1.
それは、その戦いは、範馬勇一郎がブラジルにいるときにあった。
範馬勇一郎、その時三十代も半ばに差し掛かろうとしていた。常人であるならば、既にいち武道家、いち柔道家、いちアスリートとしての肉体の全盛期は過ぎている。
柔道家としての最盛期で言うならば、範馬勇一郎のそれは第二次世界大戦の最中であっただろう。
範馬勇一郎が戦争に駆り出されて、ミサイルや銃弾の雨を相手にしている時、アイオワの上でアメリカ兵を相手に戦っている時……本来ならば勇一郎が活躍すべきは畳の上であり、相手どるのは同じ柔道家であったはずだ。
そして、迫る敵をちぎっては投げ、ちぎっては投げ、範馬勇一郎は華やかなる道を歩んだことだろう。その強さは日本柔道界を牽引し、日本中の武道家たちはにわかに活気だったことだろう。
しかし、そうはならなかった。
第二次大戦に敗北した日本は、GHQによって武道衰退の道を余儀なくされる。
軍隊的教育は撤廃され、大男たちが食いっぱぐれていく。日本の武道界は明治の暗黒期以来の、二度目の暗黒期に突入していた。明治に入り、武士が刀と髷を捨てさせられ消滅したように、敗戦後の昭和に入り、武道家もまた、生きる道を閉ざされつつあった。
日本の裏側……ブラジルの地に範馬勇一郎がいる理由もこれに無関係ではない。
範馬勇一郎は孤高の柔道家と謳われていた。
圧倒的な強さを持っていた。
ここまでの人生で、やってきたすべての喧嘩、柔道の試合、果ては一対多数の殺し合い──すなわち戦争に至るまで、範馬勇一郎は負けたことがなかった。
生まれついて、類稀な身体を持っていた。
身長はもちろん高い、肉が分厚い。骨が太い。
だが何より、範馬勇一郎を特徴付けるのは、その肩幅の広さであった。
肩幅が広い。横の寸尺が縦の寸尺と違わないように見えるほどである。まるで騙し絵であった。とても日本人の体格ではなかった。
肩幅が広いということは、身体にのせられる筋肉の量が同じ身長の者に比べて、横に広いその分、多いと言うことだ。
隆起した筋肉が山のように見える。そういう表現はよく聞くところだが、発達した大胸筋から肩までを指して「太い」や「大きい」ではなく「広い」と表現せしめるのは範馬勇一郎を置いて他にはいないだろう。
範馬勇一郎がブラジルにいるのは、ずばり金のためだった。
愛する妻の病を治すために金がいるのだ。
しかし、こと柔道以外のことに明るくない勇一郎の懐事情は、勇一郎の金に繋がる選択肢を狭めてしまっていた。迷った挙句、彼には自分の武道を見せ物にして金に変えることしかできなかった。
厳格で知られる師、敬愛する師を裏切ってまで、勇一郎はカネのために、ブラジルで柔道を見せ物にすることを選んだのだ。
とはいえ、実のところ全てが台本のある見せ物だったわけではない。
ブラジルでは、敗戦の余波で生活に苦しむ日系人がごまんといた。彼らは突如として日常の中で差別的な環境に放り込まれ、地元民たちどころか同じ日系人同士でいがみあい、軋轢に苦しみ、鬱屈とした日々を過ごしていたのだ。
そんなフラストレーションの溜まった現地日系人にとって、わかりやすく「大きくて強い」日本人、範馬勇一郎の存在は輝きを放っていた。
希望の輝きである。
