Chloe 〜メスケモTSっ娘が異世界で幸せになる話〜   作:ふえるわかめ16グラム

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06 ザ・ワーカーズ・アー・ゴーイング・ホーム

 黒江が髭面の男に促され馬車の荷台に乗り込むと、そこには先客がいた。赤毛をおさげにしたグリーンの瞳の少女だ。見窄らしいワンピースから覗く指先や頬は、骨が浮き薄汚れている。年の頃は、およそ十四から十六歳くらいだろうか。

 

『おい、この嬢ちゃんが怪我してねえか診てやれ。血は乾いてるみてえだが、どこか大怪我でもしてたら事だ』

『は、はい……』

 

 男は少女へ、黒江に怪我がないか確かめるよう言いつけると、荷台の幌を閉じて御者台に乗り込んだ。男の重さに、車体の下の板バネがギシリと軋む。

 

『あ、あの、もしこの子が怪我をしてたら、私はどうすれば……?』

『そうしたらおれに言え。……あと水だ。必要だったら飲ませてやれ』

 

 荷室の広さは、およそ普通車のトラックの荷台と同じ程度だろうか。黒江の予想以上に木箱などの荷物が詰め込まれた荷台の中、少女が御者台の方へ近寄り声をかけた。すると幌の向こうから男のつっけんどんな返事が届き、その隙間から金属製の水筒を持った手が突き出てきた。その水筒は底が潰れた楕円形をしていて、いたるところに凹みや煤汚れが付いている。鈍い金属光沢をまとったそれは、軍用の水筒によく似ていて、このまま火にかけることで煮沸できるんだろうなと黒江は推察した。

 

 少女は腕を伸ばし水筒を受け取ると、怯えの混じった、訝しむような視線を黒江に向けた。痩せっぽちの少女は、わずかに残ったあどけなさと、強かさが同居した勝気な印象の目をしている。薄暗い荷台の中、彼女の白目だけがひどく浮いて見えた。

 

「あー、大丈夫大丈夫怖がらないで。オレ怪しいもんじゃないよ、ちょーっと見た目がアレなだけで……」

 

 黒江は肩に羽織ったジャケットの前から両腕を出すと、体の前で手のひらをヒラヒラとさせた。すると、血に汚れたシャツや手のひらなどが露わになる。

 薄暗い馬車の中にあってもなお白い毛並みに、黒ずんだ血の跡。

 そして、相変わらずこの世界の住人からしてみれば下着と大差ない格好。少女はハッと息を飲むと、男から言いつけられた事を思い出し黒江へ近寄ろうとした。

 

 ちょうどその時である。手綱を握る、コート姿の男が馬へ合図を送ったのは。

 

「のわっ」『きゃっ』

 

 予期せぬタイミングで動き出した馬車の揺れに、不意打ちを食らった黒江と少女がよろめく。特に赤毛の少女は進行方向に背を向けていたので、勢いよく正面の黒江の方へつんのめってしまった。

 

 現在の黒江はこの少女よりいささか背が低い。だが、黒江の中身はれっきとした成人男性なのである。彼女は、まだ子供と呼んで差し支えない少女の肩を咄嗟に抱きとめようとした。

 

 しかし当たり前といえば当たり前だが、背も縮んで腕も細くなった黒江に、勢いのついた少女の体重を支えられるはずもなく。黒江は少女を受け止めたまま後ろへ倒れこみ、後アオリの縁へ後頭部を強打した。

 

「んがっ…………いっ、でぇぇえおぉぉぁぁぁああああ……」

 

 荷台の中、他の荷物に挟まれたわずかなスペースで黒江がのたうちまわる。器用に転がりながら痛みに耐える黒江を目前に、彼女に庇われた少女は目を丸くしていた。

 ガタゴトと賑やかになってきた馬車の中、「ぐおぉおおぉぉおお」と奇声をあげて転げまわったり海老反りになったりして悶える黒江。しかし、幸いにも大きな怪我などはないようで、うんうん唸っている間に痛みが引いていったようだった。

 

「あ゛ーヤバ、今ので頭二つになったわコレ、どうしよう天才になっちゃう……。あ、きみ大丈夫だった? 怪我とかしてない?」

 

