無敗の八冠?だったら、俺が獲ってやるよ。 作:流星の民(恒南茜)
「……ご、ごめんなさいっ」
初めてエースと出会った時、彼女はひどく怯えたような表情をしていた。
廊下を走っている途中で、アタシとぶつかってしまって、互いに尻もちをつく羽目になったから。
無理もなかったと思う。後から知ったことだけど、一人、地元からこっちに来たばかりだったらしいし。それでも、すぐにでも慣れるだろう。そして、すぐに中央に染まるだろう。
「あはは、いいよ。別に怪我はないし」
そうやって別れたつもりだった。
初めて一緒に走った時、惚れ込んだことはいまでも忘れていない。
ふらりと立ち寄った練習用コース、そこで走る彼女のフォームは崩れていた。
とはいえ、ぎこちないわけじゃない。伸び伸びとしすぎているのだ。
「……あのさ、一緒に走らない?」
整った走りだとか、ライバルにピッタリだ、だとか。
アタシが知りたいのはそんなことじゃなかった。
「……わかり、ました。私、走るの、好きだから……よろしくお願いしますっ」
──彼女は走るのが好きか。
トゥインクルシリーズで繰り広げられる、苛烈な競争の中では保っていくのが難しい、その意思を持っているかどうかだった。
◆ ◆ ◆
離すまいと、ぎゅっと握った手。
久しぶりに見たその顔を前にして、唇が僅かにわなないた。
「……アタシ、エースのこと、わかってなかった」
そうだ、わかっていなかった。
何でアタシを拒絶したのかも、どうして、そこまで何かに追われているのかも。
そして──今も、わからないままだ。
「いつも言葉が先走るから──アタシ、無神経なこと、言ったかもしれなくて。……ごめん」
エースの瞳が見開かれる。
大分、踏み込んだことを口にした。意識していなかった距離が、彼女との間に開いていること。
それを知ってしまったから、絞り出した声は震えていて。
「……違う。悪いのはわたし。シービーじゃなくて何も伝えないわたし、だった」
だけれど、エースはもう拒まなかった。
ただ、ごめん、と。何度か繰り返しながら、視線を逸らした。
「きっとね、焦ってた。レースで勝ったら、称賛が得られる。それは──私にとって嬉しいものだったよ。故郷から中央に出てきて、必死に走ってきたのは正しいことなんだって、証明してくれる気がしたから」
鼓動を諌めるように胸に手を当て、彼女は口にする。
「天皇賞でシービーに負けてからはずっと、怖かった。やっと、差が縮まったと思ったのにって」
「……ごめん」
「……ううん、負けたのはわたしだから。むしろ、あなたがこうやって気を遣ってくれるだけでも、ずっと幸せなことなんだと思う」
首を振りつつ、相変わらずエースは俯いたまま。
何を考えているのか、今どんな表情をしているのかすらも、わからない。
彼女はそれを教えてくれないから。
いくらか、たじろいでしまっていた。
また感じた触れがたさを恐れるように、全部言い切った後に、彼女が離れていってしまうんじゃないかって。どこか、そんな予感がしたから。
「でも、ね」
ぽつりと溢して、エースは顔を上げた。
「負けること以上に、走るのが嫌いになること──それが、何よりも怖い。狭くなった視界で、好きだったことを、見落としたくない」
その表情は、陰っていた。
どうすればいいのかもわからず、右往左往していた時──初めて出会った時と同じだ。
あの時はどうしたんだっけ──と、ふと思い出した。
「……だったらさ、確かめてみない?」
たじろいでたって、仕方がない。
そんなことをしたって、距離が開いていくだけなら──機会を逃して、後悔したくない。
「一緒に、走ろうよ」
一歩、前に出る。
縮んだ距離任せに、エースの手を取った。
「──っ」
掴んだ手はひんやりとしていて、僅かな震えを帯びていた。
エースが言った通り、怖いんだって。そういう感情がはっきりと伝わってくる。
それでも、跳ね除けられることはなかった。
