その男は、悲しいくらいに平凡であった。
平凡が故に、人々の印象に残らず、記憶されず、やがて人並みの感情すら失った。
人々の喜怒哀楽が理解できない男は、それを理解する為に行動を起こす。
これは、そんな地味な男の数奇な人生の話。

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ある存在感のない男の話

 僕の名前は佐藤裕太。

 平凡な家庭の、三兄弟の次男として生まれた。

 親からは特に優遇も冷遇もされなかった、きわめて平凡な立ち位置。

 

 兄と弟は兄弟喧嘩が多かったし、好き嫌いも多かった。

 兄は勉強が苦手だけど、サッカーやその他スポーツで活躍し親を喜ばせ、弟は数学をはじめとする勉強全般が優秀で両親に将来を期待された。

 

 一方で苦手分野には両親二人で頭を悩ませ、あれやこれやと宿題を手伝ったりキャッチボールやジョギングでの体力づくりを一緒にやって苦手分野を克服しようとしていた。

 文句をいいつつ二人とも両親と仲良くやっていき、大変に仲睦まじい家族だったと思う。

 

 

 けれど、僕は何もない。

 

 

 勉強も、運動も平凡で、特に両親の助けを必要としなかったし、変に期待されることもなかった。

 もちろん、無視されていたわけじゃない。

 でも、運動は兄のオマケ、勉強は弟のオマケで一緒にやっていただけ。

 

 兄と弟は、憎たらしいほどに得意分野がはっきりしていて、僕は常にその中間だった。

 喧嘩もしないし、文句も言わない。

 なぜなら、それが正しい事だと思っていて、そうしていれば褒められると、好かれると信じていたからだ。

 

 

 それは間違いだった。

 そう気づくのに、特にきっかけはなかった。

 ただ、日々の積み重ねで、いつの間にかその真実に気付いて、そして不思議なくらい当然と受け止めていた。

 

 僕に対し、両親の感情は殆ど向けられていない。

 常に、兄弟どちらかのついででしかない。

 ただ、僕にも苦手なことが幾つかあることが徐々に分かってきた。

 

 僕は、会話が苦手だ。

 両親とですら、兄弟とですら、二人きりになると何を話したらいいのか分からないし、会話の輪の中に入る事も躊躇いを覚える。

 そして相手の話題に上手く乗り切れない。

 

 僕は、笑顔が苦手だ。

 家族はよくテレビを見て笑う。

 冗談を言って笑う。

 面白いものを見て笑う。

 でも、僕は一切面白く感じないので、笑うことができない。

 

 僕は、泣くのが苦手だ。

 おばあちゃんが死んだ。

 何度もおばあちゃんの家に遊びに行って、おもちゃだって買ってもらったことがある。

 手も握ったし、頭も撫でてもらった。

 会話は、何をしたか覚えていないけど。

 死んだと聞いた後、お葬式に行った。

 家族はみんなわんわん泣いていた。

 でも僕は、死んだという事と泣くという事が一直線に繋がらなかった。

 一滴も涙が出なかったし、悲しいという感情も分からなかった。

 だから、隅っこにいって一生懸命泣いたふりをしていた。

 

 苦手なことが分かってきたので、頑張って克服した。

 上辺だけの会話で相手をいなし、作り笑顔で相槌を打ち、ウソ泣きで同情を誘った。

 

 表面上は上手くいっていた。

 周りも自分を一人の人間として扱い、小学校中学校、やがて高校でもそれなりの友達と、それなりに過ごすことができた。

 

 そうして、ある日ふと気づいた。

 

 確かに僕は、一人の人間としてそれなりに扱ってもらえた。

 

 だが、一度でも”佐藤裕太”として扱って貰えただろうか?

 

 常に、誰かのオマケだった。

 「友達の友達」の域を出ない扱いじゃなかったか?

 その証拠に、進級するたびに友達は入れ替わり、去年の友達と笑い合うことはなかった。

 過去の話をして盛り上がる事なんてなかった。

 

 そりゃあそうだ、作り笑顔にその場しのぎの会話をして、なんとなく輪に入ったように勘違いしていただけのことだから。

 

 そう、誰も僕の姿なんか見えていなかったんだ。

 きっと卒業したら、誰一人僕の顔も名前も覚えていないだろう。

 

 ――――

 

 そうして私は社会人になった。

 真実に気付いてしまった以上、もう学校生活は御免だった。

 私は高卒で平凡な会社の事務員になる事を選んだ。

 自宅を出て部屋を借り、新しい自分になることを目指して。

 

 私はもう、周りに合わせて自分を殺すのはやめにしようと思った。

 誰かの記憶に残っていたい、誰かと仲良くなってみたい。

 そんな分不相応な望みをほんの少しだけ持ってしまった。

 

 だが、結局、学生生活で染みついた私なりの世渡り術は抜けきらず、また同じことを繰り返す。

 もはや、こうすることが自然体となり、一番楽な姿勢になっていた。

 

