いろいろ某所からパク……ううん。
一話完結。べつに重くはないよ。読んでって。


1部フォント(かなり大事なところ)が機能してないので回復までpixivのほうがいいかも
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=16755363

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SUPER HEROINE

 

 

 

 

 

 「二か月後に開けてくれ」と重みのあるダンボールを渡されたのは、まだ彼が生きていた時のことだ。

 文字すらまともに書けなくなった手で、それでもしっかりと託された感覚だった。

 

「君が言うなら開けはしないが、中身はなんだい?」

 

 病室を後にする前に聞いたが、彼ははぐらかすばかりだった。

 釈然とせず不思議に思いながらも、それ以上追及することなく学園への帰路を進む。

 今日はまだ実験の続きがある。また数日後にでも聞き出そうと、帰り道の箱の重みをうっとうしく感じながらそう思った。

 

 

 彼に会ったのは、このときが最後だ。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 どうも、私は彼がいないとうまく生きていけないらしい。

 そもそも生きるための力が弱い方ではあったが、明らかに、彼と出会う前よりも生活力が衰えていた。

 

 深夜の暗い研究室の中、窓際の電気ポットの光の前で、不鮮明に自覚する。

 

「…………」

 

 お湯を注いだ直後のカップ麺が、ふたをゆらゆら触れさせている。

 一日に昼と深夜の二度、この光景に出くわす。たいてい、ぼうっとしていると3分をゆうに通り越してしまって、伸びきった麺をすすることになってしまう。

 それを毎日、注意していてもきまって同じように繰り返す。

 

 このままでは、いつか朽ち果てる。

 自分でも不健康だとは理解している。今までさんざん『やめろ』と言われてきたものだからだ。

 実際過去に数度、実験につい熱が入って寝る間すら惜しむようになったときがある。たしかそのたびに、自主的に辞めようとはしない私を生活レベルで補助して、彼は無理やり断ち切らせていた。

 当然、実験もレースも、生活を改めた方が効率は良くなった。

 

 こんな生活なら、はやめにやめた方がいいのだろう。

 

「…………」

 

 そんなんでもいいか、となってしまうまでは、かなり早かった。

 

 カップ麺の抜け殻とエナジードリンクの残骸が散らばった部屋で、ただ息をするのと同じだけ何のためでもない空虚な実験を繰り返す。

 あれからいくつか導いた理論や作った試薬も、試す機会はなく盛って飲ませる相手はいないままだ。

 都合よく受け入れてくれる存在などそうそう見つかるものでもなく、いまさら他人に迷惑をかけるほどの気力もない。

 自分で試すほどの熱量も。

 

 どこか腑抜けのようになってしまった私に愛想をつかしたのか、唯一友人と言えるかもしれなかった少女は私のもとを去ってしまった。

 寮で同室の少女にも、研究室で過ごすようになってからはしばらく会っていない。

 ここ最近の他人とのかかわりと言えば、慕ってくれている後輩がしばしば顔を出してくれるくらい。

 

「…………」

 

 彼がいなくなってから何日経ったのか、正確には分からない。

 時間経過を記録することなど研究者として当然のことだったはずだが、いつしか数える行為が面倒になってしまったのだ。

 

 受け入れようがそうでなかろうが過ぎ去っていく現実に、実感という形で影を落としたくなかったのだろう。

 忘れ去るまで耐えていようと思ったのだ。私の前では時間は早いから。

 

「……あ」

 

 ほうら、カップ麺も伸びている。

 何もせず静止しているだけだと、こんなにも時間が早い。

 それが物理法則というものだ。

 

「…………」

 

 深夜2時過ぎ。

 いつものように嵩の増えた麺に少しだけ落胆しつつ、半ばどうでもいいかと諦める。

 栄養になれば何でもいい。偏りがあり好ましくはないが、サプリ漬けだった時よりはマシだ。考えるのも面倒。

 

 とにかく食事だ。

 

 何をするにも窮屈な研究室で、なんとかひらけた場所を用意する。

 窓際に設置してあるポットのそばから、落ち着いて座れるところに容器を運ぶ──

 

 ──途中、床に散乱した実験資料で足を滑らせ、盛大にぶちまけた。

 

「……ッ」

 

 横倒しになった容器から流れ出す液体に、血の気が引くのが分かる。

 

 しまった。床の片付けくらいはするべきだったか。

 転けた上体を起こす。

 

