Chloe 〜メスケモTSっ娘が異世界で幸せになる話〜   作:ふえるわかめ16グラム

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04 血みどろお散歩デッドエンド

 近年稀に見る最悪なまどろみであった。

 敷布団は尋常でなく硬いし、なぜだか妙に肌寒い。いつぞや泥酔した状態で終電を逃し、適当なベンチで寝た時だってもう少しはマシだったかもしれない。さらに、寝心地が悪いせいか、訳のわからない不気味な廃墟に飛ばされるなんて突拍子のない夢まで見てしまった。これは日頃の疲れが予想以上に溜まっていたみたいだと結論づけ、黒江はようやく目を開けた。

 

 そこに広がるのは、石の床に長年積もった埃と泥へ、黒々とした血液が染み込んだ光景だった。そして蘇る身体中の痛み。その瞬間、全てを思いだした黒江は床に腕をつきガバリと半身を起こした。

 

「うおぉおおおオレ死んだ!?」

 

 穴の空いた扉から光の筋が差し込む地下室に、甲高い少女の叫び声が反響した。

 

「のぁん……?」

 

 そのままの姿勢で硬直した黒江は両目を瞬かせた。昨夜まで黒かったはずの瞳は、中心が榛色で、外側へいくにつれてグリーンになるグラデーションを描くヘーゼルの瞳に変わっている。その中央、ネコ科じみた瞳孔は薄暗い地下室にいるせいか丸く膨らんでいた。いや、膨らんでいるのはなにも瞳孔だけではない。全身を覆う純白——今はその半分くらいが血まみれだが——の毛並みが、喧嘩相手を威嚇する猫さながらに逆立っていた。

 

「おっほ気持ち悪っ」

 

 黒江は、服の下で毛が逆立つ感覚が気色悪く身を捩った。

 

「えぇ……なにこれぇ……」

 

 何とは無しに己の身に起きたことを察した黒江は、恐る恐る手のひらを覗き込んでみた。するとそこには、手の平とそれぞれの指先にピンク色の肉球のある手があった。なお、御多分に洩れず血濡れである。その指の一本一本は白く短い毛並みに覆われており、爪も普通の人間より幅が狭く若干厚いようだ。ちなみに、本物の猫のように格納できないか力んでみたがそれは無理らしい。何にせよ、細かい作業などは苦手そうな両手になってしまっていた。

 

「あー、あー。というかこれ……」

 

 変わり果ててしまった両手から視線を移せば細い腕が目に入る。その腕はダボダボなTシャツの袖へ続く。着ていたシャツは、別段オーバーサイズでルーズなものではない。本来の黒江はそれなりにたっぱがあったが、ジャストサイズな服を好んでいた。それが著しくダボダボになっているのだ。

 黒江はそのことに驚きつつ、全体的に小さく、華奢になった身体を確かめていく。手首から徐々に、両腕を抱くように二の腕へ、肩へ。そして首、顔。もう大体わかりかけてきていたことではあるが、その全てが短く柔らかい毛に覆われている。感触で確かめる顔は、短いながらも鼻と口が一緒に突き出ているし、本来耳があった場所には何もない。今の耳は頭頂部からピンと上を向いて生えていた。それに、黒い短髪だったはずの髪の毛も、背中の真ん中あたりまで伸びた色素の薄いものになっている。

 それと、尻の真上、腰より下になんとも言い難い違和感。意図せずして横座りの姿勢になっていた黒江は、上半身を大きく捻り己の背後を見ようとした。そこでは、ウエストの合わなくなったハーフパンツの上から、長く白い尾がまろび出ていた。

 つまり黒江は今、半ケツであった。

 黒江は鮮度の落ちた魚のような目でそれを眺める。昨日まではなかったはずの身体のパーツは、今の精神状態を表すかのように床を苛立たしげにタシタシと叩いている。これは完全に不随意のものだった。黒江は無意識に動くしっぽに対し、「え、怖……」と呟くと、何とは無しにそれを掴んでみた。一応、本当に自分の肉体なのかと確かめるつもりもあった。

 

「ぉぉぉおおふん」

 

 形容しがたい感覚が黒江の背骨を駆け上がった。なんとも落ち着かない悪寒にも似た感覚であった。とにかく、これは気軽に触ったり触られたりしない方が良さそうである。

 

