Chloe 〜メスケモTSっ娘が異世界で幸せになる話〜 作:ふえるわかめ16グラム
ルイスは疲れていた。
というのも、念願叶って師事することになった魔術学の権威、エドワード・ルウェイィル=アイヴ・マッケンジー教授が、彼の想像する何倍もアクティブな人だったからだ。幼い頃から病弱だったルイスにとって、泳ぎを止めたら死んでしまうマグロのごとくあちこちを駆け回る老教授のお供を務めることはほとんど命がけであった。
だが、幼い頃からの憧れであり、目標とするマッケンジーの側で学ぶことができることの代償として多少の無理は当然である。むしろお釣りが来るくらいだ。それに、体の方も慣れてきたせいか、近頃は生まれてからこれ以上ないくらい快調だった。
寒さの緩み始めた三月の初旬。そんな彼らは今、バーガンロウ遺跡群の入口に立っていた。このバーガンロウ遺跡群周辺は、千年以上の昔、古の王朝が滅んで以来歴代の支配者によって禁足地とされてきた。だが、この度ついに立ち入りが解禁されることになったのだ。その本格的な解放に先立ち、事前調査のための先遣隊としてマッケンジー教授一行が派遣された次第である。
古い石塀で閉ざされた、鬱蒼と茂る森へ続く正式な道は一本のみ。その道は頑丈さだけが取り柄のようなゲートによって閉ざされ、両脇には小銃を掲げた歩哨が立っている。今まで乗ってきた馬車はここまでしか入れず、残りは徒歩で現地入りとなる。
目の前に広がる、長い間人を受け入れていない土地の、想像以上の物々しさと緊張感にルイスは息を飲む。しかしその横では、紙巻の煙草を咥えたマッケンジーが枯れ枝のような四肢を伸ばしていた。
「ついに……バーガンロウの神秘を暴く時が……」
「ほんと邪魔だったよね、ここ。ヘントベリーに近いくせしてずっと入れないんだもん」
マッケンジーはマッチで煙草に火を付けると目を細め、年季の入った擦弦楽器のような嗄れ声でそう嘯いた。彼は軸木を持った手を振ってマッチの火を消すと、足元にそれを投げ捨てた。
「教授は、その……なにかしら感慨とかは……」
「ないね、特に。僕らはいつも通りにやるだけだよ。パーカー君は力みすぎ」
「は、ハイ!」
ルイスは、この飄々としたエルフ族の老教授のことを半ば崇拝していた。見ようによってはいまいちやる気や覇気の感じられない彼の物腰も、ルイスの脳内フィルターを通せば何でもかんでも美化されて映るのだ。ちなみに今のは『大仕事を目の前にしても普段と変わらず冷静沈着、さらには若輩者の自分のこともしっかり見てくれているなんて素晴らしすぎる』とルイスは受け取った。なかなかどうしてめでたい頭である。
彼ら以外にも続々と馬車から調査隊の人間が降りてくる。しかし大学の関係者などは少なく、そのほとんどが猟師や軍人といった護衛のための人員であった。
小慣れた動きで荷馬車から荷物や野営のための資材を下ろしていく彼らを眺めながら、ルイスはなんとも言い表せられない心持ちになった。
「正直、ここら一帯はもう、魔術的なリスクより野生動物や犯罪者連中に出くわす方が可能性として高いんだよ」
煙草の煙を吐き出したマッケンジーは、ルイスの思いを察したように言葉を溢した。
「そうなんですか?」
マッケンジーの言葉に驚いたルイスは、ブルーグレーの瞳を大きく見開いて老教授の方を見る。
「長い間雨ざらし、吹きっさらしで原生林となんら変わらないような遺跡だよ? 君も知っている通り、魔術は精密かつ繊細な技術で成し得る奇跡のイミテーションだ。とっくの昔にほとんどが風化しきっているよ。……よしんば生きた陣なんかがあったとしても、現代を生きる我々には起動すらままならないだろうさ」
心底つまらなさそうに吐き捨てるマッケンジーの目は、どこか遠くを眺めているように見える。彼は最後の一口を吸うと、マッチの軸木と同じように地面に放り、煙草の火を踏み消した。
「それに、長いこと立ち入りを禁止されていた訳だから、後ろ暗い連中の隠れ蓑にはお誂え向きだろうね」
「なるほど……だから人数の割に軍人が多いんですね」
ルイスは、揃いの外套を着込んだ男たちを横目で捉えながら、耳打ちをするように相槌を打った。
「そういうこと。そういえばパーカー君のご実家、軍人一家だったよね。軍人さんの相手するの得意?」
「得意かどうかわかりませんが、慣れてはいると思います」
「そうかそうか。僕は陸軍さんも海軍さんもどっちも嫌いだから、これからそういう接伴は君に任せようかな」