 誰の記憶にも残らない。

 怒りもぶつけられないし、揉め事も起こす事は無い。

 その分仕事に励めるが、特別有能でもないので常に平均的な成績。

 

 上司からも目を付けられないし、やがて入ってくる部下たちに嫌われたり好かれたりする事もない。

 

 

 

 

 だから。

 

 

 

 

 人を殺してみた。

 

 

 

 

 繁華街の中央で、スクランブル交差点を移動中。

 むせ返るような人込みに割り込んで横断歩道を渡る途中、見知らぬくたびれたスーツ姿の男性とすれ違い、刺した。

 

 包丁は思いのほか深くまで食い込み、そのまま手を放す。

 男はぐももった悲鳴を上げ、そのまま倒れ、異常に気付いた周囲の通行人が大きな悲鳴を上げる。

 

 騒ぎは大きくなり、やじ馬が集まり、救急車が到着するが私は振り返ることなくその場を普通に歩いて帰宅した。

 

 

 特に、なんていう事はなかった。

 やはり、何の問題もなく出来てしまったか、というほんの少しの失望の方があった。

 それは、私が人を刺したにも関わらず誰も私を目撃したり疑ったりもしなかったという事でもあり、

 また私は、なんの呵責もなく平気で人を刺せる人間だという事だ。

 

 もしかしたら、心が痛んだりするかもしれない。

 恐怖で手が震えるかもしれない。

 誰かにつかまって、私という人間を見て貰えるかもしれない。

 

 それらは全てなかった。

 

 尤も、ただ捕まりたいだけならもっと刺すだけでいい。

 好き放題暴れれば、さすがに世間も警察も家族も、私を「殺人鬼」として見てくれるだろう。

 だが、別にそこまでしたいわけではないのだ。

 

 ただ、できるかどうかやってみたかった。

 それだけだ。

 

 だから、もうやる気はなかった。

 

 数日後。

 変わらず出社し帰宅したその夜、いつもはあまり見ないテレビをつけた。

 

 ニュースがやっていた。

 私が刺した男性は出血多量でとっくに死んでいた。

 そのことはどうでもよかったしなんとも思わなかったが、犯人像についての情報が一切なく、警察も手の打ちようがない、といった情報があった。

 

 警察関係者や当時の通行人へのインタビューも要領を得ない物ばかりで、遺族の悲痛なインタビューを聞いても何の感情もわかず、専門家の的外れなコメントを最後に番組は次の話題へと移った。

 

 絶句した。

 あまりの、世間のあまりの無能さに。

 なんの技術も、才能もない私如きが、ただ刺しただけなのに、こんなに分からないものなのか。

 

 もちろん、報道が正しいとは限らない。

 

 ああいって分からないふりをして、実はとっくに私に目を付けているのかもしれない。

 

 だが。

 

 

 いくら時が経とうと、私の元に警察が訪れる事は無く、やがて事件は世間からさえも忘れられた。

 

 私は、納得がいかなかった。

 世間は、私以外の人は、ちゃんと悲しむ心や怒りを持っている筈だ。

 なのに往来のど真ん中で人が刺されて死んだという悲惨な事件は、半年も経つとすっかり忘れられてしまった。

 

 やはり、見ず知らずの人間の死というのはそれほど記憶に残ったり悲しかったりするものではないのだろうか?

 なら、家族はどうだろうか?

 私が刺殺した男の妻や子供は、まだ悲しんでいるだろうか?

 ならば、人の死に対する人間の感情は、その人間との距離感が関係しているのだろうか?

 

 そうか。

 

 ようやくわかった。

 私が祖母が死んで何も感じなかったのは、距離感が離れていたからだ。

 ならば。

 

 

 十年以上も共に暮らしていた家族ならどうだろうか。

 

 私は。

 

 感情が知りたかった。

 強い悲しみを感じれば、私にも人の心がある事が証明できる。

 

 

 だから、殺した。

 

 

 父も母も、兄も弟も。

 

 簡単だった。

 

 久々に実家に帰ると、たまたま家の周りをランニングする兄がいたので、包丁で腹を刺した。

 声をかけたので反応していたが、あの顔は”私”ではなく、一瞬だが見知らぬ誰かと思って振り向いた顔だった。

 

 家に入ると、母親が驚く顔で出迎える。

 ただいま、と一言言って血まみれの包丁で刺す。

 ぐももった悲鳴が漏れたのでいったん身を隠す。

 

 弟と父親が駆け付ける。

 私はわざと大きく物音を立てると、二人の注意がそちらにそれる。

 そうなると、二人は背後に立つ私の存在に気付かない。

 

 物音は私よりも存在感が大きいから、注意を引くのは簡単だった。

 背後から父親を刺す。

 

 隣で倒れた父親を見て叫び、携帯電話を取り出して警察か救急車に電話を掛けようとしたが、そこに意識が向かうとやはり私の存在には気づけず、堂々と正面から刺した

 

 あっという間のまま、すべてが終わってしまった。

 私の中にあったのは、やはり何も感じない事に対しての失望感だった。

 

 ああそうか、終わった後に気付いたが、私は家族になんの親しみも感じていないじゃないか。

 これでは悲しみを味わえないのも納得だ。

 

 ならば、もっと親しくなってから殺せばよかったのか?

