Chloe 〜メスケモTSっ娘が異世界で幸せになる話〜   作:ふえるわかめ16グラム

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08 マイ・ネーム・イズ・クロエ 中

 

 ——大人の男が、声を上げて泣くだなんてみっともない。

 

 唇をきつく噛み、腹に力を込め涙を堪えようとした。こんなところで泣いたって、何の解決にもならないだろう。これまで培ってきた常識や、男としての意地を総動員して、己の涙腺に抗った。

 

 しかし、そのすべてが無駄だった。

 どうしたことだか、あふれ出した涙を止めることができなかった。

 

 ボロボロと玉のような涙を流し、桃色の鼻の先を赤くして咽び泣く。ただひたすらに頭の中はぐしゃぐしゃで、真っ直ぐな悲しみに胸を貫かれた黒江は、幼子のように泣きじゃくった。

 

 こんなことは初めてだった。

 ——たかが、キーケースを失くしてしまっただけなのに。どうしてこんなに涙が止まらないのだろう。初めこそ躊躇ったが、薄汚れた古着の両袖はすぐにびしょびしょになった。

 

 拭っても拭っても、火傷しそうなほど熱い涙がすぐに溢れだす。

 

 しゃくりあげる間、隙を見てなんとか息を吸う。しかし、胸の中は絡まり合った感情でいっぱいで、空気がなかなか入ろうとしない。そのくせ、悲しみだとか混乱が、腹の底から涙を押し出してくるのだ。喉の奥が突っ張って、唇の端が歪む。まるで酸欠に陥った時のように視界が狭まり、激しい運動の後さながらに浅く荒い呼吸を繰り返す。

 黒江は次第に、姿勢を真っ直ぐ保つこともできなくなり、己の二の腕を抱き寄せ身を屈めた。

 

 言葉にならない嗚咽を噛み締めながら、涙も、鼻水も、涎さえも垂れ流しにする。

 ボタボタと、色々混ざり合った雫が荷台の床板へ滴り落ちる。その水気で生まれた染みをぼやけた視界で眺めていると、キリキリ痛み始めた頭に怒りが湧き出してきた。

 

 大体、意味がわからない。

 なにもかも全部。なにひとつ意味がわからない。

 

 飲み会の帰り、ちょっとした好奇心に身を任せただけじゃないか。それでどうした。言葉の通じない世界へ飛ばされて、挙句の果てにこんな姿形にまでされて。全くもって意味がわからない。

 

 変わってしまった性別も、腰まで伸びた髪の毛も、全身を覆う毛並みも、頭の上の両耳も無意識に動こうとする尻尾も全部!

 

 自分でも気がつかないうちに、何か罰の当たるようなことをしでかしたのか? もしこの現状が何かの罰だとしたら、もう十分じゃないだろうか。とにかく帰らせてほしい。仕事に追われるだけのつまらない人生だとしても、今はただ戻りたくてしょうがない。

 

 骨の髄まで染み付いた、日常の風景が脳裏に去来する。

 その生暖かな記憶の風景へ、二度と戻れないかもしれない。そう思うと、ふたたび涙の勢いが増した。

 

 ぜえぜえと喉を鳴らしながら、涙の流れるままにする。脳内で荒れ狂う激情もあっという間に過ぎ去った。どうせ、無駄なのだ。己の不幸を嘆いたところで状況が好転することなどありえないと、同じ結論に辿り着く。黒江は、思考の隅に冷静さが戻ってくるのを感じた。しかし、ぼやけた視界がクリアになることはない。

 

 ただひたすら、しずかな悲しみだけが胸に広がっていた。着の身着のまま迷い込んだ異界の地で、これまでの世界とのつながりを一つ失ってしまった。唯一の所持品であるウエストポーチの中には、財布と電源を落としたスマートフォンだけ。財布は特にこだわりなく自分で選んだもので、中身はいくらかの現金と、免許証やカード類。もちろん、スマートフォンのストレージには思い出深い写真や音楽が保存されている。だが、これから先充電できる保証はない。バッテリーが空っぽになってしまえば、ただの金属とガラスの板だ。電池の無駄遣いなんてできるはずがなかった。

