無敗の八冠?だったら、俺が獲ってやるよ。   作:流星の民(恒南茜)

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第30R 日本ダービー 前編

「…すぅ…はぁ…」

 

深呼吸を終え。

 

軽い屈伸運動をし。

 

肩を回す。

 

これで、レース前のルーティンは完了だ。

一歩足を踏み出そうとして。

 

少々重たいことに気がつく。

 

「アンタレス…緊張しているの?」

 

そんなトレーナーの言葉で、我が身を見てみれば、震えている状態にあった。

 

「…ううん、武者震いだよ。」

 

なんとか、そう返し。

一歩踏み出す。

 

その時、チリリと脳裏をよぎったのはヴァーゴの言葉。

 

“アンタは一人で走るわけじゃないって言うこと!アンタがダービーを走る時、私は走ってる。一緒に…走るのよ。“

 

地下バ道の出口から見える青空。

今日、同じ空の下、ヴァーゴは走っている。

 

…だったら、少しぐらいは強がらねば。

 

コツリと一回、つま先で床を打ち。

もう一歩、踏み出そうとした時だった。

 

トン、と。

 

背中を軽く押された感触がした。

後ろを振り返るとトレーナーがすぐ後ろに立っていた。

 

「…確かにアンタレス、あなたが抱えているものは多いかもしれない。でも、忘れないで。あなたは一人じゃないから。」

 

…そうだ。ここにも一人、俺を応援してくれている人はいる。

期待は重圧だ。

 

でも、その反面、俺の背中を押してくれるものでもあるはず。

 

「…うん、絶対に忘れない。ありがとね、トレーナー。それじゃ、楽しんでくるよ。」

 

そう告げ、拳を握ると、一歩一歩、踏み締めるように。

 

俺は地上を目指していった。

 

◆ ◆ ◆

 

「やあ、トレミアンタレス君。今日は良いレースにしよう。」

 

一見、口ぶりは和やかに見える。

しかし、一切笑っていない瞳で、ルドルフはアンタレスを捉えた。

 

「…そう。それでも、私も負ける気はないから。…夢がかかってるの。」

 

最後にそうポツリと口にするアンタレス。

 

——夢。

それこそが、アンタレスを突き動かす原動力なのだろう。

 

しかし、夢に突き動かされたウマ娘が持つ勝利への貪欲さは、時に己を支配していた渇望すらも凌駕しうることを、彼女は十分理解しているつもりだった。

そして、爛々と輝いたアンタレスの瞳は、自分ではなく、すでにゴールに向いているように見えた。

 

…やはり、こうでなくては。

 

満足気にルドルフは口の端を吊り上げる。

 

——2度も負けてやると思うなよ、トレミアンタレス。

 

そう心の中で宣戦布告をすると、彼女はゲートへと向かっていった。

 

◆ ◆ ◆

 

『一番人気は3枠7番トレミアンタレス!』

 

『前走の皐月賞では見事な差し切り勝ちを見せてくれました。今回も期待、ですね。』

 

3枠7番。

それがアンタレスに充てがわれた枠番だった。

 

一応、内枠ではあるが、序盤が楽な展開になるとは決して言えない。

そこまで、思索を巡らせると、彼女は、軽くため息をついた。

 

…とはいえ、最警戒すべきウマ娘であるシンボリルドルフは4枠10番。

 

アンタレスより外側である以上、序盤はある程度有利を取れると見るべきだろうか。

しかし、一切楽観視はできない。

 

彼女の末脚の恐ろしさはすでに何回も見てきたのだ。

その時、彼女は手すりを持つ自分の手が若干震えていることに気がついた。

 

まさか、私まで震えてしまうとは。

それほどまでにルドルフが怖い?

 

…いや、きっとこれは武者震いだ。

 

これから始まる勝負で走るのはアンタレスただ一人。

それでも、私は彼女に夢を託した。

 

私も、ヴァーゴちゃんも、彼女を通して走っている。

 

だからこそ、高揚しているんだ。

彼女は、再び前を向くと。

 

「行きなさいっ!アンタレスっ!」

 

声を張り上げた。

 

◆ ◆ ◆

 

「マロンヴァーゴォォ!?そろそろ、ゲートに入る時間だぜぇ!?」

 

「あ…ありがとう…フォルテ…。」

 

フォルテにそう返して、ゲートへと向かおうとした時だった。

私は、自分の手が少し震えていることに気がついた。

 

これから始まるレースに緊張しているのだろうか?