「教授のお役に立てるなら、なんでもやります!」
不健康そうな白い頬を上気させ、双眸を輝かせる若人を眺めマッケンジーは(この子チョロいなあ)と思いながら口髭を撫で付けた。彼は皺の刻まれた瞼の奥、薄緑の瞳を細める。かつては美しかった金髪も寄せる年波には敵わない。トレードマークのハンチング帽から覗く、そのほとんどが白髪になった頭髪を、まだまだ冷たい春風がさわさわと揺らした。
****
ルイスは疲れ果てていた。
バーガンロウの地で活動を始めてから、休みという休みもなく動き回っていたからだ。正式な許可を得ての研究調査にしては冷淡な反応をしていたマッケンジーだったが、蓋を開けてみれば彼が最も精力的に動き回っていた。そしてこのバーガンロウはあたり一面、人の手が入っていない丘陵地帯である。形を残している遺跡は丘の中腹や頂にあることが多く、丘を登っては降り、登っては降りの繰り替えしで疲労困憊だった。
そして、調査メンバーよりも多い猟師や軍人の護衛の必要性も身にしみた。一歩禁足地へ踏み入れれば、そこは人間の手が入っていない手付かずの大自然だ。山歩きに慣れた猟師たちが先導し、危険な野生動物と鉢合わせたりしないよう進み、野営地を選ぶ。そうやってさらに深いところまで進めば、勝手に拓かれた道やバラックの跡があちらこちらから出てきた。
その道はしっかりと踏み固められ、轍もはっきりと残っていることから、それなりに往来があるということを示していた。バラックも新しいものから朽ち果てそうなものまで選り取り見取りだ。空き缶や空き瓶、さらには空薬莢といったゴミも散乱している。
この地に、神秘のヴェールに包まれた禁足地というイメージを持っていたルイスは、それが幻想だということをまざまざと見せつけられたのだった。
「きょっきょきょ、教授!!」
そんなバーガンロウの中で最も標高の高い丘にそびえる遺跡——丘の斜面に沿うように建てられた姿から、通称『巨人の堡塁』と呼ばれる——を調査している時だった。この建造物はマッケンジー曰く、あたり一面を取り仕切る行政や大学の機能をひとまとめにした施設だと推測されるらしい。かつて魔術が隆盛を誇った時代、魔術を扱うことは一種の特権とされており、彼らの社会的地位はかなり高かったという。
そんな栄光も今は昔。屋根は抜け落ち、ほとんどの部分は自然に還りつつある。その中でも比較的程度の良い大部屋にて。慌てふためいたルイスが、床に開いた隠し扉から飛び出してきた。
「おや、珍しい鳥がいると思ったら、君はルイス・リチャード・パーカー氏ではないかね」
「こっ、ここ、この下! 地下室になっていまして、そこに血が! 大量の、血痕なんです!」
ルイスは顔を青くしたまま地面の下を指差し、要領を得ないことをまくしたてた。
「……君が鳥類から人類に進化できる魔法が見つかることを祈っているよ」
マッケンジーは憎まれ口を叩きながら肩をすくめる。しかし彼は己の手を止めると灯油ランプを片手に、硬い表情をした教え子の元に向かった。
「これは……」
果たして、石段を降りた先には黒ずんだ血の跡が広がっていた。ランプの橙色の灯によって、血の広がったあたりが部屋の隅以上に薄暗く見える。そして、その血痕の中央には円を基調とした複雑な文様——魔法陣だ——が刻まれていた。血染めの魔法陣を見下ろしたマッケンジーは目を見開き、わずかに息を飲み込んだ。
というのも、彼は長い研究生活の末、生きた魔術に対する感覚が研ぎ澄まされているのだ。目の前の一見おどろおどろしい魔法陣からは、発動後あまり時間の経っていない、独特の金属めいた臭いがした。最後に動作してから、およそ一週間も経っていないだろうとマッケンジーの経験は告げている。
「なるほど、まだ生きてる陣があったなんてね。それについ最近、発動までしたらしい」
マッケンジーは口ひげをいじりながら所感を述べる。ランプの灯が反射する彼の緑の瞳に、知性の色が煌めくのを見据えたルイスは、己の背中に緊張の汗がにじむのを感じた。
「教授……この魔法陣は、何か重大な発見だったりするんでしょうか?」
「これは……」
「……これは?」
「これはありふれた変身術だね。イタズラ目的の」
「……イタズラ目的の」
「こういう隠し部屋だったりにはよくあるんだよ。魔術に身を捧げてきたような連中だろう? くだらないイタズラにもやたら凝ったものを用意するんだ。いい性格してるよね」
