Chloe 〜メスケモTSっ娘が異世界で幸せになる話〜   作:ふえるわかめ16グラム

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07 マイ・ネーム・イズ・クロエ 上

 黒江とマリアを乗せた馬車は、寂れた工業地区の外れ、薄汚れた建物の並ぶ一角で停まった。

 

 ひどくみすぼらしい、小さな倉庫の前だ。煉瓦の外壁は蔦が蔓延り、小さな窓へ嵌まったガラスには度重なる修復の跡。敷地もまた荒れていて、雑草がぽそぽそとまばらに生えている。

 

 この辺りは工業地帯の中でも古い地区のひとつで、産業形態の移り変わりによってすっかりうらぶれてしまっていた。一帯に立ち並ぶ工場や倉庫のどれもが自転車操業で、長いこと空き家のままになっているものも多い。そのせいか、他の地区に比べてもどんよりと淀んだ、不健康な空気が漂っていた。

 

 黒江はマリアに手を引かれ馬車を降りると、その場でスンスンと鼻を鳴らした。

 澱んだ空気に混じる、なにかが腐った臭い。そこに湿った埃や、錆びた鉄を混ぜこぜにしたような臭いだ。彼女は辺りへ満ちるなんとも言い表しがたい臭気に顔をしかめた。

 

『おい』

 

 コートの男が荷物を下ろす傍で、髭面の男がマリアへ声をかける。

 彼女は黒江の手を握ったまま『はい』と答えると、毅然とした面持ちで男のことを見上げた。

 

『裏に水道がある。そっちの嬢ちゃんの血、落としてやれ。できる限りでいい』

 

 男は、マリアのグリーンの瞳と目を合わせることもせず、相方が荷物を運び入れている倉庫の裏の方を指差した。

 

『なら、あの、なにか、クロエが着れるものってありませんか。私も、今着てるものしかありませんし』

『生意気言いやがって。……あぁクソ。わかったからそんな目で見るな。大したもんはねえだろうが見繕ってきてやる。そしたらさっさと行けホラ』

 

 低く不機嫌そうな命令口調にも負けず、マリアは強かにも黒江の服を要求した。黒江はTシャツの上に男のジャケットを羽織ったままで、まともな格好をしているとは言い難い。男は悪態をつくとわずかに逡巡し、新しい服を調達することを約束した。なお、当の黒江本人は、男の声音があからさまに険のあるものに変わったことを感じ、首筋に脂汗がにじむような居心地の悪さを覚えていた。

 

『クロエの新しい服、持ってきてくれるみたい。それじゃあ、日が落ちる前に汚れ落としちゃいましょう』

「おん? なになに、こっち? なんか荷物運んだり手伝わなくて良い感じ?」

 

 マリアは荷物を運ぶ男を指差す黒江のことを引っ張りながら、建物の間を目指しズカズカと足を進める。

 二人の間で明確に伝わるのはお互いの名前だけだ。あとは雰囲気とボディランゲージだけでなんとかコミュニケーションを取っている。己を強く引っ張るマリアに戸惑いつつも、黒江は意図せずして腹の底をくすぐる居心地の悪さから逃げ出せそうだということに安堵した。

 

 

 ****

 

 

 煤けた倉庫の裏庭に、黒江の悲痛な叫びがこだまする。

 

「あァッ! 冷たァッ!! ウアァ!!」

 

 身体についた汚れを落とすため、黒江は素っ裸にひん剥かれていた。

 もちろん、自分より一回り以上年下であろう女の子に、身ぐるみ剥がされてなるものかと思った時期もあった。言わずもがな抵抗もした。しかしマリアにはきょうだいが多い。物心つく頃から子供の世話をしてきたマリアにとって、自分より体格で劣る黒江を素っ裸にするのは朝飯前だった。

 

『ごめんねぇクロエ、冷たくて。でもいちいち変な声出さないの』

「オァン!!」

 

 マリアが水をかける度に黒江は奇声を上げ、己の腕をかき抱き悶える。

 太陽は都会の稜線へその身をすっかりと隠し、残照だけがわずかに空を染めている。まだ本格的な春を迎えていないため、日が沈むと急に冷え込むのだ。それに、汲み上げたばかりの水道水はキンと冷たい。一度手桶に溜めてはいても、何の気休めにもならなかった。

 

『よかったわね。腕や顔以外はそんなに血がついてないし、結構簡単に落ちるわ』

 