 そう考えると惜しい事をした。

 

 なぜなら、今後家族以上に親しくなれるほどの相手をおそらく作れないだろうからだ。

 ああ、そう考えると今更になって少し後悔する。

 

 例えるなら果実を熟す前に食べてしまったような、そんな感じだ。

 もしかして、これが悲しみなのだろうか?

 

 考えてみれば、悲しみを味わったことがないから、なにが悲しみなのか良くわからないのだ。

 そう考えると、人はなぜ、悲しみという感情を共有できるのだろうか?

 

 自身の感情と、相手の感情は全く別のものかもしれないのに。

 

 だが、そんな益体もない事を考えているうちに、警察が押し寄せてきた。

 誰が通報したのかは分からないが、考えてみたら兄の死体は外に放置したままだったので、そこら辺からばれたのだろうか。

 

 なんにせよ、死体もそのままで、家には包丁を持って立つ男が一人。

 私は、一家四人の大量殺人犯として逮捕された。

 

 私は特に罪を誤魔化すつもりもなかったので、取り調べはスムーズに執り行われた。

 尤も、普通に刺しただけですと言ったらなかなか理解して貰えなかったが。

 

 やがて裁判の日程が決まり、裁判所へ移送されるが、裁判所内で少し人込みにすれ違った瞬間、二人の警官が勝手に私の姿を見失った。

 

 私は特に逃げる意思もなかったのだが、一応感情を見つけるという目的を達成するには、塀の中にいるのはいささかよろしくないと考えていたので、すれ違い際に手錠のカギをくすねて裁判所から逃走した。

 

 人の目から逃れるのは得意なので、逃げようと思えば簡単に逃げられてしまった。

 

 私の名前と顔が逃亡犯として報道されるが、あまりの特徴のない名前と顔のせいか、堂々と街中を歩いていても誰も通報する事は無かった。

 

 それはそれとして身分証明書などは使えないし、自宅も当然使えない。

 金は財布をくすねて何とか出来たので、それなりに生活は出来ていたが。

 

 しかし、そんな中、公園で寝ていたら私の名を呼ぶ黒ずくめの男が現れた。

 警察かと思ったが、雰囲気が怪しすぎるので直感だがそれ以外の何かだと思った。

 

 

 直感は当たっていた。

 黒塗りのバンに乗せられると、行きついた先は簡素な事務所。

 彼らは、俗にいう殺し屋だった。

 

 

――――

 

 

 私は殺し屋の仕事を受けた。

 殺しは慣れたと言う程やっていないが、何も感じないので抵抗感はなかった。

 それでそれなり以上の収入と安定が得られるなら、安いものだ。

 

 私にはおそらくほとんど感情が無いのだろうが、まずいものよりはおいしいと感じるものを食べたいと思うし、満腹になれば幸福感も多少は感じる。

 湯船に浸かれば気持ちいいと思うし、ふかふかのベッドは気持ちが安らぐ。

 

 要するに、収入のある生活というのは単純に魅力があった。

 

 そのような生活だけを求めるなら、別に最初の会社で平和に暮らしていてもよかったのだが、私は、あの顔が忘れられない。

 

 祖父を失った、あの私の家族の悲しみに泣きじゃくる顔。

 

 私と他の人間は違うのだと、明確に分かってしまう原因となった、あの顔。

 あの感情が知りたくて、私はここまでやってきた。

 

 だがもう、無理なのかもしれない。

 私は、分不相応な望みを願っていたのかもしれない。

 

 誰とも親しくなれない人間が、誰かを悲しむことなんて、絶対に出来ないのだ。

 

 そんな事を考えながら、私は日々、標的の人間を殺しまくった。

 多くはそれなりの立場にいる重鎮の老人や壮年の男性が標的だったが、中には女性や子供など弱者が標的になることもあった。

 殺す理由も、雇い主の素性も知らないが問題はない。

 

 年端の行かない少女や、子供を抱える母親も殺したが、何も感じる事は無かった。

 十人、二十人と次々順調に殺しを重ねていったが、罪に心が重くなることもなかった。

 

 そうして私は年を重ねた。

 

 

――――

 

 

 私は、その組織でそれなりの地位に立っていた。

 何度も部下を付けると言われてきたが、そのたびに断ってきた為、部下は一人もいない。

 

 暗殺は今のところ失敗した事が無いので、組織からの信頼も厚い。

 収入もかなりのものとなっていたが、生憎大金の使い道が分からず、ほとんど腐らせていた。

 このまま殺し屋として安定した人生を終えるのも悪くないか。

 そう思うように、というよりはそう思うしか無くなった頃に、その日は訪れた。

 