 伏した私のもとに散らばっているのは、カップ麺のスープが染み込んでいく紙媒体の資料たち。

 カレー味だったのがよくない。もうどうしようもないような汚れが広がっていく。白衣にはついていないのが幸いといったところ。

 

 …………。

 

 面倒だが片付けることにする。

 こんなとき彼がいてくれれば──などと思ったが、いないものはいない。

 汚染された資料を机上に引き上げて、床の汚れをひととおり拭き取る。

 資料の方は軒並み廃棄になるだろう。一応、生き残りがいないか確認をしておく。

 

 ふと、そのなかのひとつに目がついた。

 大して汚れのなかったそれは、内容からして記憶に新しい。

 右上の印刷日時を確認して、ようやく今日の日付を知る。

 

 12/24。

 刷ったのは数時間前。昨日の夕方だから、ひとつ足して今日はクリスマス。

 

「……ふむ。そういえば」

 

 彼と最後に会ったのは、今からちょうど二か月前だ。

 最近は余裕を持ち合わせておらずすっかり忘れていたが、たしか小ぶりな段ボールを渡されていたはずだ。

 『二か月後に開けてくれ』とも言っていた。

 

 となると行動は早い。

 ぶちまけた麺や資料の始末も放り投げて、ひとつの箱を探し始める。

 幸い5分程度の探索で見つかった。他の誰の影響も受けないように、隅の方でほこりをかぶっていた。

 

「……クククッ」

 

 彼とはトゥインクル・シリーズの最初の三年を過ごした仲だ。

 当然そこそこの信頼と感情は寄せていた。

 

 だから、君の言いつけ通りまだ開封はしていない。

 どうだい。私も義理堅いだろう。

 ……忘れていただけ、とかそんなんじゃない。

 

「…………」

 

 すこしの高揚感と共に中を開けると、30冊ほどのノートが出てきた。

 表紙にはそれぞれ番号が振られている。

 

 そのうちの『1』と書かれたノートを引っ張り出して、冒頭を捲った。

 

『メリークリスマス。たぶんこの日に開けてくれると信じて書くが、これはクリスマスプレゼントだ。君のためになるものを用意している。』

 

 1ページをふんだんに使ってでかでかと書かれていたのは、確かに彼の言葉だった。

 

 クリスマスプレゼントだとか書いているが、渡されたのは二か月前。

 プレゼントとして渡された感触もなく、むしろ使い回しをされているような感覚だ。気分として今更昂るわけもない。

 

 とはいえ、気になる感情を否定はできない。感情で打ち下ろされる衝動は、『次のページへ』と言っている。

 ことさら沸いてきた興味を、熱の冷めないうちに実行に移す。

 

 彼の遺したプレゼントとやらに、自身の感情がどのように動くか見ものだ。

 血圧でも測っておけばよかったかもしれない。

 

『今ごろ研究室が見ていられない状態だろうから、ここに片付けの手順を──』

 

 閉じた。

 

 …………。

 

 どうして彼はこうなのか。

 君がいなくなったせいだというのに、こちらの都合など知りもしないで。

 この場所が散らかっているのは、君の怠慢なのではないか。

 

「……ッ」

 

 なんだかひどく惨めに感じ、投げ捨てた。

 

 いつか処分しようと決意して、数分後にはまた拾っていた。

 

『きっと俺はもう戻らない。たぶんそうなる。だから書いた。病室は暇だから、一日一冊は完成させることにする。』

 

 ひどく冷淡に書き綴られた文字には、一切のためらいがない。

 乾いた紙面にひとすじに筆を走らせて、手汗の滲むことすらしないでいる。

 それが死への余裕なのか諦めなのか、文字だけでは彼の感情や意図は掴めなかった。

 

 ページをめくる。

 苛だちと重苦しさが伴ってくるが、それよりも興味深さが勝っている。

 

『ごみの分類は適切に。お前のことだからカップ麺やらエナドリの缶やらが溜まってるはずだ。だいたいでいいから分類して捨てろ。』

 

 『ゴミ袋は用意してある』との言葉に段ボールの底を漁ると、40Lのゴミ袋がいくつか出てきた。

 丁寧に『普通ごみ』や『プラごみ』、『缶・びん』といった張り紙すらされている。分類すらできないと思われているらしい。

 

 まあ、実際苦手な方ではある。

 

 おおまかな分類はノートにまとめてあったので、大人しく従っておく。

 相手は私の現状を言い当ててくるような人間だ。癪だが、変に意地を張らず認めた方がいいだろう。

 