 マリアは桶で水をかけ流しながら、黒江の髪を手櫛で梳る。

 黒江の背中の中程まで伸びた、細くしなやかで色の薄い金。マリアの痩せた細い指が通るたび、細い髪の毛から埃や汚れが落ちていく。艶やかさを取り戻した髪は、太陽の残滓とオイルランプの混ざり合った灯りで細やかに煌めく。

 

 マリアは黒江の髪の毛をひと束手に取ると、少女らしい憧れの篭った吐息を漏らした。

 

『クロエ……あなたの髪の毛、ほんとうに綺麗ね……。私の知ってる人の中で一番かも。案外どこかのお嬢様だったりして。……ふふっ、それはないかぁ』

「あばばば冷たい寒い勘弁して、早く終わらせようマリアちゃんオレもう限界だよあばばばばば」

 

 全てをマリアに委ねた黒江は、寒さに奥歯をガチガチ言わせながらより一層身を縮める。彼女は爪先立ちになり、腹側へ巻き込んだ尻尾を抱きしめるようにしていた。これでは濡れ鼠ならぬ濡れ猫状態である。

 

『うん、こんなもんかな。大体、ブラシも何にもないのに、汚れを落とせなんて無理な話よね全く』

「あっ終わりました? もうお水拭いていい? 毛がね、毛がペターッてなって気持ち悪いし寒いんだよ早く拭こうそうしよう」

 

 黒江はマリアの雰囲気から苦行の終わりを感じ取った。一刻でも早く楽になりたい黒江は、替えの服を指差しながら不快感と寒さの限界をしきりに訴える。

 

 黒江の指の先には、タオル代わりの布と男物の肌着とズボン、着古されたジャケット。

 それを持ってきたコートの男が言うには、できる限り小さいサイズを選んだらしい。確かに、工場や倉庫の立ち並ぶここいらで、女物の、それも黒江に合うサイズの服を調達するのは難しいだろう。それに、黒江のメンタルは男のままである。渡された服が男物であることに、黒江は平坦な胸を密かに撫で下ろした。

 

『はいどうぞ』

「かたじけねえ!」

 

 マリアからタオル代わりのボロ布を手渡された黒江は、一刻を争うといった様子で濡れた体を拭き始めた。しかし、水を吸った長い髪や全身を覆う体毛に苦戦する。それを見たマリアは「しょうがない子」とでも言いたげな表情を浮かべ、黒江の手伝いを始めた。

 

「ぅあっぷふぁあ」

 

 布を奪われ、頭のてっぺんから拭き直される黒江。散髪など、金銭を伴わない他人の手によって髪を乾かされる幼少期以来の感覚に、腑抜けた声が漏れ出る。

 

「アッ! 前は、前は自分で拭くんで、堪忍してつかぁさい!」

 

 まるで、風呂上がりの妹を世話する姉といった感じである。体毛の薄い、体の前面を必死になって隠そうとする黒江を、マリアは一切顧みずテキパキと拭き上げていく。

 

「ぬわァ! この子結構力強い!」

『ごめんね、獣人の子がどうやるかわからないの。でもあんまりもたもたしてると怒られそうだし、何より濡れたままじゃ凍えちゃうでしょ?』

 

 またひとつ、黒江の男としての自尊心がへし折られた。

 

 

 **

 

 

 煤けた倉庫の中身は、外見に違わず古びていて、黴臭かった。

 雑多なものが押し込まれた建屋の隅は休憩場になっており、鉄製のストーブが備え付けられている。新たな服に着替えた黒江は、そのストーブの前に置かれた木箱へ腰掛け、わずかに湿り気の残った髪を雑に梳かしていた。

 これまで着ていたTシャツとハーフパンツは固まった血が取れず、目を離した瞬間にマリアによって処分されてしまった。

 ただ、正直、今着ている古着も相当なものである。ズボンは裾を四回ほど折ってようやく引きずらないくらいブカブカで、ウエストも紐で無理やり縛っている始末だ。よく言えば余裕のあるサイズなので、尻尾は片方の脚と同じ穴に通している。上着も似たようなもので、腕をまっすぐ横に伸ばしても指先が顔を出さない。その上、汗や垢が染み込んでいて非常に不快だ。

 それでも、長袖長ズボンは有難かった。自前の毛皮との相乗効果もあって、先刻の苦行のダメージが急速に癒やされていくのを感じていた。

 

『ねえクロエ、髪の毛編んであげる』

「ん?」

 

 ストーブが時折奏でる金属音に耳を傾けていると、マリアが背後にやってきた。

 