 いつものように、私は顔も知らぬ上司から任務を与えられた。

 方法はさまざまで、PCや携帯電話のメールから直接依頼されることもあれば、街中で指示書を受け取ったり、一般人に扮した第三者に直接口頭で伝えられる場合もある。

 

 もちろんいずれであっても内容は暗号化され、一見にはそれと分からないようになっているが。

 

 

 その日の仕事は、ある一家を父親以外暗殺する事だった。

 理由は聞かされていないが、推察するに脅しに屈しなかった父親への報復、といったところだろうか。

 

 まあ、理由はどうでもいい。

 

 私は、堂々と、かつ音もなく玄関から侵入し、まず台所で家事をする母親と思わしき人物を殺害する。

 既に殺し屋として一流ともいえる功績を残した私だが、特にこれと言って技術はない。

 

 ただ、意図的に気配を消そうと心掛け、ナイフを背中から突き立てるだけで、標的は簡単に死んでいった。

 家族構成は、父母に、三人の姉妹の五人家族。

 故に、対象は四人。

 今は父親以外の全員が家にいる事は調査済みだそうだから、家にいる残り三人を殺せばいい。

 

 この家はいわゆる豪邸という奴で、少し広いが、焦る事は無い。

 

 私は自分の存在感が無いせいか、他者のそれには敏感だ。

 それはもともとだったのか、殺し屋になってからなのか、今となっては思い出せないが。

 

 そうして二人目、三人目と殺す。

 だがおかしい。

 もう一人の気配がない。

 

 眠っているのかと寝室を見回ったがそれも違った。

 そう豪邸を探索していると、ついに父親が帰宅してしまった。

 

 今まで死体の隠蔽などしなかったので、台所で死体はあっさりと見つかり、私は気配を消して隠れる。

 

 任務失敗か。

 恐らく三姉妹の最後の一人は、どこかで現場を見られてしまって逃げ出したか、或いは私が家に来てから玄関以外のどこかから外出していたのか。

 証拠を残したつもりはないし、例え残っていても見つかるとは思えないが、警察がやってきてはさすがに面倒なので、逃げる準備をした。

 

 だが、その父親は警察に電話する素振りも見せず、悲しみよりも怒りの表情で、どこかへ向かった。

 気になった私は、気配を消して男の後をつける。

 

 男は仕掛けを操作して、地下へ続く階段を開いた。

 まさか、と。

 私は珍しく興味を惹かれ、男の後ろを進んでゆく。

 

 その地下室は、いわゆる拷問部屋という奴だった。

 そこに、天井からの鎖に半裸の少女が繋がれていた。

 

 どうりで、三姉妹の一人が見つからないわけだ。

 理由は分からないが、この少女がそうなのだろう。

 

「このクソ犬!! 拾ってやった恩も忘れやがって!!」

 

 男は鞭を振るい、少女の体を傷つけるが、少女は小さく呻き声を上げるだけで言葉を発さない。

 

「言え!! お前の雇った殺し屋が近くに来てるんだろ!? 次は、次は俺を殺す気か!? クソっ!! どこにいるんだ!? どうやって知った!? どうやって連絡を取り合ったんだ!! 答えろクソ犬ッ!!」

 

 鞭が振るわれ、少女の体から鮮血が舞う。

 私がくる以前にも既に拷問は行われていたようで、少女の体は痛々しいほど傷だらけだった。

 食事も与えられていないだろう、体は衰弱し、一目で瀕死だと分かる。

 

「金ならある! どうやったのか知らんが、きっとお前の依頼を取り消すぐらいの事は出来る筈だ! そうすれば……くそっ! お前なんぞ飼ってる方がリスクだ! どこへ行こうと好きにしろ!! だが! このまま吐かねぇなら死ぬより辛い苦しみを与え続けてやる! それこそ、お、俺が死ぬまでなぁ!!」

 

 鞭が振るわれる。

 どうやら、男は自分も依頼の対象になっていると勘違いしているらしい。

 入っているのは目の前の少女なのだが、あの様子だと恐らく家族というカテゴリに入っていないのだろう。

 

 とはいえ、このまま放っておけばあの少女は勝手に死ぬだろう。

 この男も怒りと恐怖で理性を失い、恐らくプロの拷問官並みの生死の調整は出来ないだろう。

 そうなれば、間接的にも依頼達成という事になるのだろうか?

