無敗の八冠?だったら、俺が獲ってやるよ。 作:流星の民(恒南茜)
「……いやだ」
跳ね除けた手が、まだ視界の端で揺れていた。
その衝撃でズレたらしい帽子を落ち着き払った様子で整えて、それでもまだ
「宝塚記念さ、最高の走りだったよ。それに、秋天の時だって……それだけ強くなったエースと、また二人きりで走れたら、って……」
口調に篭っていた熱が、次第に冷めていく。
「思った、んだけ、ど……」
震えた指先、その手はそっと降ろされる。
落ち込んだような表情は、俯いたままの私の視界でも十分に捉えられるものだった。
「……だって、わからないんでしょ」
それでも、突き放したまま、私は首を振ってしまった。
◆ ◆ ◆
「──スさん……エースさんっ!」
ガタンと。大きな振動が私の体を襲って、その瞬間に何もかも思考が引き戻された。
隣で私の体を揺さぶるのはアンタレス。そうだ、私は電車に乗っていた。
またもやガタンと振動が襲う。
鉄橋にでも差し掛かったのだろうか。
窓を見やれば、足元に流れる川は強く照り返していて──その先、海は随分と近い。
「もうすぐ終点?」
「……みたい、です」
「……そう」
つい先程まで見ていた夢の残滓がこびりついたまま離れない。
脚には痺れが残っていて、立ち上がるのが少し辛い。
ガコン、と。少し軋みながらドアが開いていく。その瞬間だった。
「っ」
ゲートが開く、鼓動が早まって、視界が狭まる。
吐息は近く、重なり合って、私を追い込む。
思い出した光景は、僅かな目眩を伴っていた。
「……エースさんっ!? その……大丈夫、ですか……?」
「……うん。大丈夫、それよりも、早く降りなくちゃ」
口先で問題ないことを取り繕いつつ、深呼吸をする。
胸に当てた手、伝わる拍動がほんの少し収まった。
脚を引きずるようにして、私はドアの方へと歩を進めた。
◇ ◇ ◇
「……人、少ないわね」
「……本当です。ここまで来るとほとんどいませんね」
少し歩きませんか──と。
カツラギエースに提案してから四時間。成り行きで電車に乗って、目的地でそこから更に二時間ほど。
昼さがり、水平線を横目に俺たちは長い長い海岸をひたすらに歩いていた。
流石に11月ともなればシーズンオフで、人が少なければ肌寒い。
ふきっさらしの海風の下、踏んだ砂利は乾いていた。
「お腹、空きませんか?」
「……あんまり。アンタレスさんは?」
「……結構、空いてて……」
トレセンから遥か遠く。
特に宛もない中出かけた末に、時間はかなり経っている。
ひたすら歩きながらも、朝食とはちみーしか詰まっていなかった腹の虫は既にぐうぐう鳴いていた。
「じゃあ、この辺りでいいなら食べに行きましょうか」
淡々と歩き通しだった中で、やっとカツラギエースはそう口にした。
現金なことに己が尻尾は既に視界の端で揺れている。
「なら、海鮮丼が食べたいですっ」
鼻腔をくすぐる潮風に、一瞬で食べたいものは決まった。
最近は特にカロリー制限もしていない、それに一食だけなら問題もないだろう。
「……残念ね。私は……何か、スイーツ系が良かったのだけど」
その瞬間に、背筋が凍った。
甘いものは基本苦手だ。それもはちみーをキメたあととあらば、今日辛うじて接種できるキャパはオーバーしている。端的に言ってしまえば、マズイ。
一瞬、別のものでと提案しようかと思ったけれど、そもそもとして今日ここに来たのは、カツラギエースの気を紛らわすためだ。
だから、断るのは流石に……と、悶々としていた時。
ふと、カツラギエースが口を開いた。
「……だったら、走って決めない?」
その意味が、一瞬わからなかった。
何せ、それが嫌で朝座り込んでいたんじゃなかったか。
「……嫌、じゃないんですか? 今は走りたくないんじゃ……」
「……あれ? ……本当ね。そうだった、わよね」
歯切れ悪く答えながらも、それでも、カツラギエースの視線は真っ直ぐ一方向を捉えていた。
砂浜の切れ目、人っ子一人いない遠くて広大な向こう側。
その瞳は最初に会った日、雨に濡れていた時のように細められてはいなかった。
ただ、捉えられるように。目一杯、焼き付けようとせんばかりに開かれた瞳いっぱいに、海からの照り返しによって光を蓄えていた。
もしかしたら、最初に走った日とは何か条件が違うのかもしれない。
ふと、そう思った。それなら──走ってみるのも、アリ、なのかもしれない。
「……ただ、私は大丈夫です。エースさんが走れるのなら」
「……そう、ね」
心ここにあらずというように、一言溢して。
そして、カツラギエースは間髪入れずに頷いてみせた。
「……だったら、走りたい。なんか、変だけど……今は、そうなの」
