Chloe 〜メスケモTSっ娘が異世界で幸せになる話〜   作:ふえるわかめ16グラム

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*2023.04.06追記
冒頭の地理関係を中心に修正しました。


02 すこし先の未来、あたたかな陽だまりで

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 木々の葉が色づき始めた季節。

 連合王国の首都ヘントベリーから南東へ六〇キロほど。ヘントベリーを象徴するドロネス川の河口に面した街、ブレントン。その郊外、小川に沿うように伸びる小道を一人の青年がせかせかと歩いていた。彼の身長は平均以上にあるだろうが、痩せ型の体型も相まって、長い手足を持て余し気味にしている。

 彼の身なりは小綺麗だが、どこかくたびれた印象を受ける。細かいチェック模様の入った背広は関節部分に皺がより、膝下まで届くダブルブレストのコートは所々煤けている。それなりに品の良い山高帽の下から覗くのは、几帳面に撫で付けられた癖のある黒髪。少し歩くペースが早いせいか、思慮深そうなブルーグレーの瞳の下の頬はやや上気していた。

 

 彼の名はルイス・リチャード・パーカー。

 

 ブレントン大学で魔術学(科学の進歩と発展の時代の今、不人気中の不人気なマイナー学問である)を専攻する学生だ。師事する教授から解放された彼は、下宿先である彼の伯母の自宅への帰路を急いでいた。ルイスは片手で持てるトランクのハンドルを握りなおすと、さらに歩幅を大きくする。口を一文字に結んだ彼は、不安半分、期待半分といった表情を顔に浮かべていた。

 

 舗装こそされていないが、丁寧に踏みならされた土の小道をしばらく行くと、少しの植木と小さな庭に囲まれた一軒家へたどり着いた。ここが、ルイスの住まいだ。

 ルイスは小道と庭を区切る鉄製(アイアン)の扉を開け、玄関ポーチへ足を進める。早足で歩いてきたために上がりかけた呼吸を整えると、汗ばんだ首筋とシャツの襟の間に指を突っ込み空気を送り込む。最後に、タイが曲がっていないことを確認し、言うことを聞かない黒髪を撫で付け玄関の重厚なドアを開けた。

 

「んお!?」

 

 ドアのすぐ先には、箒を抱えた少女——純白の毛皮を纏い、猫のような顔をした獣人の少女だ——が佇んでいた。彼女は目の前で開いたドアに瞳を丸くしたが、その原因がルイスであることにすぐ気がつくと破顔して「なんだ、ルイスか、おかえり」と彼を迎え入れた。ルイスは咄嗟に「おっと失礼」と詫びを入れ、彼女へ挨拶を返す。

 

「ただいま戻りました、クロエさん」

「ん、思ってたより早かったな。ほら、預かるよ、それ」

 

 クロエは箒を壁に立てかけると、ルイスのコートや帽子を受け取るために両腕を伸ばした。彼女は給仕服と、所々汚れたピナフォアを着用している。ただ、ストライプ柄のプリント地で仕立てられた古着の給仕服はサイズが合っていない。丈の余った部分はあとで戻せるよう裾上げをしているが、余った袖はカフスに乗っかってしまっていた。彼女の身長はルイスの首元に届くかどうかといったところで、視線を合わせるためにかなり頑張って彼を見上げている。

 

「うん、ありがとう。でも、掃除をしようとしてたんじゃ?」

「あーこれ? やること無くなったから落ち葉だけ寄せようと思って。別に今やらなくてもいいしさ、気にすんな」

「そうですか」

 

 クロエが肩をすくめて、少年のような飾らない笑顔を浮かべた。口調もかなり砕けていて、見る人が見たら眉を顰めたかもれない。だがしかしルイスは特段気にしたようなそぶりはせず、落ち着きのある低い声で笑って帽子をとった。

 クロエも朗らかに笑顔を返すと、ルイスから帽子とコートを受け取った。まだ冬本番を迎えていないためライナーの付いていないコートだが、しっかりとしたウール地で仕立てられたそれはずっしりと重い。そして今回もまた、マグロのごとく動きを止めてしまったら死んでしまうのではないかと思うほど忙しないエルフ族の老教授に、津々浦々を引き摺り回されたのだろう。埃と煙草と汗のにおいがした。

 

「それで……アルマおばさんは?」

「先生はお部屋で休まれてるよ。今日も朝から少しお加減が優れないみたいでな……」

 

 クロエはつい先ほどまでとは打って変わって沈痛な面持ちになる。声のトーンは下がり、ピンと立っていた両耳も伏せがちだ。

 

「そんなに……」

 