 黒江は後頭部を摩りつつ半身を起こすと、丸い瞳の端に涙を滲ませながら少女へ怪我の有無を問うた。

 

『あっ、いけない!』

 

 赤毛の少女は口元に手をやり声を上げた。そもそも、髭の男から、黒江が怪我をしていないか診てやれと言われていたのだ。彼女は顔を青くすると、胡座をかいて座り込んだ黒江の元へにじり寄る。

 

『さっきはごめんなさい! それと、庇ってくれてありがとう。えっと……怪我はないかしら?』

 

 なぜ黒江と馬車に乗り合わせることになったのか、少女はよく知らない。先刻の小休止の際、男たちが何やら話し合っている声は聞こえていたが、どうせ自分には関係ないことだと聞き流していた。しかし蓋を開けてみれば、血で汚れた得体の知れない獣人の少女と相乗りである。疑問や疑惑は尽きないが、与えられた役目を果たさなくては、という思いがあった。

 

「うおっ。なんだなんだ、頭?」

 

 戸惑う黒江に構わず、少女は黒江の後頭部を覗き込んだ。言葉は通じないが、少女は『ごめんなさいね』と呟くと、黒江の頭髪をかき分けて外傷の有無を確かめる。

 人買いに売られた挙句、荷物と同様の扱いを受けてきた自分とは違って、この獣人の少女は随分と男たちから心配されていたようである。その扱いの差に少しばかり不愉快さを覚えていたが、そんなことを気にしている場合ではなかった。少女は、黒江の身を案じつつ内省した。

 

「あ、怪我ないか診てくれてるの? いやあごめんねありがと。でもたんこぶくらいだから平気平気。かえって膨らんだ分頭良くなるぐらいだわ、わはは」

 

 黒江はなるべく穏やかな声音で軽口をたたいた。というのも、痛みに耐えている間、目を点にしていた少女の顔色が次第に青ざめていくのを目撃していたのだ。この少女は、自分のせいで怪我をさせてしまったんじゃないか、そう思い込んでしまっているんだろう。黒江は心配無用だと伝えるため、背後に回り込んでいた少女を振り返ろうとした。

 

『あの、ごめんね、私、あなたが他に怪我してないか確かめなくちゃいけないの』

 

 少女は黒江の背後に回ったまま、黒江のシャツの裾を握りしめそう言った。そして、シャツを掴まれ困惑する黒江に対し、いたたまれなさと申し訳なさで視線を落とした少女は、一息に裾をガバリとめくり上げた。

 

「ウワァーッ!?」

 

 黒江は可憐な少女の声音で、ちっとも可愛げのない悲鳴をあげた。

 

『なんだ、何があった!? ……何してるんだ?』

 

 その素っ頓狂な叫び声を聞いて、御者台に座った男たちが荷台を覗き込む。するとそこは、目を丸くし毛並みを逆立たせた黒江が、今まさにシャツをひん剥かれようとしているところであった。

 

 実のところ、赤毛の少女もテンパっていたのだ。わざわざシャツをめくり上げなくとも、むき出しの手足を確かめたり、ボディーランゲージで意思疎通を試み、もっと穏便に済ますことができただろう。後から思えば様々な選択肢が考えられたが、黒江に庇われた負い目や、男からの言いつけを守らなければという焦りによって、頭が真っ白になっていたのだった。

 目を白黒させ硬直する黒江と、イマイチ状況を理解できていない男たち。車体の揺れに合わせて積荷が立てる雑音だけが鳴り響く沈黙の中、赤毛の少女は黒江に怪我がないか体の隅々まで確かめていく。

 

『あの! この子、特に大きな怪我はしていないみたいです!』

 

 少女は黒江が無傷であることを簡潔に報告しながら、捲り上げていたシャツの裾を戻した。

 

『お、おう、そうか……。なら、静かにしていろ。いいな』

「君、なかなかに大胆ね……」

 

 黒江は力なく呟きながら、解放されたシャツの裾をハーフパンツのウエストへ仕舞い込んだ。もともと男である上に、メリもハリもない貧相な体である。誰に見られて減るものではないと思っていたが、なかなかどうして他者にひん剥かれそうになるのは堪える。まるで数年分、急激に老け込んだ気分であった。

 