表情に滲んでいた戸惑いが掻き消える。
「……わかった。わたしも、知りたい、からっ」
か細い力ながら握り返してくると、彼女は頷いた。
「──走、るよ」
◇ ◇ ◇
◇ ◇
◇
ゲートに入ると、途端に視界が狭まる。
心臓の鼓動は早まり、荒くなった呼吸が余計に体を強張らせる。
さざめく芝、足音、ゲートが閉まる音。
全部、苦手だった。
──それでも。
「……ここ、昔、トレーナーに連れてきてもらってて。穴場なのでオススメです」
「色々とありがとう、アンタレス。あとは、アタシたちだけで大丈夫だから」
「わかりました。それでは、くれぐれも無理はしないようにしてください」
ぺこり、と頭を下げてアンタレスは帰路につく。
その背中が遠ざかったのち、捉えたのは海岸線の向こう側。
人っ子一人いなければ、障害物もない──ただ、広い砂浜。
アンタレスに教えてもらった場所だ、本当に感謝してもしきれないけれど。
それは、また今度。
今向き合うべきは──わたし自身の脚だ。
「……エース、キミが走るタイミングを決めていいよ」
「……うん」
走るためのフォーム。
走るための深呼吸。
だけれど、視界が狭まることはなかった。
ゲートもなければ、隣りにいるのはシービーだけ。
その彼女だって、わたしにタイミングを委ねてくれている。
それなら、何を恐れることがあっただろう。
──ザッ
踏み込んだ一歩が、確かな手応えとともに砂地に食い込む。
合図はそれだけで十分だった。
「じゃあ、行こうか」
エースもまた、一歩踏み込む。
すぐに隣に並んで、それでも、彼女がアタシを抜くことはなかった。
というよりも、お互いにそういうつもりはなかったのだ。
わたしたちが一緒なのは決まって、ただ走りたい時だった。
最初からずっとそう、競い合うためじゃない。
「……はぁ、はぁ」
上がっていく呼吸とともに、テンポが跳ねていく。
刻む足跡は広く、広く。踏み出す一歩は、先程よりも遠くへ。
「……やっぱり、いいな」
隣でシービーが溢した声は、風にまぎれていた中でも辛うじて聞き取れた。
その通りだ。一瞬、一瞬、早まっていく鼓動はただ走るために、わたしの脚へ血液を流し込む。
果ての見えない道の中、ただ走っていればいいんだって高揚。
「ほんとに、ね……っ」
頬を撫でる潮風も、ざくりと心地よい砂の感触も、明瞭にすすがれた思考も。
感覚全てが、わたしに訴えかけてくる。この瞬間が続けばいいって。
これが走るということならば──いつまでも、味わっていたいって。
「……ふぅ」
どれくらい経ったのか、よくわからない。
ただ、火照った体を包み込む砂が心地よかった。
わたしたちは、走り続けた末に互いにほぼ同じタイミングで足を止め、その場に倒れ込んだのだ。
「……ねぇ。シービー、今のわたしの気持ち、わかる?」
「……もちろん。聞かなくたってわかるよ」
それは、すれ違っていた感情を並ばせるための確認行為で。
それ以前に、ただ分かち合うためのものだった。
「──走るのが、楽しいってこと」
「……正解。わたし、変わってなかったみたい」
お互いに、走るのが好きなんだ──って。
「途中でシービーが急に方向変えるから、すごい焦ったんだけど」
「ごめんごめん、でもさ、水辺の方が涼しくて良かったじゃん」
「確かに。潮風は気持ちよかった」
一緒に走って、どういう風に楽しかったか、一緒に語り合う。
だから、シービーはわたしを誘ったんだって、今ならわかる。
「……ねぇ、シービー。次のジャパンカップ、一緒に走るんだよね」
「うん」
掛け値なしに走るのが大好きだって、そう言い張れるほど、わたしは真っ直ぐじゃない。
「天気、どうかな」
「晴れも雨も、アタシはどっちも好き」
「それで、一緒に走る相手もいるんだったら──」
それでも、シービーは一緒にいてくれる。
右往左往していたって、手を引いてくれる。
「走るの、楽しいって──また、そう思えるのかな」