「なるほどそう来たかぁ……」

 

 黒江は堪らずに大きなため息を吐いた。五臓六腑から滲み出るような深い深いため息だった。

 黒江は限界まで息を絞り出すと、項垂れたままスカスカな襟ぐりから身体の腹側を覗き込んだ。他に比べると若干薄いくらいだろうか。ここも白い毛並みに覆われた、慎ましやかな双丘と桃色の頂があった。

 

(複乳じゃねえんだな)

 

 謎の安堵を覚えながら、黒江は股間を弄った。ここまできたら、変に残っている方が話がややこしくなると思っていた黒江の期待(?)通り、そこに慣れ親しんだモノはなく、なだらかな造形だけがハーフパンツ越しに伝わってきた。

 

 黒江基晴二七歳、独身。

 哀れ、彼と苦楽を共にしてきた相棒は、跡形もなく消え去っていた。黒江は素人童貞であった。

 

「ていうかこれ異世界モノ的なアレかよぉ!?」

 

 黒江は叫んだ。

 黒江はギリギリまで、ここが自分が生まれ育った世界であることを信じようとしていたのだ。むしろ定番のイベントとかなさすぎてワンチャンあってほしかった。だがしかし、ここに来て急にファンタジー的な世界がほぼ確定である。なにせ、何の面白みもないアラサーお兄さんだった自分が、所謂“獣人の女の子”になっているのだから。油断しきっていたところに、予想外のコースへ投げられた豪速球であった。

 

 黒江は思った。

 今どきトラックに轢かれてもいなければブラック企業で過労死とかそんなのなしで異世界送りとかハードコアモードかな? と。できれば途中で神様とかそういう類のアレからズルい能力もらったりとか、世界観の説明も欲しかった。

 

 黒江は唸った。

 だが、逆に考えれば自分は死んでこの世界に来たわけではない。つまり、日本へ帰れる可能性はゼロではないかもしれない。現状をジャンルで表せば、『異世界転生』ではなく『異世界転移』なのである。この場合、夢オチだったりで全て元どおりになることもあり得る。まるで光明が差したような気分だった。

 

 しばしの間考え込んでいた黒江はヨタヨタとその場に立ち上がった。肉体が変化したせいか、昨晩より室内がよく見える気がするのだ。事実、こぢんまりとした地下室には、地上以上に雑多なゴミで溢れていて、そこかしこが鼠の寝床になっているのか糞尿の臭いも酷かった。

 あまり長居したい場所ではない。彼女は身に付けていた襤褸のローブで体を拭うと、それをそこらへんへ投げ捨てて階段を登った。

 

 

 

「ぐあぁっ……やばっ……しんどい!」

 

 本来であれば、なんかこう颯爽と地上へ出たかった。しかし、目測であるが三十センチほど身長が縮んでしまっていたのだ。まともに歩けるはずがない。途中で転んだりして、結果的にもそもそと這い出るような感じで階段を登りきった。

 陽の光で温められた石材の上、横になった黒江はなんともいえない吐き気を堪えながら、ぜえぜえと喉で息をする。なにせ体のサイズ感だけでなく、その中身まで変わってしまっているのだ。彼女のあたらしい五感目掛けて、静かな地下とは桁違いの情報量が容赦無く殺到した。

 

 音の聞こえ方が違う。耳を自由に動かせるようになったからだ。

 肌の感覚が違う。むき出しの地肌は手のひらや鼻の先など限られているからだ。

 目の見え方が違う。視力は良かったはずだが、妙に遠くのものが見づらい。

 

 そういった数種類の違和感が重なり合い、黒江は消耗してしまっていた。捨ててしまった襤褸切れのことを若干後悔しつつ、回復体位で吐き気を耐え忍ぶ。幸い、昨晩と違って寒さはほとんど気にならない。日差しが出ているし、どこか春の始まりの頃のような匂いがそよ風に乗っていた。

