無敗の八冠?だったら、俺が獲ってやるよ。   作:流星の民(恒南茜)

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第42R 菊花賞 中編

——ザッ、ザッ、ザッ、ザッ

 

ただ、一定のペースで。

僅かに湿った芝へ、細かく蹄跡が刻まれる音。

幾重にも、幾重にも重なったそれは、背後からも、足元からも、絶え間なくこだまして。

 

『一周目の3コーナー、坂を上りに向かいます。内から2番ロングハヤブサが出てまいりました。そして6番、スズマッハが二番手』

 

最初から上らねばならない坂道も、また苦だ。

3000mという長丁場において出鼻を挫くように待ち受けるそれは、普段よりも足元が湿っているのも相まって、後半へと残さねばならないスタミナを確実に奪ってくる。

 

『その後三番手、5番シンボリルドルフが続きます』

 

周囲から絶え間なく息遣いは聞こえ、背後からは足音が迫る。

二重のプレッシャーに挟まれる中で重い芝を蹴り上げ、ただ前を目指す。前のめりな先行策だ。

しかし、今この場において絡みつく要素——慣れない走りと重いバ場——ルドルフにとっては博打と呼ぶ方が合っているように思われた。

慣れないハイペースだ。

視界の端で鹿毛は乱れ、一定の規則を保ってはいれども、自身の息が次第に荒くなってきているのは違わない。

 

“バ場は重いし、距離も長い。先行策がリスキーなことには違いない。……それでも、かえって都合のいい時だってある。このバ場状態だったら——“

 

『——そして、後方には8番トレミアンタレスが控えます』

 

けれど、僅かに振り向いた一瞬、視界に映る紅い瞳。

いつも爛々とした光を湛えるそれは細められ、右へ、左へ、普段よりも視線は揺れている。

もうじき中盤だ。後方に控える彼女にとってはいつも通り加速をかけたくなる頃合いではあるはずだが——

 

湿ったバ場に足を取られるのはまた、彼女も変わりない。

 

——であれば、並ぶことすら……困難だろう?

 

普段なら視線の先にいるはずの、彼女はいない。

自分は前に立ち、後方で控える彼女へとプレッシャーを与えるのみだ。

ある意味では真逆、起こりうることはイレギュラー。

それで問題はない。ここは、“最も強いウマ娘“を決める場なのだから。

 

——“私達“に、追いつけるか? アンタレス。

 

小さく口元を歪めると、ルドルフは湿った足元をさらに踏み締めて。

前を、見据えた。

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

“全てのウマ娘が幸せになれる世界を作る”

 

その理想に、自分が同調したのはいつだったろうか。

思えば、彼女の望みを初めて聞いた時かもしれない。

……それとも、それよりもっと前——一滴の涙を、目にした時だっただろうか。

 

『二番手に上がってきました、5番シンボリルドルフ』

 

理想は高ければ高いほど、その身を侵す。

三冠を夢見た少女と歩んでいた時、彼が見てきたのは夢に侵され、現実に敗れ、歪んでしまった表情(かお)だった。

だからこそ、だったのだろう。

かなりのブランクを経て学園に戻ってきた時に出会った彼女が、青すぎると口にした理想は自分にとってはこれ以上ないほどに、崇高なものに思えて。

共に、歩みたいと思った。

それこそ本当に理想論で、エゴに過ぎなかったけれど——もう二度と、歪んだ表情(かお)を見たくなくて。せめてもの罪滅ぼしになると思って。

彼女の夢に同調したかった。

 

そんな中で、彼女が求めていたのは“同志”だった。

他のベテラントレーナーではなく、まだ担当を持つのは二人目、未だ青い自分を担当として選んだのは、それが決め手だったのかもしれない、と。

望みを共に語った時、彼女はそう口にして、表情を綻ばせていたものだった。

 

——“6番シンボリルドルフ、今一着でゴールイン!”

