死期折々   作:涼代 条

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一話「9.8」

「あ_____。」

 

心のどこかで、プツンと糸が切れる音がした

それが、人生に絶望した、最初の日。

 

理由はない、動機もない。

ただその瞬間から、視界が真っ暗になって、心が冷え切って、涙が底まで乾ききった。

それが、15にもなる夏の話。

電気も付けない、カーテンも閉じきった真っ暗な部屋で、初めて胸が空っぽになった。

 

 

_____もう、駄目だ。

 

 

死のうとまでは、思わなかった。

そんな事を考える程頭も働いていなかった。

けど、体は自意識よりも正直に動くものだ。

無意識的に、そうする為に動いていたのかもしれない。

 

暗がりの部屋のカーテンを開く。

窓の外には、摩天楼とも言える数々のビルの群れ。雑居ビルのようなものから、マンションにオフィス、企業の本社等様々だ。

どれも均一でない高さで以て、地平の果てまでを征服している。

…なんて、酷い。この景色をここまで疎ましく思えたのは初めてだ。

辛うじて、隙間を縫って見えるような青空と雲。降り注ぐ陽光だけには、希望を持てたのかもしれないけど。

 

ガラガラと音を立てて窓を開く。

ふらついた足取りのまま、サンダルも履かずにベランダに出る。

部屋の内の静寂と一変して、外に出れば街には喧騒が響いていた。

 

雑踏する人の群れ、生活音。車の交錯する横断歩道に、信号と歩道橋。眼下の街並みに広がる人の波、その一つ一つが、それぞれの意思と目的を以て生き急ぐ様に流れている。

音色に溢れ、色彩に溢れ、何より青空に溢れている、淡い世界なのだろう。

 

……ベランダの柵に手をかける。

ヒンヤリとして、冷たい。

あまりに無機質で、ただ私の掌から熱を奪うだけのそれは、手向けとしてあまりに非情過ぎる。心が折れていなければ、泣けたのかもしれないけど。

最期に握るものが綺麗な薔薇でも、暖かなチューリップでも、とうに過ぎた春先を予感させる桜でもなくて、冷たい金属製の棒なんていうのは少し心が寂しくなる。

悲しくはない、虚しくもない。でも、孤独を感じさせて、寂しい…。

それは、一つ目の未練。

 

死にはしない、死にはしない。けれど、指をかけた柵の上から。

覗き込むようにして、ベランダの下に視界を向けた。先程の眺めるような視線と違い、明確に地面を意識する。遠い。

当たり前だ、このマンションの中でも、なかなかの階数にこの部屋は位置している。今からでも身を投げれば、すぐに命を落としてしまえるだろう。

足が竦む。顔が強ばって、呼吸が少し速くなる。結局のところ、痛いのは嫌だし怖いのに変わりはない。

そんな勇気すら無いのだから、私はここまで挫折したのだ。

これが、2つ目の後悔。

 

 

結局少し怖気付いて、ベランダの柵から手を離す。

1歩、2歩。

後ずさる様にして端の方から離れた後、乱れた呼吸を整えた。

ふぅ、と1つ息をついて、また大きく息を吸い直す。胸の中には、夏の爽やかな空気が取り込まれていく。

鼻をぬけたお日様の匂いで、少しだけ心が明るくなれる。現状を何をどう変える訳でもないそれには、少しだけ空しさもあるのかもしれないけど。

そんなことはどうだっていい、私には、縋るものが必要だから。

震えていた足と、冷めきった心。

相反するような2つが、頭の中だけで同期する。どうしてここまで、なんてありがちな悩みが、ここまで私の心を蝕んでいた。

 

 

愛してほしい、なんて贅沢は言わない。

助けてほしい、なんて言うほど重くもない。

でもせめて、少しでもいいから私を意識して欲しい。認識して欲しかった。

あの人にとって、無いものだった私は、心のどこかで腐っていったんだと思う。曰く、人は人の記憶の中で生きるという。覚えられている限り、死したとて人の魂は永遠だと。

そういう意味では私は、何だってないのだ。

誰も私を見てくれない、覚えてくれない。

ううん、少し違う。良くしてくれる友達は居るし。

でも、表向きだ。心の底まで他人の事を知る事は、誰も出来ない。だから、せめてより深い所まで、その人間を知る役割を持ったグループが作られる。

それが、家族というものだろう。

誰かと愛し合って、家族になるということ。新たな命を身篭って、家族を産むということ。それは、人として生きる上での摂理と本能であって、社会で言うなら義務だった。

 

今はもう、違う。違うし、変わったから私はこうなのだ。それが酷く、嫌になった。

 

 

少しだけ、青空を見上げている。

流れていく白い雲と、ただ昇るばかりの太陽。いつもと何もかも違う筈なのに、何も変わらず澄み切った空は、だからこそあまりに残酷だ。私が世界にすら、許容されていないようで。

