無敗の八冠?だったら、俺が獲ってやるよ。 作:流星の民(恒南茜)
春も夏も秋も冬も乗り越えて走る。
季節という長いスパンで見ても一日単位で見ても然り、要するに朝も昼も夜も乗り越えねばならないのは当然。そして、朝は早い。
鼓膜を激しく揺らす目覚ましを止めて身を起こす。まだ5時前、上出来だ。
ふふん、と軽く鼻を鳴らしながら、立った洗面台。鏡に映るのはいつも通りの腑抜けた表情だけれど、今日は何割増しかで自身ありげなようにも映る。
正にプロフェッショナル、早起きは三文の徳というわけだ。度合いが違うだけで、結局寝覚めは腑抜けているのに違いはないわけだが。
半年と少し前まではこれを毎日ヴァーゴに見られていたのか——と。籠に入った髪飾りを前にすると、若干顔が火照ってもくる。
とはいえ、進歩しているのは確かなのだ。何も後ろめたいことなんてないどころか、むしろ誇れることが一つ増えたと考えればいい。
そう思えばこそ、澄まし顔が映る。他人様に見せる表情はこういうのでいい。
一人納得しつつジャージに袖を通し、そのまま外に出ようとして——。
今、忌々しいものが視界に映った気がする。
ふと視線を落としてみれば、ドア前におもしと一緒にちょこんと置かれた2枚の紙と書き置きがあった。
「使う機会があったら」と書き置きには端的に。
そして、残りの2枚を前にして——。
「……うぇ」
——俺は、顔を顰めざるを得なかった。
◆ ◆ ◆
◆ ◆
◆
「——高い、か」
耳からイヤホンを引き抜き、溢した一言。
白く染まった息が、乾いた空に溶け込んでいく。
すっかり冷め切ったベンチを指先でなぞりながら思わずため息を一つ、見渡した周囲にはもう随分とヒトが集まっていた。
昨日濡らしてしまった靴がまだ乾き切っていなから、とか。
上手く靴紐が結べなかったから、とか。
子供みたいな言い訳がいくつもよぎる中で、それでも寮を出た。
十分に走った。走ってきた。肺に冷気が染み込んで傷んでも、蹴り上げた地面が、随分と重く感じられても。
それ、なのに。
ふと昨日のことを思い出した。
刻まれた拍動が、強く鼓膜を突いた。
——トレミアンタレス。
学園までの僅かな距離、模擬レースの中で、忘れられなかったその姿を彼女に重ねてしまった。
『——外から“ミスターシービー“!』
天皇賞・秋。
逃げに徹していた中で、背後から聞こえた足音。
並んていたのは、ほんの僅かな時間だった。
その豪脚、割れんばかりの歓声、脚がすくんだ一瞬の間に次々と追い抜かれていった。
「……っ」
遠い故郷から出てきて、ずっと多くの人に囲まれて、てんてこ舞いで。
でも、高みを目指してきた。
たどり着いた場所で見た景色は、遠かったからこそ、ずっとずっと思い描いていたものよりも眩しかった。
最近は調子が良くて、何度も、何度も勝ってきた。
それなのに、たった一回。前哨戦じゃ勝ったのに、負けた大一番。
その背中は、眩しすぎて——途方もなく遠くに見えて。
指先が僅かに震える。ぎゅっと握ったジャージにできたシワ、それすらも帯びていた小刻みな震え。
竦む、足が竦む。高みから落ちた時の痛みを強く、知ってしまったから。
それでも、日数は残り少ない。走らなきゃいけないのはわかっていた。わかっていたのに——。
震える脚を前にして、強く唇を噛み締めた時だった。
「……カツラギエース、さん……?」
不意に白毛が視界の端で揺れて、顔を上げた。
所在なさげに揺れる赤い瞳。アンタレスが、そこに立っていた。
◆ ◆ ◆
「……どう、ぞ」
「……ありがと」
朝方、書き置きと一緒に添えられていたはちみーの交換券。ことり、と引き換えてきた二本をベンチの上に置く。
昨日の様子がどうにも気にかかって、公園を通りかかった時、そこには案の定、というべきか。カツラギエースがいた。それも、相当に思い詰めた表情で。