 分類の細かなところは確認しきれなかったが、恐らく燃やせば何とかなると判断した。

 乾燥剤やポリ袋の小さな切れ端、保冷剤もきっと燃えるはずだ。

 『普通ごみ』に放りこんでおく。

 

 小一時間格闘して程よくまとまったところで、学内のごみ置き場に全部出してきた。

 寒風に足早に帰ってきてまず目に付いたのは、物の散らばりはともかくそれなりに綺麗になった研究室内。

 

 ……ふん。まあスッキリしたほうか。

 しかし随分と不衛生な環境で過ごしていたもんだ。

 換気や消毒は最低限行っていたが、下手するとここ数週間分の実験試料に影響を及ぼしていたかもしれない。

 

 今さら直近のデータに不安を感じつつも、後でどうにでもなるかと結論付けて、ノートを広げてある場所へ戻る。

 彼には感謝すべきなのかもしれない。遺した指示が有意義だったかどうかはともかく、気付きや気分転換のきっかけにはなった。

 ページをめくる。

 

『ごみの日は守れ。お前のことだから、今出してきたごみのうち八割は別日に出すものだ。燃えるゴミ以外急いで取ってこい。』

 

 は?

 

「……ふ、ふふふ」

 

 ──動悸が激しくなるのが分かる。怒りの激情を揺さぶられているらしい。

 

 頬が引き攣るのを自覚しながら、ふたたび寒空のもとへと繰り出す。

 

「…………」

 

 まさか夜の寒い外気に二度も晒されることになるとは。

 ひっつかんだゴミ袋とともに、体を震わせながら部屋に戻ってくる。

 

 若干かじかんだように思える手を白衣越しにこすり合わせ、恨みを込めながらノートに向き合う。

 めくった次のページにはこう書いてあった。

 

『というわけでこれがゴミ出しの表だ。前日に何を出すべきか確認してから寝るように。』

 

 ページの間に折りたたんで挟まれていたのは、この地域のものらしい収集カレンダー。

 プリントされた表に、『生ごみだけは出せ!!』などと赤文字で追記されている。

 

 こんなものがあるなら先に言え、と内心毒づいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

片づけが終わったら、次は食生活だ。

 

 研究室内の片付けには丸一日ほどかかった。

 おなじようにノートも一冊分使い切られ、今は『2』のノートを引っ張り出してきたところだ。

 

面倒かもしれないが、どうせやることないだろ? せっかくだし生活力上げとけ。

 

 クリスマス翌日の朝。

 起き抜けに開いたノートに煽られ、爽やかに窓辺に照る陽光もうざったく思える。

 

 ずいぶんと生意気な言い草だ。

 その割には、文字に若干の揺れが見られる。

 ペンを握る手が疲れたらしい。そこまで無理を押して書くような内容だったろうか。

 

 くどいほどに連ねられた文句を適度に読み飛ばし、次のページに移る。

 

ということで、料理だ。

 

「……料理?」

 

この世にはカップ麺すら危ういウマ娘さんがいるらしい。お前はそんなことないだろうが、慣れない料理をするのはまだ難しいだろう。

 

 毎回麺を伸ばしたりこぼしたりしている私を煽っているようだ。

 

 いまいちパンチ力が弱いが……その通り。よくわかっているじゃないか。

 料理に関しては上手くはできないさ。だから君が作りなよ。

 

俺の弁当を食えないお前のために、色々レシピを用意してる。どうせ暇だろ? 試してみてくれ。

 

 できそこないの煽りはともかく、それ以降のページには言葉通り多種多様のレシピが用意されていた。

 初心者向けらしき料理名が、おおまかな手順とともに一冊分にまとめられている。

 ここまでしなくとも、レシピ本で十分だというのに。

 

 ──しかし面倒だ。

 

 料理など時間の無駄ではないか。私は今の生活に不満を感じていないし、私が料理せずとも食堂に行けばいい。

 そもそも、昨日の片付けに関しては思うところもあり従ったが、本来律義に彼の言うことを聞く必要もないのだ。

 あの三年間もそうだ。いくつか例外はあるが、私はいつも意見を押し通す側だった。

 そのうえで、このノート内容に関しては無視でいい。

 

 そうだ、そうしよう。

 栄養状態が心配だというなら、今後は食堂で定食でも頼むことにする。

 それで解決する話だ。わざわざ私が手を動かすこともない。

 

 …………。

 

「…………」

 