 

こんな青すぎる夢など、誰も耳を貸さない。だからこそ、それ相応の実績を刻む。

理想に向かって進む彼女の姿は真っ直ぐだった。

ただ一度の敗北すらも許さず、メイクデビュー、オープン、GIII、と。勝利を収め、迎えたクラシック三冠レース。

皐月賞も、ダービーも——望み通りにはいかなかった。

 

——“私には、無敗の三冠なんて夢……”

 

ずっと前に見たものと似通った景色、フラッシュバックした光景は確かに自分を蝕んだ。

ルドルフとは、本当の意味で“同志”になれていなかったのかもしれない、と。

本来委ねるべきは実際に走っている彼女だったはずなのに、ダービーが終わった時、自分はその場で背を向けてしまった。

あの時も、今も、自分がちっぽけな存在であることに変わりはない。

虚勢を張らねば、まともに彼女と向き合うことすらできず、肥大化したエゴは、理想を語る。

 

——けれど——けれど——掲げた理想は、抱いた夢は、決して、自分だけのものでもなく、彼女だけのものでもなく……

 

『各ウマ娘、二周目に差し掛かります。二番手は依然として、5番シンボリルドルフ』

 

ターフを駆ける彼女の鹿毛は乱れ、表情は普段よりも歪んでいる。

当然だ。慣れない作戦で、初っ端から飛ばしている状態なのだから。

 

——“ならば、乗ろう。君の提案する作戦だ。十分、信頼に足るものだよ“

 

けれど、彼女は信ずるに足ると口にして。

それを、実際に目の前で示してみせた。

 

——“序盤、苦しくなるのは確かだ。でも——終盤になれば、展開は一気に覆る“

 

だからこそ、ゲートが開いた今、自分もまた、彼女を信じるのみで。

 

——間違いない、彼女なら——“シンボリルドルフ“なら、必ず——

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

『各ウマ娘、第2コーナーを曲がります。8番トレミアンタレスは依然として後方に——』

 

足の裏で地を掴み、蹴り上げ、刻む蹄跡。

細かく、細かく。とにかく、急いてはいけない。

そう理解はしていて、頭は回っていても、走ったことのない3000mという長距離。それに加えて、この湿ったバ場。

 

——想像以上に……キツい。

 

初っ端から坂を上らされたのも一因ではあるが、何よりも、ずっと前で揺れる鹿毛——ここにきて先行策に打って出たルドルフが一番の要因だった。

なにも、読めていなかった訳ではない。不意打ちでの作戦変更は何度か経験しているし、可能性は考慮した上でトレーナーとも話し合っていたはずだ。

 

しかし、頭でそう理解していようとも、次第に回ってくる焦燥感は足を前に進めようとしてきて、無理矢理それを抑えようとするのもまた一苦労。

身体的な疲労だけではなく、精神的な疲労まで、二重の疲労が徐々に俺を蝕み、最初は正しく刻めていたはずのペースは中盤に差し掛かったのも相まって乱れてきている。

 

そして、この疲労感が残った状態でいつも通り差し切れるのか、また別種の不安も募ってきていて。

普段のレース中ならそんなことを考えずに済んでいたはずなのに、肺に滲みる冷気と何重にもかかったプレッシャーの前では、切り替えることすらも難しい。

 

——俺、だったら……。

 

だというのに、次第に3コーナーは迫ってくる。

そろそろ、加速しなければいけなくて。

それでも——周囲から突き刺さる視線は、間違いなくマークされていることの証明。

いつ、彼女たちが前に出るのかがわからない上に、ここで阻まれたらほぼ確実にスタミナが空になって落ちていく状況。

乱れたペースはそのままなのに、加速だけは躊躇わせてくる。

まだ待つべきなのか、加速するべきなのか。先頭集団に混ざるルドルフと、周囲を囲む視線——二重のプレッシャーのせいで、どちらの択も取り難い以上、答えは見えてこなくて。

 

——いつもの俺だったら……どうする……?

 

ほとんど縋るように、そう問うた時だった。

 

行きなさいっ! アンタレスっ!

 

激しい耳鳴りと共に、唐突にして——声が響いた。

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

——“それでトレーナー、今回はどうすればいい?”

——“そう、ね……。バ場状態を考慮すると、確かに上がりづらくはあるけど……だからと言って、作戦変更は……”

——“リスキーってこと?”

