1.
範馬勇一郎が、宮沢尊鷹の元を訪ねたのは試合から丸一日をおいてのことだった。
エルオの言葉通りなら、宮沢尊鷹という男はまだブラジルにいる可能性が高いとのことで、勇一郎はすぐにでも宮沢尊鷹に会いに行きたかったが、道案内をさせるにはエルオが傷を負いすぎている。
しまったなぁ、と顎をかく勇一郎に、エルオは1日だけ時間をくれと言った。
新堂万次は反対した。
一日待て。そう言って油断させて、人を集めて襲うつもりではないかと。
勇一郎は言った。
「新ちゃん。こいつはそんなつまらんことをする男じゃないよ」
かくして、範馬勇一郎は一日待つことにしたのだった。
2.
獣道を歩いていた。
松葉杖をつくエルオに率いられ、範馬勇一郎と新堂卍次は獣道を歩いていた。
街からどんどん遠ざかっていく。
進めば進むほど、自然の趣が強くなっていく。
人間がいるべき場所ではなくなっていく。
不安に思った新堂卍次は言った。
「勇一郎さん。やっぱり罠じゃないっスかね」
「それならそれでいいじゃないか」
卍次は、やはりエルオは人気のないところで多人数での闇討ち、仕返しをやろうとしているのではという懸念があった。
振り返れば、街は草木の向こう側に隠れてしまっている。どんなに大きな声で叫ぼうとも、誰も気づかず、助けにこれない距離だ。
もし仮に自分が闇討ちをするのなら、絶好の場所だと思える。
勇一郎の手がぽん、と卍次の肩に置かれた。
顔を向き上げる卍次に対し、勇一郎が卍次に向ける表情には、好奇心があった。
範馬勇一郎の太い唇が三日月の形に広がっている。
ああ、だめだ。
卍次は観念した。
勇一郎の鷹揚さが出てしまっている。
向かってくる敵がいるなら、それもいいじゃないかと言っている。
それならそれで、全員やっつけちまえばいいと。
この大雑把なところが、実に範馬勇一郎。
自らの好奇心を鎮めるためには、破天荒なことを平気でやらかすのが範馬勇一郎なのだ。
だから、武道家はおろか一般人からも人気があった。
だから、武道家はみんな勇一郎が怖かった。
だから、新堂卍次は範馬勇一郎を慕っていた。
「エルオ、肩を貸してやろうか?」
「ノー……ユーイチロー。もうすぐ着くよ」
そこからしばらく歩いた。
そして、広がった場所にでた。
円形に木々の中で、不自然なほどに円形に広がった場所だった。
エルオが足を止めた。
勇一郎の表情に、ぴりっと緊張が走った。
「ここは……?」
「……スゴいな」
勇一郎がずかずかと、広場の中心に足を運ぶ。
卍次も後に続いた。
エルオの隣に並んだ勇一郎は、目を細めた。
「ここで、ヤったんだな」
「ああ。私はここでソンオウと戦った」
「なにっ!」
「新ちゃん。見えねェかい? 尊鷹とエルオの残気が……」
卍次が勇一郎とエルオの視線に続いた。
見える……!
卍次の目にも、はっきりと見えた。
謎の東洋人に頭をこづかれて、ただそれだけで失神して倒れ伏すエルオの姿が。
「バカなっ! 勇一郎さんの投げを捌いたエルオが……あんな軽い一撃で!?」
「それだけじゃねぇさ。見てみな、この辺……」
新堂卍次は勇一郎に言われて、やっとその場の違和感に気づいた。
「まさかっ! こ、この広場に草木がほとんど生えていないのはっ!?」
残気──尊鷹の強い『気』が広場全体に吹き溜まっている。
その気が、動植物の成長を妨げているのか?
「逆だよ。新ちゃん、逆」
勇一郎が言った。
「動植物が、尊鷹に気を遣って、ここに入って来ていないのさ……」
「…………!」
まるで、気の結界だ。
勇一郎が足元に積もっていた砂塊を拾い上げた。
それはサラサラと勇一郎の太くて広い手からこぼれ落ちていく。
勇一郎は笑った。
太い、笑みだった。
「誰かな?」
その時、三人に話しかけた者がいた。
三人は振り返った。
そこに、男がいた。
東洋人だった。
まだ、若い。
童顔で、歳の頃は二十歳にもならないかもしれない。
身長は勇一郎の頭二つ低い。平均的な日本人の身長ぐらいだ。勇一郎と同様に髪を後ろで纏めて結んでいる。
服は無地の白シャツと、袴に似たゆとりのある黒ズボン。
いい身体をしていた。
勇一郎には一目で分かった。
勇一郎と比べるなら枯れ木のように細く見えるその身体……しかし、実に肉が詰まっていることを範馬勇一郎は見抜いていた。
良質な肉だ、美しい。
鍛え込んでいる。
ただそこに立っているだけ……だというのに、その佇まいは人界を超越した美しさを纏っていた。
「宮沢尊鷹くんかい?」
勇一郎は聞いた。
「ええ、私が尊鷹です」
尊鷹が応えた。
「私は範馬勇一郎。実は……キミに会いたかったんだ」
「…………食事でもいかがですか?」
範馬勇一郎と宮沢尊鷹はこうして出会った。
3.
