無敗の八冠?だったら、俺が獲ってやるよ。 作:流星の民(恒南茜)
『……それで、どうして寝れないだなんて。アンタらしくないこと、言ったわけ?』
ヴァーゴの声を聞くのは、随分と久しぶりだった。
それこそ、電話でのやり取りはたまにしていたけれど、菊花賞を前にした追い込み期間から、ジャパンカップ間近の今までずっと忙しかったから、長らく時間が取れなかったのだ。
その忙しさを、きっとヴァーゴだって理解してくれている。
だからこそ、こんな深夜にどうして電話をかけてきたのか──彼女を驚かせてしまった部分もあったのだろう。
とはいえども、大したことがあったわけじゃない。ただ無性に寝付けなくて、ただ不安になっただけ──それだけなのだ。
「……わかんないや。何と言うか、怖い夢を見てたような気がして……でも、それぐらいかも」
『……そう』
電話口の向こうから、しばらくの間声が聞こえなくなる。
あるいは、呆れさせてしまったのかもしれない。俺がこんな情けない理由で電話をかけてしまったから。
『……深入りするようで悪いけど、それだけじゃないでしょ』
そんな風に考えていたから、ヴァーゴの返しはちっとも予期していないものだった。
「……それだけじゃないって……」
『アンタ、中央に来てから色んな人達と出会って、切磋琢磨してきたんでしょ? わざわざ電話をかけるなら私じゃなくたって良いじゃない。それこそ、トレーナーさんもいるわけだし』
言われてみれば、彼女の言うことは的を射ていた。
恐らくは他にも相手がいた中で、なぜヴァーゴだったのか。正直、半ばパニックに陥っていて、そこまで考えが巡らなかったから、ということには違いない。それでも──。
『言っちゃ悪いけど、私はアンタのことを理解してる自信がある。この世界の誰よりも、ね?』
「……それは、ちょっと恥ずかしいような……」
『当たり前じゃない。アンタと私は幼馴染だし、一緒に走ってきたライバルでもあるんだから』
俺がトレミアンタレスになる前。
それこそ、モリオカのトレセン学園に入学するそれ以前から、ヴァーゴとアンタレスには付き合いがあったという。
それ以前のことは俺の記憶にはないけれど、それでも、この世界に来てから右も左もわからなかった俺を幾度となく彼女が助けてくれたことか。
「……そう、だよね」
走ることを知れたのも、中央に来られたのも──ヴァーゴが背中を押してくれたおかげだ。
いつもすぐ側で手を差し伸べてくれたのが彼女だとするのならば、俺自身がよく理解できていない悩みだって、彼女は解決してくれる──そんな風に思えた。
『それじゃあ、何か最近引っかかる出来事とか、あったりした?』
ヴァーゴの言葉に引っぱられるようにして、記憶が芽を出す。
ついこの間、エースと海に行った日の出来事だ。
「……ねぇ、ヴァーゴは何のために走ってるの?」
エースから聞かれたことを、そっくりそのままヴァーゴにも聞いてみた。
胸に支えていたもの──きっかけになったのは、間違いなくその瞬間だったから。
エースはシービーと仲直りをして、きっと、再び走る意味を見つけたのだと思う。
それでも、俺は……どうして今でも走っているのか。
『ウマ娘』──それが、走るために生まれてきた存在だとしても、俺は違う。
元々この世界の住人じゃなかった上に、本当に何の因果かもわからず、ウマ娘になってしまっただけ。
最初はテイオーのために走っていた。
彼女の憧れになるため──と、がむしゃらに走ってきて──その末に無敗の三冠ウマ娘となった。
『……言ったじゃない。夢を叶えたアンタを倒せるぐらいに強いウマ娘になるんだ……って』
だけれど、それが原体験に過ぎないのだとしたら。
モリオカを離れる前日にヴァーゴと結んだ約束、良い勝負をしようとルドルフと結んだ約束、あなたの夢まで背負ってみせるからと、トレーナーと結んだ約束──。
中央に来てからの日々は、思い返しても見れば約束で溢れていた。
その度その度に、約束のために走っていた。
「じゃあ……私は、誰のために走ってるんだろ」
口を衝いて出た言葉は、ぽつりと漏れた疑問に見えて。
しかし、ずっと胸の奥でわだかまっていたもの。その正体だったのだろう。
自分のため? テイオーの──誰かのため?