すぐに答えは決まった。
海岸線に拾ってきた枝で一本、長い線を引き、それをスタートとする。
ゴールは、ここから捉えられる砂浜の終着点まで。おおよそ、2kmぐらいだろうか。
「それじゃあ、よーい……」
ドン、と。
スタートの合図を待たずして隣で砂塵が舞った。
それに追いすがるように、俺もスタートする。
走るたびに砂の感触が触れて足が滑る。ダートはほとんど走ったことがなかったから、あまりこういう足場には慣れていなくて、ともすれば、フォームは崩れがちだった。
そして、それは提案してきたカツラギエースだってそうだ。
彼女だって芝路線、崩れたフォームだ。
それでも、バランスを取ろうという気はさほど見えなかった。
ただ、前へ前へ。片足が沈み込もうとしたら、もう片足が前に出る。
滑ることを恐れる様子はない。ザッザッと、刻まれる足跡は間隔狭く。
脚を溜めるだなんてとんでもない。
まだまだ距離はあるのに、ペースは上がりっぱなしだ。
ぐちゃぐちゃになったフォームのまま、大きく腕が触れる、大きく脚が踏み出される。
「……ははっ」
笑い声が砂浜に響いた。
とても勝負になんてならない状況、完全に俺が置き去りにされている中で、カツラギエースはそんな後続を見ることすらせず、ただ前へと走っていく。
彼女の行く手には何もなかった。
道もなければ、障害物だって、人だって。
真っ直ぐ進んでいたとは言えない、多少逸れたり、ペースだって上がったり下がったり、ただ自由だった。
「──あははっ!」
何にも遮られることのない笑い声は、潮風にあおられて、広くこだまする。
そろそろ、最初に設定したゴールに着く頃だっただろう。
それでも、それさえ無視して、彼女はまだ走り続けていた。
遠く、やがて俺の体力の限界が訪れようとした辺りで、突如として速度を緩めると、どさり、と。
カツラギエースは砂の上に身を投げ出した。
「……どうしちゃったんだろ、わたし」
顔いっぱいに浮かんだ笑顔、切らした息、まだそれを声に滲ませながら、カツラギエースは溢した。
「なんか、今ね。全部どうでも良くなってた」
身は起こさず、むしろなおさら体を砂に埋めると、興奮冷めやらぬ状態なのか、彼女はまた笑って見せる。
「走り出したらね、目の前になにもないの。周りにだって、誰もいない。聞こえるのはわたしの息と、波の音、それから足音。ブロックなんてもっての外、誰もわたしを押し込もうとしない。ただ──ただ、どんな風に走っても、どこまで行っても良かった! 自由だった!」
その様子を見ていて、どこか腑に落ちた。
そうか、カツラギエースは走るのが嫌いなわけではないのだ。
積み重ねていく勝利は、そのままプレッシャーへと置き換わる。レースになれば、人気順だって出るし、結果はそのまま叩きつけられる。だから、カツラギエースは──。
「わたし、好きだったみたい。なんのために、とか。考えずに走るのが──あの子、みたいに……」
そこで、唐突に彼女の表情は陰った。
「何か、あったんですか?」
「ううん、ちょっとした喧嘩よ。……ところで、アンタレスさん。あなたに一つだけ聞きたいことがあるんだけど」
無理くり作ったかのような明るい表情、微笑とともに、問いかけられた。
「……なんのために、走ってるの?」
そんなの決まっている。
”無敗の八冠ウマ娘”になるため、ただそれだけだ。
そう口にしようとして、それでも、声はでなかった。
「菊花賞からジャパンカップだって、とんでもなく詰まったスケジュールであなた、走ってるじゃない。それだけ、欲しいものって──どんななのかなって」
そうだ、元々欲しかったのはテイオーからの眼差し。
憧れ、そういうものになりたかった。
それでも、それはもう菊花賞の段階でほとんど叶ってしまったと言っていい。
無敗の三冠ウマ娘──十分すぎるぐらいの栄誉だ。
それなら、残りの五冠はなんのためにあるものだったろう。
ジャパンカップへの出走を決めたのだって、早く八冠ウマ娘になるためだった。
だけど、その必要性が薄れている。
そこまでする意味が──わからない。
そうか、だから何も考えずに走れるということに大きな価値があるのか。
どんな因果で転生してきたのかも、なぜ俺がトレミアンタレスなのかも、詳しいことなんて考えないまま──いや、考えないように”無敗の八冠”という途方もなく大きな夢を掲げて、それを支柱になりふり構わず走ってきた。
けれど、今それが機能しないのなら──わからない。
どうして、走るのか──今の目標のままじゃ不明瞭なままだ。
波音、目の前で打ち寄せた波が、砂浜に敷き詰められていた貝殻を押し流していく。