仰々しく、夢の舞台とは呼ばない。
「……もちろん。少なくとも、アタシにとっては楽しいはずだからさ」
きっと、また分かち合えるのだろう。
楽しかった、すごかったって、そんな言葉を互いに交わせるのだろう。
「それなら、走りたいな──わたし」
◇ ◇ ◇
◇ ◇
◇
エースと一緒に海に行った日から二日。
その日、俺はカフェテリアで、スイーツを並べて待っていた。
「ごめんね、アンタレス。待たせちゃって」
「いえ、練習が長引いたなら仕方ないですよ」
席につくや否や手近なパフェを取ると、彼女は早速スプーンで掬い上げる。
実際、俺もお腹が空いていたから。
取ってきた料理に手を付けつつ、互いに無言で黙々と食べ進めた。
「……アンタレス、その──本当に、ありがとうね」
そんな中で、不意にエースが呟いた。
まだ、二人があの後仲直りできたのか、彼女自身走れるようになったのかは聞いていなかったけれど、その口ぶりから察するに上手くいったのだろう。
「いえ、私もまた、万全な状態で一緒に走りたかったですし」
「そうね。ジャパンカップ、わたしも楽しみにしてるわ」
どんな心境の変化か、詳しいことはわからないけれど、周りが前向きなのはいいことだ。
走っていて、こちらの気持ちだって上向いてくる。
「とびっきり速くて、走るのが好きであろうあなたと走れることが、ね」
「……応えられるよう、頑張ります」
ジャパンカップ。エースやシービー。初めて、シニア級のウマ娘たちを相手にするレース。
ルドルフも、強敵との戦いには思うところがあるのか、近頃はよく尻尾が揺れている。
俺自身も、確かに高揚はあった。
だけれど、どこかで引っかかるのだ。
なんのために、勝とうとするのか。
「……アンタレス? どうしたの?」
「……いえ、なんでもないです」
怪訝そうにこちらを見つめるエースの前で、慌てて首を振る。
いや、今考えることじゃない。それに、今回もテイオーは見に来てくれるはずだ。
彼女の憧れになるため、戴いた冠がそのまま強くてかっこいいことの証明になるなら、それでいいじゃないか。
かきこんだ米とともに、一気に水で飲み下す。
エースの言う通り、ジャパンカップに思いを馳せながら。
その日の晩、夢を見た。
◆ ◆ ◆
──”アンタレス……っ”
足音が近い。
誰かが駆け寄って来ている。
その相手が誰なのか、顔を上げようとして……それでも、頭が重すぎて、それは叶わなかった。
直後に、俺を貫いたのは激痛だった。
どこからか──脚だ。
だけど、それも一瞬で。
唐突に重くなった瞼とともに、感覚が遠ざかっていく。
何も、聞こえない。
何も、見え
「……っ!?」
唐突に目が覚めた。
起きたばかりにしては明瞭な思考だ。
目の前には、『ジャパンカップまであと3日』の文字。見慣れた日めくりカレンダーは、ここが俺の部屋であることを教えてくれる。
呼吸は荒い、恐らくは悪夢でも見ていたのだろう。
だけれど、内容までは思い出せない。
しばらく呼吸を整えて。それから、俺は体を横たえた。
レースは近い。今は体を休ませることが先決だ。
そうやって言い聞かせて、瞼を閉じようとしても、ちっとも眠れなかった。
そうしていると、とにかく心細かったから。
気を紛らわすため、スマホを手に取る。
ちょうど深夜二時を回ったところだった。
誰かと話すには、あまりにも遅い時間だ。
それでも、耐え難さのあまり、俺は電話帳を開いた。
目当ての名前はすぐに見つかった。
迷う間もなく急いた感情、心臓が激しく鼓動を刻む中、一瞬の指の震えとともに、受話器ボタンを押してしまった。
番号が羅列される中、発信音が響く。
おおよそ数秒。深夜だから出ないだろうと、慌てて正気に立ち返って電話を切ろうとした時、その声は聞こえた。
『……アンタ? どうしたのよ、こんな深夜に』
慣れた声、しばらく聞いていなかった声──ヴァーゴだ。
「……ごめんね。ちょっと、眠れなくて」