無敗の八冠?だったら、俺が獲ってやるよ。 作:流星の民(恒南茜)
——甘い。
脳天を突き刺すような甘さ。一口一口含むたびに、思わず表情が歪むのを感じる。
これに加えてカロリー過多と来たら悪魔だ。悪魔の飲み物だ、これは。
ぽつり、ぽつり、と。ベンチを濡らす無数の雨粒。
取り敢えずその上にはちみーを置いておく。流石に処理は後回しにしておいた方が良さそうだ。
「……はぁ」
一旦はそれを手放せたことへの安堵からか、息が漏れる。白く染まっていた。
強くなった雨足、下がった気温。
体を動かしていたならまだしも、かなりの時間座っていた分、体も冷えてしまっていたらしい。思わず幾度か身震いする。
さて。とはいえ、すぐさま立ち上がって寮に戻る——というわけにも行かなかった。
「……それで。あなたは何が知りたいの?」
まだ、カツラギエースがいたからだ。
のんびりとはちみーを啜ること、おおよそ十分。どうやら彼女の気には召したらしかった。
少し尖った口調である反面、頬は多少緩んでいる。
それに、口元にもまだはちみーはこびり付いていた。
案外そういったことは気にしない性格なのだろうか。
「……具体的には、作戦、とか……?」
「それはダメ。これから戦う相手に教えたら本末転倒でしょ?」
即答。
案外細かいことは気にしないのかも——などという希望的観測はあっさりと打ち砕かれた。
まあ、冷静に考えてもみればそりゃそうだ。
こちらもこちらで、多少頭が痺れていたらしい。
「それ、じゃあ……」
とはいえ、それはそれで次の言葉が出てこない。
はっきり言って、こちらもこちらでそんなに深い意味があって彼女を誘ったわけでもないのだ。
ただ、余ったはちみーを誰かに押し付けたかっただけ——という側面もそこそこ強かったものだし。
「……レースのことは教えられないけど、はちみーの分、ちょっとしたお願いなら大丈夫。……太っ腹なお誘い、ではあったし」
「……いいえ。何かお願いがあったわけじゃないんです。ただ、会いたかった人に会えなかっただけで。はちみーは本当に余っただけでしたから」
人参ばら撒きゃお目当てはすぐに釣れる。
どこぞの日本総大将が親指を立てながらスーッとフェードアウトしていった。
彼女の教えは、きっと俺には再現できないぐらい高尚なものだったのだ。
「……会いたかった人、ね」
何かもっと深掘りされるのかな、とか。
むしろここで笑い話にしてしまった方が多少は話も盛り上がるのでは——なんて、考えていたけれど。
思いの外、彼女が見せた反応は明るいものではなかった。
レインコートでよく顔は見えないけれど、むしろ瞳を伏せているようにすらも思える。
何か、触れてはいけないことに触れてしまったのだろうか。
また妙な間が空いた。
どこか手持ち無沙汰だった。
端に避けていたはちみーは、気づけばびしょ濡れになっていた。
ほんの少し、ストローを掻き回してみて、それからまた手持ち無沙汰になって。
ベンチにまた深く、腰掛けた時だった。
「——っしょっと」
ほんの少し弾みをつけてカツラギエースが立ち上がった。
「……ねえ、トレミアンタレスさん。一つ提案、いい?」
不意な質問だった。
雨のせいか、多少濡れた瞳にくっきりと俺の姿が映り込んでいたこと。
おおよそ、捉えられたのはそれだけだった。
彼女が再びフードを目深に被り、ベンチに背を向けたから。
「——わたしと、走らない?」
「……走る……ですか……?」
「……そう。公園の外、レーンを通ってトレセン前まで。ちょうどいいと思わない?」
どうせ帰りも走るつもりだったのだ。それ自体に問題はない。
むしろ並走できるというのは、あまりにも大きいチャンスだった。
ともすれば、手放すわけにもいかなくて。
「……わかりました。受けて立ちます」
二つ返事で、俺はその提案を呑んだ。
◆ ◆ ◆
会いたかった人。
その言葉が、妙に引っかかった。
もちろん、遠く離れていて会いたい人——というのは、たくさんいた。
でも、そうじゃない。
顔を見たかった人。
それでも、いざ会ってみたら言葉を一つ交わすので精一杯だった人。
なんでそうなってしまったか、なんて。見当はいくらでもついた。
大舞台で走って、負けた。
悔しかった。それに違いはない。
けれど、きっと理由はそういうものではなくて。