お前が居なくなったところで、世界は何も変わらないのだと、告げられているようで苦しくなる。

あんなにも、黄金色に輝いていたはずの世界は、今はこんなに暗転してしまった。変わる事も、変わらない事も出来ない世界。

変わりたくても、変われない。

変わりたくなくても、変わってしまう。

昔、子供の頃に戻りたいと、ここまで切実に願った事は無かった。神頼みなんて、したこともないのに。

 

 

飛び降りる勇気もない、認めてくれる相手もいない。なら何のために、私は。

 

 

 

─────あぁ、誰か。

 

「______誰か、私を助けてよ…!」

 

 

 

悲痛な叫びが、空しい世界に木霊する。

震えた足が膝元から崩れ落ちて、心が涙となって結晶化する。

おかしいな、もう、泣かなくていい筈なのに。泣けなくなったはずなのに。泣きたくなんて、なかったのに。

泣き顔を隠すように、掌で大きく顔を覆う。嗚咽にも似た声を上げても、涙は止まってくれやしない。

 

もう、もう嫌だ、散々だ。

なんで、どうして、どうしてここまで。

考える程虚しくなって、寂しくなって、誰も傍に居ないことを実感する。じわじわと沁みるように襲う孤独が、蠱毒に似ていて恐ろしい。

うん、やっぱり、もう。

もう、駄目だ。勇気は無いし、怖いし、きっと痛いけど。でも、こうなってしまってはもう、私はどうにだってなれやしない。私はきっと、この涙を流した時点で、人として終わってしまったんだろう。

ならせめて、ケジメをつけたい、ケリをつけたい。これ以上、何かを思うなんて、苦しい事を続けたくない。人形にすら近付いたのに、辛い思いをしたくない。

 

泣きじゃくって、光のなくなった瞳を開く。

手で隠していた顔を上げて、震えることすら出来なくなった足で体を持ち上げた。

 

1歩、足を踏み出す事に青空に近付く。

体と心が透明になって、自分が溶けていく感覚。あぁ、心地良い。人が昇天とか、成仏っていうもの。きっと、救われるってこういう事だ。

誰も助けてくれないなら、自分で助かるしかなかったのだ。こんな方法しか取れない私は、きっと馬鹿なのかもしれないけど。

でも、今更そんな汚名も怖くない。それは、私の知らない私の話だ。

 

…なら、ならせめて全部投げ捨てて、次は新しい私になろう。

賢くて、可愛くて、愛されて、許容される。そんななりたい私に、来世(つぎ)こそは。

 

 

 

 

_____その時からきっと、予感だってしていたのだ。多分私は、飛び降りるよりも、それに気付くのが怖くて、勇気が無くて。だから見て見ぬふりをしていただけで。

ほら、虫の知らせだって、案外すぐそばにある。あとは手を取るだけで、きっと私は十分だったのだろう。

誰も助けてくれないなら、自分で助かるしかない。

あの、黄金色の世界に、この身一つで飛び込んで。そうしていつか、いつか_____!

 

 

 

…その時から私は、きっと、顔を大きく上げていた。

涙で赤く腫れきった瞳で、それとなく太陽を睨んでみせる。

眩しい…極光とも形容できるそれは、何より夏を感じさせる、黄金色に輝いていた。

 

 

「___わっ…!」

 

ゴウ…!と一際強い風が、唐突にして辺り一面を攫って過ぎた。

その輝くような色彩の風は、多分、私の何もかもを奪っていってしまったのだ。

 

靡かせる髪も、零れた雫も、沈みきった心さえも。

 

視界を塞いでいた、長く伸びた前髪が揺れる。カーテンのようになびいたそれが、目の前から居なくなる。幕開けのように訪れた夏空が、私の世界を一瞬にして反転させた。

 

 

───そこには、ただ極彩だけが広がっていた。

広がって、何処までも澄み渡る、青。

空に舞い上がるようにしてもくもくと登る入道の雲。バタバタと翼をはためかせ、小さな鳥達が摩天の隙間を羽ばたいていく。

先程と違い、穏やかな風が絶えず私に吹き付ける。それは夏を運び、青春を運び、何より私に温かさを運ぶ、虹色の香り。

ビルにかけられた緑のカーテンと、立ち並ぶ街路樹が風に押されて一礼する。

陽光によってキラキラと光を放つ深緑の木の葉が、光を纏うように輝いていた。

 

群青、そうやって例えるに余りある、爽やかな空。

遠く、手を伸ばしたら届いてしまいそうで、そんな気持ちに少しだけ驚いた。空に、手が届くはずもないのに。今の私なら少しだけ、それが叶うような気すらしてしまったのだ。

 

 

「………綺麗…」

 

 

口からこぼれた言葉に、少しだけ心が動かされる。おかしいな、あんなに嫌だと睨んだはずの青空の景色に、感嘆を漏らす私がいる。

でも、それは心の底からの言葉だったのだ。

素直な気持ちには正直になるべきだ、認めるしかない。

 

あぁ、なんだ。こんな、簡単な話だったのだ。

沈みきった心も、閉じきった顔も。塞ぐような前髪1つを飛ばすだけで、金色の風を見上げるだけで。

心はこんなにも晴れわたる。何が私を変えたのだろう?こんな青空1つで心変わりしてしまう程、私はチョロかったっけ?