 

思えば、そこで首肯してみせた時からもう、自分は弱気になっていたのかもしれない。

菊花賞という三冠がかかった大事なGⅠレース、一度も負けてはならないという彼女の夢——

 

——“うん、だったら、今回も差しで行くよ。その方が、安定するんだもん”

 

きっと、自分も、彼女も、この舞台に対して懸けていた想いが強かったからこそ、どこか安定感を求めていて。だからこそ、その分弱気な選択肢をとってしまっていたのだろう。

 

——でも、アンタレスは……。

 

未だ後方にいる彼女の足元はおぼつかず……一気に出ようとしているのは見て取れても、周囲を阻む他のウマ娘がそれを許さない。

踏み出そうとしては防がれ、その場で地を踏んでは何とか体勢を整える——その繰り返しだ。

皐月賞、ダービー……と。勝利して来たからこそ、あまり差し以外の他の作戦をとって、リスキーなレース展開には持ち込みたくなかった。

けれど、実際はそのニレースでの差し足が鮮烈だったからこそ、周囲のマークも激しくなっていて。

不意に、その情景がどこか過去の自分と重なった。

 

 

『はぁ……はぁ……』

 

 

あの時も、確か芝は湿っていた。

重いバ場は確実に体力を奪っていき、先頭に食いついた時にはもう、ほとんど体力が残っていなくて。

張り裂けそうなくらい、冷気を含んだ肺は痛んだ。

足は痺れ、痛みすら感じなかった。

 

——“もうさ、立ち止まってもいいんじゃないかな“

 

そして、あの時の囁きもまた、弱気だった。

思い返してみれば、変わりない。あの時も、今も。

結局は、何も変わっていなくて、自分は弱気なままで。

だからこそ、今日も彼女を……。

 

思い起こされた悔恨の情念は、次第に胸を蝕む。

遠い昔に見た栄光は、塗りつぶされて消えていく。

視線はやがて垂れていき、その情景から、少しでも目を背けようとして……

 

 

——“だから……走れ、走ってくれ”

 

 

……できなかった。

むしろ、変わりなかったからこそ、だろうか。

その言葉は、今もまだ残っていて。

あの時と同じように、無理矢理前を向かせてきた。

 

——“まだ、強がっていてください。……それに私は、救われたんですから”

 

そう、口にしたのは誰だった?

 

——“行けっ!“

 

強がったあの人の声援で、救われたのは……誰だった?

 

おぼつかない足を前に出し、手で人混みをかき分ける。

相変わらず混み合った人混みの中で、前に進んでいくのは、ひどく困難で。

何度も足を取られ、肩がぶつかり、つんのめっては体勢を整える。

前に近づくにつれて大きくなっていく音が、忙しなく鼓膜を叩く。実況すらも聞こえない。視界は、狭い。ほとんど人の背だ。

 

——だけど……その先で、彼女が待っているのなら……。

 

「……行け」

 

ようやく辿り着いた一番前。

 

 

——私が強がらなければきっと、焦がれた景色はこの目に映らないから。

 

 

まだ後方にはいれど、白毛も、紅い瞳も、はっきりと見える。

もう第三コーナーに差し掛かろうとしていて、僅かにではあるけど、周りも焦り始めてきているせいか、ブロックは緩くなっている。今、ここなら……十分に狙えるはずで——。

 

 

「行きなさいっ! アンタレスっ!」

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

とん、と。

確かに、背を押されるような感触があった。

一瞬ぴくり、と。肩が震えるのを感じて、顔を上げた時——そこには、一つの道筋があった。

さっきよりも緩くなったブロック。

コーナーという、外に出るには適した位置。

 

行くしかない——今、ここで。

 

 

「いっ……けぇっ……っ!」

 

 

己を鼓舞するため、喉奥に詰まっていた熱気を一気に吐き出し、足に力を込める。

普段よりもずっしりとした芝の感触が爪先を包み、蹴り上げる際も少々重いけれど。

 

——俺なら——行ける……っ!

 

ぐっと力を込め、外に抜け出す。前方には何人かいれども、先ほどに比べれば全然密度は低い。

前方を見据え、溜めてきたスタミナを、温存してきた力を、解き放つようにして、一息にかけた加速。

視界は狭まり、景色は巡っていき。

冷気をものともしない熱い息遣いが、冷えた体を温め、ようやくエンジンがかかってきたのだと、強く感じさせてくる。

 

道は、拓かれていた。霞む背中はすぐそこへと近づいていく。

 

一人、また一人。蹴り上げ、蹴り上げ、蹴り上げ、抜いて、抜いて、抜いて。

 

——もう抑える必要なんかない。ここまで来た以上、全て吐き出せばいい。

 

固まりきった決意が足へと力を充し、更に、更に景色は加速していく。そして——

 

 

——並んだ。

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

『各ウマ娘、第四コーナーを曲がり、最終直線に入りました。先頭は並んでおります、5番シンボリルドルフ、8番トレミアンタレス、互いに一歩も譲りません!』

 