地元の新聞紙がその存在をさらに偶像的に書き立てた。もちろんこれには出版社側の発行部数を伸ばしたい意図があったのだが、範馬勇一郎の底なしの横柄さは良い意味で彼らの意図を後押ししていた。
そういうわけで、神の如く祭り上げられるナマイキな日本人をぶちのめしてやろう、天狗の鼻をへし折ってやるぞ! と、イキのいい地元の武道者は続々と真剣勝負を勇一郎に挑んできたのだ。
しかし、当の範馬勇一郎はというと、ある意味それに辟易してもいた。
誰も彼もが相手にならないからだ。
妻のための金は順調に稼げている。およそ日本では法外な給金を貰っていた。何よりブラジルの気性……土地そのものが持つおおらかな雰囲気が、勇一郎の天邪鬼な気性とよく噛み合っていたために、勇一郎は半ば休み気分、バカンス気分であった。
しかし、それはそれとして、地元選手の歯ごたえのなさに辟易していたのだ。
確かに範馬勇一郎は孤高の柔術家、別の異名は師と同じく「鬼」の名を冠している。
『鬼の範馬勇一郎』。
それの意味するところは、すなわち柔道日本一であり、それはつまり、日本武道界最強の男であると言うことだ。
範馬勇一郎とて、そこに関しては自負している。
自分は強い。
「強」を持って生まれ、それを鬼の元で徹底的に磨き上げた。
その強さは畳の上の敵選手だけではなく、リングの上の敵選手だけでなく、先の戦争で屈強なアメリカ人兵士たちにも畏怖を刻み込んだ。勇一郎は知る由もないが、あの時アイオワに乗っていた船員の中で、「オーガ」の名はタブーとされていたほどである。
だからこそ、必然でもあった。
ブラジルに来て行った戦いの多くは、範馬勇一郎にとって戦いと見なせないほどに低レベルなものだったのだ。
もう随分トレーニングはしていない。
毎夜毎晩というわけではないが、相応に酒を飲んでいるし、現役の頃からは考えられないほど遊び呆けている。
それなのに、自分の強さは絶対であった。
誰も、自分の投げを捌けない。
誰も、自分の寝技から逃げられない。
範馬勇一郎は、自分の肉の内側から、さーっと熱が引いていくのを感じていた。
その感覚は、日を跨ぐごとにはっきりとしたものとなり、その冷たさは彼の心にまで届きかけていた。
自分は、こんなところにいるべきなのだろうか?
自分は今、何をやっているのだろうか?
こんなことのために、自分は柔道をやってきたわけではないはずだ……
苦悩が渦巻いていた。
それは、範馬勇一郎という武道家が持って生まれた、根源的な素質ゆえの苦悩だった。心の奥底で囁く武道家の本能とでもいうべきものだった。
強敵のいない世界では、絶対者は孤独なのだ。
並ぶもののいない強さは、絶対者を日常の全てにおいて、他者と隔絶した空間に身を置かせる。
「ふふふ……」
夜のホテルで、範馬勇一郎は一人ごちた。
太い唇から、細い息が漏れる。
自嘲の笑みが浮かんでいた。
吹き抜けの部屋であった。生暖かい風が勇一郎の体を優しく撫でる。
酒を注いだグラスが、手の中でからん、と鳴った。
愚痴を吐いたところで、悩んだところで、強敵が生えてくるわけではない。
この孤独に寂しさを訴えるのは、強者の贅沢というものだろう。
カネは十分以上に貰っている。妻への土産は、薬どころか車をまるまる買ってやれるほどだ。
言い訳に過ぎないそれらをその広い胸中に押し込めて、範馬勇一郎は眠りについた。
2.