 しばらくの間横になっていると、思っていたより早く不快感が治まってきた。回復体位を解いた黒江は仰向けになる。少し霞みがかっているのか、淡い水色の空が広がっていた。大きく息を吸い込んでみれば、先ほどより強く若葉の香りがする。彼女は空を眺めたままウエストポーチをまさぐり、スマートフォンを取り出した。画面下の丸いボタンを押下すると、見慣れた画面が点灯した。昨晩の転倒でも運良く壊れていなかったようだ。そこに表示されているデジタル時計は昼過ぎを示している。なお、この世界も地球と同様に一日二十四時間である保証はないが、天に浮かぶ太陽はそのピークを過ぎているように思えることから、大きく外れてはいないだろうと黒江は思った。

 彼女は慣れないサイズ感の端末に戸惑いながら、パスコードを入力してロックを解除すると腕を真正面に伸ばした。

 

「いえーい」

 

 カシャリ。スマートフォンが鳴った。

 

「おおん。なかなかやばい見た目」

 

 黒江はスマートフォンの画面に映された、新しい自分の顔を見てそう呟いた。その半分近くを黒ずんだ血で染め、どこかツンとした面持ちをした白猫のような顔。つい昨晩までの自分とは、何もかもが違う。どうしてこうなってしまったのかはてんでわからないままだが、なってしまったものはしょうがない。足を滑らせた時に嫌な転び方をしてしまったような気がするが、なんとか五体満足な状態である。それに、生きていれば腹は減るし、喉だって渇く。さて、次は水源と食料を確保しなければ。これから日が暮れていくのなら、残り半日も活動できないだろう。頭を生き残ることへ切り替えた黒江は、スマートフォンの電源を落としバッグへ仕舞い込んだ。

 

 黒江は再び立ち上がると、身繕いをした。ハーフパンツはウエストが紐で調整できたので極限まで絞り、スニーカーも柔らかい素材なので容赦無く靴紐をキツくした。各所の違和感は拭えないが、今はこれに甘んじるしかない。素足で駆け回るよりは何倍もマシだ。

 

 明るくなってから改めて辺りを見回してみたが、黒江の予想通りこの一帯はどこも似たようなものだった。なだらかな丘が続き、廃墟が点在している。針葉樹が中心の森は季節感が乏しいが、その中に混じっている落葉樹の枝先には、薄緑色の新芽が芽吹く準備をしているのが見えた。どうやら季節が春へと移り変わる途中らしい。昨晩の寒さを思い浮かべた黒江は、あれ以上寒くなることはなさそうだと胸をなでおろした。

 

 そして、この廃墟の建つ丘の麓へ目をやった時だ。一定の規則を持って木々が途絶えている箇所があった。

 

「……道か?」

 

 偶然見つけた道はこの丘の麓を迂回するような弧を描き、ずっと向こうまで伸びているようだ。さらに幸運は続く。その道の途中から、薄い煙が立ち上っていたのだ。黒江は歓喜した。しばらくの間、一人孤独に彷徨う可能性も頭の隅にあったが、どうやら火を扱える程度に文明的な異世界人がいるらしい。もし煙の主が異世界ファンタジーにありがちなモンスターや野盗の類だったなら、見つからないうちに逃げ隠れてしまえばいいだろう。失うものもなく、なんとでもなれ状態の黒江はすぐさまこの丘を下る決意をした。

 

「ていうか出口どこだコノヤロー!!」

 

 

 ****

 

 

 かつてこの地に文明が栄えていたことを示唆する、明らかに人の手が入っているだろう岩が転がる斜面を黒江は遮二無二駆け下りた。なにせ異世界ファーストコンタクトの千載一遇のチャンスなのだ。下生えの乏しい苔むした森は走りにくかったが、体重も軽くなっているのか、思いの外軽快に動けたのは嬉しい誤算だった。だが、目印にしていた煙はだんだんと弱くなり、黒江の胸中に焦りが生まれる。なんとか、この機会をものにしなければ。

 

 そして丘を下るにつれ植生が豊かになり、低木の茂みなども増えてきた頃だ。黒江は道沿いの広場に停められた一台の荷馬車を見つけた。所々つぎはぎの施された幌がかけられた荷台の側で、一人の男が焚き火の後始末をしている。一先ずモンスターの類でないことを確認した黒江は、手頃な木の影に身を隠し様子を伺うことにした。すると、馬車の奥でもう一人の男が、少し小柄だが健康そうな馬を一頭世話しているのが見えた。

 

(遠目だからよく見えねえけど外人さんみたいだな。つまり、ここはよくある中世ヨーロッパ的な異世界ってやつか?)