尊鷹に連れられて、三人は彼が普段から過ごしているという小屋に入った。
打ち捨てられたボロ小屋だ。壁も、床も、穴だらけ、柱には草がまとわりついている。
元は何かの道場なのか、広さは畳6畳分ほどあり、後から備えたであろう水場と鍋掛け以外に何もなかった。
その中で、尊鷹は鍋を振る舞った。
雑多に肉、野菜、そして調味料を入れただけの、簡素なものだ。特別な手間はかけていない。
しかし、これがウマい。
「うん、ウマいな……」
「野生の味っていうか、独特の臭みがありますね」
勇一郎が先に箸をつけ、半ば呆れながら、卍次も手を伸ばした。
「命を……いただきます」
そんな二人をよそに、尊鷹はよそった椀の前で合掌し、礼をささげた。
それを見た勇一郎と卍次は、手を止めて、遅れて礼をした。
「いただきます」
「いただいてます、押忍ッ」
会話はない。
ただ、食べる。
しかし、空気が張り詰めていた。
エルオでさえ、何も言わない。
「馳走になったよ」
勇一郎が椀を置いた。
「……日が暮れています。今夜は、泊まっていくといい」
尊鷹の提案に、三人は従った。
──そして、夜。
深夜。
月明かりのみが頼りの時間に、勇一郎はむくりと起き上がった。
眠れない。
というより、眠らなかった。
隣では新堂卍次が間抜けな顔で寝ている。
その隣ではエルオもそうだ。
尊鷹がいない。
勇一郎はのそりと動き出した。
あの広場へ勇一郎は向かった。
4.
「やはり、来ましたか」
尊鷹は月を正面に捉えて座禅を組んでいた。
瞑想中だったが、勇一郎の気配を感じるとしなやかに立ち上がった。
「鍋」
勇一郎は言った。
「鍋、本当にウマかったよ……」
「…………」
尊鷹はじっ、と勇一郎を見ている。
「それ、岩を砕いたのは、キミだろ?」
勇一郎は、尊鷹の足元を指差した。
先程、勇一郎が掬った砂塊の場所だ。
「スゴいね。中国拳法には素手で岩を丸くする、打岩ってトレーニングがあるそうだが……それとは違うね」
勇一郎が悠然と踏み出した。
尊鷹の、結界の中へ。
「止まってください。それ以上進むなら……」
尊鷹の言葉に、勇一郎は足を止めた。
にこり、と笑った。
「ワルいね」
そして、一歩。
いつものように踏み出した──
同時に、勇一郎の右頬にガツンと衝撃がはしった。
「……ッッ」
速い!
尊鷹は一切予備動作無く、勇一郎の目の前に現れた。
そして、右ストレートを放つともう、目の前から消えていた。
何という体捌きか。
どこにいった?
降り注ぐ月灯りに影ができた。
上か!
勇一郎が見上げると、月と勇一郎の狭間に、尊鷹の身体がまっすぐ背を伸ばしたままいた。
尊鷹のそれはジャンプなどではない。
鳥が空を飛ぶように、人が足で歩くのと同じように、当たり前のように勇一郎の頭部より遥かに上に飛んでいた。
「──ッッ!」
尊鷹がそのまま蹴りを放つ。
勇一郎は腕を掲げてそれを防御する。
軽く打っているようにみえる、踏ん張りの効かない空中で前に突き出す蹴りだから当然だ。
しかし、鋭い。
鞭のようだった。
勇一郎は尊鷹に四発もの蹴りを許してしまった。
受け止めた勇一郎の太い腕に、ミミズ腫れが走っている。
「たまらんね」
ダメージはない。
しかし、筋肉が喜びに叫んでいる。
肉の内側から、ふつふつと熱が湧き出した。
こぼれそうな熱が出ている。
「牛山先生に連れられて、色んなとこで色んなヤツとヤったし、戦争にも行ったけどよ……真上から攻撃してきたやつは、初めてだなぁ」
面白い。
初めて見るから面白い。
今まで戦ったことがないタイプだ。
柔道の世界では、ちょっと見かけないだろう。
これはもう、異種格闘技戦だ。
真剣の……
ならば、やることがあるだろう。
「柔道……範馬勇一郎」
「灘神影流、宮沢尊鷹」
聞いたことがない流派だ。
灘神影流。
どんな技を使うのか。
二人は向き合った。
勇一郎は心の底から笑っていた。
<続く>
8/18 挿絵追加