 ルイスはクロエの言葉に眉尻を下げると、小さく溜息を吐いて「それにしても、クロエさん。私がいない間、おばさんを任せっきりにしてしまって悪かったね」と話題を切り替えた。

 

「そんなん今更だろ伯母不幸者めぇ。まあ、先生はオレにとって唯一無二の恩人だからな、任せとけよ。……んで、またしばらくはこっちにいるんだっけ?」

「うん、冬が終わるまでは教授のお供もない予定だから、ゆっくりできるよ」

「オーケー。今晩のメシは期待しといていいぞ。クロエちゃんが腕によりをかけて作ったる」

 

 クロエは袖をまくるジェスチャーとともに笑い、「君ももっと肉つけろよな!」とルイスの肩を叩いた。実際にはクロエの身長が微妙に足りず、肩甲骨のあたりを叩かれたルイスも頬を緩め、「クロエさんの身長が伸びるくらいの奇跡があれば考えておくよ」と笑った。クロエは「なんだとテメー!」と耳を後ろに倒しながら憤慨した。

 

 

 ++++

 

 

「ごめんなさいね、クロエ。今日はもうお腹いっぱい」

「そうですか……」

 ベッドで横になったアルマが痩せこけた頬を心苦しげに歪ませる。少し前までそこにあったはずの、朗らかな微笑みが奪われた事実がクロエの胸を突き刺す。クロエは麦粥で満たされた器の乗ったトレーをカートへ戻しつつ、「大丈夫ですよ先生、お料理はいつでも作れますから。召しあがれる時にたくさん召し上がってください。そうすれば……風邪なんてすぐに良くなります」と笑顔を取り繕った。その表情の裏側には、悲痛な思いが渦巻いている。しかしクロエが内心へしまい込んだ感情は、アルマには手に取るように伝わってしまっていた。

 彼女が歩んできた、それなりに長い人生の時間によって、己に残された生がこの先短いことは悟ってしまっている。季節の変わり目にひいた風邪。それは年老いた彼女から生きるための力を急速に奪い去っていった。

 あっという間に起き上がれなくなり、食事も満足に摂れなくなった。

 

「またお休みになりますか?」

 

 クロエの問いかけに、アルマは苦しげな咳をすると「そうね、せっかくだからお茶を淹れてくれるかしら。あと、ルイスとも話がしたいわ」と請うた。

 

「わかりました。ルイスさんをお呼びしますね。それとお茶の用意もすぐに」

 

 クロエはアルマへ微笑むと小さく頭を下げ、食べかけの食事が乗ったカートを押し部屋から出た。

 

 

 ++++

 

 

 夜が更け、月と頼りなく瞬く星々だけが静かに大地を照らす頃。

 ルイスは小さなオイルランプだけを灯した部屋で窓際の寝椅子に横たわりながら、大陸の方では愛飲者も多い紙巻煙草の紫煙を燻らせていた。彼は教授のお気に入りなので、一緒に各地を転々とすることが多い。そのため、パイプや葉巻より手軽な紙巻の煙草を愛飲していた。

 

 濃い闇が支配する部屋の天井へ立ち上る煙を睨みつけながら、ルイスは暗澹たる思いでいた。

 自分が幼い頃、よく面倒を見てくれていた伯母のアルマが風邪をこじらせ床に臥せている。その知らせを受け取ったのは、数日間に渡る教授のお供を終え、ちょうど大学へ戻ったタイミングであった。

 どうして、こんなタイミングで家を空けていたのだろうか。もっと早く、帰ってくることはできなかったんだろうか。ルイスが小さな後悔を積み重ねていた時だ。部屋のドアが控えめなノックの音と共にゆっくりと開いた。

 

「入るぜ……」

 

 薄く開いた扉から顔を出したのはクロエだった。中心の榛色から周囲のグリーンへ、グラデーションを描く虹彩に囲まれた瞳孔を丸くした彼女は、小さくスンスンと空気の匂いを嗅ぐと、さっと部屋の中へ身を滑り込ませた。

 

「クロエさん……夜中に男の部屋に入るのは流石に良くないな」

「うるせえ。オレの中身は男だからノーカンだ」

 

 一日の仕事を終え、ピナフォアを脱いで身軽な格好になったクロエが適当な椅子を抱えルイスの隣へやってくる。

 

「なあ、これ飲んでもいい?」

 

 クロエは寝椅子の側に置かれたテーブルの上、ルイスが飲んでいたウイスキーのボトルを指差すと、彼の返事を待たずグラスを棚から取り出した。

 

「構わないけど、ほどほどにね」

「わかってる。あと、煙草も一本貰うわ」

 

