Chloe 〜メスケモTSっ娘が異世界で幸せになる話〜 作:ふえるわかめ16グラム
とにかく、寒さを凌ぐことが最優先だった。頭のなかでぐるぐると考え事ばかりしていてもどうにもならない。半袖のシャツ一枚と、短いハーフパンツだけでは耐えられないほどの寒さなのだ。黒江は慌てて所持品を確認したが、斜めにかけたウエストポーチの中身は財布と圏外のスマートフォンにポケットティッシュくらいしか入っていなかった。ズボンのポケットには部屋や自転車の鍵をしまったキーケースのみ。
ふと、黒江の脳裏に海外のドキュメンタリー番組の一幕が再生された。イギリス陸軍出身の探検家が、世界の秘境で限界まで自分を追い込んでいく番組だ。野草から昆虫、小動物などなど、時にうまそうに、たまに本気でマズそうに食す姿が印象的な彼がよく言っていたことがある。サバイバルにおいて必須な要素とは、火、水、食料、それとシェルターである、と。今最も必要なのは、火かシェルターだろうか。
もし煙草を嗜んでいれば、ライターの一つくらい持っていたかもしれない。しかし残念ながら、黒江に喫煙の習慣はなかった。一瞬、落ちている木片を擦り合わせて火起こしができないかと考えたが、できるかどうかわからないものに時間を費やすより、より詳しく周囲の状況を調べた方がいいと思い直した。この廃墟には、人の気配はないものの様々ながらくたが散乱している。少しお行儀が悪いが、何か拾って活用できるかもしれない。黒江はそう考え、暗闇に目をこらしながら散策を始めた。
「てかなんで天井ねえんだよアホかよ天井もっと頑張れよ……」
雲の少ない夜空に浮かぶ青白い満月を睨みつけ呟く。
とっくの昔に崩れ落ちた天井へ文句を垂れてもしょうがないのだが、今の黒江にとっては憎まれ口の一つくらい言わせてほしいものだった。
黒江は腕を摩りながら、かつては窓だったであろう壁の穴へ足を向ける。とりあえず、今の自分がどんな場所にいるのかを把握するためだった。窓は周囲の壁より少し奥まったところにあったが、それでも外壁の厚さはかなりのものだ。頑丈そうな造りから、この廃墟は何かしら重要な建物だったのでは、と黒江は推察する。
彼は窓から身を乗り出して外の景色を見渡した。
果たして、廃墟の外には一面、黒々とした景色が広がっていた。つまり、見える範囲に人間の生活の気配がない。
どうやら、この場所は丘陵地帯のようだった。青白い月明かりに、今黒江がいるような石造りの廃墟のシルエットが所々浮かび上がっている。木々で覆われたなだらかな丘はずっと先まで続き、街の灯りのようなものは何一つ見当たらない。
「おおぉう」
黒江が情けない声で呻く。なんとなく想像はしていたが、改めて突きつけられると悲しくなる。それと同時に、強烈な不安が彼を襲った。完全に無防備な状態で、どこかもわからない場所に飛ばされた挙句、文明すらないようなところでどう生き残ればいいのか。彼に特殊な能力は一切ない。音楽系の専門学校を卒業してからは、一般企業の営業職として働いてきた。孤立無援のサバイバルなどできる気が一ミリも湧いてこなかった。
彼は体を窓の内側に引き戻すと、反対側の壁面を眺めた。そこにも同じような窓が開いている。黒江の胸中に満ちるのはザラザラとした不安ばかりだったが、一縷の望みをかけて駆け出す。かつてはホールかなにかだったのか、無駄に広々とした部屋には屋根の瓦礫が所々散乱しているせいで足場がかなり悪い。黒江は焦っているせいか、強引に最短距離を走り抜けようとした。
「うわっ」
ちょうどブロック状の岩を飛び越した先、着地点に襤褸切れが転がっていた。うまい具合に片足を絡め取られた黒江は、野球選手のスライディングのような格好で転倒した。
「いってぇ…………」
地面に打ち付けた脚を見れば、大きな擦り傷が出来上がっていた。不幸中の幸いと言うべきか傷自体は深くない。だが、広い範囲に渡って皮膚が破れ、うっすらと血が滲んでいた。