先頭に程近い場所で、でも、どちらが先頭かは分からなくて。

一瞬隣に向けた菫色の瞳には、驚嘆すら滲まず、見開かれることもない。

けれど、頷くかわりに一度瞬きをして、ルドルフは再び前を見据えた。

 

爛々とした光を湛えた、紅い瞳を細め。

白毛は乱れている。何滴も、何滴もの汗が首筋を伝う。

既に疲弊しているのは明らかだ。

 

それでも、やはりというべきか——彼女は、食いついてきた。

 

譲らないと言わんばかりに顔は歪められ、前を見据える視線は揺れる。

 

——けれど、それは……私も……。

 

自分とてあまり違わぬ状況だ。

荒い息遣いも変わりない。ずっと慣れない先行策で重いバ場に足を取られ、激しくスタミナを消費しているせいか、汗が勝負服に張り付き、熱された体は少々の冷気程度じゃ冷ますことすらできない。

 

狭まった視界の中、見えるのはゴールと、視界の端で揺れる彼女の姿のみ。

聴覚も、どこか遠い。実況の声も、足音もただ、掠れたように反響する。

 

普段のような破砕音は聞こえることがない。

視界が白く染まることもなければ、疲弊感とは隣り合わせ、だけれど。

 

 

「——行けっ! ルドルフっ!」

 

 

——“当然、勝てるに決まってる。……一緒、なんだから“

 

 

反響する音の中、はっきりと聞こえる彼の声は、前を向かせてくれるものとしては、十分だった。

 

 

 

『残り200を切りました。シンボリルドルフ、ここで一歩前に出た!』

 

 

 

示された距離は、近いようで、遠い。

絞られた視線の先に見えるただ一つのゴール板。そして、そこに行き着くまでの道程もまた、遠かった。

 

——“君が相手だと、より私は燃えてくるんだ“

——“よろしくね、アンタレス”

 

いくつも、いくつも、交わした言葉が脳裏をよぎる。

きっと、そうした過程の中で、この先で待つ栄誉への憧れは、強くなっていった。

中央へ行きたくて走り続け、皐月賞、日本ダービー、掴んだ二冠。

未だ“無敗の八冠ウマ娘“は遠い。これもまた、夢の途中にあるレースの一つだ。

だが——巡り巡る——きっと、もっと前から——それこそ、メイクデビューを走る前から、ここに来る前から。

 

——“ボクは……ボクは———みたいなウマ娘に……”

 

彼女(テイオー)が焦がれていた景色は、あまりにも鮮烈に——脳裏に焼き付いていて。

だから、だから——この気持ちも、想いも、熱も、一滴も残らなくったっていい。この場所で——ぜんぶ、ぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ……っ!

 

 

「ぶつけ……るん、だぁ……っ!」

 

 

『残り100! ここでトレミアンタレス、再び並んだ!』

 

 

——ただ、走るのが好きだった。

 

走って、勝って、褒められて。

将来は有望だと、皆は口にして。

……なのに、その“将来“が何か、わからなくて。

 

湧きたつ声援の中、一つに束ねた少女の鹿毛は、何度も、何度も揺れる。

 

足りない背丈を、飛び跳ねることで誤魔化して。

少しでも長く、その景色を焼き付けなくてはならなくて。

 

青々と茂るターフ。

青い瞳は、それを映しては瞬き、やがては瞬くことすら忘れ、やがては二点——白毛と鹿毛のみに絞られる。

 

二対の蹄鉄は、一度下されるごとに軌跡を描き、照り返しが少女の瞳を輝かせ——

 

 

『——トレミアンタレス、シンボリルドルフ! 並ぶようにして、今、ゴールイン!』

 

 

響き渡った声によって、周囲が静まり返った中でも鳴り止まない鼓動は騒がしく、漏らした声は、余韻を残して消え行く。

 

ゴール板を駆け抜けたのち、汗は雫となって飛び散り、荒げた息のせいか、二人とも少し進んだ先で倒れ込んで。

あんなにレース中は張り詰めていたと言うのに、今、湛えられていた二人の表情は、綻んでいた。

 

ただ一度で十分。

一瞬一瞬が永遠のように思える時間の中で、焼き付いた景色が離れることはない。

 

 

——少女は、これを“憧れ”と言うのだと、知った。




後編は急ぎますので何卒お願いします。
P.S.テイ、テイオー。

細かい章分け(今やってるもの)

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