『あと、これ、お水。喉が渇いてたら飲んでいいって』

 

 赤毛の少女が黒江の目の前へ水筒を掲げる。少女の声に顔を上げると、容器の中で水が揺れるちゃぽんという音がした。実際、黒江は喉の渇きを覚えていた。なにせ昨晩から一切水分を補給していないのだ。そんな状態で、目の前に水で満たされた水筒がある。

 たいして出てこない唾を飲み込んだ黒江と少女の目が合う。

 

「えっと、それ、飲んで、いいの?」

 

 焦りすぎないよう、なるべく落ち着いた声音で、ゆっくりと少女へ問いかけた。

 掲げられた水筒を指差し、次に己の口元を指差す。そして、両手で物を持つ真似をすると、飲み物を飲むジェスチャーをした。

 黒江の問いかけに、少女は痩せた頬へ笑みを浮かべ頷いた。彼女は水筒のスクリューキャップを緩めると、念押しにもう一段黒江の方へ腕を押し出した。

 

「ありがとう」

 

 黒江は少女から水筒を受け取る。己の両手に収まった、凹みの目立つ歪んだ金属水筒はほのかに暖かい。先ほどの広場で沸かした水でも詰めていたのだろう。黒江は緩みそうになる頬を引き締めると、深々と頭を下げ礼を述べた。

 

 自分を馬車へ乗せてくれた男たちにも、後でお礼を伝えなければ。黒江は荷台と御者台を隔てる幌に向けて小さく会釈すると、水筒へ口をつけた。

 

「いただきます——んぐうぉっぷ」

『……ちょっと、なにしてるのよあなた!』

 

 黒江としては、水を施してくれた男や体を気遣ってくれた少女に報いるために出来るだけ美味そうに飲むつもりであった。イメージとしては、スポーツドリンクの広告である。

 しかし、黒江は己の肉体について無頓着すぎた。

 そもそも、口の大きさから形まで、すべてが今までと違うのだ。勢いよく流し込んだ水で、黒江の口内はすぐに一杯になった。彼女は慌てて口を閉めようとしたが、想像以上に水の量が多かったため、その半分ほどが唇の隙間からダダ漏れになってしまったのだった。なお、急に咽せたため鼻からも少し出た。

 

「……ごべんなざい」

 

 口元とシャツ、ハーフパンツを濡らした黒江は、虚ろな目をして少女へ謝罪した。

 いい歳をした大人が——焦って飲み物をこぼす子供のような——粗相をしてしまった。穴があったら入りたいとは正にこのこと。黒江はじくじくと襲いかかるいたたまれなさから、正座になって居住まいを直した。彼女の白い毛並みに覆われた両耳はぺたりと倒れている。ここにSNSなどで定番の「わたしは〇〇をしました」の札を首から掛ければバズること間違いなしだ。この場合、「わたしは大人のくせにお水を飲むのに失敗しドチャクソ溢しました」とでも書けばいいだろうか。

 

『フフッ……アハハ! 大丈夫、私怒ってないから。ねえあなた、名前はなんていうの?』

 

 黒江と向かい合う位置に腰を下ろした少女が、彼女に問いかけた。しかし黒江には、相変わらず何を言っているのかチンプンカンプンである。黒江は眉尻を下げたまま小首を傾げてみせた。

 

『私、マリアっていうの。()()()

 

 赤毛の少女が、胸元を指差しながら、はっきりとした発音で己の名前を告げた。マリアは黒江の目を見つめながら、もう一度名前を口にする。すると黒江の瞳に理解の色が浮かぶのを察した彼女は微笑みながら、自分を指していた手を黒江へ向けた。

 

「黒江。く、ろ、え。も、と、は、る」

 

 黒江もマリアと同じように、一音一音区切るように名乗った。マリアは『クロエ? クロエ、までが名前よね?』と薄汚れた頬に笑みを浮かべた。

 はじめてコミュニケーションが通じあったことに黒江も破顔すると、少女に手を向け“マリア”と、己の胸を指し“黒江”と繰り返した。

 

『クロエ……マリア』

 