一瞬で、全てが瓦解したかのような気がした。
「……ごめん、なさいね。聞いちゃって。そういうの、難しいわよね」
申し訳無さそうにカツラギエースが謝ってくる。
それでも、ここで答えを出したかった。
道筋がわからないまま走っていたくなかった。
わからないまま、混乱の渦中で髪を掻きむしる。
その時、指先にポニーテールを括っている髪飾りが触れた。
『……私ね、新しい夢ができたの』
ふと思い出した。
まだモリオカにいた頃、よくトレーニングしていた神社の御神木の下、この髪飾りを貰ったのと同じ場所で聞かされた告白だ。
『誰よりも先に、アンタに勝つことっ!』
ヴァーゴは──最初に掲げていた夢をそこで捨て去った。
もう中央には行けないからと、三冠ウマ娘になるのをやめて。
それでも、俺を指さしてみせたのだ。
”無敗の八冠ウマ娘”になった俺を必ず倒すから、と。
夢は必ずしも同じ形を持っているわけではない。
目標を叶える途上にあっても平気でゴールは遠ざかるし、下手すれば消えてしまうことだってある。
だから、執拗に最初に決めた道筋通りにゴールを目指す必要はないのかもしれない。
夢は変わることもあるし、そうでなくても、そこに行こうとするための理由が変わることだってあっていい──はず。
「……誓ったから」
楽しんでいこう、と。
夏合宿の時、ルドルフと交わしたハイタッチ。
思えば、菊花賞への熱が俄然燃えたのはあの瞬間だった。
何ならそれ以前、ヴァーゴとだってそうだ。
岩手ステークスの時に必死で走ったのはヴァーゴに報いるため。
そんな即物的で、その場のためだとか、そういう感情に突き動かされてきたこと、決して少なくはなかった。
「……一緒に走ろうって……全力で戦いたいからって」
決して長期的に作用する約束でもなければ、”無敗の八冠ウマ娘”になる理由でもない。
だけれど、今出せる唯一の答えだった。
「……そういうので、良いんだ」
そんな答えではあったけれど。
どこか、カツラギエースの表情は晴れ晴れとしていた。
「……少なくとも今は、それが理由になって。レースに出るために私の背中を押してくれてます、から」
「……だったら、尚更だったんだ」
身を起こすと、暮れかかった砂浜の中、迷うこと無く彼女は来た道を戻っていこうとする。
「……もう、大丈夫なんですか?」
「……大丈夫かはわからないけど、プレッシャーの原因も、今最優先でするべきことも──なんとなくわかった気がする。……よりを戻さなきゃ、いけない相手がいるから」
それは、答えだった。
カツラギエースにはもう、ふらっとどこかで立ち止まる理由が無くなったのだと。
そう言うかのような、はっきりとした口調だった。
「お昼ご飯はごめんなさい。今すぐにでも戻りたいから、また今度で良い?」
「はい。また今度ランチでも一緒にしましょう」
そこで、少し驚いたかのように目を見開くと、彼女は微笑んでみせた。
「もちろん、今度はわたしにもはちみー奢らせて、
そうとだけ早口で捲し立てると、エースはすぐに歩を早める。
それに着いていくために、疲れた脚にムチを入れ、俺も歩幅を広げた。
ただ一つ。燻っていたものはあったけれど。
──なんのために。
なんのために、俺は──”トレミアンタレス”は”無敗の八冠ウマ娘”を目指すのか。
輪郭を見落として。その理由が、不明瞭になってしまったから。
◆ ◆ ◆
「っ、はぁっ」
もう十一月だ。あと一月も経てばクリスマス。年を越せば、私にとっての大舞台が待っている。
今年の二月──なんて、振り返れば遠くなったものだ。
それでも、その日の誓いは未だ思い出せる。
中央に行く、そしてアンタを超える、と。私ははっきりとそう口にした。
それなのに──。
「まだ、足りない……ッ!」
もう一本、コースを一周したくても脚は悲鳴を上げたまま、ちっとも言うことを聞いてくれない。
目標ははっきりしている。どんな形をしているのか、まだ捉えられる。
けれど、そこに至るまでの道筋が見えなくなっていた。
また、なのだろうか。
「……アンタに勝つ、かぁ」
また、私は捨てなくちゃいけないのだろうか。
前回の投稿から半年近く空いてしまったこと、お詫び申し上げます。
大きな岐路を経ての新生活が始まり、学生として次のステップへ移行していたのです。
それから、兼ねての目標だった新人賞用の作品を書いていて、中々こちらには手が回らない状態でしたが、劇場版RTTTに脳を焼かれたので行けました。
これから投稿ペースを上げていきたい所存ですので、今後ともよろしくお願いいたします。
P.S.色紙はオペでした。すきすきだいすき、超いい子。