 

…ううん、でも、なんでもいいや。

きっと、この青空の前ではそれ程些細で、気に病む話でもないのだから。

 

両手でベランダの柵を握って、乗り出すみたいに体を前へと倒してみせる。

顔と、体全体で夏風を受け止める。

深い深い呼吸をして、青空を思いっきり取り込んだら、心が何処か弾んでしまう。

高揚する胸で知った。人は、くだらない程のきっかけ1つで飛び降りる勇気が失せる程、簡単な生き物だったのだ。

多分、それでいいんだと思う。それに気付けるかどうかで、私の幸せは左右されたんだから。

 

 

穏やかになびく風が、またいっそう強まって吹き付ける。

今日は風が強い、それがなんだか、私には嬉しい。この爽やかな正午を、目一杯受け止められる気がするから。

 

部屋の方から、パタン、と物が棚から落ちる音がした。

ここまで窓を開け放っていたのだから、当然といえば当然だろう。

…少しだけ、ベランダから離れるのが勿体なくも感じてしまう。もう少しだけこの陽光を、浴びていたいような気もするけど。

でも、うん。多分もう十分だ。私はもう、きっと大丈夫だから。

認めるように、確かめるように。

私で私を意識してあげてから、青空のベランダから部屋に戻る。

 

 

 

でも、わがままだって少しある。

勿体ないから窓は開けたままにして、ベットのすぐ近くまで飛ばされていた、落し物を拾い上げた。

 

「あ、これ…」

 

それは、カラフルな装丁がなされた1枚の冊子。心奪われる程美しい景色が、フルカラーの写真でもって掲載されている。

…旅行会社のパンフレットだ。

学校帰り、酷く疲れていたのだろう。

最寄りの駅に置いてあったそれを、羨ましくなって持ち帰った記憶がある。旅行とか、観光とかには行ったことがなくて、綺麗なんだろうなって眺めていた。

見ているうちに少しだけ悲しくなって、すぐに棚に仕舞ってしまったけど。

でも、憧れていたのに変わりはなくて、それを誤魔化す事も出来なくて。すぐ手に届く所に、宝物みたいに飾ったっけ。

 

はらりと表紙に指かけて、ページをめくる。

何気なく開いたそのパンフレットには、日本全国の名所がいっぱいに紹介されていた。

テレビや授業で良く聞くような有名なスポットから、見たこともないような山頂の風景。

1つページをめくる事に、世界が広がるようで少し楽しく思えてくる。

子供みたいに目を輝かせて、その景色に焦がれてしまう。

 

大きな神社に澄んだ湖、茜色に染る秋の山々から、海にかかる深紅の大橋。

兵庫の白鷺城から東京タワー、遊園地に動物園。

良く見知った、親近感すら湧くような場所から、マイナーなプレイスポットまで。

引き込まれるように夢中で少ないページをめくって、最後にその景色に目が奪われた。

 

 

それはラスト1ページ。見開きで大きく紹介されている、離島の観光案内だ。

南東に位置するその島は、暖かな気候と穏やかな島民性をアピールして様々な名所を移している。

透き通った青色の海と、白に染る砂浜。

竹林に囲まれた温泉旅館に、都会では見ることのない大自然の数々。

そして何よりも、その街並みが独特だ。欧州にも似た建築用法、煉瓦、木組み、石畳。

ファンタジーやメルヘンの世界にも近いその世界に、私は強く心が惹かれていた。

…でも正直、旅行や観光に行くには少し地味。

見たところ、そういった綺麗な街並みも1部だけで結局殆どは人の少ない奥まった島らしいノスタルジックな景色が広がっていて、人もあまり往来が無さそうだ。

だからこそド派手に銘打って、見開きで観光業に乗り出していそうなのが少し察せてしまう。

交通の便も良くないし、綺麗で1度は目に止まるけど、実際行くなら有名な神社なんかに向かった方が楽しそう。

そんな感想が浮かんでしまいそうなほど、そこはこじんまりとしていて、だからこそ私には凄く心に刺さってしまう。

 