マッケンジーは「さすが我々のご先祖様だ」と続けると、魔法陣のそばにしゃがみこんだ。
「管理者による正式な許可を得ないまま踏むと発火する仕組みかな? ここから上に導線が伸びているから入り口あたりのどこかで判別してそうだね。立ち入ってすぐに発火しないから余計に嫌らしい」
彼は自分自身で「ありふれた」と吐き捨てた割には真剣な眼差しで解読を進めていく。
「わざわざ魔法陣を床に掘るかい、普通。意味を持たない飾り文字も多いし、この部屋の
「それで、これにはなんの意味が?」
「意味なんてないよ。これ、引っかかったやつの姿をランダムで変えるだけだもの。困って慌てふためいてるところを見て面白がるためだけの魔術」
「それだけのためにこんな陣を……」
「最早狂的だよね」
マッケンジーは部屋をぐるっと見回すと「それに、この部屋も大して重要な部屋ではなさそうだね」と嘆息した。
「それはどうしてでしょうか……」
「だって重要な場所だったら、最初から入りにくくするか殺したほうが早いでしょ。入り口もわかりやすかったし」
「……確かに」
彼の歯に衣着せぬ物言いに、ルイスの顔がくしゃっとなる。彼の敬愛する現代の魔術師は、同時にリアリストでもあった。ルイスの青い高揚感とロマンはあっという間に粉々になった。
「浮浪者か破落戸か、何者かが扉を踏み抜いて滑落。運悪く生きた陣に出くわして姿を変えられ、慌てて這い出たってところかな。階段にも血が付いてる」
ルイスはマッケンジーの推察へしきりに感心しながら、「でも、どうして急に起動したんでしょう。普通、設置型でも供給源がなければ起動に必要な分のエーテルは揮発してしまいますよね」と疑問点を口にした。
「いいところに気がついたねパーカー君。この遺跡へのエーテル路は完全に枯れているのは確認済みだ。おそらくこの陣が保持できるエーテル量も、保って数年がいいところだろう。ではなぜ直近になって起動した上に発動までしたんだと思う?」
わずかに考え込んだルイスだったが、視線を足元に持っていけば自ずと仮説が浮かんできた。
「……血でしょうか? 確か人間の血液は優秀な燃料になり得るという記録があったはずです」
「そう、その通り。古くからエーテルの代替や効率化の可能性を求めて、世界中で人の血液が研究されてきたのは君も知っての通りだ。そして、血液は確かにエーテルの代わりを務められるだけのポテンシャルがあったと記録にもある。……最悪な燃費を除けばね」
「そうなんですか? いかにも効果がありそうですが」
「結局、人間の血なんて大した力を持っていなかったのさ。これ、結構な出血量だけど、多分この陣一回分で打ち止めじゃないかな。こんなイタズラ程度の魔術に人間一人分の血液。どう思う?」
「……割に合わないですね」
「そうだろうそうだろう。人の命が今よりずっと安かった野蛮な時代においても、わざわざ血液だけを元手に魔術を行使することはなかったそうだよ。なにせ無尽蔵にエーテルが溢れ、簡単な術なら従来の手続きなしで行使できた時代だ。まったく、霧が晴れる前の世界というのはデタラメだな」
マッケンジーは床に転がっていた襤褸切れを持ち上げると、少し眺めるだけで「帝国末期の魔術師ギルドのローブだ。こういうところでよく発掘される」と断定した。彼は興味を失ったようにそれを畳むと、手頃な位置にあった瓦礫の上へそっと置いた。
ルイスは落胆のにじむため息を吐くと、あたりをくるりと見回した。これ以上の発見があるとは思えないが、完全に萎れてしまった高揚感を宥め賺すためだ。すると、階段の陰に、手のひらに収まる大きさの何かが落ちているのを発見した。最初は小石か何かかと思ったが、反射した光の質感がどうにも石らしくない。それを不思議に思ったルイスは、その疑問を確かめるために足を向けた。
彼が拾い上げたそれは、無染色の皮革で拵えられた小物であった。使われている革は分厚く上等なもので、コバも丁寧に処理されている。しかし縫い目はわずかに揃っておらず、いささか不恰好であった。もしかすると、このぶち撒けられた血痕の主の所有物ではないだろうか。ルイスはこの場に似つかわしくない革細工をぐるりと眺め、瓦礫の隙間を覗き込むマッケンジーへ声をかけた。
「教授、こんなものが落ちていました」
「うん? 随分綺麗な状態の革細工だね。……ここに落ちた誰かさんの持ち物かな」
「ほとんど傷も付いていませんし、革も新しい物みたいですので、私もそう思います」