どの答えも、どうにもしっくりとは来なくて。言葉がそれ以上続かない。
あの日、ヴァーゴに手を引かれて一歩踏み出した時にはまだ知らなかった──苛烈なレースの世界。
自分の価値を証明せんと、皆がしのぎを削る中で、俺は──。
『……ねぇ、アンタ』
俺は、今更になって悩んでいた。
次にヴァーゴが何かを発するまで、大きな間が空いて、彼女ですら返答に困ってしまっていること。
それは察することができた。
『……私ね、ずっと信じてきた。アンタは──トレミアンタレスは、強いんだってこと』
「──え」
『……私に勝って、中央に行って、勝ち続けて──そんなアンタは特別だ──もう、私が知らないぐらい遠くにいるんだって……』
それ以上、ヴァーゴの言葉は続かなかった。
捲し立てるように続いた声は、震えて、最後は萎んでいって。
『……何よ、変わらないじゃない』
変わらない。俺は今でもヴァーゴに頼りきりで、自分一人じゃ解決できないことばかりで。
ヴァーゴは優しい。優しいから、俺には気を遣わせまいと、いつも強がっている。
中央移籍の話が出た時だってそうだった──そして、今も。
電話口ですら、彼女の声は余裕を保てなくなっていた。
導いてくれる、というよりも半ば絞り出すように、その言葉は紡がれて。
「……ヴァーゴ……?」
明らかに、その様子がおかしいのは伝わってきた。
そして、たった今自分で吐いた言葉があまりにも強い感情を孕んだものであったこと。
『……あれ? わた、し……』
それをまた、彼女自身も認識していたのだろう。
自分で自分に疑問を呈すように、声を漏らす。
『……う、ううん。こんなことが言いたかったわけじゃなくて……と、とにかくっ……また今度相談に乗らせて……?』
「ちょっと、ヴァーゴ……」
『もうすぐ年末だし、帰省してくれてもいいからっ……』
プツン、と。そこで電話は途切れてしまった。
一度ペースが乱れてしまって、それ以上は戻せずに、無理やり話をまとめて。
ヴァーゴらしくないほどに焦った様子が電話越しでも伝わってきていたから。
「……だったら、俺にも相談してよ」
いつも、頼りっぱなしで。それでも、肝心な時には手を差し伸べさせてくれない。
そして、俺自身の問題もまた一切解決はしていなかった。
誰のために走っているのか、何のために走っているのか。
それすらもわからないままにジャパンカップは刻一刻と迫ってきていて。
気づけば、カーテンの隙間から朝日が射し込んできていた。
「……行くか」
追い立てられるようにして、ベッドから降りる。
髪を結わえるために鏡の前に立ってみると、ひどい顔をした俺がそこには立っていた。
結局、ほとんど眠れなかったせいだろう。
あまり目を合わせたくなかったから、籠に手を伸ばしてリボンを手に取る。
一括りにしたポニーテールを、それで結ぼうとした時だった。
「──あ」
はらり、と。手元からリボンが離れていった。
拾い上げようと屈めた足は震えていて、行き場は未だ定まっていなかった。
普段はこれを結ぶことで、何だか喝が入れられたような気がして、気合を入れていたものだったけれど。
今日に関しては、そんな気にもならなかった。
拾い上げたリボンを棚に戻し、部屋から出ていく最中で、伸ばした髪がはらりと視界の端で揺れた。
◆ ◆ ◆
「っ、はぁ……はぁっ」
数日前、アンタからかかってきた電話を切ってからというものの、一度も連絡は来なかった。
もしも、私にもっと余裕があったら、マシなアドバイスができていたのだろうか──なんて。
今更考えても、どうしようもないことだった。
朝日とともに目覚めようとする町中を走っていく。
吐く息は白く、肺に滲みる空気は冷たく、冬が近いことを痛感させてくれる。
一年前の二月、アンタと私は岩手ステークスで対決し──結果として、アンタは中央に行った。
その前日に、私は宣言してみせたのだ。
夢を叶えたアンタを倒してみせる──中央に行って、いつか必ず追い越す、と。
来年になってしまえば、デビューしてから三年目になる。
もうすぐピークアウトがやってくる……文字通り、中央に挑戦するとしたら最後のチャンスが刻一刻と迫ってきている。
……それなのに。
年末に帰省してこいなどと、私はアンタをこっちに繋ぎ止めるような言葉を吐いてしまった。
本来は、私から中央に行かなければならないはずなのに。
きっと、気持ちに余裕がなくなっているからだ。
トレーニングを重ねれば、重ねただけ、不安は無くなっていく──そんなことは、誰もが知っていて。
そして、誰もがやっているからこそ、ちっともその差が埋まっていく気がしない。
時計を見やればもうすぐ学校が始まる時間だ。
朝食を買うために、普段寄っているコンビニに入って、温かい空気に一息吐きそうになるのを堪える。まだ休憩には早い。
いつもと変わらないパンと飲み物を籠に入れ、ルーティンワーク化されている通りに会計を済まし、また外に出ようとした時だった。
「……アンタ……?」
入り口付近に置かれたスポーツ新聞、そこにアンタの写真が大きく取り上げられていた。
ジャパンカップでの注目株だからか──と、そう考えていたのも束の間。
見出しを読んだ瞬間に、ひゅっと、思わず息が止まった。
『トレミアンタレス、ジャパンカップ出走取消へ。ケガか』
大変空いてしまい申し訳ありません。次話は急ぐ所存です。