無敗の八冠?だったら、俺が獲ってやるよ。   作:流星の民(恒南茜)

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第49R あなたとなら

「……ご、ごめんなさいっ」

 

初めてエースと出会った時、彼女はひどく怯えたような表情をしていた。

廊下を走っている途中で、アタシとぶつかってしまって、互いに尻もちをつく羽目になったから。

無理もなかったと思う。後から知ったことだけど、一人、地元からこっちに来たばかりだったらしいし。それでも、すぐにでも慣れるだろう。そして、すぐに中央に染まるだろう。

 

「あはは、いいよ。別に怪我はないし」

 

そうやって別れたつもりだった。

 

初めて一緒に走った時、惚れ込んだことはいまでも忘れていない。

ふらりと立ち寄った練習用コース、そこで走る彼女のフォームは崩れていた。

とはいえ、ぎこちないわけじゃない。伸び伸びとしすぎているのだ。

 

「……あのさ、一緒に走らない?」

 

整った走りだとか、ライバルにピッタリだ、だとか。

アタシが知りたいのはそんなことじゃなかった。

 

「……わかり、ました。私、走るの、好きだから……よろしくお願いしますっ」

 

──彼女は走るのが好きか。

 

トゥインクルシリーズで繰り広げられる、苛烈な競争の中では保っていくのが難しい、その意思を持っているかどうかだった。

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

離すまいと、ぎゅっと握った手。

久しぶりに見たその顔を前にして、唇が僅かにわなないた。

 

「……アタシ、エースのこと、わかってなかった」

 

そうだ、わかっていなかった。

何でアタシを拒絶したのかも、どうして、そこまで何かに追われているのかも。

そして──今も、わからないままだ。

 

「いつも言葉が先走るから──アタシ、無神経なこと、言ったかもしれなくて。……ごめん」

 

エースの瞳が見開かれる。

大分、踏み込んだことを口にした。意識していなかった距離が、彼女との間に開いていること。

それを知ってしまったから、絞り出した声は震えていて。

 

「……違う。悪いのはわたし。シービーじゃなくて何も伝えないわたし、だった」

 

だけれど、エースはもう拒まなかった。

ただ、ごめん、と。何度か繰り返しながら、視線を逸らした。

 

「きっとね、焦ってた。レースで勝ったら、称賛が得られる。それは──私にとって嬉しいものだったよ。故郷から中央に出てきて、必死に走ってきたのは正しいことなんだって、証明してくれる気がしたから」

 

鼓動を諌めるように胸に手を当て、彼女は口にする。

 

「天皇賞でシービーに負けてからはずっと、怖かった。やっと、差が縮まったと思ったのにって」

「……ごめん」

「……ううん、負けたのはわたしだから。むしろ、あなたがこうやって気を遣ってくれるだけでも、ずっと幸せなことなんだと思う」

 

首を振りつつ、相変わらずエースは俯いたまま。

何を考えているのか、今どんな表情をしているのかすらも、わからない。

彼女はそれを教えてくれないから。

 

いくらか、たじろいでしまっていた。

また感じた触れがたさを恐れるように、全部言い切った後に、彼女が離れていってしまうんじゃないかって。どこか、そんな予感がしたから。

 

「でも、ね」

 

ぽつりと溢して、エースは顔を上げた。

 

「負けること以上に、走るのが嫌いになること──それが、何よりも怖い。狭くなった視界で、好きだったことを、見落としたくない」

 

その表情は、陰っていた。

どうすればいいのかもわからず、右往左往していた時──初めて出会った時と同じだ。

あの時はどうしたんだっけ──と、ふと思い出した。

 

「……だったらさ、確かめてみない?」

 

たじろいでたって、仕方がない。

そんなことをしたって、距離が開いていくだけなら──機会を逃して、後悔したくない。

 

「一緒に、走ろうよ」

 

一歩、前に出る。

縮んだ距離任せに、エースの手を取った。

 

「──っ」

 

掴んだ手はひんやりとしていて、僅かな震えを帯びていた。

エースが言った通り、怖いんだって。そういう感情がはっきりと伝わってくる。

それでも、跳ね除けられることはなかった。

 

表情に滲んでいた戸惑いが掻き消える。

 

「……わかった。わたしも、知りたい、からっ」

 