 ならば、このまま様子を見守り、あの少女が力尽きるのを見届けてから去るとしよう。

 

 そう、いつもなら考えていた。

 だが、私はあの少女が、とても気がかりだった。

 

 なぜならその少女は、自身が拷問されているにも関わらず、その視線は男へ向いていない。

 

 私に、向いていた。

 

 

――――

 

 

 他人の視線、というのは私にとっては当たり前のようにあるものではなかった。

 多人数で会話していると、皆私を見ない。

 意識的に目をそらしているのではなく、そもそも意識が向かないのだ。

 

 コミュニケーションが苦手だったので、一対一で会話することも少ないし、したとしても、手に持っているものや景色、書類など他のものに目が行っている事が殆どなので、目と目があった、という経験すらあまりない。

 

 だから、その少女と明確に目があったのは新鮮な、というより恐怖すら感じる出来事だった。

 少女の眼は、暗い闇の底のような色をしていた。

 苦痛も懇願も無く、救いも慈悲も求めないその暗黒のような瞳の底に、ただ一つ浮かんでいたものは、殺意。

 

 そこに憎悪も快楽も無く、ただ純粋に、遍く全ての人間と世界に、殺意が向けられていた。

 

 不思議だった。

 私は、最初から物陰に隠れ、暗がりの中から様子を観察していたというのに。

 余程注意深い人間でも見つからない自信があったのに、ましてこの少女のような意識朦朧の状態では絶対に見つけられないはずなのに。

 

 少女の瞳は、最初から私を射抜いていた。

 

「なんとか、答えろォ! でないと本当に殺――」

 

 だから、私は、暗殺の依頼に背き、男を刺した。

 

「ぐ、おぉぉ……、お前、は……」

 

 男は死亡した。

 

 さて。

 

 依頼内容にない殺しをしてしまったが、この少女を殺せばまだ許されるだろうか?

 答えは、恐らく否だろう。

 

 見たところこの男、相当な権力者のようだ。

 今回の依頼も脅しの側面が強い。

 となれば、脅してでもこの男にさせたかった何かがあったはずだ。

 

 尤も、家族の命を奪った程度ではさほど堪えていなかったようだが。

 家族の惨殺に涙しないという点では私と似ているが、いや。

 この男は自分の命が大事すぎるだけか。

 きっとこの殺しも、大切な者を奪うというよりは、次はお前だ、という意味合いが強かったのだろう。

 

 とはいえ、私が今殺してしまったので全てご破算だ。

 それよりも……私はこの少女に興味が沸いた。

 

 あの暗がりの中からなぜ、この少女は正確に私の存在を見抜いたのだろうか。

 そして、今や殺意すらも失せたその虚無の瞳は、感情を持ちえなかった私にそっくりだった。

 

 一緒に来るか?

 

 気づけば、口からそう言葉が出ていた。

 少女は、言葉を発さず、虚無の瞳のまま、小さく頷いた。

 

 尤も、彼女にしてみれば、選択肢など無かっただろうが。

 

 

――――

 

 

 そうして私は少女と行動を共にするようになった。

 一度暗殺対象になっている人物は、例えその目的が失われたとしても必ず執行される。

 私の属していた組織は、そういう組織だ。

 

 一般的に考えれば警察に引き渡すべきだが、仮にそうしたとしても暗殺は執行される。

 警察内部にも組織の上位の者は出入りできるし、労力はかかるだろうがやろうと思えば合法的に殺すことも可能だ。

 

 尤も、その考えは懸念でしかない。

 

 組織には何年も務めたが、所詮使われる側の人間でしかない為、組織の意図は読めない。

 

 すべては杞憂かも知れないし、なんなら脱走者として命を狙われる私のそばにいた方がよほど危険かもしれない。

 事実、翌日忍び込んだ空き家はすぐに燃やされ、尾行する人間を二度撒いた。

 

 存在感の薄い私はともかく、この少女は目立つのだろう。

 

 もはや私にとってもこの少女と共にいる方が危険ですらあるが、何故か私は少女の手を放すつもりはなかった。

 

 少女は何も語らない。

 声を発さず、ただ何も映さない空虚な瞳で私を見る。

 

 私も口数は少ない方なので一日中話さない日が殆どだ。

 だが、私の方も、少女の方も離れようという気は無かったようで、口数に反して常に傍らにいた。

 それしか居場所が無い、というだけの話ではあるが。

 

 私と名も知らぬ少女の、奇妙な共同生活が始まった。

 

 

 

――――

 

 そうした経緯でとにかく、私と少女はしばらく行動を共にした。

 

 始めに、私はこのままでは目立つ少女の衣服の調達に行こうとした。

 街中で財布を盗んで購入することなどこの上なく簡単だが、少女を連れて行ったのでは目立つ。

 なんせこの少女は全身傷だらけで衣服も切り裂かれ殆ど露出している。

 傷の手当は脱出するときに豪邸から持ってきた救急箱でなんとかしたが、衣服まで気が回らなかった。

 

 私は少女に廃屋で待って居るように一言言ったが、少女は首を横に振る。

 あくまで私に付いてくる気らしい。

 相変わらず空虚な瞳からは何の感情も読み取れないが、それは私に保護してもらう気か、それとも私を殺す気か。

 

 ともかく、それなら取れる手はひとつだ。

 今や警察の捜査の対象となった、あの豪邸に戻る。

 

 それも少女は嫌がったが、今度は無理やり連れて行く。

 もうじき冬になる。

 肌着以下の格好では体に堪える。

 私は無意識に少女の心配をしている事に気付かず、夜の豪邸へ舞い戻った。

 

 私単体なら見つからずに出入りすることなど造作も無いが、少女の存在はすぐに警察に見つかり、躊躇いなく銃を向けられた。

 

