が空く。

 視界が開ける。

 ライスシャワーはだれも見たことのない獰猛な笑みを浮かべた。

 

 歓声はもう聞こえない。聞いている余裕はない。けれど、そのほとんどすべてが相変わらずマックイーンの名を叫ぶものであることに変わりのないことは確かだった。

 自分はいま、この大歓声を悲鳴に変えようとしているのだとライスは理解した。

 ここにいる全員の期待を裏切り、怒らせ、落胆させる。いったいどうなってしまうのだろう。トレーナとふたりだけの、秘密の、大それた悪だくみ。

 ああ、いまのライス、とってもとっても悪い子だ。

 それなのに、どうしてだろう、ゾクゾクしてたまらなかった。

 

 マックイーンさん、マックイーンさんが、悪いんだよ。いつまでも、ライスの目の前にいるから。ライス、知らないからね。ライスが、取っちゃうからね。

 私が。

 ライスが。

 ライスが勝つところ、見ていて、お兄さま。

 

 残り、100、右前方、マックイーン、1メートル。

 頬を誇りで紅潮させ、ライスシャワーは走った。

 


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