 彼女はテーブルへ投げ出されていたシガレットケースから煙草を一本取り出し、ポケットから取り出したマッチで火を付ける。何度か空気を吸い込み煙草の火を安定させると、煙をたっぷりと吐き出した。

 彼女はくわえ煙草のまま、新しく出したグラスと、ルイスの使っていたグラスへウイスキーを注いだ。いつもなら溌剌とした印象を与えるヘーゼルの瞳は伏せられ、表情も心なしか乏しい。厚めのガラスでできたショットグラスに、琥珀色が満ちる。

 

「ん」

 

 クロエはウイスキーで満たされたグラスをルイスの方へ突き出した。それにルイスは自分のグラスを軽く当てて応える。すると、クロエは一息でその中身を流し込んだ。しかしストレートのウイスキー、それも一気飲みは流石に堪えたらしい。彼女は鼻筋にぎゅっと皺を寄せてうめき声をあげた。ルイスはそれを見て小さく笑うと、使っていなかったグラスへ水差しから真水を注いでクロエへ手渡した。

 

「たすかる」

「そんな飲み方するから」

「思ったよりキツかったわ」

 

 小さく舌を出しておどけるクロエと呆れ顔のルイスが、数年来の友人のように笑い合う。ひとしきり笑った後、自分の椅子に腰をおろしたクロエは少しだけ表情を柔らかくした。

 だが、酒と煙草をせびるためだけにこんな時間に自分の部屋を訪れたのではないだろう。ルイスは、口に入ってしまった煙草の葉をハンカチへぺっぺっとしているクロエを優しい眼差しで眺めつつ、覚悟を決めるために深く息を吐いた。

 

「クロエさん……その……。正直なところ、おばさんの容態は……」

 

 夕食後に、ベッドの上のアルマと交わした会話を思い浮かべつつ、ルイスは話を切り出す。相変わらず忙しそうにしている甥に心配をかけまいと気丈に振る舞う彼女の、辛そうな微笑みが痛々しくてしょうがなかった。

 

 そして、ルイスの問いかけに、クロエはただ首を横に振って答えた。

 

 心のどこかで予想していたはずだが、アルマの身の回りの世話をしているクロエが、あまりにもあっさりと否定の意を表したことにルイスは息を飲んだ。

 再び表情を凍らせたクロエは震える手で、煙草をゆっくりと口元へ運ぶ。一口分吸った後、ひときわ大きく息を吸い込む。沈黙の満ちた部屋へ、煙草の葉が燃える音がジリジリとかすかに響いた。

 

「もう、長くないかも」

 

 クロエは濃い煙を吐き切ると、今にも泣き出しそうな声でそう言った。

 

「だって、エリーと、あの時と同じ匂いがするんだ」

 

 彼女は言葉を続ける。

 風邪の特効薬は古今東西を通じて存在しない。だからクロエは自分にできることはなんでもした。栄養があり、なるべく食べやすい食事を作った。身の回りのものは清潔に保ち、部屋を暖かくし、しかし換気は欠かさずした。クロエはできる限り、必死の看病を続けた。だが、アルマを診察した医者から気が楽になるような言葉を聞くことは終ぞなかった。

 

 彼女は溢れだそうとする感情を必死に堪えるために奥歯をギリっと噛みしめる。しかし、それだけでは足りず、空いている左手で髪紐を解くと、自由になった色素の薄い金色の髪をかきむしった。線の細い黄金が乱れ、窓から差し込む月明かりに煌めく。

 

「どうして、どうしてなんだろうなあ……」

 

 俯くクロエが、ふるえる声で呟いた。ところどころかすれるほど小さな声だが、それはまさに悲鳴であった。

 

「まだ、一年とちょっとしか経ってないんだよ……オレはまだ何も、何も返せてないのに……!」

 

 ふるえる口元から溢れる言葉は次第に音量を増していき、最後は肺の中の空気を絞り出すような、苦しみで塗り固められたような声音になる。

 

 そして、クロエは己の内に渦巻く激情に抗うことをやめた。

 大粒の涙が、彼女の膝をパタパタと叩いた。

 彼女はしずかに、所々しゃくりあげながら言葉を紡ぐ。先ほどのように声を荒げることはなく、どこか優しさの滲む声音で。

 

「先生は、ほんとうに恩人なんだよ……。先生は、オレをもう一度人間にしてくれたんだ。ちゃんと、ヒトとして生きていける人間にしてくれた……」

 

 胸の底から絞り出すような独白を目の当たりにし、ルイスは呼吸の止まるような思いだった。いつもからからと笑い、軽口をたたき合ってきた少女が、急に見ず知らずの人間に様変わりしたようだ。

 

「どうして大切な人ばっかり、いなくなっちゃうんだろうなぁ」

 