「……クソ、最悪だ」
幸福な一日からの急転直下。こんなのあんまりではないか。あまりの惨めさに弱音が溢れる。
いったい自分が何をしたっていうのだ。こんな目にあうだけの悪行を働いた心当たりは全く無い。労働の義務に従い給料を得て税金その他諸々を支払い、健全で善良で真面目な一人の人間として生きてきただけではないか。多感な思春期の時分なら、こういった非日常に放り込まれることを夢想したかもしれないが、そんな願望はいくつかの黒歴史とともに記憶の中にしまい込んでいた。黒江自身、アニメや漫画に小説、映画といった娯楽はそこそこ楽しんでいたが、フィクションと現実を混同するようなことはなかった。そもそも、実現しようもない願いなら、非課税の五千兆円の方が欲しいお年頃である。こんなワクワクドキドキな冒険の始まりチックなものはびた一文として望んでいなかった。
地味に精神を削っていく痛みに耐え、ティッシュで傷口やその周辺の汚れを大雑把に拭った黒江は立ち上がると、関節などにダメージがないか手足を動かした。ひとしきり体を改めると、「特に捻挫とかはしてねえみたいだな」と声に出して念を押す。そして黒江は、己をとことんまで惨めな思いにさせた襤褸切れを拾い上げた。
(ローブかなんかだったのかね?)
元々は黒だった大部分が茶色く退色したそれは、部分部分に模様が刺繍されているし、穴だらけだがフードのようなものも付いている。着ようと思えば着れなくはない。そんな感じであった。大きさ自体もそれなりにあり、上半身から膝くらいまでは覆えそうである。黒江は襤褸の埃を払うと、若干ためらいつつ肩に羽織ってみた。
意外とその効果は抜群で、前をかきあわせれば上半身の寒さは遥かにましになった。脚はいまだにむき出しのままだが、どこか風の当たらない場所で縮こまれば夜を明かせそうだと黒江は考えた。
単純なもので、目先の不安が一部解消された黒江の心は軽くなった。
冷たく湿った空気に襤褸のローブをはためかせ、意気揚々と目的の窓まで歩く。
黒江は前向きな男であった。よく言えばポジティブ、悪く言えば調子に乗りやすい性格をしている。目下の懸念、半袖短パンで凍えることを回避できた彼は「まあ人間、水さえあればしばらくなんとかなるしな」と思うようになっていた。
そして、反対側から眺めた景色も先ほどとあまり変わらないものだった。なだらかな丘が続き、所々に黒々としたシルエットが点在している。おそらくその全てが、ここと同じように朽ち果ててしまっているのだろう。そんな想像を働かせた黒江は、少しばかりの寂寥感を抱いた。
黒江は白い息を吐き出すと、随分と広いであろう廃墟の奥へ歩き始めた。脚の怪我と引き換えに、最低限寒さを防げるだけの拾い物はあった。だがしかし、これだけで朝まで超熟睡は難しいだろう。もうちょっと何かないだろうか。贅沢を言っているつもりはないが、せめて屋根は欲しい。黒江は月明かりを頼りに散策に戻った。
しばらく歩き回ったことで、この廃墟はそれなりに大きな建物だということがわかった。最初にいた広間と同様の規模の部屋をいくつか見つけたが、どこも酷い有様だった。基本的に天井は無く、酷いところは壁すら崩れ落ちていた。そのほかにも規模の小さな部屋はあったが、ゴミや瓦礫、はたまた立派な木に侵食されていたりで足を踏み入れられなかった箇所もある。また、あまりに暗いところは何があるかわからないのと、無闇にスマートフォンのライトを使い、バッテリーを消費したくなかったため散策していない。黒江は結局、屋根の抜け落ちた最初の部屋に戻ってくることになった。
「参ったなこりゃ」
