無敗の八冠?だったら、俺が獲ってやるよ。 作:流星の民(恒南茜)
「……はぁ、はぁ」
投げ出した四肢は熱を帯びていた。
荒くなった息、走った末に視界は霞んでいて、それでも意識は明瞭だった。
陽だまりの中、芝は温かい。近頃は雨が続いていたから、背中に感じる感触は久々だった。
「……ねぇ、エース。今、アタシが何考えてるかわかる?」
「……おおよそはね。シービーにとっては──」
そんなの、聞くまでもないことだった。
だって、こんなにも心地の良い場所で好きなように、自由に走り回れたのだから。
今だって、お互いの表情を見ているのだから。
「今が──最高、なんでしょ?」
「正解っ」
アタシの答えがあまりにも予想通り過ぎたのか、
トレーニングもレースも、ひとまずは関係ない。
ただ、一緒に駆け回って笑い合える。そういう瞬間さえ浴びられれば、アタシにとっては十分だった。
そうだ、それだけで良かった、のに。
◆ ◆ ◆
「……シービー。君にしてはらしくないな。あんなに回りくどい方法までとって……」
エースが去っていった後、公園のベンチに腰掛けたまま、ルドルフはそう口にした。
「……そう、だよね。しかも、エースが相手なのにさ」
彼女に指摘された通り、回りくどい方法というのには自覚はあった。
天皇賞・秋が終わって、近頃エースは気落ちしていた。
理由はおおよそ想像がつく。結果だ、彼女は五着だった。
だから、走りに誘った。彼女と初めて出会った日からずっと、それがアタシたちの間での言葉を必要としないコミュニケーションだったから。一番気が晴れるやり方だったから。
「……でもさ、言われちゃったんだ。シービーにはわからないでしょ……って」
アタシの声のトーンが気に食わなかったのだろうか。それとも、あの時勝ってしまったアタシが相手だから?
「……何が──カツラギエースにとっては何が悩みだったのか、君は聞かなかったのかい?」
「……うん。聞かなかった──というよりも、聞けなかったんだ」
ルドルフにしては珍しく、驚いたような表情が浮かぶ。
その通りだ。聞けなかったから。結局、お互いにどこか触れがたかったから。
手を跳ね除けられた次の瞬間に、どうしてか、なんて。聞けやしなかった。
言葉が喉に詰まって、上手く口にできなくて。辛うじて絞り出せたのは、最初と同じ誘い文句だけ。
エースがそれを拒んだかどうか、アタシは知らない。
ただよぎったのはダメだなって直感。それに流されるまま、アタシは自ら手を降ろしてしまった。
「それ以上は踏み込んじゃいけない気がしてさ……それで、そのままだよ」
だけれど、そうしたからと言ってエースの様子が好転したかと言うと、そういうわけでもない。
走り込みをしている最中、気にかかって様子を見に行けばいつも顔色は悪い。
この間なんて転んでしまっていたし。
それなのに、話しかけるには至らなかった。
結局取ったのは、ルドルフが言った通り遠回りなやり方だ。
「なるほど。だからこそ、アンタレスを通していたわけか」
「……そう。やっぱりルドルフはお見通し、だね」
辛うじてアタシが目を付けた相手は偶然にもエースと接触をした。
だから、初日と同じく会話の種になれば──なんて、はちみーの交換券をわざわざ伝言と一緒に部屋の前に置いたりして。
「……それで、君は報われたかい?」
何一つ。
何一つとして、アタシは触れてない。
それでエースの調子が好転するのなら良い──そうやって割り切るには、あまりにも歯痒い。
「……ちっとも」
随分と遠くに行ってしまったのだろうし、今エースがどうしているのか、アタシにはわからない。
仮にアンタレスが彼女をどうにかしたとしても、その時にエースは──アタシの隣にいるわけじゃない。
「……それでも、もっと遠ざかるかもって」
だとしても、触れてしまったらどうなるか。
また跳ね除けられるかもしれない、そこには埋めようのない溝が生まれるかもしれない。
断絶した中で、並んで走ることはできなくなるかもしれない。
「……そう、思ったら、さ」
だから、回りくどい方法を取ってでも直接踏み込むことを避けた。
これ以上距離が開かないようにするために、あえて距離を置いた。そうしたかったはず、なのに。
「……納得、できなくて」
何一つ、アタシ自身が受け入れられていない。