 マリアも、黒江と同じことをして見せる。

 二人はしばらくの間、同じ動作を繰り返す。片方がもう片方の名前を呼べばうなずいたり、親指を立てたり指でオーケーのマークを作ってみたりした。そしてその度にくすくすと笑い合う。黒江とマリア、お互い意識せず張り詰めていた緊張の糸が切れたようだった。

 

「よろしく、マリアちゃん」

『素敵な名前ね、クロエ』

 

 

 ****

 

 

 生まれて初めて乗る馬車はひどい乗り心地であった。しかし、少なくとも人間が文明を営んでいる場所へ行けるだろうという安心感から、黒江は荷物に寄りかかって船を漕いでいた。そして、いよいよ深く眠り込んでしまおうかという時、彼女の耳へ様々な騒音が飛び込んできた。たった一日耳にしていなかっただけではあるが、どこか懐かしさを覚えるような喧騒である。

 黒江はその喧しさによって浅い眠りから覚醒した。彼女はひとつ大欠伸をすると、生理現象として滲んだ涙を指先で拭う。

 

 未だ眠気の残る目元を擦る黒江の隣では、マリアが幌の隙間から外を眺めていた。薄汚れた頬は年相応に赤みを帯び、未知の光景に衝撃を受けているのか、グリーンの瞳はキョロキョロと揺れ動いている。

 

「なになに、マリアちゃん、なんかあった?」

『すごい……人が、いっぱい……』

 

 お互い言葉は通じていないが、同じ荷馬車に乗り合わせた仲である。別々の言語を話しながら、なぜか噛み合う会話を交わすとマリアが黒江へ場所を譲った。マリアは体を避けつつ、自分の目と隙間を交互に指差している。お前も見てみろということだと察した黒江はコクコク頷くと、硬い床のせいで痛む腰を労わりながら幌の隙間を覗き込んだ。

 

 幌の隙間、狭い視界の外側は夕暮れ時であった。彼女たちの乗る馬車は、ヘントベリーの郊外へ差し掛かっていた。馬車が何台もすれ違えるような、石畳が敷かれた幅員の広い道だ。人々は皆早足で、乗合馬車などの乗り物も多く行き交っている。田舎から出たことのないアンナにとってはそれだけで驚きだった。

 そして道の向かい側では、煉瓦造りの角ばった建物が規則正しく立ち並んでいる。建物群は橙色に染まった空を背景に、そびえ立つ煙突から黒々とした煙を吐き出していた。黒江はひどく緩慢に空を見上げ(なんか工場団地みたいだな)と感想を抱いたが、それは間違いではない。ここはかつて世界の工場と謳われた、連合王国が誇る工業地帯の外れである。

 

 そんな物々しさすら覚えるような建造物から、労働者たちがぞろぞろと吐き出されていた。そのほとんどは女性で、誰も彼も疲れた顔をしている。そして丁度、黒江の乗る馬車を、バランバランと騒音を撒き散らす自動車がえっちらおっちらと追い抜いていった。

 

(直管マフラーかよ、うっせえなあ……)

 

 黒江は寝起きでぽわぽわする頭のまま自動車の騒音へ悪態を吐いた。ふと視線を移せば、自転車も多数走っている。前輪と後輪のバランスが極端なアレではなく、体の下にペダルがありチェーンで後輪を駆動する、俗にいうママチャリのような見た目の車両だ。そして数は少ないが、二輪車の中にはオートバイも混じっているようである。

 自動車とオートバイ。そのどちらも、馬車に後付けのようなボンネットをくっつけたような造りであったり、自転車のフレームの隙間に小さなエンジンを詰め込んだような原始的なものだ。しかし彼らは元気にガソリンを燃やし、ゴム製のタイヤで大地を蹴りつけていた。黒江にとって馴染み深い排気ガスの臭いを撒き散らしながら。

 

(随分なクラシックカーだなぁ。…………んンゥ自動車!? それにバイク!?)