 豪邸侵入したときから分かっていたが、彼らは警察ではなく、全員殺し屋組織の人間だった。

 だが、意識が一か所に向いている人間程容易いものはない。

 

 刺して、闇に隠れ、また刺す。

 だが、人数が思いのほか多かったのと少女の存在があり、残り一人を取り逃がす。

 

 その男は、少女を掴み、拳銃を突き付けて私に脅しをかける。

 少女のこめかみに拳銃を押し当て、私に向かって動くと撃つと叫ぶので、撃ってみろと返すが、男は恐怖しているようで撃ちもしない。

 

 余りの度胸のなさにこの男実は殺し屋ではなく本物の警官なのではと疑ったが、警官がこんなことをするはずないので三流の殺し屋だったのだろう。

 

 少女一人殺すくらい訳ないと踏んだのだろうか。

 

 私はそのまま無言で男に近づき、そのまま包丁を腹に突き立てた。

 あっさりと男は倒れ、命を失った。

 

 少女は私のそばに戻ったが、私と同じく感情を失っているせいか、あの間なんの反応も見せていなかった。

 とにかく、豪邸の警官はこれで全て殺したので、堂々と漁らせてもらう。

 少女の着替えと更なる傷の治療を行ったところで、新たに警察の陰。

 

 今度は本物だろうか?

 どちらにせよ長居する気は無かったのでその豪邸を出た。

 

 それからの少女との生活は、もはや殺人と同義になっていた。

 

 私一人なら何とでもなるが、やはり無表情の男性が無表情の少女を連れている姿はそれなりに目立つようで、資金調達のためのスリが殺しに発展した事も少なくない。

 

 その騒ぎのせいか、組織からの刺客も頻繁に訪れるようになった。

 どうやら賞金を懸けられたらしい。

 

 少女は相変わらず口を開かず、表情も変えない。

 ただ、少しの変化はあった。

 

 私たちは常に組織の刺客を警戒し、人の少ない大通りなど、特に狙撃の受けやすい場所は意図的に避けていた。

 私はともかく、少女が見つかって狙撃される可能性はある。

 そうして人混みや、極端に人の少ない暗がりなどをひっそりと移動していた。

 それはそれで刺客の襲撃を受けやすいのだが、私にとってはそれ程脅威ではない。

 

 いつものように私は後をつける気配を察知し、意図的に暗闇に潜り姿を消した。

 そして後を付ける男の背後に回り、背後から一刺し。

 最初から少女の姿しか見ていなかった男は、あっけなく死ぬ、と思われたが。

 

 包丁は刺さっていなかった。

 

「かかったな。お前が裏切り者の”死神”か」

 

 男は服の下に防刃ベストを着込んでいた。

 単純な対策だ、だが効果はあった。

 私は咄嗟に身を隠そうとするが、私の二つ名を知っている事と身のこなしを見るに、相手はどうやら賞金目当てのゴロツキではなく私と同じプロの殺し屋だ。

 

 瞬時に両足を撃ち抜かれ、私は成す術も無く倒れた。

 

「ふん、本当に暗殺以外は能のないやつだ。さて、仕事以外で何人殺した? 敢えて言わせて貰うが、俺達みたいな社会のクズ以下のクソ野郎だな」

 

 否定はしない。

 生きる為に仕方なく殺す人間、組織という社会の中で仕事をこなす為に殺す人間はいる。

 それは、仕事であるからには一定の目的を持ったものだ。

 

 だが私は、ただ自分と少女の為、ただ逃げ回る為だけに何の罪もない一般市民を殺害している。

 他者から見れば一方的に罵られても文句は言えない立場だろう。

 

 私がそうして犯した罪は、人類社会にとってはとても許されざる行為であるが、しかし私にとっては必要な行為でもあった。

 

 彼らにとっても殺人が必要な事であったとしたら、そこに一体何の違いがあるのだろうか。

 

 もう殺される私には、もはやどうでもいい話であるが。

 諦めて目を閉じた瞬間、物音がした。

 

「ッ、逃げずに向かってくるか。根性据わってるな!」

 

 少女が男に飛び掛かった。

 が、男は片手で少女の首を掴み、締め上げる。

 もう片手の銃は私に向いたままだ。

 

「ったく、手間取らせる、な!」

 

 男は少女を地面に叩きつけた。

 殺すなという指示でも出ているのだろうか?