ともすれば、放っておくわけにもいかなさそうな状況だった。予想だにしていなかった早さで“使う機会“がやってきたはちみーが昨日と同じく会話の皮切りになってくれるのでは、と思ってはいたものの、カツラギエースはそれを一瞥したのち、再び俯いて。
手付かずのはちみーが二つ、沈黙の中で時間は過ぎていった。
「……ねえ」
しばらくの間、そうしていたように思える。
けれど、はちみーを渡した時と同じ幾分か低いトーンのまま、不意にカツラギエースは口を開いた。
「昨日はごめんなさい。途中、心配させちゃったでしょ……?」
「……いえ、謝られるようなことじゃない、ですけど……」
短い会話だった。
謝罪と返事、それだけが済んだ後でまた彼女は塞ぎ込む。
互いに無闇には踏み込めない距離感で。正直、話しづらい相手だったことも確かだ。
それでも、その姿には既視感があった。
どこで? 多分、ずっと前、なんなら中央に来る前で——ああ、そうだ。
「カツラギエース、さん」
「……なに?」
中央に来る直前、ヴァーゴと一緒に中央には行けないって知って、塞ぎ込んで、落ち込んで。誰とも口を聞きたくなかった時だ。
あの時の俺と今のカツラギエースが塞ぎ込んでいる理由は違うはずだ。それでも、どこか重なった。
何があったかなんて、忘れるわけもない。俺は手を引いてもらった。背中を押してもらって、中央に来た。
もちろん、全く同じ方法で——というわけには行かないだろう。そもそもとして、境遇が違えば、ヴァーゴみたいに強引に手を引けるほど、今の俺と彼女の距離は近くない。
それでも、ほんの少しでいい。何か、できることがあるのなら。
「——少しだけ、一緒に歩きませんか?」
そう口にした瞬間、伏せられていた瞳がこちらを向いて、何度か瞬く。
半ば何かに追い立てられたかのように、反射的に彼女は立ちあがろうとして、すぐに尻餅をついた。
多少、脚が震えているようだった。
慌てて手を差し伸べた、けれど。
彼女は、小さく首を振った。
「……ううん、立つことぐらい自分でもできる、から」
一歩、恐々と伸ばされた脚が地を踏み締める。
それから、もう一方の脚が伸びて。
ベンチに手を置くと、身体を支えるためか触れた指先を震わせて、彼女は立ち上がった。
「……大丈夫そう、ですか?」
「……ええ」
瞳は、多少逸らしたままだったけれど。カツラギエースは確かに頷いた。
◆ ◆ ◆
黒鹿毛、その上に載せられた白い帽子。
ランニングの途中、たまたま通った公園の前で不意に見つけたその姿。
一瞬の間、見間違いかと思って。
それでも目立つ特徴だ。見間違うわけもなく、訝しげにシンボリルドルフは声を漏らした。
「……“シービー”。こんなところで、何を……?」
「……ううん、別に」
ミスターシービー。一見、ルドルフからすると妙に思える——不思議な行動をとることは、彼女にとって特段珍しいことでもない。
しかし、今日は普段と様子が違った。
ずっと真剣な顔で、植木の間に身を隠しながらも、公園の方を注視している。
何事か、とルドルフもまたそちらに視線を向けて、そこにあった二人のウマ娘の姿。薄々ながら状況は掴めた。
「……カツラギエース、か」
「……流石ルドルフ、嘘は吐けないか」
少し苦笑しながらシービーは答える。図星だったようだ。
とはいえ、一つルドルフにとっては腑に落ちないことがあった。
「……君と彼女は仲が良かったはずだろう? それに……なぜ、アンタレスと……?」
「……アタシがお願いしたんだ。最近、エースには少し避けられてるみたいだから。それに——」
いつものような微笑。
けれど、幾分かの淋しさをはらんだようなそれを湛えると、シービーは零した。
「——多分、アタシには埋められない距離だから」
受験生ゆえ相変わらずの不定期ですが、お許しください。
P.S.ドゥラちゃん……ドゥラちゃんっ!? アッ……ワァッ……。
なお、テイオーは引けませんでした。精進します。