無敗の八冠?だったら、俺が獲ってやるよ。   作:流星の民(恒南茜)

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第40R 託し、託されて

「はぁ……はぁ……」

 

漏らした息は荒く、足取りは重い。

なんとか食いつけた緑色の勝負服はさらに遠ざかり、手を伸ばそうと、手を伸ばそうと、そこに触れることなどできない。

 

——“私には、無敗の三冠なんて夢……”

 

いつだったろうか。

過去に零したそんな弱音が再び脳裏を掠め、それが鎖のように脚を縛り付ける。

 

……もうさ、立ち止まってもいいんじゃないかな。

 

肺が苦しくて。

脚が重くて。

そして、決して距離は縮まなくて。

 

もう、足を止めてしまいたかった。

 

目を、背けてしまいたかった。

 

目の前のウマ娘と、ゴールとの距離はおおよそ、150mといったところ。

そして、自分と彼女の差もまた、3バ身ほど。

もうギアの上がり切った自分と、どんどんとこちらを引き離す彼女。

ほぼ、勝者は決まったも同然だった。

 

皐月賞、ダービーと経て、何とか秋のトライアルで戦績を残して、この舞台に立てて。

ただ夢見がちなだけだった自分が、ここに出れたというだけで、どれだけ素晴らしいことだったか。

 

……本当に、ありがとうございました。トレーナーさん、なんて……。

 

少々自嘲気味に心の中でごちりながら、少女の脚の運動が、次第に止まってきた時だった。

 

——だから……走れ。走ってくれ——

 

その、たった一フレーズだけが、急に頭の中で響いた。

 

……なんで……今……?

 

そう、自問しようとして。でも、それより先に漏れ出すのは記憶の数々で。

あの時、頬を伝った涙が、くしゃくしゃだったトレーナーの表情が、震えた声音が、触れた温もりが——

 

「いけ……っ! ———……っ!」

 

——そして彼の声が、疲労で痺れた頭ですらも、無理やり目覚めさせようとしてくる。

 

「……ズルい、じゃないですか。そんなの……」

 

もう、ほぼ限界だというのに。

ひとつ、胸に灯った熱は次第に脚へと、一つの奔流となって流れ込もうとしていて。

 

……まだ、動く。

 

深く、深く、地面を踏み締め。

 

……もう、勝ち負けなんてどうでもいい。……ただ、私は——トレーナーさんの想いに、応えたくて……っ!

 

前を見据えて。

 

「……だから」

 

もう一つの足を振り下ろし。

 

「——走……るん、だぁ……っ!」

 

一息に地面を蹴り上げた途端、ガクンと前のめりになる身体と、痺れの走る脚。

 

でも、そんなのなんて関係がない。

もう、振り絞ることしか、今の自分にはできない。

 

視界はぼやけ、前の景色なんてまともに捉えることすらできない。

脚は痺れたようで、感覚はない。肺も、胸も痛いし、フォームもぐちゃぐちゃだ。

 

……だとしても、もう止められない——止めたくないっ!

 

生涯でただ一度だけしか踏み締める事のできないゴールのみを見据えて。

少女は熱された息を吐き出し——さらに強く、地面を蹴り上げた。

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

「これで……残り三週間、か」

 

目が覚めてまず視界に入ったのはカレンダーと、ホワイトボードに記されたカウントダウン。

周囲を見回すと、自分が横になっていたのはソファ。

どうやら、今日もまたトレーナー室で寝落ちしてしまったようだ、と認識するまで数秒。

……最近、帰れてないなあ、なんてため息を吐き。

取り敢えずはいつも通り、カウントダウンを書き換えるために彼女は立ち上がろうとして……

 

……それが為される事はなかった。

まず、体を起こした途端に襲ってきたのは強烈な眩暈。

それに加えて、吐き気とだるさ、あと頭痛。

 

「……うぇ……」

 

危険信号を灯すのには十分すぎる要素に、再び彼女はソファに倒れ込む。

 

「……もしかして……風邪……引いちゃった……?」

 

でも、思い当たる節なんて……と、記憶を手繰ってみれば、徹夜に加えて昼夜手放せないカフェイン入りのエナジードリンク。

ついでにご飯もカロリーバー。

 

……最早、体を壊す要素は十分に揃っていたと言って良いだろう。

 

そして、締めとして体温を測ってみれば、無慈悲に表示されたのは間違いなく高熱といえる体温。

しかし、これまた無慈悲な事に昨日のままで固定されたカウントダウンは、十分に彼女へともう時間がないことを伝えていた。

 

「せ……せめて……メニューを……」

 