『せっかく綺麗な髪なんだから、ちゃんとしてあげなきゃもったいないわ』

「んおお、おっおぉ……」

 

 眼に映る全てが物珍しいのか、延々とキョロキョロとしているくせに、マリアの手助けを頑なに断ろうとする。そんな黒江の振る舞いは、マリアにとって少しでも大人ぶろうとする子供に見えたのか。これまで生家で妹たちにしてやっていたように、ついつい世話を焼いてしまう。

 穏やかな微笑みを浮かべたマリアは、黒江の髪を鼻歌交じりで編んでいく。そして、生まれて初めて髪を結われる未知の感覚に戸惑う黒江。マリアが髪の毛の束を手に取る度、黒江は頭皮を引っ張られる違和感に声をあげる。しかし、決して暴れたりはせず、自分に身を委ねる黒江に、マリアは小さな笑い声をこぼした。

 

『ふふっ』

 

 つい溢れてしまったというような笑い声に、黒江は首をのけぞらせるようにしてマリアの顔を覗き込んだ。灯りの乏しい倉庫の中、瞳孔が丸くなった黒江の瞳。マリアはそのいたずらっぽい瞳に笑顔を向けると、前髪を作ってやりながら言葉を続けた。

 

『家族と離れ離れになったと思ったら、まさかあたらしい妹ができるなんて。何が起きるか分からないものね』

「んー? なーんか、その、新感覚だなあコレ。オレずっと短髪だったしなあ」

 

 お互い通じ合うことのない会話を続けながら、黒江の髪を整えるマリア。まるで機械のように滑らかな手さばきは、まさに体が覚えているといったようだ。そして彼女は袋状の鞄から髪紐を取り出すと、一本に編み上げた黒江の髪の毛の先を縛った。

 

『はい、出来上がり』

 

 マリアは黒江の肩をポンと叩き横顔を覗き込んだ。ストーブの前に陣取った黒江は、わずかに残っていた水気もすっかり乾いて、心なしかふっくらとして見える。

 

「お、できたの?」

『本当はね、二本に分けたり、くるっとまとめたりしてあげたかったんだけど、ピンとかあまり持ってなくて……』

「ん……大丈夫。十分嬉しいよ、ありがとうマリアちゃん」

 

 眉尻を下げるマリアを見て、黒江は出来立てのお下げ髪を顔の前に持ってきて微笑んだ。これで十分満足している、感謝しているのだと伝えるために。マリアは黒江の振る舞いに破顔すると、正面から彼女の頭を撫でた。黒江の髪の毛の質感を慈しむように二、三度手のひらを往復させ、最後にもう一度髪型を整えてやる。黒江とて、年端もいかぬ少女に頭を撫でられることに抵抗のない訳がない。しかし、そんなつまらない意地は捨て去り、黒江は笑顔でマリアを受け入れていた。

 

 側から見れば微笑ましい光景である。

 しかし、姉妹が戯れ合うような心温まる時間は、あっけなく終わりを迎えた。

 冷や水をぶちまけるように、低く冷たい男の声が響く。

 

『おい』

 

 すり減ったモルタルの床を這うような声だった。

 黒江とマリアは声の方を振り向く。塗装の剥げたドアの前に、髭面の男と、形の崩れた帽子を斜めに被った男が立っていた。黒江達に声をかけたのはどうやら髭面の方で、彼の手には紙幣が握られている。元の形がわかないくらいくたびれた帽子を被った男はひどく痩せっぽちで、ギョロついた両目が神経質そうにあたりを見回していた。

 

『ワンピースの方。ええ、赤毛の汎人の方です』

 

 髭面の男が、空いた手でマリアを指差す。帽子の男は何も言わずに小さく頷いた。男たちの短いやりとりを見届けると、彼女は小さく息を呑み黒江に向き直った。

 

 マリアはおもむろに黒江の手を取り、痩けた頬一杯に笑みを湛えて口を開く。

 取り繕われた笑顔と、空元気の滲んだ声。

 

『あはは……。ここで、お別れみたい』

 

 言葉は通じずとも、伏せられた瞳と声色によって、十全にその意味が分かってしまった。

 

 思わず、黒江はつないだままのマリアの手に視線を落としてしまう。

 白い毛に覆われ、桃色の肉球がついた自分の手を、名残惜しそうに撫でる痩せた指。汚れた爪と、あかぎれの目立つ指。まだまだ子供と呼んで差し支えないほどの女の子の手指とは、とてもじゃないが思いたくない指だ。