 いや、単に楽しんでいるだけかも知れない。

 

 だが、それが油断となった。

 叩きつけて怯んだと男が思った瞬間、少女は男の手に噛みついていた。

 

「ッ、この、クソガキ!!」

 

 そして男の注意が少女に向いた。

 その隙を縫うように、私は包丁を男の首元に投げつける。

 もう私の両足は使えず、直接刺す事は出来なかったからだ。

 

 だが包丁は男の肩を僅かに掠った程度で通り過ぎるに留まった。

 両足からの出血が激しく、血を多く失っていたせいで狙いが定まらなかった。

 

「ぐはッ! クソ、ガキ……」

 

 だが、意識を失いかけて次に見たのは、私が投げた包丁を手に取り、男の首元を少女が切り裂いた光景だった。

 その目は、ただただ殺意という意思に溢れていた。

 それは憤怒や使命感や焦燥ではない。

 ただ目の前の男を殺す、という冷たい殺意でしかなかった。

 

 男も、少女のそこまでの明確な殺意を予想していなかったらしく、反撃を許したのだろう。

 

 男は倒れ、死亡した。

 少女が、恐らく初めて人を殺した瞬間だ。

 

 そして、私も同時に死ぬだろう、と思った。

 

 だが少女は、私に駆け寄ると必死に布で傷口を塞ぎ、出血を止めようとした。

 そして、小さい体で私を背負い、半引きずるような形で最寄りの街まで運んで行った。

 尤も、この時の私はもはや意識朦朧でただただ激痛に苛まれていただけだったが。

 

 結局、私は少女によって病院まで運ばれ、緊急治療を受けることになった。

 

 

――――

 

 

 まさか、大量殺人者の私がまともな治療を受けることになるとは思わなかった。

 身分を証明するものも一切持っていない為最初こそ謎の人物であったが、指紋の採取などで一家殺害の容疑で警察から逃亡した身と分かると、厳重な警備の元で尋問された。

 

 尋問は手こそ出さないもののほぼ暴力に近い形で行われたが、終始黙秘を貫き通した。

 銃で撃たれたり人を刺したりする経験をなんとも思わないのだから、動揺する筈がない。

 

 気がかりなのはあの少女だ。

 情けない事だが、彼女は紛れもなく私の命を救ってくれた。

 私にここまでの労力を割いてくれたのは彼女が初めてだ。

 いや、というよりそれほど私を見てくれたのが初めて、というべきか。

 もちろん医者も全力で私の治療を行ったのだろうが、それは飽くまで一人の名もなき患者として、だ。

 

 その少女に対して、私は共感以上の何かを感じ始めていた。

 彼女の恩に報いなければいけない。

 そう強く思い始めていた。

 

 幸いというべきか、彼女もひどく衰弱しているようで同じ病院に入院している。

 噂によると自傷行為までしているそうで、怪我や衰弱が落ち着いたら厳重な保護施設に移送されるそうだ。

 

 本当なら、そうするべきだろう。

 少女はまだ、世界を知らない。

 そこで本当に幸せになって、これまでの事など忘れて暮らすべきなのかもしれない。

 

 だが、それでも、今の彼女は決してそれを望まないだろう。

 そして私も、それを望んではいない。

 

――――

 

 私の怪我はだいぶ癒えた。

 この後、私は完治ししだい再び刑務所へ移送される。

 一度逃がしているのだ、さすがに移送中は物理的に逃走不可能な体制を取るだろう。

 

 そうなる前に、ここを脱出する。

 深夜。

 気配を殺し、暗殺業の傍らで習得した鍵開けの技術を発揮し、院内を探す。

 

 見つけた。

 彼女は私を見ると、無言で近づいてくる。

 心なしか嬉しそうに見えるのは、私の気のせいだろうか。

 瞳からは、相変わらず感情は読み取れない。

 

 行くか?

 そう問うと、彼女は無言で私の袖を掴み、頷いた。

 

 そうして、二人で容易く病院を脱出した。

 ただし、相変わらず二人とも根無し草だ。

 

 また、法と人命を侵し、二人で転々と逃避行をする羽目になった。

 彼女と数日を過ごすうちに、私はいつしか彼女に技術を教えるようになった。

 人の死角の入り方や、スリの手口、果ては殺人まで。

 特に殺人は、一度やってから躊躇いが無くなったようで、かつ私より身体能力に優れているらしく、今ではむしろ頼れる存在となった。

 

 そうして、一年に満たない期間であったが、私たちは二人で暮らした。

 徐々に彼女の表情は柔らかくなり、私も心が少し穏やかになったような気がした。

 相変わらず、彼女は言葉を発せず、お互い名前すら知らない仲ではある。

 

 だが、それでいい。

 私はそれを、無自覚のうちに嬉しく思っていた。

 それに気づくのが、少し遅すぎたかもしれないが。

 

――――

 

 以前は頻繁に襲ってきた刺客も、最近はめっきり無くなった。

 同時に、私たちの意識も変わり、むやみに人を殺さなくてもそれなりにスリなどで生活できるようになった。

 ここ数日は、血生臭い事もない。

 相変わらず法は犯しているし、過去にしたことが消えるわけではないので大手を振って歩く事は無いが。

 

 拠点にする廃屋を見つけ、ここで夜を明かす事にした。

 山奥の、かなり深い森だ。

 時期は真冬。しばらく足跡が無い事から滅多に人の来ない場所であることが分かる。

 付近に大きな洞穴があったが、大きな音を出さなければ冬眠した野生動物の目を覚ますことも無いだろう。

 