しゃがれた声を漏らしながらも、ローテーブルの端に置いてあったノートパソコンを引き寄せ、作りかけだった調整用のメニューを表示させる。

しかして、一向に頭は回らず、到底進められるような状況じゃない。

せめて……何とかなるように、と。

自身の担当ウマ娘へと、完成していた今日の練習メニューと風邪を引いたためにトレーニングを見れなさそうな旨を送信し、救急箱から取り出したのは解熱剤。

今更、体調を崩したことを悔いても仕方がない。

エナジードリンク……ではなく、久々に水の入ったペットボトルの栓を開け、そのまま飲み下すと、せめて……トレーニングの時間までには下がっているよう祈りながら、彼女は再び横になった。

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

「……まさか、菊花賞の三週間前に熱を出しちまうなんてな……」

「本当に……面目ないです。トレーナーさん……」

 

部屋に戻ってきてからすぐに、手際よく目の前におかゆやらスープやら、消化しやすそうな料理を並べつつ、彼は一言口にする。

 

「……むしろ、謝るべきは俺だよ。……ごめん。……体調管理すらできなくて」

「……いえ……絶対に、トレーナーさんのせいじゃ……」

 

そう返答しつつも、相変わらず彼の表情は暗い。

せめて……何か大丈夫だとアピールできるものはないかと、彼女は少しばかり思索して……とにかく、目の前の料理に手をつける事にした。

 

「……そういえばこれ、トレーナーさんが作ってくれたんですか……?」

「……ああ、少しだけキッチンを拝借して……な。……食べれそうか?」

「ええ、もちろんです。ちょうど、お腹が空いた頃でしたから」

「……食欲は普段と変わらないのか。わかった。熱いから小皿に取り分けるよ」

 

小皿に盛り付けられたお粥と、渡された木製のスプーンと。

少し息を吹きかけて冷ましたのち、彼女はそれを口にする。

 

「……美味しいです。これならすぐに治るかも……なんて」

「……そっか」

 

笑みを浮かべる少女に対して、思わず少しはにかんだ時だった。

ぐぅ、と。

少し情けなく思えてしまうくらいに大きく、腹の虫が鳴いた。

 

「……お腹……空いてるんですか……?」

「……あ、ああ……色々あって、あんまり時間がなかったからさ」

「だったらこれ、少し食べてください」

「……え? いや……これは……」

「大丈夫です。こんなにいっぱいあるんですから」

 

そう口にしながら、取り分けるためのスプーンで、少女はお粥を掬い上げ、男の前に差し出す。

少しばかりの気恥ずかしさから、少しばかり後退しそうになってしまうも、結局逃げ場はない。

仕方なく、男は口を開け、なされるがままにお粥を口に含んだ。

 

「……悪いな。病人にこんなことさせちゃって……」

「いいんです。さっき、トレーナーさんが置いて行ったマニュアル、読みましたから」

 

先ほど、トレーナーが料理を用意するために少しだけ部屋を離れた時に机の上に置いていったマニュアル。

それには、トレーニングに復帰できる日によって、何パターンものメニューが事細かに記されていた。

 

「……それは……」

「……ありがとうございます。トレーナーさん、こんな私のために。ここまで細かいメニューを組んでくれて」

 

少しばかり目を逸らし、マニュアルを見つめて……しかし、最終的には少女に向き合うと、男は相変わらず頭を掻きながら、口を開いた。

 

「……菊花賞、大事な舞台なんだろ? ……だから、少しでも役に立てたら……って……」

 

——“私は……私は……無敗の三冠ウマ娘になりますっ!”

 

いつだったか、宣言した大それた夢が、ふと脳裏をよぎる。

 

なのに、皐月賞は負けた。

 

ダービーも負けた。

 

——“……だから、走れ。走ってくれ……”

 

けれど、唯一その夢に賛同してくれた彼の、その一つの言葉だけが、崩れかけていた夢の破片を、繋ぎ止めていてくれていた。

 

「……もちろんです……もちろんですよ——私、絶対に勝ちますからっ!」

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

ふと、ジ……ジ……と、何やら響く雑音で、意識が引き戻される。

 

「あっ、トレーナー……? もしかして、起こしちゃった?」

 

すぐ近くのローテーブルに、ちょうど電子レンジで温めていたものだろうか、パックに移されたお粥を置いて。

彼女の担当ウマ娘は、心配そうにこちらを覗き込む。

 

「……ごめんなさい、アンタレス。トレーニング、見られなくて」

「ううん、風邪を引いた時は無理しちゃダメだよ。それに——」

 

そう口にしたのち、彼女はパソコンを指差し、

 

「——トレーナーが組んでくれたメニュー。完璧だったからっ! ルドルフのトレーナーさんも感心してたよ」

 

いつものように弾むような声で、そう口にする。

 

「……そっか。ありがとね、アンタレス。それじゃ、これは……頂いちゃってもいいのかしら?」

「もちろん、そのために持ってきたんだから」

 

大皿に盛られたスプーンを掬い上げ、軽く冷ましたのちに、彼女がそれを口にした時だった。

ぐぅ、とアンタレスの腹の虫が鳴って。

どこか既視感を感じたせいか、思わず彼女は表情を綻ばせた。

 