走っていた道に陰りが差すようだった。今までは好きなように駆け回っていた道が、途端にぷっつりと途切れた気がした。
そうなると、どうすればいいのかわからない。
エースに近づきたいのに、それが怖いとすれば──酷く入り組んだ道に迷い込んでしまったようだった。
そんな表情、あまり見せたくなくて。
ルドルフと視線を逸らすように俯く。
雨の後でぬかるんだ地面が視界に映った。
「──自問自答、常に測りかねているさ。トレーナー君との距離も、ライバルとの距離すらもね」
ふと、ルドルフが溢した。
顔を上げた時、彼女の横顔は普段のような自信を湛えてはいなくて、むしろその逆だ。苦笑してみせている。
「……距離?」
「ああ。真っ直ぐ伝える、というのはどうにも難しくてね。一緒に戦いたいと願っている相手にすら、二人三脚で共に走っていくと決めた同士にすら、真っ直ぐな気持ちをぶつけられないままだった」
「……ルドルフでも?」
ルドルフは器用だ。
生徒会長として激務をこなしながら、レースでも成績を残し続けている。それに、彼女はもっと──深く相手に踏み込んでいるように思えたから。そうでなきゃ、誰かの悩み事を解決なんてできるわけがない。
「意外だったかい? これでも、私は結構不器用なのだよ」
それでも、彼女の表情には謙遜だとか、そういった類いのものはちっとも滲んでいなかった。
「トレーナー君に不安を吐露するのには長い時間がかかった。それこそ、菊花賞までね。アンタレスだってそうだ。彼女と正面から戦いたい、と。それを伝えるのにも同じだけの時間を要したよ」
「……どうして、そんな……」
「遠慮だとか、強がりだとか。恐らくはそういった類のものだったのだろうね」
その眼差しは、アタシと言うよりももっと遠く──ともすれば、昔のルドルフ自身に向けられているように思えた。
「それだけ、後悔が積み重なった。それだけ、抱え込むことになった。回り道をしただけ、相手との距離は開いてしまう。無論、踏み込んではならない相手もいるだろう」
首を振りつつ、それでも、と。ルドルフは言葉を継いだ。
「ただ、例えばそれだけの遠慮や思慮は不要なときもある。踏み込んでいくのに恐れることはない。むしろ、その機を逸することの方が問題だと。私はそう思うよ」
「……そっか」
それで、エースについて何かがわかったわけじゃない。
今の彼女が何に急き立てられているのか、なぜ、アタシを拒むのか。
わからないけれど、それでも踏み込まなければずっとそのままだ。
ルドルフの助言はただのお節介じゃない。彼女の後悔からきたもの。
だとすれば、辿るべき道は未だ不明瞭でも、進むべき方角だけは決まった気がした。
「……アタシは、後悔したくない。エースと──また、走りたい」
そうだ、元々アタシが走っていた理由だって、そう難しいものじゃなかった。
ただ、それが好きだったから、楽しかったから。理詰めで説明できるものじゃない。
それなら、難しいことは追いやってでも、バカ正直に、真正面から大切な相手に向き合いたい。
アタシが──やりたいようにしたい。
「……ただ、さ。どこに行けばいいと思う?」
「案ずることはない。一つ、アテがあってね」
ルドルフが不敵に笑う。
そうだ、こういう時の彼女は器用で、頼りになる。そう言うのなら、本当に案ずることはないのだろう。
だから、アタシが考えるべくは、エースと再会したらどうするか──ただそれだけだった。
◇ ◇ ◇
『……位置情報が正しければ、この駅で合流できるはず、なんだが……』
電話越しに、ルドルフの声が聞こえる。
アテ──というのは、アンタレスのトレーナーのことだった。
彼女は担当にGPSを付けているらしい。相当なじゃじゃウマ娘、なのだろう。
「……もう少しだけ、探し……っ」
『……シービー? どうしたんだい?』
ルドルフが聞いてくるけれど、答えている場合じゃなかった。
一瞬、人混みに紛れていた目立つ白毛──そして、その隣にちらりと映る黒鹿毛、そして、耳を覆うカバー。間違いない。
「エースっ!」
人混みに突っ込む、揉まれて、よろけて、思わず倒れ込みそうになった体。
その瞬間、強引に腕を掴まれて──そして、引き寄せられたアタシは、そのまま抱き止められた。
「……シービーは、ここでも奔放なんだ」
すぐ側に、エースの顔があった。
P.S.RTTTのサントラ、好き。