妙な胸の支え。
歓声に混ざっていた、雑音。
それは──はっきりとした形を持って、わたしの前に現れた。
「それじゃあ、よーい——」
耳のカバーとレインコート、二重の境界を通ってもなお、声は響いた。
湿ったアスファルトに靴が擦れる。
キュッと、音が響く。
僅かに肺が引き攣った、空気を求めてわなないた唇。自分の呼吸音を耳元で聞いたその瞬間だった。
「——ドンっ」
ぴちゃり、と。
大きく音を立てて飛沫を散らし、アンタレスは駆け出した。
僅かに反応が遅れてしまったけれど、わたしもまた地を踏む。
半ば反射的に先頭を求めて体が動いた。
そして、アンタレスも先頭には固執しなかった。
彼女が基本的に差し型であるのは知っている。そのせいだろう。
あっさりと先頭は取れた。
レーンに合流してスピードを上げてもなお、アンタレスはピッタリとわたしの後ろにくっついたままで、積極的なアプローチはまだかけてこなかった。
息遣いと足音。
天気のせいか、時間帯のせいか、道は空いていて。レーンの上で響いていたのはそれぐらいのものだった。
ただ、リズム通りに息をして、リズム通りに脚を動かす。
少しでも、前へ、前へ、と。差を広げるために。
けれど、それは中々縮まらなかった。
道が開け、学園の正門が映った、その瞬間だった。
一際大きい足音が耳を突いた。
刹那、わたしの隣で白毛が跳ねた。
やはり、アンタレスはラストスパートで仕掛けてきた。そんなのは百も承知だ。
負けじと、脚に力を込めようとした時だった。
もっと後ろ、最後方。
そこからわたしを抜いて、ぐんぐんと先に行って。
不意に、その白が重なった。
「っはあ」
大きく息を吸ってしまった。
冷気が肺を突き刺す。
思考が、鮮明になった。
さっきまで走っていて、妙に浮かされていた気持ち。
それが、一瞬で霧散した。
乱れた呼吸音を聞いた。もう、リズムを保ってはいなかった。
息が、腕が。一つずつ、保てなくなっていく。
まだ、アンタレスとの間にあるのは大した差じゃない。それでも——。
脚が乱れたステップを刻む。
それが、濡れたアスファルトに触れた。
一瞬、視界が大きく揺れた。
アンタレスがこちらを振り返った。
けれど、間に合わない。
妙に鮮明な頭が、そう判断を下して——。
「——エースっ!?」
一瞬、力強い感触がわたしの背中に触れた。
それでも、バランスは取りきれなくて。完全に体勢は戻らず、尻餅をついてしまう。
二人、して。
「怪我、してない?」
普段から飄々とした物腰で、常にほんの少し細められていた瞳が、大きく見開かれていた。
ついそこにあった顔を、わたしは真正面から捉えてしまった。
シービーだった。
彼女が、すんでのところでわたしを受け止めてくれていたみたいだった。
「……う、うん」
「……それなら良かった。雨の日はもっと気をつけなきゃだよ?」
何か声をかける間もなかった。
ズレた帽子を被り直して。
立ち上がり、軽くジャージの砂埃を払うと、彼女はすぐに走り去ってしまう。
いつから、わたしをつけていたのだろう。
「あの、カツラギエースさん……大丈夫、ですか?」
「……うん」
心配そうに声をかけてくれたアンタレスにも、つい上の空で返してしまう。
考えても、答えは出なかった。
それでも、まだ並べてはいなかったんだって。
走った上でわかったのはそれだけだった。
ぐっしょりと濡れた靴は少し重かった。
それを引きずるようにして、わたしは寮への道を辿った。
◆ ◆ ◆
◆ ◆
◆
息が、荒い。
もう、スタミナが保たない。
それでも、夢にまで出てきたあの背中だけは越せない。
階段を昇り切った先で、私は身を投げ出した。
硬い石畳の感触、柔らかい土の感触。
背中に二つの感触を覚えて。
それでも、隣には誰もいない。
もうすぐ冬になろうとしていた。
吐き出した息は白く染まっていて、それを通して見た空は高かった。
星は、もっと遠かった。
「……アンタ」
タオルで汗を拭い、体を起こす。
視界は、すぐに狭まった。
そんな中で心臓だけが早鐘を打っていた。
もっと走れ、と。私を急き立てていた。
近頃忙しく投稿が大変遅れてしまいました。
受験生の戯れです。もうしばらくペースが乱れますが、お許しください。
P.S.三期が生きがいになったから。