範馬勇一郎はリングの上にいた。
リングの上で、今戦ったばかりの選手を見下ろしていた。
その表情は、穏やかであった。
決して相手を見下してはいない、あちらが座り込み、こちらが立っているため結果的に見下ろしている形になっているが、範馬勇一郎のその男を見る目は侮蔑の色などなかった。
座り込むその男、闘志が萎えていない。
じろりと範馬勇一郎を睨み返している。
抱えるその腕が、肘の部分から曲がってはいけない方に捻じ曲がっていた。
もちろん、折ったのは範馬勇一郎である。
しかし、男の闘志は痛みに萎えるどころか、さらに燃え上がっているようだった。
男──名をエルオ・グライシーと言った。
グライシー柔術という、生粋の武道を学んだ、生粋の武道家であった。
グライシー柔術というのは、コンデ・コマこと前田光世に柔術を習ったグライシー一族が開いた流派だった。
派生流派──というか、まったく同じような経緯を持つクランシー柔術の兄弟流派である。
この二つの柔術は、元を同じとするにもかかわらず、なんらかの理由で袂を割かった。
そののち、グライシー柔術は締め、投げの他に当身や
クランシー柔術は、関節技──特に寝技に特化した純然たる柔術へと発展していくことになる。
範馬勇一郎と、エルオ・グライシー。
この二人の男が命をかけて戦い、そして、範馬勇一郎が勝ったのだった。
ことの発端は、なんてことはない。
連戦戦勝の猛者、範馬勇一郎に地元武道者が挑む、いつものこの構図だ。
その時、範馬勇一郎への挑戦に名乗りを挙げたのが、このエルオだった。
エルオは真剣勝負を望んでいた。
台本のあるプロレスではなく、どちらかが倒れるまでやる、真剣勝負だ。
エルオは無名に等しかったが、その真剣さは誰もが一目で分かった。
範馬勇一郎の頭二つ分は小さいその身体が、まるで不釣り合いな戦闘力を秘めていることを、エルオを目にした一流の武道家たちは否応なく感じ取った。
エルオの外観から湧き上がる熱を見れば、否応なく分かってしまった。
そこで、先に範馬勇一郎と共にブラジルに来ていた日本人柔道家が、前哨戦ということでエルオとやることになった。
表向きは、エルオを危険だと判断してのことだった。
当の勇一郎はつまらんことだ、と一蹴したが、
「でも、待ってくださいね勇一郎さん。エルオがもし、私にも勝てないようなら、どうせ勇一郎さんには勝てるわけないじゃないっスか」
と、物言いは少し物騒だがどうしてもと頼む日本柔道家の顔を立てて、渋々席を譲った。
範馬勇一郎より弱いとはいえ、その日本柔道家もなかなかにやり手であった。
名を、
新堂流はその名の通り柔道ではなく本来は柔術であり、キレのある逆技と寝技を使うのだ。粘りつくように相手に絡み、倒し、極める力を持っていた。
何より、新堂卍次という男は、極めた関節を躊躇いなく折れる男であった。
その彼が、範馬勇一郎のお供としてブラジルにいる理由もまた、カネのためであった。
柔道家を名乗っているのも、単に柔術家よりも柔道家の方が通りがいいのだ。
実のところ、彼もまた、範馬勇一郎と同じ悩みを抱えていた。
それはすなわち、台本のある
真剣勝負がしたい。
強い相手と、ぎりぎりの勝負がしたい。
戦いの熱を感じたい。
その上で、勝ちたい。
そこに共感していたからこそ、繰り返すが、範馬勇一郎は渋々席を譲ったのだった。
試合までの日程が組まれると、範馬勇一郎、新堂卍次、そしてもう一人の柔道家。
三人で、柔道着に着替えて、久しぶりに本格的にトレーニングに励んだ。掻き出された汗が身体の中から「毒」と一緒に流れ出していくのを感じるほどのトレーニングをやった。
真剣だった。
新堂卍次は、範馬勇一郎と乱取りを行った。
もちろん勇一郎には何度も投げられ、極められた。
話にならない。
それでも、もういっぽん。
それでも、もういっぽん。
彼は決して折れることなく、範馬勇一郎に向かってきた。
勇一郎も楽しくなってきていた。
その太くて広い肉に、熱が戻り始めていた。
試合が行われたのは昼。
暑い気候の多いブラジルでも、ことさら暑い時間だ。
リングの上で、エルオと柔道家が並び立つ。
勇一郎はセコンドについた。リングの上のエルオを見る。
会見上で見た時より、二回りは身体が大きくなっているように見えた。
この短い準備期間で、相当のトレーニングを積んできたのがわかる。
結論から言うと、エルオは新堂卍次を瞬殺した。
勘違いしてはならないのは、エルオは決して楽勝だったわけではない。その試合は、刹那の見切りに近い。
高い次元で、ある程度実力の拮抗した者同士であれば、何かのバランスが崩れた途端に勝負が決着することはままあることだ。
これも、そんな試合であったのだ。
寝技で締められで失神した新堂卍次を他所に、エルオは真っ直ぐに勇一郎を見下ろしていた。
惚れ惚れするようないい顔をしている。
その
次はお前だ、お前と戦うんだ。
無言にして、情熱の言葉であった。
そして、それは勇一郎の肉の内側から、より一層強い熱を引き出した。
勇一郎は、自身の肉が放つ匂いに気づいた。
熟成する直前の肉が放つ、芳醇な香りがするのを感じていた。
もう、冷たい感覚は消えていた。
筋肉がたぎっている。血が煮えたぎっている。
細胞が、一つ一つが唸っている。
この男と戦いたい──と。
そうして、試合が決まった。
リングは、リオ・デ・ジャネイロ。
マラカナン・スタジアムに構えた、立派なものだ。
ブラジル最大のリングが用意された。
ファイトマネーも釣り上がっている。勇一郎はもちろんのこと、先日の新堂卍次の瞬殺劇が、エルオのファイターとしての価値を青天井に高めていたために起こった現象である。
観客は四万人を超えていた。立ち見席も満杯である。会場の熱気は否応なく上がっていた。ここに集まったものたちは、範馬勇一郎とエルオ・グライシーの真剣勝負に夢中になっていた。
どちらが強いのか?