 暇には違いないので、寮に帰って試してみることにした。

 同室の彼女は出かけているらしく、不用心なことに鍵は閉まっていなかった。

 

 どうせなら顔を見ておきたかったが、仕方ない。

 

 ノートによると、最初の項目は卵焼き。

 熱したフライパンに油を引いて火を調節して、卵を入れて、書いてある通りに腕を動かして──そして焦げた。

 

 …………。

 

 指示通りにしたのにうまくいかない。

 責任を擦り付けるつもりでノートに文句を言いに行く。

 

『書き忘れてたけど卵は火が通りやすいから、慣れないうちは弱火で──』

 

 投げ捨てた。

 

 ちょうど帰ってきたデジタル君に見られたが、まあいい。

 料理については泣きついてくる彼女に教えてもらうことにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちゃんと人に会え。

 

 1月の下旬。料理も理想通りにできるようになった。

 

 番号は『15』。揺れるような文字がより顕著になってきたノートは、すこしだけ湿った跡がある。

 ほかにも、漢字の開き具合が増している。一文ごとの文字数が少ない。読点に頼る頻度が増えた。

 書き直しの痕跡が増えてきたことを考えると、このころから彼は、必死にならないと文字を書けなくなったのだろう。

 

ひとつづつでいい。君でもできそうなところから順番に書いていったから、それに従ってくれ。

 

 番号を追うごとに弱々しくなっていく文字に、最近は思うところがあった。

 

 つらいのに書くのをやめない理由はなんだろう、と。

 

 これはおそらく、いまのところ私がもっとも注意している、感情の話だ。

 『つらさ』の感情は力が強い。それを押してここまで物事を遂げようとするには、つらさに勝る何かが必要だ。

 権力の抑圧による強制力がその答えのひとつ。あるいは状況に必然性を重ね合わせた合理化。

 そうでないなら、やはり感情の話。

 

 仮説はある。

 確証がなくこれだと断じることはできなかったが、早い段階で気づきはしていた。

 これはきっと私への慈愛のようなものだ。わざわざノートを遺すことからして当たり前だったかもしれないが、彼は私のために行動している。

 

 まあ、すべては想像に過ぎない。

 違っていたとしても、彼がやろうとしていることは朧げに理解した。

 なに、簡単な話。

 

不安かもしれないが、とりあえず行動してみてくれ。どうか、たのむ。

 

 彼は意識の向け先を変えていたのだ。

 別の動作で恐怖心や不安感を逸らす手法。パニック障害の対策として特に有効だが、それと同じことをしていた。

 

 冷静な意識の介入がないうちに、とにかく指示に従わせる。

 指示以外の何も考えないでいいように。思考の坩堝にとらわれすぎないように。

 

 実際、きっと私はそれで回復したのだろう。

 しばらく前の自身の行動を振り返ってみると、どうやら私はすこし滅入っていたようだ。

 

「……感情とはやはり興味深いものだね。私が情に左右されるとは思ってもいなかった」

 

 きっと、私はまだ安定していないのだろう。

 冷静に自己分析できているのかすら、この状態では自信がないが。

 

 まあ、その判断を下すのは私ではない。

 

勝負服を着てみたらどうだ。すこしは気がまぎれるかもしれない。

 

 言われるがまま、しばらく放置してあった勝負服を引っ張り出してくる。研究室に置きっぱなしだった。

 ぶかぶかのシャツとワンピース風のニットセーター。短いネクタイをつけたあとは、白衣の余分に長い袖に腕を通す。

 

 そのままの勢いで、数か月ぶりに練習場へ足を運んだ。

 「こうしろ」などとノートには書かれていない。

 言われるまでもない行動だった。

 

 周囲の好奇の目を差し置いて、中山の舞台を模したコースに立つ。

 本来は予約が必要だが、誰も使いそうな気配がないからいいだろう。

 何より歓迎されているような雰囲気さえあった。

 

 貸切状態のゲートにただひとり入って、開扉のときを待つ。

 珍しく走る私に興味があるらしい人間やウマ娘が集まっているようで、しばらく晒されることのなかった衆目を感じた。ほどよい感情の高ぶりを認識する。

 

「…………」

 

 思い返すのは、あのレース。

 芝2500m。外回りの向こう正面から、いくつかコーナーを曲がって内回りに移行。

 激しい坂の起伏にスタミナを持っていかれないよう、ペース配分がより重要になる。

 