黒江は壁際に落ちていた、腰くらいの高さの岩に腰掛け部屋を見渡した。見てきた中では比較的マシなこの場所を拠点にする以外なさそうである。それに、寒さを防げそうなものも大して見つからなかった。黒江は両腕をさすりながら深いため息を吐く。散々な気分だった。
「いい加減寝ないと体力もヤバいよなあ」
そもそもこの場所に飛ばされた時点でいい時間であった。しこたま飲んだアルコールによる酩酊は全くというほど感じられないし、相変わらず不安は胸中をぐるぐるとしている。だが、夜が明ければ新たにわかることがあるかもしれない。そのためにも、なるべく体力を温存するべきだと黒江は考えた。
そうだ、寝床作ろう。
落ちている木材や身に纏えないくらいの襤褸切れを集めて、それこそシェルターを作ってしまおう。瓦礫と瓦礫の間、いい感じで一人が横になれそうな場所もある。黒江はなんだか秘密基地を作るみたいだと心を躍らせた。善は急げである、早速材料を集めようと座っていた岩から飛び降りた。
「おんおんおんおん?」
手近なところから手をつけようと、細切れになった絨毯らしきものの端を持ち上げた時だった。
ずりずりと引っ剥がしてみれば、半分ほど腐った木製の扉がこの下に隠されていた。もしかしたら、その先に地下室か何かがあるのかもしれない。ここで黒江は、地下は年間を通して温度が安定しているということを思い出した。途中で拾った襤褸切れだけでは心許なさを感じていた彼にとって、雨風を防げそうな地下室は渡りに船である。
黒江は喜び勇んで扉の前まで駆け寄ると、錆びた鉄製の取っ手を掴んでそれを引き開けようとした。
「どっこらしょ——!?」
どうやら、この扉の寿命は限界だったらしい。黒江が力を込めた途端、取っ手の部分が引っこ抜けてしまった。彼はしばらく右手に残った扉の部品を眺めると、「しね!!」とオーバースローでそれをぶん投げた。厳かな雰囲気すら覚えるような静けさに、間抜けな金属音がこだまする。
だがしかし、グズグズに腐っている木製の扉だ。所々穴が空き、その先に階段らしきものが続いているのが見えている。扉を破壊して穴を広げれば、人一人くらい通れるかもしれない。黒江は気を持ち直し、脆そうな箇所を狙って足を踏みつけた。
湿ったメキッとかモキョッとかが混ざり合った音を立て、予想していた以上の穴が開いた。
「ぐぇっ」
体勢を崩した黒江は、開けた穴を広げつつ扉の先の空間へ突入する。そして、とことん彼はツイていなかった。雨などが侵入し、日が差さないため湿りがちな石段には、所々苔が生えていて非常に滑りやすくなっていたのである。かなり無理な姿勢のまま片足を階段に乗せた黒江だったが、そのまま足を滑らせ股割り状態になってしまった。
「んぎゃ」
情けない悲鳴をあげ階段を滑落する黒江。完全に予想外のことだったので、大した受け身も取れず転がり落ちるしかない。しかも初手で後頭部を強かに打ち付けていた。彼は走馬灯を見る暇もなく地下室へ転げ落ちた。すでに意識を手放していたため、痛みに苦しむことがなかったのは幸いというべきか。
階段の下、倉庫にでも使われていたのだろう雑多な部屋。うつ伏せでピクリとも身動きしない黒江を中心に、赤黒い水たまりが広がっていく。
その水たまりの直径が広がるにつれ、黒江の生命は終わりを迎えようとしていた。そして、流れた血液が、床に掘られた溝に流れ込んだ時だ。彼の血は粘性を失ったかのようにすっとその溝へ流れ込み、円を基調とした複雑な模様を描き出した。ほぼ視界のない暗闇の中、床の模様が薄ぼんやりと青黒い光を発する。その禍々しさすら覚えるような光は次第に強くなり、倒れたままの黒江の身体を包み込む。
そして、彼の頭の先からつま先まで包まれると、あまりにもあっけなくその光は消え去った。まるで、LEDの電灯のスイッチを切った時のようなあっけなさである。音もなく、少しの余韻も残さなかった。
再び重苦しい闇が満ち、静けさを取り戻した地下室。そこに、穏やかな寝息が響いていた。