 そんな彼女の手指に視線を注いでいると、黒江はひどく泣きそうになった。

 

「マリアちゃん……いろいろ世話かけちゃってごめんね。めっちゃ助かったよ……ありがとう」

 

 黒江は、上ずった声で感謝を伝えた。時間にしてみれば、たかだか半日程度の関係。しかし黒江にとってマリアは、異世界に迷い込んでから初めて名前を呼びあった仲なのだ。容赦のない理不尽の連続、その渦中でようやく手にした道理の通じる相手。自分自身のものなのにどう扱っていいかわからない、長い髪を結ってくれた、やさしい少女。

 それも、ここでお別れなのだ。視界の隅で、帽子の男が苛立たしげに身じろぎした。

 

 ——マリアは、この子は売られたんだろう。

 

 この世界のことをほとんど知らない黒江でも、おおよその見当はついていたのだ。

 人気のない寂れた土地で、人目を避けるように仕事をする男たち。ずた袋じみた鞄ひとつだけ持った痩せた少女。黒江の想像以上に発展していた異世界でも、人売りはあったのだ。

 

 まだ子供にしか見えない女の子ひとり、どこかへ売られていく。

 生まれて初めて目の当たりにした過酷な現実は、ストーブで温められたはずの黒江の体温を奪う。「大人である自分がなんとかしなければならないはずだ」という、これまでの常識に基づく正義感が、黒江の腹の底でざわめいた。しかし、思っていた以上に冷え切った理性は、自分一人のちからではなにもできないと黒江に語りかける。

 

 黒江は忸怩たる思いを飲み込み、痛む心を隠すための笑顔を貼り付け、マリアの緑色の瞳を覗き込んだ。

 マリアはそんな黒江のことを優しく抱き寄せると、柔らかな毛並みに包まれた頬へキスを落とした。

 

『さようならクロエ。元気でね』

 

 右手を名残惜しげに残して、男たちの方へ歩みを進めるマリアへ。

 

「さようなら。体に気をつけて」

 

 黒江は、心へ吹き込んだ冷たい風に耐えながら、別れを告げた。

 

 

 ****

 

 

 マリアを見送った黒江は、しばらく倉庫の中で待ちぼうけを食らった後、再び荷馬車へ乗せられた。

 往路とはまた別の品々が積み込まれた荷台の中に、蹄鉄が路面を打つ音と、板バネの軋む音だけが響く。

 

 黒江は、唯一の所持品であるウエストポーチの中身を覗き込んでいた。その真剣さは、玩具箱を漁る子供のようだ。

 

「うん? キーケースどこいった?」

 

 何度確かめても、ウエストポーチの中から出てくるのは、電源を落としたスマートフォンに、革製の長財布だけ。

 

「おいおいおい、ウソだろ……」

 

 彼女は寒気を伴う焦燥感に身を焼きながら、裏地に備えられたポケットの隅まで目を通す。しかし実の所、黒江は半ば確信していた。このバッグの中に、昨晩プレゼントされたキーケースはないということを。酒に酔い、更には異世界へ飛ばされて混乱しきりだった己の記憶が正しければ、ハーフパンツのポケットに突っ込んでいたはずである。

 

(マジかよマジかよマジかよ!?)

 

 黒江の視界が、急激にぼやけ出した。

 喉の奥に何かが詰まったような気がして、呼吸に強い抵抗を感じる。目頭が熱を持ち、鼻の奥に走る痛み。

 今、自分が持っている元の世界との繋がり。その中でも、最も新しく想いの籠ったもの。それが、気付かぬうちにこの手を離れていた。

 

 そのことを理解した瞬間、胸の内に痛みを伴う自責の念が湧き上がる。そうして黒江はようやく、視界をぼやかすものの正体に思い至った。それが目元から溢れてしまわぬうちに、慌てて手のひらで拭い去る。しかし、頭の中は騒々しさを増していくばかり。どうしてこうなる前に、チャックのついたポーチの中へ仕舞わなかったのか。

 

 身体が変わってしまった時、あの廃墟を出ると決めた時。いくらでもポケットを改める機会はあったはずだ。

 一体、どのタイミングで失くしてしまったのだろう。あの丘を駆け降りた時だろうか。汚れを落とすために服を脱いだ時だろうか。それとも――。

 

 無意識のうちに、黒江は馬車の後端の幌を開け放っていた。

 しかし、そこに広がるのは見覚えのない街並み。

 もう既に、彼女を乗せた馬車は引き返せない場所まで来ていた。

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