 

 黒江の眠気は跡形もなく吹き飛んだ。

 

「全然中世じゃないじゃん!! 嘘だ!!」

 

 黒江は勝手に憤っていた。中世じゃないも何も、そもそもが全て黒江の妄想である。黒江は歴史に明るくない人間であった。なんとなく昔っぽい服装だし、移動手段が馬車というだけで勝手に中世ヨーロッパ風異世界と判断していたのだ。

 だがしかし、目前に広がる世界は明らかに中世風のそれではない。

 

「ちょっ……おまっ……ファンタジー要素どこだよ……!? バリバリに科学じゃん? えっ何、剣も魔法もないんだよってこと? なのにオレこんな目に遭ってんの? おかしくない!?」

 

 黒江がこの世界にやってきた時、よくある超常的な存在から何らかの能力を授けられるなんてことはなかった。なかったのだが、現によくわからない何らかのせいで黒江の姿形は変わってしまっている。そんな事があったせいか、彼女はこの世界に、若干のファンタジーなあれそれ(テンプレ)を期待しているところがあった。できることなら、チートで無双とか現代知識でオレスゲーとかやってみたかった。しかし残念ながら、幌の隙間から垣間見た景色は、どこからどうみても産業革命を経てモリモリ発展中の世界である。黒江の妄想とは正反対の、教科書に載っていた白黒写真のような世界が広がっていたのだった。

 

「いや、よく見りゃなんか耳の長い人いんじゃん! エルフか!? あと犬っぽい顔の人もいるし、ワンチャンあるか!?」

 

 確かによくよく見てみれば、自動車の後部座席に乗った紳士の両耳は横に長く伸びていたし、道の端を歩く人々の姿は、黒江のような毛皮に包まれた者や腰ぐらいまでしか背丈のない者など、それなりにバリエーション豊かである。一応、ファンタジー的異世界といって間違いではないらしい。

 

 

 

 黒江はそこそこオタク気質であった。漫画はよく読むし、アニメも気になるものがあれば見る。これは黒江が抱いている悪意百パーセントの偏見だが、音楽系の専門学校に進学するようなやつは自分含め大体オタクの気がある。よくあるチャラいイメージのバンドマンは、高校の文化祭のステージ発表などで満足して普通の大学へ進学するのだ。彼らはそこらへん現実が見えているので、そつなく人生のステージを上げていける人種なのである。

 

 それと比べて、大した成功体験もなく鬱屈したものを抱え、音楽への曖昧な憧れを持ったまま専門学校の門を叩くやつは大体ロクでもないやつらだ(これも自分含め)。しかし、その中で黒江は比較的現実が見えていた方であった。ベース専攻で入学したが、同期には自分よりめちゃくちゃに上手い連中がわらわらいた。そして、そんな連中でも、まともに音楽で食っていけるものは一握りであるという現実。

 

 ちょっと想像すれば入学前にわかるようなことだ。しかし、あまりおつむがよくなかった黒江少年は、入学後にようやくその現実を目の当たりにしたのだ。右も左も今まで見たことないくらい楽器が上手い連中ばかり。それこそ黒江の育っていない耳では、プロと遜色ないように聞こえるレベルだ。先輩なんてまるで現人神である。それなのに、音楽で生計を立てていけるのは一握り。現実を直視した黒江の心は、専門学校入学後にあっけなく折れてしまったのだ。ポッキリと。

 それから黒江は、プレーヤーとしての憧れをさっさと捨て去り、OBや講師との伝手を作りまくった。そのかいあってか、楽器や音響機器の販売・貸し出しを行う企業に勤めるOBに気に入られ、めでたく安定した進路を手に入れたのだった。

 

 

 

「オレどうなっちゃうんだよお!」

 

 外を見るなり何やら喚きだした黒江を、マリアは幼い子供を見守るような面持ちで眺めていた。

 この国の言葉が通じないなんて、きっと、この子はとても遠いところからやってきたのだろう。だからこの、世界一の大都会、ヘントベリーの町並みを見て目を白黒させているのだ。かくいう自分も初めて見るものばかりで驚いたが、クロエの百面相と比べたら可愛いもの。幌の隙間を広げんばかりにかじりつくクロエは、両耳と尻尾を表情に合わせて忙しなく動かしている。マリアはいつの間にか、自分より小さな体つきのクロエに、幼いきょうだい達へ抱く愛情と似た感情を覚えていた。

 

 もし、末の妹がこの景色を見たらどんな反応をするのだろうか。

 マリアはこれから先、もしかしたら二度と会えないであろう家族のことを思い浮かべ、少し切なくなった。

 




二ヶ月ぶりの更新ですね、お久しぶりです。
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