 寝床の支度が終わった後、私は何と無しに夜空を見上げる。

 月明かりの、綺麗な夜だ。

 真冬特有の、澄んだ空気も月の美しさに拍車をかける。

 

 いつの間にか、隣に少女も来ていた。

 ふと横顔を見ると、傷跡と消えない痣が残った顔が見える。

 それでも、私の中に美しいと思う心が僅かにあり、自らそのことに驚いていた。

 私もようやく、人並みの感情を持つに至ったというのか。

 はっきりとは分からない。

 

 少女も、無表情で私を見る。

 少し柔らかい雰囲気になったようにも思えるが、相変わらず互いに言葉はない。

 もはや不要とさえ思えた。

 この空間が、安らぎの空間が、もしかしたら私の求めたものだったのかもしれない。

 少なくとも、隣に居るこの名も知れぬ少女は、私の事をどこにでもいいる誰かや、誰かの次いでではなく、私個人として認識してくれている。

 もはや、それだけで何も――

 

 

 

 ――物音がした。

 私たちのものではない。

 野生動物か、それならば良いが、そうではなかった。

 

 伏せろ、と。

 気づけば私は大声で叫んでいた。

 月明かりに照らされて飛んできたのは手榴弾だった。

 

 爆発。

 破片が周囲を覆うように飛び、私は咄嗟に少女を庇うように飛んだ。

 

 直後、耐えがたい激痛。

 背中の数か所に穴が開いたようだ。

 

 少女が駆け寄るが、それは悪手だ。

 

 私に注意を向けた事により、周囲への認識が甘くなり、横から出てきた人影に蹴りを入れられる。

 少女は地面を転がり、更に足で背中を踏みつけられて押さえられる。

 

 その顔は見たことがあった。

 私の両足を撃ち抜いた組織の殺し屋だ。

 殺したと思っていたが、何故か生きていたらしい。

 

「よぉ、久しぶりだな”死神”ぃ。あの時のようにはいかねぇぞ。てめぇはここで、死ぬんだ!」

 

 そうして、男は少女にショットガンをつきつけ、そして躊躇いなく引き金を引いた。

 

 少女は、腹部に散弾を至近距離から受け、幾重もの散弾は腹部を貫通し、辺りに血と臓物が白い雪原を赤く染める。

 

 男は彼女を、ゴミのように蹴り飛ばした。

 

 私はそれを見て、人生で初めて冷静さを失った。

 殺意を押さえられなくなり、目の前が真っ赤に染まるのを感じた。

 

 ナイフを握り、真正面から男を刺し殺そうと振りかぶる、が。

 

「おいおい素人かぁ? そんな攻撃が通用する訳ねぇだろうが」

 

 散弾が私を真正面から貫いた。

 

 そうだ。

 私は今まで何も感じていなかったからこそ、何の技術も無しに人の意識をすり抜けることが出来た。

 この、溢れるような殺意を振りかざしていては、当然、人なんて殺せるはずがないのだ。

 

 そのことを誰より分かっていながら、私は感情に飲まれた。

 

 

 ――そうか。

 感情は、私の中にも、確かにあったのだ。

 

 散弾は私の全身を遍く貫いている。

 前回のようにはいかない、数分と持たず、確実に死に至る事を冷静に受け止めた。

 

 ……因果応報、とはこのことらしい。

 弾けた肺と、裂けた喉で吐き捨てるように声に出した。

 

「はっ! 殺人狂が、今更後悔したって遅ぇんだよ」

 

 男は蔑んだように笑う。

 

 ――そう、因果応報だ。

 殺し屋などやっている、この男が、

 どれほど自分勝手であろうと、私の人生で一番”大事になった”ものを奪ったこの男が笑ってここを去る事を、私だけは許しはしない。

 

 そうして奇跡は、起こったのだ。

 

 

 体長3mはある、熊が立ち上がってそこにいた。

 あれだけ物音を立てたのだ。

 冬眠から目覚めてもおかしくはない。

 

「な!? なんで熊が――」

 

 男は成す術なく熊に襲われ、断末魔を上げて絶命した。

 

 その声は途中で聞き取れなくなっていた。

 耳の機能が死んだらしい。

 

 だが、残った視覚と感覚で、私は手が握られるのを感じた。

 

 ……少女だ。

 ショットガンで腹を撃ち抜かれたが、奇跡的にまだ息があった。

 彼女は私の手を握り、口を動かす。

 

 声は聞こえない。

 彼女は元々口を利かないし、私も聴覚が死んでいる。

 だから、聞こえる筈が無いのだ。

 

 

 ありがとう、なんて、聞こえる筈が無いのだ。

 

 

 私も精いっぱい手を握り返し、感謝の意を伝える。

 

 同様に、私の言葉など聞こえた筈がない。

 

 それでも彼女は最期に、確かに、笑っていた。

 

 

 

 

 ああ、そうか。

 

 

 私は、とても幸せだったのか。

 

 

 雪は、全てを覆い隠すように、降り続いた。

 




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