そうだ、思い出した。

私はこの島に、強く惹かれたからこそ悲しくなったのだ。きっと、人生で行くことも出来ないその島に、強く焦がれてしまった。

だからこそずっと眺めると苦しくなって、そっとこの冊子を閉じたのだった。

美しく、隔絶されたその島が、きっと変わらない世界なのだろうと知ってしまったから。

 

 

「…何だか、似ているな」

 

 

綻ぶような笑いで呟いた言葉は、郷愁にも近い。写真に写る青空の景色が、先程までいたベランダと良く似ていた。

突き刺すような極光も、飛び立つ鳥達の羽ばたく姿も、入道雲も青空も。彩り溢れる風景が、すぐ後ろに広がるその世界に重なるようだ。…眩しい、眩しくて、羨ましい。

しばらくの間、そのページと見つめ合う。

そこに写る、広がる青空に、吸い込まれるように目を見開いた。

部屋には静寂が広がり、時計が秒針を刻む音だけが耳に入る。

それでも私の瞼の裏には、確かにその情景が広がっていた。青空を掴むような、その風景が。

 

パンフレットと睨み合う、思考の裏で。

心がドクドクと早鐘を打つ感覚が分かる、高鳴って、逸って、気持ちが抑えられなくなって。頭の隅っこにずっとあった、初めてのイタズラ心に火がついた。

それは、人生で初めての悪巧み。両親への反抗心。

心の蟠りと胸のワクワクが、歯車が噛み合うように合致した時、私に初めてそんな心が生まれてしまった。

あぁ、そうだ。

 

 

「_____そうだ、家出、しよう。」

 

 

そんなことを1人、暗がりの部屋で呟く。我ながら、自分らしくない考えに少し驚く部分もあるが。

そうだ、そうなのだ。自分で自分を助けるしかないのなら、身を投げるよりもっと良い方法があったのだ。

幸いにも、時期は夏休みも始まった頃。

旅行なんて体で居ればどこに居たって怪しくないし、あの人達はきっと私がどこに行こうと無関心だ。

遊びに行ってくるね。なんて一言で、そう、と簡単に家を出れる。まだ寝ている時間に出た所で怪しまれる、どころか気にも留めないだろう。

 

 

スっとその場を立ち上がって、勉強机の引き出しを開く。

そこには、いつか手渡された預金通帳。

親から小遣いとして振り込まれているそれは、実質的な生活費だった。月初め、お金が大きく振り込まれ、それを使って1ヶ月を融通しろと言われていたその中身は、単なる娯楽のための費用じゃない。

食費、学費、消耗品の買い足しや、洗濯に電気代。

それら全てが含まれた、子供には莫大すぎる程の資金。節約って訳じゃないけど、マトモなご飯も食べていなかったおかげでお金は有り余っている。

あの人は知らないだろうけど、その口座には私一人なら家から離れても向こう数年は過ごせる程のお金が注がれているのだ。

無論、宿泊費等を含めたって余裕なほどに、学生ひとりが旅する旅費なんて簡単に支払えてしまう。

 

 

「これなら…行ける…かも………!」

 

放ったパンフレットにもう一度駆け寄って、自前のガラケーでポチポチと地名で検索をかける。電車を幾つか乗り継いで、バスで港近くまで移動。港まで着いたら船に乗り込んで向かえば、行けなくはない距離感。

新幹線の方が早いけど、旅の感覚を捨てたくなくて普通列車を乗り換える方が好ましい。

 

衝動という、子供じみた考え。

閉鎖した場所で暮らしてきた、私が行う私自身の救済。思い立ってからの行動は、呆気ないほどに早い方だ。

その場から立ち上がって、浮き足立ってベランダに駆け込む。

誓いのように、太陽を強く見上げた上で、心の中で叫んでみせた。

 

 

 

──それは、青空への約束。

自暴自棄になった私が、色彩に恋をした日の話。初めはちょっとした思いつき。でも、身を投げるより100倍マシだと心の底からそう思えた。

瞳を閉じれば、聞こえてくるようだ。涼やかな波の音と、鈴が鳴るような木々のざわめき。浮かれるくらいのつむじ風。

この鳥かごの街から飛び降りて、加速度のままに空へ舞おう。そうして、誰も知らない私の世界に飛び込むんだ!あぁ、それって、考えるだけでにやけてしまうほど、素敵だ。

心のままに。思いのままに。

衝動に身を任せて、そうして、私は。

…これが、3つ目の希望(ユメ)

 

 

空を行く鉄の鳥と蹄跡は、私の旅立ちを祝するファンファーレによく似ている。

片一方的に想いを馳せて、旅立ちを心に飛行機雲に手を伸ばした。

 

 

 

「────涼代(すずしろ) (こえだ)、15歳。

 

……私、旅に出ます___!」

 

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