か細い力ながら握り返してくると、彼女は頷いた。

 

「──走、るよ」

 

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

 

ゲートに入ると、途端に視界が狭まる。

心臓の鼓動は早まり、荒くなった呼吸が余計に体を強張らせる。

さざめく芝、足音、ゲートが閉まる音。

全部、苦手だった。

 

──それでも。

 

「……ここ、昔、トレーナーに連れてきてもらってて。穴場なのでオススメです」

「色々とありがとう、アンタレス。あとは、アタシたちだけで大丈夫だから」

「わかりました。それでは、くれぐれも無理はしないようにしてください」

 

ぺこり、と頭を下げてアンタレスは帰路につく。

その背中が遠ざかったのち、捉えたのは海岸線の向こう側。

人っ子一人いなければ、障害物もない──ただ、広い砂浜。

アンタレスに教えてもらった場所だ、本当に感謝してもしきれないけれど。

 

それは、また今度。

今向き合うべきは──わたし自身の脚だ。

 

「……エース、キミが走るタイミングを決めていいよ」

「……うん」

 

走るためのフォーム。

走るための深呼吸。

だけれど、視界が狭まることはなかった。

 

ゲートもなければ、隣りにいるのはシービーだけ。

その彼女だって、わたしにタイミングを委ねてくれている。

 

それなら、何を恐れることがあっただろう。

 

──ザッ

 

踏み込んだ一歩が、確かな手応えとともに砂地に食い込む。

合図はそれだけで十分だった。

 

「じゃあ、行こうか」

 

エースもまた、一歩踏み込む。

すぐに隣に並んで、それでも、彼女がアタシを抜くことはなかった。

というよりも、お互いにそういうつもりはなかったのだ。

 

わたしたちが一緒なのは決まって、ただ走りたい時だった。

最初からずっとそう、競い合うためじゃない。

 

「……はぁ、はぁ」

 

上がっていく呼吸とともに、テンポが跳ねていく。

刻む足跡は広く、広く。踏み出す一歩は、先程よりも遠くへ。

 

「……やっぱり、いいな」

 

隣でシービーが溢した声は、風にまぎれていた中でも辛うじて聞き取れた。

その通りだ。一瞬、一瞬、早まっていく鼓動はただ走るために、わたしの脚へ血液を流し込む。

果ての見えない道の中、ただ走っていればいいんだって高揚。

 

「ほんとに、ね……っ」

 

頬を撫でる潮風も、ざくりと心地よい砂の感触も、明瞭にすすがれた思考も。

感覚全てが、わたしに訴えかけてくる。この瞬間が続けばいいって。

これが走るということならば──いつまでも、味わっていたいって。

 

「……ふぅ」

 

どれくらい経ったのか、よくわからない。

ただ、火照った体を包み込む砂が心地よかった。

わたしたちは、走り続けた末に互いにほぼ同じタイミングで足を止め、その場に倒れ込んだのだ。

 

「……ねぇ。シービー、今のわたしの気持ち、わかる?」

「……もちろん。聞かなくたってわかるよ」

 

それは、すれ違っていた感情を並ばせるための確認行為で。

それ以前に、ただ分かち合うためのものだった。

 

「──走るのが、楽しいってこと」

「……正解。わたし、変わってなかったみたい」

 

お互いに、走るのが好きなんだ──って。

 

「途中でシービーが急に方向変えるから、すごい焦ったんだけど」

「ごめんごめん、でもさ、水辺の方が涼しくて良かったじゃん」

「確かに。潮風は気持ちよかった」

 

一緒に走って、どういう風に楽しかったか、一緒に語り合う。

だから、シービーはわたしを誘ったんだって、今ならわかる。

 

「……ねぇ、シービー。次のジャパンカップ、一緒に走るんだよね」

「うん」

 

掛け値なしに走るのが大好きだって、そう言い張れるほど、わたしは真っ直ぐじゃない。

 

「天気、どうかな」

「晴れも雨も、アタシはどっちも好き」

「それで、一緒に走る相手もいるんだったら──」

 

それでも、シービーは一緒にいてくれる。

右往左往していたって、手を引いてくれる。

 

「走るの、楽しいって──また、そう思えるのかな」

 

仰々しく、夢の舞台とは呼ばない。

 