——トレーニングが終わってからすぐに来てくれたんだものね。そりゃ、お腹も空くか。

 

「アンタレス、口開けて」

「……ん?」

 

若干怪訝な顔をしながらも、言われるがままに彼女は口を開け——そこにすかさず、彼女は取り分けるためのスプーンで掬い上げたお粥を差し出す。

 

「……これ、私が食べてもいいの……?」

「こんなにあるんだもの、それにお腹も空いたでしょ?」

 

成長期真っ盛りの彼女には少し物足りないかもしれないが、それでも腹の足しくらいにはなるだろう、なんて考えつつ黙々と互いにお粥を口に運んでいた時、ふと、アンタレスは一つ、口にした。

 

「……そういえばさ、菊花賞——トレーナーの時はどうだったの……?」

「……確か、この部屋にも映像は残っていたかしら? ちょっと探して……」

「それもありがたいんだけど……トレーナーにとって、菊花賞ってどんなレースだったのかなって……何となく思って……」

 

すぐに何か返答をしようとして。

けれど、彼女は思わず口ごもってしまった。

 

……どんなレース……だったろう?

 

——“先頭は依然変わらずゴールイン!“

 

——結局、目指していた三冠のうち、一つの冠すら獲ることは叶わなかった。そして、それは菊花賞の時も例外ではなくて。……それでも、なぜだか……

 

「……負けちゃったけど——とびっきりのレースだったわ」

 

口を突いて出たのはそんな答えだった。

 

「……そう、だったんだ……ううん、ちょっとさ、菊花賞、どうなるのかなって、最近、少し不安になってきちゃって……それでも——」

 

そこで一呼吸置き、いつも通り屈託のない笑みを浮かべると、

 

「——トレーナーにもそう言えるように、私もとびっきりのレースにしてみせるよ」

 

アンタレスは、そう口にした。

……結局、いつまでも彼女は変わりない。

ちょっとの根負けくらいなら気にしないくせに、相変わらず時々迷うことはあって。

でも、最後は一見無謀にも見えるような夢に向かって突き進み出す。

 

夏合宿の時だって、いや……もしかしたら、選抜レースで初めて出会った時からそうだったのかもしれない。

 

——“私の目標は、中央で無敗の八冠を獲ること、です!”

 

掲げた目標は無謀だ。

でも、だからこそ、相変わらずその姿は、いつぞやの自分と重なって見えて――

 

「……そう。だったら、アンタレスのとびっきりのために、私も早く治さなくっちゃね」

 

——夢を、託したくなる。

 

「うんうん、だから、お大事にね。——私のトレーナーは、あなたしかいないんだもの」

 

ふと、時計を見ると門限が差し迫っている。

 

「ありがとね。もちろんすぐに治してみせるわよ。だから——」

 

軽く荷物をまとめて、部屋を出る直前のアンタレスへと。

 

「——よろしくね、アンタレス」

 

幾つも幾つも積み重ねてきた想いをそのまま詰め込んだ言葉を、最後に彼女は託した。

 

◆ ◆ ◆

 

◆ ◆

 

 

「結構……重いんだな、ケトルって」

 

トレーナー室にはないために持参してきた電子ケトルを両手に、腕には鞄を引っ掛けながら、門限が近いせいか閑散とした廊下を歩く。

相も変わらず生活感はないくせに、電子レンジだけは置いてあることには感謝したいところだが……あまりにも生活に必要な物が少なすぎる気しかしないんだよな、あの部屋。

いっそ、俺の部屋からでもいいから、色々と運び込んできてやろうかな、なんて考えていた時だった。

 

「……あ、お久しぶりです。ルドルフのトレーナーさん」

 

ふとすれ違ったスーツと、手に持った缶コーヒー。

見覚えのある人物を見かけて、俺は思わず声をかけた。

 

「……ん、アンタレスか。……あいつの様子、見てきたのか……?」

「はい——熱を測った感じだと、大分治ってきてるみたいです」

「……そっか、ありがとな」

「……これから、トレーナーのところに……?」

「……ああ。ちょっと、様子が気になって、な。……こいつは教えてくれたお礼だ。ほら」

 

そう口にすると、彼は黄色い外装が特徴的な缶コーヒーを投げて寄越してくる。

 

「……ルドルフはある程度苦いのでもイケるんだが……それぐらいなら結構甘いし、大丈夫だろ。……それじゃあな」

 

相変わらず、ぶっきらぼうな人だけど、何だかんだで気が利くんだよな、なんて考えつつ、プルタブを開け、喉が渇いていたのも相まって、一息に喉奥へ流し込む。直後、

 

「……あっま……」

 

喉に絡まりつく糖分の塊に、思わず俺は顔を顰め、口直しにもう一杯お粥でも食いたいな、なんて考えつつ。

足早に寮へと戻るのだった。




大変遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。
菊花賞はなるべく急ぎますので、よろしくお願いします。

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