 あれが彼と最後に出走したレースだった。

 あの日の優勝をもってプランAを完成させた、私の本懐であったともいえる栄光だ。

 もう一年になる。静止していた私にとって、今日を迎えるまでは短かった。

 

「…………!!」

 

 うつけた思考をたどっていると、スターティングゲートが開扉する。

 出遅れた感覚はしなかった。半ば反射で、まっすぐな鉄砲玉のように飛び出す。

 長らく走っていなかったが、体は覚えてくれているようだった。

 

 そこからは感覚に従った。

 

 尻尾で後ろにとった重心のぶん、体を前傾させる。

 それに伴ってピッチが長くなる感覚を捉え、こんどはストライドを大きくとる。

 腕は左右に振れないよう、縦に。

 

 前傾した姿勢で、今は見えない影を追う。

 

「はっ、はっ、はっ……」

 

 息が弾みだすにつれ、体が──足が熱を帯びていくのが分かる。

 壊れないよう大切に温めていた熱量が、一気に放出されていく。

 

 草を食むように踏み抜く足裏の感覚。

 足元を照る反射光と、耳元を騒ぎ立てる向かい風。

 ばさばさと音を立てて、勝負服の袖がはためく。

 

 最後の直線に入れば、目指すものはただひとつだった。

 

 ──先頭に誰もいない、ゴール板のその先。

 

 直線一気。

 ピッチを短くとり、起伏のない数百メートルをひといきに駆ける。

 前傾を抑える。足を真下に引き付ける。母指球で地を蹴りぬく。弾んだ息を押し下げる。

 

 前へ。

 

「────」

 

 彼と学んだレース運びをひとつづつ思い返していると、気づけばゴール板を通り過ぎていた。

 

 力を抜いて惰性で走りつづける。

 落ち着く様子のない息をなんとか整えようとしたが、止まらない。

 たった一度走っただけで、もう体力が切れてしまった。立ち止まって荒い息を何度も繰り返す。

 

 ……そうか。普段から動いていないと、ここまで身体機能が低下するのか。

 情けない。わずかに集まっていた観客はどう思うだろう。

 体力から技量まで、なにもかも落ちた私に失望したか、あるいは──

 

「タキオンさん!」

 

「ん……スカーレットくん」

 

 聞きなれた声。

 

 駆け寄ってきた後輩に少し身構える。あの衆目の一部にいたらしい。驚愕や歓喜など入り混じって、動揺しているような表情だ。

 荒い息を無理に隠す。

 

 もしやこの時間に予約していたのだろうか。であれば非常にまずいことをした。

 自分本位であることに負い目はないとはいえ、誰かの枷になるつもりはなかったのだが。

 

 衝動に身を任せるべきでなかった。

 文句くらいは受け入れようと彼女に向き合う。

 

「……すまないね。急に走りたくなったもので、つい」

 

「い、いえ! 嬉しかったです! このコースを予約されていらしたので、見に来たくらいで……!」

 

「うん……?」

 

 話がかみ合わない。

 彼女は身勝手な私を怒るでもなく、妙なことを言ってくれる。

 

「……すこし聞いてもいいかい?」

 

「え? あ、はい……?」

 

 話を聞くと、どうも予約は前もってされていたようだった。この練習場は人気があるから、少なく見積もって二週間前には既に。

 当然身に覚えはない。

 二週間前といえば、まだ料理と格闘していたころだ。私はついさっき衝動に従ってこの場に来たのだから、私が予約したわけではないのは間違いない。多重人格か夢遊病でない限り。

 

 ……ふん。そうか。

 まあこんなことをしそうなのはトレーナー君くらいなものだが、いなくなって久しい。予約については彼でないことは確実だ。

 しかし他にそんな物好きはいないだろう。

 私の行動を予測して、先回りで予約しておくなど、よほど狂気的でないとできないことだ。

 

 息切れが落ち着いたころにもどってきた研究室内で、堂々巡りの思考をたどる。

 一度針が落とされると止まらない。

 

 考えていてもどうしようもないと、ひとまずノートをめくる。

 

走ってきたか? ちゃんと気分は晴れたか?