 

…いや、きっと、これからアンタのレースも始まるから。

だから、私は緊張してるんだ。

 

「…ふふっ」

 

しかし、なぜか漏れたのは笑みだった。

何故かと考え、はたと気づく。

 

私はこれから、数ヶ月ぶりにアンタと走るんだ、ということに。

 

これを楽しみにせずして、何と言おうか。

 

「楽しみにしてるわよ、アンタの走り。」

 

応援ではなく、漏れてきたのはそんな言葉。

 

この青空の下、アンタもきっと今はゲートの中だ。

 

レースの幕はまもなく、上がろうとしていた。

 

◆ ◆ ◆

 

どこまでも青い空と、陽に照らされ、キラキラと輝く芝のコントラストが美しい。

ふと、ゲートの中で俺はそんなことを考えていた。

 

確かに呑気かもしれない。

しかし、強烈な既視感が俺を襲っていたのだ。

 

…そうだ、これは初めて走った時の景色と似ている。

あの時は隣にヴァーゴが立っていた。

 

確かに、今の俺は一人かもしれない。

 

…それでも、あの時解いた手は、確かに背中に沿えられていた。

 

まるで、俺の背中を押すように。

 

——俺は、走れる。

 

勝つんだ。期待に応えるために。

 

…夢を、叶えるために。

 

耳が痛くなるような静寂の中、ただ、風の音だけを耳が拾う。

 

そして——

 

 

ガコンッ!

 

 

『各ウマ娘、一斉にスタートしました!』

 

 

レースが始まった。

 

“ねぇ、アンタレス。皐月賞は最も速いウマ娘が勝つって言われてるわよね?じゃあ、日本ダービーはどうかしら?”

 

“最も運が強いウマ娘が勝つ、だったっけ?“

 

“…そう。それだけ今までのレースとは違うの。小手先の作戦は通用しない。だからこそ、自分の走りを見失わないで。作戦は敢えて決めない。一番、

自分のしたい走りをして。“

 

ふと、ダービーについて、トレーナーとした会話が脳裏をよぎる。

敢えて今回、トレーナーと相談して作戦は決めていなかった。

 

…とはいえ、自分で今回どんな走りをするかは、ある程度決めていたはずだ。

そのために、まずは内側につけねば。

 

斜めに進路を取りつつ。

ブロックを避けながら、進んでいく。

 

『6番手につきました7番トレミアンタレス。そのすぐ後方にはビゼンニシキ。さらに1バ身ほど空いて、8番手に10番シンボリルドルフがつけます。そのまま、各ウマ娘、第二コーナーをカーブしました。』

 

今の所のレース展開は順調だ。

 

ひたすらに足を動かしながら、俺はふと、そんなことを考えた。

 

◆ ◆ ◆

 

“ルドルフ、今回のレースは先行しろ。…前回の皐月賞でのトレミアンタレスの差し足は物凄いものだった。だからこそ、だ。”

 

確かに、俺はそう指示したはずだ、と。

男は、握った拳に手汗が滲むのを感じていた。

 

しかし、実際はどうだろう。

ルドルフは後方で待機している状態。

 

これで…アンタレスの差し足に抗えるのだろうか?

その時、彼の脳裏をチリリと過ったのは一つの情景。

 

過去に担当していた己のウマ娘が差し切られて負けた時のことだった。

 

…確か、あれを機に、あの娘は自信を喪失した。

 

だからこそ、今回もルドルフが敗北を喫するのは嫌だ。

 

だとしても、だ。

 

何故、わざわざ今回はこんな走りを…しているのだろうか。

 

募っていく疑問に、彼は困惑の色を滲ませながらも、ターフに目を戻した。

 

◆ ◆ ◆

 

『さあ、各ウマ娘、第四コーナーを曲がって、最終直線に入ります!』

 

——今、加速した。

そう見えた一瞬。

 

次の瞬間、目の前にいた白毛が一気に遠のく。

スパートをかけるタイミングは人それぞれだ。

 

しかし、アンタレスと彼女のスパートをかけるタイミングはほぼ同じと言ってもいい。

 

“ダービーは並のレースじゃないんだ。何が起こるかわからない。“

 

そう、例えば、突発的に立てた作戦とはいえ、トレーナーが立てた作戦とは違う走りをすることだって、あり得るのだ。

そして、彼女は己の杖は確かに信じていた。

 

確かに自身の差し足が彼女より劣っていれば、先行しておいた方が良い局面ではあったかもしれない。

しかし、ここならば、彼女の動きはよく見える。

 

ルドルフは、己の杖以上に、己自身を信じていた。

 

そして、間違いなく今の自分ならば、アンタレスのスピードをも超えられると。

 

目を細め、見据えたのはまっすぐ目の前を駆ける白毛。

 

地面を踏み締めた時、彼女は確かに聞いた。

 

 

ピキリ

 

 

と、何かにヒビが生え、そして——砕け散る音を。

 

刹那、視界が白に染まり、再び、神社で感じたような感覚が全身を襲う。

 

しかし、感覚のクリアさはあの時を遥かに超えている。

 

最早、何も聞こえず。

 

疲弊感すらも感じず。

 

目の前の敵を討つのだ、という本能だけが、全身を支配する。

 

口の端を吊り上げた皇帝は、一言、口にするとさらに強く、地面を踏み締めた。

 

 

「汝、皇帝の神威を見よ。」

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