ルイスから例の革細工を受け取ったマッケンジーも、ルイスと同じような印象を抱いたようだった。彼はそれを興味深目に眺めると、なんのためらいもなくスナップボタンを外した。
「ふむ。これは、鍵かな? 見たことのない形だけど」
「本当だ。でも、なんというか……すごく単純な鍵山ですね」
「うん。なんか変な鍵だね。山はほとんどないけど、それの代わりなのかな、この側面の溝と凹みは」
「なるほど、こっちの細長い方も似た感じですね」
真新しい革細工には、二本の鍵が仕舞われていた。片方は一般的な住宅などに使われている鍵で、もう片方は頭がプラスティックに覆われた、チェーンロック用の鍵だ。どちらもディンプルキーで、この世界では未だ発明されていない鍵である。しかし彼らはその形状と大きさからあたりをつけたのだった。
「ううん、なんの鍵だろう。工学科の人なら詳しくわかるかな?」
「どうでしょうねえ。……というか教授、それ持って帰る気満々ですか」
「いいじゃないいいじゃない。他に面白そうな物もないんだし。それに、本来ここは立ち入りが禁止されている場所だよ? 我々の調査のサンプルとして持って帰っても文句は言われまい」
「あっはい」
マッケンジーはキーケースをルイスへ手渡すと、腕を組み呆れたような声音で呟いた。横目で床を見つめるその瞳には、わずかに同情の色が窺える。
「しかしまあ哀れなものだ。彼だか彼女だか知らないが、もう二度と元の姿には戻れないんだからね。パーカー君も気をつけたまえよ。今回は不運なケースだが、魔術に関わる以上、事故はいつだって起こりうる」
ルイスは手中に収まったキーケースの表面を撫でると、感慨深く頷いた。
「はい、肝に命じます! ……ちなみに、もう二度と戻れないとはどういうことでしょう?」
「うん。さっき気づいたんだけど、コレ、解除用の術は施術者に紐づくみたいなんだよね」
「……つまり、元の姿に戻るためには、この魔法陣の作者が必要ということですか」
この遺跡は千年以上昔のものである。比較的長寿と言われるエルフ族ですら人生百年とちょっと。朽ち果てた遺跡の主人が存命とは冗談でも思えない。
「そのとおり! おとぎ話の中のエルフなら今もどこかで生きているかもしれないがね! わっはっは!」
マッケンジーは何が面白いのか、ケタケタと笑いながら階段を登っていった。
その枯れ枝のような後ろ姿を、ルイスは慌てて追いかける。所々苔むした足元へ気を配りながら石段を登りきると、彼は眩しさに目を細めるマッケンジーへ声をかけた。
「教授もそれくらい長生きしそうですけど」
「なにを言うんだパーカー君。僕ももう百を超えた老いぼれだよ。よくてあと二、三十年でお迎えさ」
ルイスの声に、マッケンジーはグリーンの目を半眼にして嫌味ったらしく返事をした。ルイスは老教授の演技がかった物言いに小さく笑うと、彼の隣に並んで言葉を続ける。
「研究室の皆さんも、教授ならもう百年はピンピンしてるだろうって言ってましたよ」
「それは大変だな。そんなに時間があっては僕一人で世界中の謎と神秘を解き明かしてしまう!」
「ははは。さすがです、教授」
「さて、大方もう見て回っただろう。あたり一帯に特に危険な残留物などなし。我々の仕事もおしまいだ。あとは本隊に任せてさっさと研究室に帰ろう。こんなつまらない場所よりもっと面白いところが世界にはたくさんあるんだ。時間は有限だぞ! それこそ一千年の寿命じゃ足りないくらいにな!」
眼下に広がる遺跡の数々を笑い飛ばしながら、マッケンジーは胸中で独り言ちた。
たとえ千年紀をまたぐ寿命があったところで、この世の全てを知り尽くすことは到底かなわないだろう。
かつて、夏の早朝の霧が街を覆うように、世界がエーテルで満たされていた頃。おとぎ話のような時代。永い時を生きたと伝えられている先祖たちも、自分と同じようなことを考えたりしただろうか。歳を重ねるたびに身体は言うことを聞かず、五感は鈍くなるばかり。刺激の少なくなった日々に、己の無力さや小ささを感じる。
その度に強く思い知らされるのだ。
この世界のなんと広いことか!
遥かな宇宙の片隅に浮かぶ母なる大地の隅々で、今も数多の神秘たちが息を潜めて、白日のもとに晒されるのをじっと待っている。もちろん、今回の仕事も言うほど悪くはなかった。しかし、自分に残された時間はあまり多いものではない。そろそろ、仕事を選ぶべきだろうか。
マッケンジーは心のどこか、焦りを感じ続けていた。