無敗の八冠?だったら、俺が獲ってやるよ。 作:流星の民(恒南茜)
「…それじゃ、行くわよ。」
コインを手に持ち、トレーナーが宣言する。
「…ええ、いつでもどうぞ。」
なかなかにジャージ姿も様になってる、と言うか、様になりすぎている、というべきか。
少々、目力が強い気もするし、何というか…強そうだ。
「あまり私を舐めないでね?引退後もちゃんと、トレーニングしてたんだから。」
彼女はそう宣告すると、ピンと、コインを弾いた。
宙を舞うコイン。
夕暮れの陽に照らされ、鮮やかに光り輝く。
だが、見惚れている場合ではない。
スタートダッシュの構えをとったその時、コインが地につき——
スタートだ。
今回のコースは芝1600mといったところ。
今までなら負荷も考慮して、走ってせいぜい1000mといったところであったので、普段より+600mといった具合だろうが、流石にこの差はでかい。
…とはいえ、立ち回りもわからないのだ。
最初は慎重に、と。
速度を気持ち抑えた状態で、取り敢えず内ラチ側に収まっていく。
ここのコースも今は走り慣れたものだが、いつもと違うのは併走相手がいると言うことだ。
そして、その肝心の併走相手はというと——
2バ身ほど離れた後ろにつけてきていた。
あれぐらいのペースで走れ、ということなのか、それとも、それが彼女の作戦なのか。
だが、相手のペースに乗せられたらマズイ、ということは今までのレースで十分学んできたはず。
俺は俺でペースを作るんだ。
さて、第3コーナー回ってもうすぐ最終直線といったところ。
トレーナーが仕掛けてくる様子は今のところない。
…であれば——
——俺が先に仕掛けるっ!
一気に足に力を込め、大地を踏み締め。
聞こえてくるのは、ザッという小気味の良い音。
と同時に、地面を突き放すように蹴り上げ、ぐんと速度を上げていく。
のだが…。
…おかしい。まだトレーナーが仕掛けてこない。
——本当に、ここでスパートをかけるのは正しいのか…?
唐突に湧いてくる疑問が、一歩、先に進むのを躊躇わせる。
その、一瞬の躊躇いが仇となった。
ザッ!
背後から聞こえたのは地面を抉った音。
——仕掛けてきた。
もう、最終直線に入って半ばといったところ。
だというのに…突き放せていない。
全身が粟立つようなゾクリとする感覚。
どんどんと近づいてくる足音と息遣い。
突き放そうと、スピードを上げるが、間違いなく音は近づいてきている。
…不味い。
更にスパートをかけようと、足に力を込めた時だった。
ぐらり
と視界が揺れた。
…フォームが、崩れたのだろうか。
慌てて、持ち直そうとした、その時。
ザッ!
一際大きな音と共に、横から一筋の影が飛び出した、かと思うと、一気に突き放された。
一瞬で逆転する位置。
——抜かねば。
フォームを戻し、再び足に力を込めるも…距離は縮まらない。
…いや、それどころか距離が広がっている。
俺の加速を超える速度で、彼女は…走っている…のか?
つまるところ——
——追いつけない…と?
そう実感した瞬間だった。
急に、脚が重くなると共に。
段々と、視界がぼやけてきた。
「届…けよ。」
熱く熱された空気が、辛うじて声となり口から漏れる。
よろめきながらも、地面を蹴り上げ、前に進む中で。
ぼやけた視界の中で、彼女がゴール板の前の大地を踏み切るのが見えた。
◇ ◇ ◇
◇ ◇
◇
「…お疲れ様、アンタレス。」
ゴールすると同時に、地面に倒れ込んだ俺に、トレーナーが差し出してきた水を受け取り、黙って飲み干す。
「…はぁ…はぁ…」
それまで、虫の息といった具合だったのが、少し安定してくる呼吸。
「立てるかしら?」
しばしの静寂を経て、そう問いてきたトレーナーの言葉に頷き、手を掴んで立ち上がる。
「——さて、課題についてだけど…まずは——」
日陰に移動し、数分後、トレーナーが話を切り出した。
「スタミナの不足、ね。ゴール手前、明らかにスピードが落ちたでしょ?」
…確かに、だ。
明らかに普段より加速力が落ちていた。
「原因としては…慣れない距離だったからこそのペースの乱れも挙げられるわね。そして、何よりも——」
そこで一呼吸を置くと、彼女は話を続けた。
「自分のペースで走ることへの躊躇い、よ。正直、これが決定的だったわ。…あそこで、もっと距離が空いていれば、結果はもう少し変わっていたかもしれない。」
躊躇い、か。
あの時、もう少し突き放せていれば、確かにまだワンチャンあったかもしれない、と。
少なくともここまで無様な結果では終わらなかったかもしれない、と。
胸の中で、何かが囁いていた。
「だからこそ、確立しなきゃいけない。あなた自身のペースを、どんな相手だろうと、どんなレースだろうと曲げないあなただけの、あなたらしい——走りを。それが、トレーニングと同じぐらい大事な…今のあなたの課題。」
——俺の走り、か。
確かに、今までは我武者羅に走ってきた。
俺自身の走り、だなんて、考えてこなかった。
だから、だろうか。
今日のレースの時、俺の走りは確かに曲がった。
慣れない距離だったというのもあった…だろうが…1番は、威圧感に負けたこと。
曲がらない俺だけの走りは、きっと、今後色々な相手と戦う時の、強い武器になるということだろうか。
そして、彼女は最後に、俺の瞳を見据えると、
「この先、待ち受けているのは、才能だけじゃ…戦えないぐらいに、苛烈な世界。そこに身を投じる覚悟。そして、曲げない自分だけの信念を…夢に向かって突き進む意志を持つウマ娘だけが、勝利を掴めるわ。だから——覚悟を決めて。それが、最初の課題よ。」
そう言い放った。
◇ ◇ ◇
◇ ◇
◇
…眠れない。
もう目も冴え冴えといった具合か。
すっごい覚醒してんな、今。
それというのもやはり…。
トレーナーが言っていたことが、頭の中にこびりついているから、だろうか。
“覚悟を決めて”か。
考えてみれば、ここに来てからどれだけ、厳しい世界に晒されたという実感を持っていただろう?
