無敗の八冠?だったら、俺が獲ってやるよ。 作:流星の民(恒南茜)
「——必要というのなら——」
鏡に映る自分と向き合いながら、声を絞り出す。
菊花賞が迫ってきているとはいえ……いや、むしろ迫っているからこそ、ダンス練習は必須事項だ。
——トレセン学園生たるもの、レースも、ウイニングライブも完璧でなければ。
それは、生徒会長としての彼女が常に胸に刻みつけていたこと。
「——宿命の旋律も——」
そして、次の一節を口にした時だった。
そうして歌詞を口にしていると、少なからず自身と照らし合わせてしまう、ということはままある。
そして今も、どこかそのフレーズと自分を照らし合わせてしまったせい、だろうか。
……不意に回想されたのは、これまでに挑んできたレースの数々だった。
——“光の速さで駆け抜ける衝動“
宣戦布告を受けたのち、まだ見ぬ彼女の実力に期待を抱きながらも挑んだ皐月賞。
彼女がゴールを踏み締めた時、その姿は、はるか先にあった。
——“時には運だって必要というのなら”
日本ダービーでは、未知の感覚を味わい——横に並ぶまで至った上で、どこまでも長い一瞬の末、彼女はまたもや自分より先にゴール板を踏み締めた。
その姿は、わずか一歩先にあった。
——“引き寄せて見せよう“
そうした回想の果て、次のフレーズを口にしようとした時、ふと彼女の動きは止まる。
「……引き寄せて見せよう、か」
“ルドルフ“と、皇帝を冠する名前を与えられ、期待と共に育ってきた幼少期。
それは、学園に入学した後も変わることはなく。
挑み、走り抜けてきたレースの中、ひょんなことから見つけた、“ライバル“と呼べる相手。
二度挑み、二度敗北を喫し。
その度に苦汁を舐めさせられながらも、それでも走り続けた。
その日々を思い出し、思わず彼女は一度、息を吐く。
今度こそは絶対に、超えられるはずだ、と。
幾度となく感じた確信は、全て外れた。
それゆえ、だろうか。
ダービーの時、ありありと目に焼き付いた、紅い瞳から飛び散る火花の残滓も、目の前でゴール板を踏み締めた足も、その残像が消えることは決してなく。
……本当に、勝てるのだろうか?
幼少期からずっと、膨れ上がってきたプライドでさえその問いに対する答えを出すことはできなかった。
「……矜持と勝利、か……」
抱えた感情は妙に鬱屈としている。
レース前にナイーブになってしまう、というのはウマ娘にとってありがちな話ではあったが。
——存外、ここまでのものは初めてかもしれない。
何となく体を動かす気にはなれなくて。
思わずその場に腰を下ろし、彼女が首に巻いたタオルで汗を拭った時だった。
「——こんにちは、ルドルフ」
スタジオの扉を開いて、そんな挨拶と共に部屋に入ってきたのは、黒スーツと、バインダー。それに加えて今日も今日とて手放さない缶コーヒー。
紛れもなくトレーナーだった。
「……こんにちは、トレーナー君。……すまない、少し息が上がっていてね」
「いや、まだ休憩してても問題ないよ。ダンス練習で使う体力も相当だろ? あとこれ、差し入れだ」
最近はあまり時間がないせいか、インスタントコーヒーの隣に立てられたスポーツドリンクのスティック。
中に粉を入れて、水に溶かすだけ。
プロセスにしてみれば簡単なものだし、隠し味というのも特にはなかったが、よく冷えたそれは、最近ルドルフが愛飲しているものだった。
「ありがとう、トレーナー君」
渡された水筒からあまり一気に体を冷やさないように、と少しずつ喉奥へと流し込んでいき、息が整ってきた辺りで、一息吐いて栓をする。
「……やはり、冷えた飲み物はありがたいものだね。……そろそろ、練習へ戻ることにするよ」
足元に水筒を置き、再び練習へと戻る彼女の呼吸は整っており、すっかり紅潮していた頬も元に戻っている。
均一なリズムでステップを刻み、声にも特に異常は感じない。
しかし、何かが引っかかる。
「……ルドルフ。菊花賞、不安か……?」
それは、コンディション自体は良好に見えるのに、時々ブレる指先のせいか。
普段は問題なくバランスを取れている足先の、僅かな震えのせいか。
もしかしたら、ただ気のせいである、というの可能性も否定はできなかったけれど——そこには、確かなぎこちなさがあった。
「……トレーナー……君……?」
聡明な彼女でさえ、一瞬その意図が理解できなかったせい、だろうか。
彼にしては随分と簡潔で、抽象的な質問に、ルドルフは目を丸くした。
「……ごめん。何となく、そんな気がして——」
——“違かったら、別に良いんだ“
珍しく呆けた様子の彼女と、しばし生まれた静寂に、居心地の悪さを感じて、慌てて取り繕うために、口にしようとしたのはそんな言葉。
……けれど、それが口にされることはなかった。
——彼女は、強い。
幼少期から積んできたという努力によって裏打ちされた実力。
それは、彼女のトレーナーをやってきて何度も感じたものだったし、彼自身も、その認識に違いはないと思っていた。
……しかし、だからこそ、というべきか。
少しばかり、彼女は強がりだ。
敗北を喫しても、すぐに立ち上がり、走り続けて。
けれど、無くした支えの前では、その顔を歪ませる。
——“互いに、抱え込むのをやめて、同じ立ち位置で……それこそ、一心同体で。歩んでいかないか……?”