 再び頭を上げたクロエは、涙と鼻水でひどいことになった顔へ、どこか悟ったような、困ったような笑顔を浮かべている。

 

「悲しいなあ、悲しいよなあ、生きるって」

 

 涙で濡れた瞳にルイスを写したクロエが、甘く柔らかい、それでいて悲しげな声でそう言った。

 

「クロエさん……」

 

 小さな体の内側に、敬愛する恩人の最期に寄り添おうとする覚悟を秘めたクロエ。彼女は今、余計な言葉は求めていないのだろう。ルイスは何も言わずにクロエに寄り添うと、己のハンカチを差し出しながら、彼女の細い背中を優しくさすり続けた。

 

 

 ++++

 

 

 朝日が昇る少し前、物の少ない質素な部屋でクロエの一日が始まる。これまた質素なベッドの上、上半身を起こした彼女は眠たげに目元をこすると、逃げも隠れもしない男らしい大欠伸をかました。目の端は今だに腫れぼったく、大きく開いた口からは、人と獣の合いの子のような犬歯が覗く。

 

(しゃむ)い……」

 

 クロエは舌足らずにぽつりと呟くと、重く厚い掛け布団からもそもそと抜け出し化粧台の前の椅子に移った。

 年季の入った金属製の洗面器に水を注ぐ。夜の間によく冷えてしまった冷たい水で顔を洗うと、タオルでゴシゴシと水気を拭き取る。ここには、口うるさい友人も、面倒を見てくれる同僚も、恩人であるアルマの目も無い。そのことにどこか苛立ちを覚えながら、クロエは鏡の中に映る白猫の顔をした己を睨め付けた。プラチナブロンドの髪は寝癖で爆発していて、乱暴に拭ったせいで顔中の体毛がうねっていた。その上起きがけの憮然とした表情をしているので、なかなかのブサイクっぷりである。

 クロエはピンク色の鼻で小さなため息をつくと、備え付けの引き出しから大小二つの櫛を取り出し、身繕いを開始した。

 

「ユーセイイエス……アイセイノー……ユーセイストップ……」

 

 ちいさな声で、古い洋楽を口ずさみながら、暴れん坊の髪の毛へ櫛を通していく。その手つきは手慣れたもので、あれほど荒れ狂っていた寝癖は、意外と簡単に大人しくなった。次に小さい方の櫛を手に取ると、顔の輪郭や髪の毛と体毛の切り替わりの部分、比較的長めの体毛の流れを整える。クロエは何度か顔の角度を変えながら櫛を動かし、『なんかこれ髭剃りみたいな動きだよな』と内心面白がった。

 

 クロエは最後にしっかりと編んだ髪の毛を後頭部にまとめると寝間着を脱ぎ、ハンガーに吊るしてあったストライプの給仕服を手に取った。なお、クロエの体格に合うものがなかったため、コルセットは身につけない。ドロワーズにペチコート、シュミーズだけだ。なお、もともと日本生まれ日本育ちのアラサー男性だったクロエにとっては、これだけでも煩わしさを覚えるものだったが。

 彼女の給仕服はフロントボタンのワンピース構造なので、一旦床に降ろして足を突っ込む。そうしたら袖に腕を通し、下から順にボタンをもたもたと留める。最後に付け襟のホックをかけ、後付けのしっぽ穴から自慢の長い尾を外に出した。もともと獣人向けの服ではなかったからクロエの手仕事である。ちょうど尻の上あたりに縦の切り込みを入れ、ほつれないよう丁寧に末端処理を施す。あとは適当な端切れで作ったベルトを取り付けることで、いい感じに位置を微調整——これから体系が変わることもあるかもしれないので——できるようにしてあった。

 

 糊の利いた付け襟の布地が、首の毛を撫でる感触に身が引き締まる思いがする。

 

(そういや、石炭の補充しとかないとなあ)

 

 ふと、暖炉用の石炭を家の中に入れておかなければならないことを思い出し、気分が重くなる。石炭運びは文字通りの重労働なのだ。しかし、病人を抱えたこの時期に暖炉の火を絶やすわけにはいかない。

 

「あ、そっか」

 

 無意識に呟いていた。そう、いいことを思いついたのだ。普段から出突っ張りで、ほとんど大学に住んでいるような男手がちょうどいるではないか。あれは瘦せぎすに見えてなかなかに根性があるし、何よりも()()()()()()な自分がやるよりよほど効率的だ。そうだそうだ。ルイスに手伝ってもらおう。

 

 クロエは大きな伸びをすると、眠りこけているであろうルイスを叩き起こすべく部屋の扉を開けた。

 

 

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2022.01.23 誤字修正
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