 

 案の定わかったふうな口ぶりでいる。

 未来予知じみた行為はもはやいいとして、やはり彼なのかもしれない。

 

疲れてるだろ。ちゃんと栄養を補給しろ。ってことで料理だ。

 

 種明かしをする器量さえ見せずに、彼は次々と話を進めていってしまう。

 

 そこそこ疲れているのだが、休む暇はないらしい。

 ……いや、休むために動くのか。

 

 ひたすら面倒に感じつつも、ノートをもって寮に戻る。

 デジタル君に付き合ってもらいながら、軽めの昼食を作った。そこそこ手際はよかったように思う。

 

「どうだい。どうせなら一緒に食事を──ああ、相変わらず行動が早い」

 

 せっかくなので彼女と過ごしたかったが、「連日食事を共にするのは心臓が持たない」と訥り気味にいって、どこかに逃げ去ってしまった。

 

「ン……まあまあだね」

 

 仕方なくひとりで食をすすめる。

 そこそこの味にそこそこ満足しつつ、どこなく物足りなく感じ、しだいに暇を持て余すようになった。

 

 仕方ないので、暇つぶしとばかりにノートをぺらぺらめくる。

 内容は代り映えしない。今までとことさら気色も変わらず、だいたい生活の指示が続いている。

 

 よくもまあ飽きないものだと眺めていると、ふと、ある文章が目に付いた。

 

料理のほうは、そろそろ美味しく作れるようになっただろ?

 

 なんでもない文章のはずだった。

 

 彼はなにか勘違いしている。私はべつに、もとより料理が苦手なわけではなかった。

 面倒になって時間を惜しんだり実験を兼ねたりするとうまくいかないだけで、それさえなければ基本的には問題ない。

 調味料の量を精確に調えるのも、研究漬けの私にとっては些事だ。試料を量り取る作業に比べれば幾分かマシ。

 その意味で、私の作る料理も、味付けは悪くないはずだ。

 

 ──そのはずだ。

 

「美味しくないよ」

 

 すべてを難なくこなせていて、それでも彼といた時ほど美味しくないのは、そういうことなのだろう。

 

「君が怠惰なばかりに、美味しくないんだ」

 

 いまさらながら悟る。

 君の作る料理でないと、意味がなかったんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……うん? 生活習慣?」

 

 春先の爽やかな陽光が射し込む研究室。

 久しぶりに尋ねてきた友人の、著しく驚きの滲む表情を見て、自身がどう思われていたのかをだいたい察する。

 

「まあ、改善はしたね」

 

 片付いた机上にそれなりに並んだ料理を見て「本当に貴方が?」などと宣っている。すこし前の私ではとても考えられないと、こうなった原因さえずけずけと聞いてきた。

 ふん。そんなに珍しいものかね。

 

「きっかけというと、そうだねぇ……」

 

 不満に思いつつも律義に返すのだから、なんだかんだ私もこの友人のことを大切には思っているらしい。

 それを自覚するのも、悪くはない。ゆっくり流れ始めた日常は、それなりに気に入っている方だ。

 

 答えを返すべく、隅の方の段ボールから、しばらく見ていられなかったノートを引っ張り出す。

 表紙に『30』と書かれたノート。その後半数ページのところを開いて、内容にはじめて目を通す。

 彼女も続いて覗き込んだ。

 

 ぐしゃぐしゃになるまで書き直したあとのあるノート。

 漢字はもうほとんどなく、ひらがなでさえも震えきって読みづらい文字の郡に、深く入り込む──

 

 

さいごに。

 

 

「君の言う通り、この料理も掃除も、私ひとりで成せるわけがない。ほとんどトレーナー君の手柄だよ」

 

 

なんどもいうが、ごはんをたべろ。ひととかいわをしろ。

 

 

「まったく、最後まで奇抜なことをする。分かってはいたが、よほど奇怪な性格をしていたよ。彼は」

 

 

からだはできるだけうごかすように。1にち30ぷんはしるだけでもいい。けいぞくしろ。

 

 

「もう文字すらまともに書けないというのに、バカな奴だろう?」

 

 

つらくなったら、カフェをたよれ。はなしはとおしてあるから、ようすをみてくれてるはずだ。

 

 

「そうか、君は知っていたか。だから急にいなくなったんだな」

 

 

あのこはいいやつだから、きっときみのためになることをしてくれる。せいかつのことも、あのプランのことも。

 

 

「……まあ、そうだね。いろいろと手助けしてくれていたようだったが。感謝くらいはしておこうかな。なにか礼をしようじゃないか。なんでも言ってくれたまえ」

 

 

みんなきみのみかただ。はしるきみがすきなんだ。

 

 

「……よりによって復帰と来たか。困ったな。そうだねぇ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だから、どうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうか、速さへの熱量をあきらめないでくれ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ま、そのうちね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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