その疑問を胸に秘めていた。
リングに上がった勇一郎は、双手を広げて会場にアピールした。
エルオの身長が、一七〇センチと少し。
範馬勇一郎と比べると頭二低い。
勇一郎の広い肉が更に横に引き伸ばされて、さながら羽を広げた鳥類のような大きさであった。そのいち動作で、会場が沸いた。
エルオを飲み込む肉食獣──あるいは、そんなふうに見えていたのかもしれない。
「勇一郎さん、気をつけてくださいね。あいつ……かなりやるっスよ」
「わかってるよ新ちゃん。見てくれよ、ほら。俺の身体の、細胞がよ……震えてるんだ」
悦びに。
ゴングが、鳴った。
3.
「しゃあっ」
エルオは気合い一閃。
勇一郎の懐に神速の速さで飛び込んだ。
セコンドに付いている卍次たちは驚いた。
エルオが新堂卍次と戦った時は、組むまでじっくりと時間をかけたからだ。
まさか、自分より体格が大きく勝る勇一郎に対して速攻を仕掛けてくるとは思わなかった。
しかし、勇一郎に慌てた様子はない。
エルオが勇一郎の袖を取った。
それを確認してから、勇一郎もエルオの袖を取った。
大外刈り、動かない。
小内刈り、動かない。
範馬勇一郎は味わうように、じっくりとエルオの攻撃を受け止めていた。
攻防が入れ替わる。
「ふんっ」
勇一郎がエルオをぶん投げた。
見た目としては一本背負いである。しかし、それはなんとも強引で、なんとも大きく、なんとも豪快な、範馬勇一郎的な投げであった。
エルオがマットに叩きつけられる。
だが、勝負は決まらない。
エルオはどういう技を使ったのか、けろりとしていた。
アイオワの甲板に、兵士を突き刺せる範馬勇一郎の投げを、エルオはいなしたのだ。
すかさず勇一郎が上から被さりにかかる。寝技に入るために。
しかし、エルオはその寝技をするりと抜けた。
なんと言う柔軟性だ。
瞬発力も申し分ない。
エルオは距離を取る。今度は、じりじりとにじり寄ってきた。
勇一郎はずい、と体を前に出す。
無造作な動きだった。両腕をそのまま垂らしている。隙だらけである。
いかに勇一郎の動きが速かろうと、これでは掴みにくるエルオの腕を捌くためにワン・テンポ犠牲になってしまう。
罠。
十中八九そうだ。
勇一郎はあえてエルオを間合いに入れて、先に掴ませる気なのだ。
掴まれた腕を、掴み返して投げる。
持ち手は関係ない。バランスも重心も関係なく、脚力と背筋、腕力と腰の力で投げる──そういう豪放な技ができるのが、範馬勇一郎である。
「えしゃあっ!!」
エルオは飛び込んだ。
しかし、懐に入ったエリオは勇一郎の袖を掴まず、勇一郎の右足に綺麗な下段蹴りを入れた。
ローキック。
柔道で相手を投げる際に崩す蹴りではなく、それは明確に、当てた部位を破壊するための蹴りだった。
勇一郎にダメージはない。
エルオは勇一郎の両腕が上がり切る一瞬に、乱打する。
勇一郎の顔に拳が突き刺せる。
速い、そして重い、そして休まない。
明らかに打撃を専門で学んだ者のそれである。
「勇一郎さんっ!!」
卍次が叫ぶ。
勇一郎の腕がようやくエルオの袖を掴む位置に着く時、エルオはスウェーでそれを躱していた。
そのまま距離を──取れなかった。
「なにっ!?」
勇一郎の太い足が、エルオの足を踏んでいた。
エルオはつんのめった。
コンマ一秒、重心が崩れる。
そこに、勇一郎が仕掛けた。
「ぐううっ……!」
腕絡み。
範馬勇一郎の得意技だ。
太い腕に力が入り、更にむりむりと太くなる。
エルオが堪えている。
エルオが堪えている!