 

 ぎゅっと閉じた瞼の裏に、つい先日の思い出が蘇る。気が置けない友人たちと過ごした一晩が、ひどく郷愁を掻き立てた。どうしようもなくたまらなくなって、体の前に回していたポーチをひしと抱きしめる。その布地に染み込んでいた、煙草と油の混じった居酒屋のにおいが黒江の鼻先を掠めた。

 

 

 あの倉庫を発って、どれくらい時間が経っただろうか。黒江を運ぶ馬車は、日中とは打って変わって細々とした道を行く。

 

 涙も精魂も尽き果てた黒江は、荷台の縁にもたれかかった。腹の底に、黒々とした虚無感が横たわっている。ぼんやりとした思考の中で、そういえばなんも食ってないなと思い至った。だが、たとえ今食事を出されても、何一つとして喉を通りそうにない。泣き疲れた彼女は規則的な揺れの中、眠りへ落ちていった。

 

 

 ****

 

 

 黒江は昔の夢を見た。

 まだ幼い頃の夢だ。

 夏の日差しの下、駅のホーム、母と並んで立つ。

 数少ない友だちと別れなければならないこと。苗字が変わってしまうこと。身を取り巻く様々なことへ、そこはかとない苛立ちを覚えていた。

 

 隣の母を見上げれば、彼女は携帯電話を首と肩で挟み、肩掛け鞄の中身をまさぐっていた。

 数年間、顔も見ていなければ声も聞いていない母。

 こんな顔だったっけ。黒江はそんなことを考えている。

 

 

 黒江は小学生低学年の頃、両親の離婚を経験している。親権を取った母に連れられ、母方の実家で暮らすようになった。両親のうち、どちらがどう悪かったなどは、特に気にしたことがなかった。

 

 ネグレクトまではいかなくとも、子供に無関心な親だった。黒江少年を祖父母へ任せた母は仕事に没入した。朝から晩まであちこち飛び回り、黒江の授業参観にすら顔を出さない。だから、黒江にとって、育ての親は祖父母だった。

 

 黒江の母の生家は、洋室と和室の数が半々ずつあるような一軒家だった。よく言えばレトロ、悪く言えば古臭い、時代を感じる建物だったが、黒江の瞳にはどれも新鮮に映った。物心ついた頃からマンション住まいの彼にとって、一軒家そのものが物珍しいのだ。日焼けした畳の敷かれた和室も、薄暗い照明が心もとない階段も。そのどれもが初めて見る。まるで異国にやってきたのと同義だった。

 

 黒江はそれまで、自己主張をしない、控えめが服を着せられ歩いているような少年だった。人見知りというわけではないが、イマイチ反応の薄い黒江のことを気に病み、何かと声をかけていた。いつも家にいない母親とは対照的に、祖父母は黒江のことを放っておくつもりはなかったらしい。

 

 ——新しい学校はどう? もう慣れた?

 ——基晴くんは、食べられないものはある?

 ——釣りでもやってみるか? 基晴。

 

 そのかいもあり、次第に表情を豊かにしていく黒江。そこで、ついに彼を変える出会いがあった。

 

 一つは、カワイのアップライトピアノ。

 

 元々は黒江の母が小さい頃に弾いていたピアノだという。白いレースのカバーがかけられ、黒い塗装はいまだに艶を保っている。鍵盤蓋に埃が積もっているようなこともない。定期的な調律まで行っている、現役バリバリの楽器だった。

 

『ばあちゃん、これ弾けるの?』

 

 まだ自己主張の乏しい黒江が、そう祖母に問いかけた時、彼女は皺の刻まれた双眸を細め、うれしそうに微笑んだ。彼女は黒江をピアノ椅子に座らせると、おもむろにポロポロと鍵盤を叩き始めた。

 

 彼女は飛び抜けて上手ということはなかった。ただ、保育士として働いていた経験や、地域の児童館に勤めていたから、黒江にピアノを教えることは造作なかった。

 