「……もちろん。少なくとも、アタシにとっては楽しいはずだからさ」

 

きっと、また分かち合えるのだろう。

楽しかった、すごかったって、そんな言葉を互いに交わせるのだろう。

 

 

「それなら、走りたいな──わたし」

 

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

 

エースと一緒に海に行った日から二日。

その日、俺はカフェテリアで、スイーツを並べて待っていた。

 

「ごめんね、アンタレス。待たせちゃって」

「いえ、練習が長引いたなら仕方ないですよ」

 

席につくや否や手近なパフェを取ると、彼女は早速スプーンで掬い上げる。

実際、俺もお腹が空いていたから。

取ってきた料理に手を付けつつ、互いに無言で黙々と食べ進めた。

 

「……アンタレス、その──本当に、ありがとうね」

 

そんな中で、不意にエースが呟いた。

まだ、二人があの後仲直りできたのか、彼女自身走れるようになったのかは聞いていなかったけれど、その口ぶりから察するに上手くいったのだろう。

 

「いえ、私もまた、万全な状態で一緒に走りたかったですし」

「そうね。ジャパンカップ、わたしも楽しみにしてるわ」

 

どんな心境の変化か、詳しいことはわからないけれど、周りが前向きなのはいいことだ。

走っていて、こちらの気持ちだって上向いてくる。

 

「とびっきり速くて、走るのが好きであろうあなたと走れることが、ね」

「……応えられるよう、頑張ります」

 

ジャパンカップ。エースやシービー。初めて、シニア級のウマ娘たちを相手にするレース。

ルドルフも、強敵との戦いには思うところがあるのか、近頃はよく尻尾が揺れている。

俺自身も、確かに高揚はあった。

 

だけれど、どこかで引っかかるのだ。

なんのために、勝とうとするのか。

 

「……アンタレス? どうしたの?」

「……いえ、なんでもないです」

 

怪訝そうにこちらを見つめるエースの前で、慌てて首を振る。

いや、今考えることじゃない。それに、今回もテイオーは見に来てくれるはずだ。

彼女の憧れになるため、戴いた冠がそのまま強くてかっこいいことの証明になるなら、それでいいじゃないか。

 

かきこんだ米とともに、一気に水で飲み下す。

エースの言う通り、ジャパンカップに思いを馳せながら。

 

その日の晩、夢を見た。

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

──”アンタレス……っ”

 

足音が近い。

誰かが駆け寄って来ている。

 

その相手が誰なのか、顔を上げようとして……それでも、頭が重すぎて、それは叶わなかった。

 

直後に、俺を貫いたのは激痛だった。

どこからか──脚だ。

 

だけど、それも一瞬で。

唐突に重くなった瞼とともに、感覚が遠ざかっていく。

 

何も、聞こえない。

何も、見え

 

 

「……っ!?」

 

 

唐突に目が覚めた。

起きたばかりにしては明瞭な思考だ。

目の前には、『ジャパンカップまであと3日』の文字。見慣れた日めくりカレンダーは、ここが俺の部屋であることを教えてくれる。

 

呼吸は荒い、恐らくは悪夢でも見ていたのだろう。

だけれど、内容までは思い出せない。

 

しばらく呼吸を整えて。それから、俺は体を横たえた。

レースは近い。今は体を休ませることが先決だ。

 

そうやって言い聞かせて、瞼を閉じようとしても、ちっとも眠れなかった。

そうしていると、とにかく心細かったから。

 

気を紛らわすため、スマホを手に取る。

ちょうど深夜二時を回ったところだった。

 

誰かと話すには、あまりにも遅い時間だ。

 

それでも、耐え難さのあまり、俺は電話帳を開いた。

目当ての名前はすぐに見つかった。

 

迷う間もなく急いた感情、心臓が激しく鼓動を刻む中、一瞬の指の震えとともに、受話器ボタンを押してしまった。

 

番号が羅列される中、発信音が響く。

おおよそ数秒。深夜だから出ないだろうと、慌てて正気に立ち返って電話を切ろうとした時、その声は聞こえた。

 

『……アンタ? どうしたのよ、こんな深夜に』

 

慣れた声、しばらく聞いていなかった声──ヴァーゴだ。

 

 

「……ごめんね。ちょっと、眠れなくて」

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