脳裏をよぎるのはそんな疑問だった。
ずっと、頭が回転してるようで、眠気がちっとも湧いてこない。
どうしたものか——と、ベッドに座り込んだ時だった。
タッタッタ、と。
窓の外で誰かが駆け出すのが見えた。
いや、あの栗毛は間違いない。ヴァーゴだ。
恐らく、このままここで燻っていても何も始まらないだろう。
俺は、ドアを開け、ヴァーゴを追いかけることにした。
◇ ◇ ◇
「…アンタ?こんな時間にどうしたの?」
追いつけたのは案外すぐ、だった。
「…いや、なんだか眠れなくって。」
と、そう答えておく。
「…そう。だったら、一緒にトレーニングする?門限は過ぎちゃってるけど。」
そう告げると、彼女は再び駆け出した。
◇ ◇ ◇
走り出してから何分経っただろうか。
「…ここで、休憩にしましょうか。」
公園の前でそう告げる彼女の言葉で目が覚める。
「…ああ。」
短く答え、座り込んだのはベンチ。
いざ走るのをやめてみると、湧いてくる疲労感で少し頭がぼーっとする。
「…それで、眠れなかった理由、聞いてもいい?」
その時、唐突に、彼女はそう聞いてきた。
「…えーと…。」
反射的に出てきたのは答えにならない答え。
どこが重要なのか、と考えた時に、やはり真っ先に浮かんでくるのは“覚悟”という言葉だった。
「私、今日トレーナーに言われたの。まずは覚悟を決めなさいって。」
自分でも驚くぐらい、落ち着いた口調だった。
「…おかしいよね。ただそれだけのはずなのに、何だか意味が見えてこなくって。」
「…そんなことなの。」
恐ろしいぐらい早く、彼女は答えを出した。
「…え。」
「だったら、決めちゃえばいいだけじゃない。」
それも言い切るように。
「…でも、なんとなく踏ん切りがつかなくて…」
「そんなことないわよっ!」
一瞬、俺は肩を震わせた。
それほどまでに、珍しかった。
彼女が…声を荒げたのが。
「アンタは夢を宣言した時だって…走ってる時だって…それこそ、夏合宿の時だって…ずっとずっと真剣だった。それもバカみたいに。アンタがそれぐらいの覚悟を決められないわけがないわ。私が保証したっていいもの。」
そこで、彼女は俺の肩を掴むと、真っ直ぐ俺の瞳を見据えた。
「だから、あとは一歩踏み出すだけじゃない。」
…そうだ。
何を迷うことがある?
俺には夢があったはずだ。
そして、それは、常に揺るがなかったはず。
“無敗の八冠を獲って、テイオーの憧れになる“という大きな夢が。
そのためならなんだってできるって…そう、決意はずっと固めてきたはずだ。
「はは…私、何このぐらいで悩んでるんだろ。そう…だよね。よし!私ならきっとできる!」
そう呟いた声が、夜の公園に響く。
…自信が、胸の中でスーッと広がっていった気がした。
「それでこそアンタよ!…それじゃ、すっきりしたみたいだし、そろそろ帰りましょうか。」
そう告げると、彼女は一歩前に立ち、歩き始めた。
◇ ◇ ◇
無言で歩く中、気づいたら、部屋の前についていた。
「…それじゃ、おやすみ。“私のライバル“。次の桂樹杯、私も出るから。楽しみにしてるわね。それじゃ。」
別れる直前、彼女は一言告げると、部屋に戻っていっ
た。
…今、あの方、俺のこと“ライバル“って言いました?
そっか。
「…へへっ」
思わず声が漏れる。
よし、そうと決まれば…
「絶対絶対絶対、桂樹杯勝ってやるからなぁぁぁぁぁ!待ってろよぉぉぉ!中…」
「だから、うるさいって言ってるでしょっ!」
俺の決意と称したただの発狂は、見事にかき消された。
…まあ、とにかく桂樹杯で勝つ、これは決定事項だ。
「よし。」
拳と、決意を固めると、俺は部屋に戻っていった。
次回、桂樹杯です。
よろしくお願いします。
アンタの耳
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大きい
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普通
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小さい