ダービーで敗北を喫して、再び彼女の前に立った時、自分が彼女へと向けた言葉が、ふと脳裏をよぎる。
間違いなく、自分は不甲斐なくて、弱い人間だ。けれども——本当に、あの時口にした言葉に嘘偽りがないというのなら。
……一心同体で歩んでいくというのなら。
——ここで、取り繕う必要なんかない。
「……いや、やっぱり聞かせてくれ。君の、本音を」
その言葉に対し、彼女はさらに目を見開いたのち、今度は逆に目を伏せて、逸らされた視線は、斜め下を向いている。
けれど、一度瞬きをすると、再び前を向いて。
「……きっと、これが不安、というものなのだろうね」
確かに、頷いた。
◆ ◆ ◆
「……ずっと……ずっと、こびりついて、離れないんだ。あの背中が……一歩、目の前で踏みしめられた脚が」
最初は取り繕おうとして、否定しようとした。
……けれど、この得体の知れない鬱屈とした感情を……剥がれかけた鍍金で隠し続けるのが、最早限界に近かったせい、だろうか。
「——彼女から勝利をもぎ取りたい。菊花賞を、“最高のレース”にしたい。……望みは絶えないはずなんだ……」
首を縦に振り、最初に一つ吐露した後から、まるで堰を切ったかのように、言葉は溢れ続けた。
「……なのに、その日が近づけば近づくほど、足は前を向かなくなる。——何故か……歩みが止まる」
最後の一言を口にし、けれど彼女の態度は気丈だった。
身を震わせることはない。嗚咽なんか漏らさない。俯くこともない。
しかし、ただ一つ、瞳だけが揺れていた。
「……トレーニングメニューは、増やせない。もう、菊花賞のすぐ手前だから、できるのは精々、微調整くらいだ。……だけどな——」
その答えを聞いたのち、諭すように、一つ、一つ、トレーナーは口にする。
「——君の身体的なコンディションが完璧でも、俺には君の心情まではわからない。何を抱え込んでいるのか、とか、わかるのは自分だけだよ。……だから、ここで伝えておく。俺も不安なことには違いないんだ、きっと。何度もあの時のレースのこと、思い出すのは同じだし、な」
そして、そこで一拍置いて、逆に今度は自分を諭すかのように一度、瞬きをしたのち、
「——でも、それはねじ伏せられる。君はシンボリルドルフなんだから、負けるわけがないって。……君の存在が支えになってくれるから、俺もまた、不安をねじ伏せて、どうすれば君を勝利に導けるか、考え続けることができるんだ。だから、お返しってわけじゃないけど——今度は俺が、君の支えになりたい」
ルドルフを捉えたその瞳も、その声音も、震えることはなかった。
——“そして、きっと一人で、抱え込んでしまうところも似ているのだろうな”
ふと、過去に口にした言葉が彼女の脳裏をよぎる。
トレーナーとウマ娘の関係は、持ちつ持たれつだ。
二人三脚とも、一心同体とも形容されるように、どちらも欠けてはならない。
——“絶対”は、己の力のみ。
確かに、それは支えになっていたのかもしれないけれど。
「……そう、か」
——“全てのウマ娘が幸せになれる世界を作る“
きっと、大きすぎるこの夢の前では、それだけじゃ足りない。
「……そうだ。手を——取らせてくれないか? トレーナー君」
素直に目の前に差し出され、握ったその手は、自分のものより大きくて、温かい。
——“一人じゃ、届かないもの”
皮肉にも、相手はそれを教えてくれたウマ娘ではあったが……それとはまた、話が別だ。
「……トレーナー君、私は……勝てるかい?」
「当然、勝てるに決まってる。……一緒、なんだから」
一心同体でも、二人三脚でもなく、彼が口にしたのは、シンプルな言葉。
別段、強い根拠があるわけでもない。
あくまでも、不確定的なものだ。
しかし、確かな慰めにはなる。
迫る未来へ向けて、道を拓いてくれる。
——一緒、とは良いものだ。
一度、温もりを噛み締めるかのように目を瞑り。
次に、彼の瞳を捉えた時。
それが、揺れることはなかった。
Day2、楽しみすぎて書けました。ベルーナ参戦してきます。
なお、次は菊花賞です。
次回もよろしくお願いします。
細かい章分け(今やってるもの)
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いる
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いらない