 

 しばらくの間身を潜めていたが、二人の男以外に人の気配を感じることはなかった。

 火の後始末をしている男はフェルト製の中折れ帽を被り、頬まで覆う濃い髭を蓄えている。かなりくたびれたジャケットを羽織り、同じようにくたびれたズボンを履いている。しかしその関節部分は当て布が施されていて頑丈そうだ。馬を世話している男も似たような装いだが髭がなく、丈の短い、厚手のコートを着ていた。

 彼らはちょうど今まで小休止でもしていたのだろう。無造作に置かれた木箱の上には、煤がついたケトルやカップ類が置かれている。髭面の男は五徳を仕舞うと、スコップで灰を集め金属製の缶に入れた。かなり几帳面な後始末である。近年キャンプ場を荒らしているならず者キャンパーにも是非見習っていただきたい所作だ。

 

 そして黒江が懸念していた点がもう一つ。彼らは破落戸なのか否かである。しかし、短い間眺めている限りでは、彼らは黙々と己の仕事をこなしているだけのようだった。特段荒くれ者のような様子は見られないし、刀剣の類の武器も見当たらない。若干の威圧感こそあるが、黒江には十分()()の人間に思えた。

 

 黒江の心臓が脈打つペースを上げる。

 いいのか? 本当に出て行くのか? この世界について、自分は何も知らない。そもそもこんな見た目になってしまったが、この世界にはいろんな種類の人間がいるのか? 種族に違いがあるのだとしたら、それが原因で差別などされないだろうか。今更になって、彼女の脳裏に不安材料が浮かび上がる。だがしかし、背に腹は代えられない状況であるのも事実であった。夢中で走ったため喉は乾いているし、食事も摂っていない。少なくとも、目の前の男たちと馬は自分がよく知る姿形をしているが、それ以外も同じ見た目をしているとは限らない。食べられると思った植物などが、本当に食べられるという保証はないのだ。手足の肉球がじっとりと湿るのを感じる。

 

 黒江が逡巡を重ねている間にも、男たちは出発の準備を進めている。コートを着た男は馬を馬車へ繋ぐと、ケトルの乗っていた木箱を荷台へ積み始めた。焦げ跡のついた地面の処理が終わったのか、髭面の男も荷物をまとめている。

 

 行くべきか、行かざるべきか。

 

 今声を上げなければ、またこんな人気のないところを彷徨う羽目になる。自分には、何の知識も経験もないのだ。覚悟を決めなければ。黒江はなけなしの唾を飲み込むと、身を隠していた木陰から足を踏み出した。

 

 

 

「は、ハァイ。エクスキューズミー?」

 

 黒江は右手を掲げつつ、男たちの前に足を踏み出した。

 予想だにしていなかった黒江の登場に、彼らの表情が凍りつく。なにせ、茂みの中から毛並みや服を血に染めた獣人の少女が現れたのだ。しかも当の本人はなるべくフレンドリーに見えるように笑顔を貼り付け、訳のわからない言葉を発している。ちょっとしたホラーであった。なお、黒江もパニクっていたため、なぜか英語で声をかけている。どうせ伝わらないのであれば最初から日本語で良かったのではと後悔したのも後の祭りであった。

 

「あのぉ、えっと、キャンユーヘルプミー? メイビー、アイアムロスト。あー、ノーフード、ノーウォーター……へへへ……」

 

『な、なんだ、どうしたんだ、そんな格好で……』

 

 くたびれた中折れ帽を被り大量の髭を蓄えた男が声をかけるが、残念、黒江にはちんぷんかんぷんである。彼の操る言語は、残念ながら自分の知っているものではなさそうだ。そして、都合のいい翻訳機能も無しときた。しかし姿を表してしまったものはしょうがない。彼女はとにかく笑顔だけは絶やさないようにして、足を止めた。