 鍵盤を叩くと音が出る。黒江にとって、それは存外に愉快なことだった。子供の目を通してみれば、威圧感すら覚える黒塗りの直方体。太いセリフ体のロゴタイプ。想像していた以上に重たい打鍵感。しかし、黒江の細い指が鍵盤を押し込めば、ピアノは素直にポロンと音を返す。たったそれだけで、黒江の世界に新たな色が加わった。黒江が、世界とつながった瞬間だった。

 

 そしてもう一つは、ブルースやロックンロール、ジャズの古いレコードたち。

 

 祖父が若い頃から集めていたレコードは、音楽に興味を持ち始めた黒江にとって宝の山だった。祖父が仕事から帰るや否や、彼をステレオの前に引っ張り出し再生をねだる。祖母が夕食へ呼ぶ声に返事をせず叱られることも多々あった。それでも、黒江が年相応の笑顔を浮かべるようになったことを彼らは喜んだ。

 

 

 黒江は昔の夢を見る。

 海沿いの街、昭和の匂いが残るちいさな家。

 暖かな明かりの灯ったリビング。

 祖母のピアノと、祖父のアコースティックギター、黒江のエレキベースのアンサンブル。

 そうして祖父と二人、古いロックを歌うのだ。

 

 黒江は荷台の上で膝を抱えながら、もはや記憶の中にしか存在しない、やさしい人と、やさしい場所の夢を見た。

 

 

 ****

 

 

 古いガス灯の並ぶ、狭苦しい道だ。表の大通りであれば、アーク灯がジリジリと音をたて夜の闇を追い払い、多少傍にそれたところでも、マントルを備えたガス灯が煌々と灯っている。しかし、黒江を乗せた荷馬車が進む通りは全体的に薄暗い。通りの両脇に生える街灯の先端へ灯る炎は、大通りのそれに比べて格段に頼りない。橙の光はすぐに減衰し、通りのあちこちに深い闇だまりを作る。だが、道ゆく人々がそれを気にする様子は全くない。さながら、明るすぎると何か困る事情でもあるかのよう。

 それもそうだ。大分夜も更けているはずなのに多い人通りと、その人々の風体。それと立ち並ぶ店屋の構え。狭い通りでは、外套の前をはだけ胸元を露出した女と、舐め回すような視線を送る男が、互いに値踏みをしあっている。

 ここはヘントベリーの南側に広がる王国最大の歓楽街、フォッブズ・エンドの外れ。その中でも、観光客が訪れるようなエリアではない。治安は悪くないが、良くもない地区だ。

 湿った熱のようなものを帯びた空気の中、馬車は控えめなスピードで通りを往く。通行人は怪訝な顔をして馬車を一瞥するが、すぐに興味を失い道を開ける。

 

 そこからさらに進み、より怪しげな雰囲気が増したころ。建物と建物の間の路地を荷台で塞ぐように馬車は停車した。

 

「ジョージ、お前はこのまま残りの分を頼む。おれは、泣き虫お姫さまのエスコートだ」

「ああ……上手くいくといいな」

 

 髭面の男が御者台からのそりと降りるとコートの男へ声をかける。ジョージと呼ばれた男は、神妙な表情を面長な顔に浮かべ頷いた。男はジョージの真面目くさった様子を鼻で笑うと、馬車の後ろへ回り込んだ。そして荷台の幌を開けると、低く潜めた声を投げかけた。

 

『さあ降りな、嬢ちゃん。……なんだ、寝てるのか』

 

 ジョンは黒い瞳を数度瞬かせると、外套の襟を立て荷台へ乗り込む。板バネか床板か、そのどちらかがギィと鳴り、馬車が揺れる。しかし黒江は膝を抱いて丸くなったまま目を覚さない。肩にかけたウエストポーチを腹側に回し抱きしめるその寝相は、どことなく子供じみて見える。彼は「やれやれ。まあ、逆に都合がいいか」と嘆息すると、すっかり眠り込んだ黒江を軽々とおぶった。そのまま荷台から降りると後アオリを戻し、ゴンゴンと叩いて合図をした。

 

 ジョージはその合図と共に馬へ鞭打ち、馬車を発車させる。

 完全に馬車が走り去るまでに、黒江をおぶった男は、路地の闇に飲み込まれていた。

 

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