しかし、やはりパワー差は明白だ。
徐々にだがエルオの腕が開いていく。
関節が逆に曲がっていく。
すごいやつだ……
勇一郎は、心の底からそう思った。
エルオ……なんてすごいやつだ。
こいつの目をみてくれ。
俺が腕絡みをかけると、みんな絶望した目をする。
絶望して、タップする。
みんな、俺の腕絡みの威力を知っているからだ。
真っ向から抵抗しようなんてやつは、日本にはいない。
だが、エルオはどうだ?
力に、力で対抗してきている。
わかっているはずだ。力じゃ、俺に勝てないことぐらい。
でも、俺の腕絡みは技術で外せるものじゃない。
そんなこと、こいつはもう、とっくにわかっている。
なのに、こいつの目を見てくれ。
炎が揺らいでいるよ。
心の炎が、めらめらと目の中に湧き出てる。
闘志の塊だ。
エルオ、歳は俺の四つ上だったか。
尊敬するよ。俺は、あんたと戦うまで、腐りかけてたもんな。
こいつの目を見てくれよ。
このまま折られても、俺は戦うと言ってるよ。
すごいやつだ。
すごいやつだ、エルオ・グライシー……
勇一郎は、エルオの腕が軋む一瞬に手を離した。
観客が、卍次たちが驚く。
だが、何より驚いたのはエルオだろう。
動きが止まった。
そこに、勇一郎のけたぐりが突き刺さった。
エルオの左足、膝から下がぼごっと音を立てて外れた。
そこから、流れるように腕を極め……
わかってる。
おまえさんは、これじゃあ倒せないよな。
まだ、諦めないよな。
そのまま、投げた。
どんっ! と鈍い音がスタジアムに響いた。
リングが揺れた。
勇一郎が起き上がるまで、四万人の観客の時間が止まっていた。
エルオの右腕が、肘から反対に曲がっていた。
だが、エルオは悲鳴一つあげなかった。
すぐに這いつくばった姿勢のまま、勇一郎を見上げた。
まだ、炎があった。
審判が遅れて試合を終わらせた。
ゴングが鳴り響く。
同時に、スタジアムが湧いた。
観客の興奮が地鳴りとなった。
一部の観客はエルオの無残な姿に目を背けたが、多くの者が範馬勇一郎に惜しみない拍手と称賛を注ぐ。
その圧倒的な熱気の中で、未だに範馬勇一郎とエルオは二人の世界にいた。
「勇一郎さん、流石っス」
新堂卍次が声をかけた。
勇一郎はん、と短い返事をした。
まだ、視線はエルオにあった。
エルオの炎がある限り、まだ油断はできない。
エルオが、セコンドに支えられて立ち上がり、勇一郎の元に歩み寄った。
ようやく、炎が消えていた。
「強いなぁ……ユーイチロー……」
「いやぁ、紙一重さ。エルオ」
勇一郎は屈託ない笑顔で言った。
エルオの顔にも、清々しい笑みが浮かんでいる。
「悔しいよ。これで、日本人に負けるのは二度目だ……」
「二度目……?」
勇一郎が疑問を返した。
その目がぐりっと丸く広がってエルオを見る。
エルオに勝った日本人が、この範馬勇一郎以外にいたのか。
誰だ。
勇一郎の脳裏に浮かんだのは、合気柔術の御子柴老、可愛い後輩の松尾象山、幽玄真影流の日下部丈一郎、あるいは翁九心……
しかし、エルオの口から出た名前は、範馬勇一郎の知らぬ名前であった。
「その男は、ミヤザワ」
ミヤザワ……宮沢か?
「ソンオウ・ミヤザワという、日本人だ」
<続>
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