 男たちは目を見合わせると、お互いに小声で言葉を交わした。彼らの、驚きで険しくなった表情に心をざわめかせながら、黒江は笑みを浮かべながら佇む。果たして、互いの放つ言葉の意味はわからないが、困ったような笑顔を浮かべる黒江の姿に、男たちは憐憫の念を抱いたようである。髭をたくわえた方の男がジャケットを脱ぎながら黒江に近づくと、彼女の肩にそれを掛けて前を閉じるようなジェスチャーをした。

 

「えぁ、あ、ありがとうございます!」

 

 見上げる男の表情はいまだに少し険しいものだが、自分へ害を与える様子はない。黒江はジェスチャーの通りにジャケットの前のボタンを留めると、笑顔で礼を伝えた。言葉は通じなくとも、感謝や悪意といったニュアンスは伝わるはずである。シャツにベスト姿になった髭面の男も小さく頷くと、黒江の背中を軽く押して馬車の方へ誘導した。

 

 そして、荷物の積み込みを中断していた男の元に着くと、彼らは再びなにかしらの言葉を交わす。

 

『おれらが言えた義理じゃねえがかわいそうな子だ。こんな場所に下着姿で……』

 

 黒江的には何も問題ない(血が染み込んでいることを除けば)装いのつもりだが、彼らにとってはシャツとハーフパンツは下着や肌着にしか見えなかった。つまり、今の黒江は、全身を血で汚した下着姿の少女なのである。黒江の浮かべるジャパニーズ・曖昧スマイルも相まって、なにかしらの事情を抱えているようにしか思えない。

 

『全くだ。でもどうする? 警察に渡すのも難しいぜ。そしたら俺達もついでにパクられちまう』

 

 コートの男が狼狽える。しかし髭面の男は、自分の髭をしごきながら考えを巡らせていた。少しの間沈黙がこの場を支配したが、髭の男がおもむろに口を開いたことで会話が再開された。

 

『……マーレイのババアんとこなら、もしかしたら』

『あ、ああ……なんか聞いたことがあるぞ。変わり種の女が買えるって店だろ……?』

『この嬢ちゃん、汚れてるし言葉は通じねえみたいだが器量はいい。噂じゃこういう行き場のない女の子を優先的に店に入れてるらしいじゃねえか。今まで取引したことはねえが、事情を話せば悪いようには扱われねえだろう』

『そうだなあ、こんな危ねえとこに置いていったら当分はいい夢見れなさそうだ。それがいい』

 

 男たちが議論を交わしている間、黒江は二人を眺めながらただただニコニコしていた。彼らが何を言っているかはまるでわからないので、そうする以外にない。下手に怯えたりして機嫌を損ねるくらいなら、多少バカっぽくても笑顔でいるべきだと黒江は考えた。そんな笑顔の裏、実際には手に汗握りながら眺める彼らの表情が、何か納得したようなものに変化した。

 

『ほら嬢ちゃん、これで顔を拭きな』

 帽子と髭の間、感情の読めない瞳をした男が、水で濡らした布を黒江に手渡し顔を拭うジェスチャーをした。

 

「おおっと、わざわざありがとうござます」

 

 黒江は、手渡された粗末なタオルのような布と男の顔を交互に見て、彼の真似をするように顔を拭った。しかし、すでに乾いていた血液の汚れはなかなか落ちない。それは体や衣服も同じことで、黒江と髭面の男は困ったように笑い合った。

 

『そうしたら馬車に乗りな。こんな場所、とっと抜けちまうに限る』

 

 男は馬車の荷台を軽く叩いて、親指をその中へ向ける。彼はその動作を二回繰り返した。彼が何を言いたいのか理解した黒江は、満面の笑みを浮かべながら何度も頭を下げた。コートの男が重そうな木箱を荷台に乗せると、シャシーと車軸の間のリーフスプリングが苦しげに軋む。

 

「あ、乗せていただけるんですか? いやほんとありがとうございます助かりますー! サンキュー! メルシー! ダンケシェーン! グラッツェ!」

 

 黒江は異世界にて触れた人間の温かみに感動しきりだった。言葉なんて重要じゃねえ。理解(わか)り合おうってマインドが大事なのさブラザー。レッツプリミティブコミュニケーション。

 自分がどこへ向かうのかも知らず、能天気にそんなことを考えていた。

 




2022.01.28 誤字修正
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