無敗の八冠?だったら、俺が獲ってやるよ。   作:流星の民(恒南茜)

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第51R ジャパンカップ 前編

「……敵はあまりにも多いわね。天皇賞・秋でロングスパートを見せた、瞬発力のミスターシービー。それから、菊花賞で新たな策として先行を打ち出したシンボリルドルフ……。アンタレス、ジャパンカップ──あなたはどうするつもりなの?」

 

そんな問いを放った。

ジャパンカップまで僅か数日に迫っていた頃だったと思う。

それに担当ウマ娘は──アンタレスは、視線を逸らしてから口にしたのだ。

 

「それだけじゃない。エースも……カツラギエースもいる。今回は一筋縄じゃいかなそうで……」

 

膝の上に置かれた拳が僅かに震える。

トレーナーの方を向いた瞳は、僅かに揺らいでいた。普段は讃えていた赤く灯る強い意志を、屈折させながら。

 

「……私にもわかんないぐらい、難しい」

 

思えば、そんなアンタレスの姿を見るのは初めてだったように思う。

ナイーブになることは多くとも、いざレース前になると彼女は覚悟を決めるから。

だからこそ、こんなに迷いを見せていた時から──その場でお開きになってしまったミーティングの時から、彼女はどこかおかしかったのだ。

 

ただ、気づくのにあまりにも遅れてしまった。

 

 

「──アンタレスっ!」

 

 

ジャパンカップ三日前にして診察室に駆け込んで早々、声を上げたトレーナーの前にいたのは、耳を垂らし、項垂れたようにベッドに横になるアンタレスの姿だった。

 

「あなたがトレーナーさんですね。まずは、トレミアンタレスさんの症状について説明させていただきます」

 

そんなトレーナーの声に答えることもなく、アンタレスよりも先に隣にいた医者が声を発する。

朝の五時、本来ならばトレーニングが始まるよりもずっと早い時間に救急病院から届いた一本の電話──そして、アンタレスの視線の先にある足に巻かれた包帯──ある程度の覚悟はしていたけれど、それでも、それ以上先の言葉を聞きたくない、トレーナーにとってはその一心だった。

 

「……恐らくはトレーニング中の転倒による捻挫です。比較的軽症なのが幸いしましたが……それでも、治るまでには三週間ほどを要するでしょう」

 

ウマ娘がトレーニング中に怪我をした。

もしかしたら、骨折していたかもしれない。それどころか、彼女らの走る速度をもってすれば──命の危険すらあるかもしれない。

そうともなれば、確かに医者が言う通り、捻挫で済んだのは軽症、不幸中の幸いだったとは言える。

 

それでも──。

 

「ただ、無論その期間中は安静に……絶対に、走らせてはいけません」

 

アンタレスは頷かない。どこか虚ろな瞳で、天井を見つめている。

だからこそ、代わりにトレーナーが頷かなくてはならなかった。その意味を知っていながらも。

 

ジャパンカップは三日後、治るまでには三週間。

それが意味するのは──出走取消だ。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

窓際でもたれかかるようにして、アンタレスは車の振動にただ身を委ねている。

病院で処置を終えた帰り道、車内に音をもたらしているのはカーステレオとエンジン音のみだった。

前回、こうして二人並んで運転していたのは菊花賞の帰りだったか。

 

『……トレーナー。私、ジャパンカップも走りたい』

 

──連続出走。

それが持つリスクを知っていながらも、彼女を送り出そうとしてしまった。

今回が捻挫だったとしても、それ以上のリスクを孕んでいたと知っていながら。

託した夢をアンタレスが叶えてくれて、それがきっと、この先も続く──。

そう信じられるぐらい、彼女がすごいウマ娘だったから。

 

『……わかったわ。ただ、トレーニングメニューにはきっちりと従ってね』

 

もっと強く止めるべきだったかもしれないのに、自分が管理をするから大丈夫だろうだなんて、そんな風に思い上がってしまった。

思えば、近頃のアンタレスは随分とナイーブだった。

それこそ、レース前のミーティングの時だって、「わかんないぐらい難しい」と、彼女がそういうことを言わない子だって、知っていたはずだったろう。

 

もしくは、もっと前から気を遣えていれば、そうなるきっかけを潰せたかもしれない。

彼女の様子が妙だったことに気づけていれば──きちんと管理ができていれば──不安な気持ちにさせないようにケアができていれば──。

 

中央に来た時から……いや、それ以前から絶好調だった。

アンタレスは勝って、勝ち続けて、大きなケガも無いまま、凹む時はあれど、必ず立ち上がって。

それでも、今回は……奮い立たせるだけではどうにもならない。

どうにもならない状態に、追い込んでしまったのだ。

 

「……ごめっ」

 

しんとした車内で吐き出そうとした言葉は、途中でつかえたようにして、ひゅっと途切れた。

そんな言葉一つで誤魔化せないほど、自責の念が絶えなかったから。

 

「……ごめんなさい、アンタレスっ……」

 

決壊する。

言葉にした瞬間に、今までまとまらずに胸の中で燻ってた後悔がはっきりと像を結んでしまう。

その顔を見たくなかった、彼女も見せたくないようだった。

視界の端にちらりと映った顔は、窓に向かって逸らされていた。

 

「……ううん、トレーナーのせいじゃないよ」

 

その声色からは感情が読み取れなくて。

だけれど、トレーナー自身もウマ娘だったから。走ることへの渇望を、手にしたい名誉を、強敵たちと戦う前の高揚を知っているからこそ、それを失ったらと思うとどうにもやるせなかった。

 

「……ただ、ね」

 

アンタレスは言葉を継ぐ。

あくまでも淡々と、そこに感情を滲ませないようにして。

 

 

「……一つだけ、お願いがあるんだ」

 

 

◆ ◆ ◆

 

◆ ◆

 

 

 

『──ミスターシービー、ゲート入りしました。集った海外勢を迎え撃つ、注目のウマ娘です』

 

呼吸音が、どこか遠くに思えた。

それ以上に早鐘を打つ心臓の音が、響く大歓声が──このレース場という場所を、私がまだ受け入れまいとしていた。

 

『日本勢で注目されていたトレミアンタレスがつい先日、出走取消になってしまったことが悔やまれますね』

『ええ。ですが、他にも注目すべきウマ娘は揃っています。つい先日、菊花賞で激闘を繰り広げた12番、シンボリルドルフ、そして──』

 

だけれど、ゲートの向こう側に広がる景色を私は知っている。

芝を踏み締め、先へ先へと足を踏み出す楽しみをもう一度教えてもらったから。

 

『10番、カツラギエース。緊張したような面持ちでゲートに入ります。海外勢を迎え撃つには十分なメンバーが、ここ東京レース場──「ジャパンカップ」に集いました』

 

「……アン、タレス……」

 

私を連れ出して、何とか走るように説得してくれたアンタレスは今この場にいない。

それは悔やまれるし、不安が募ることには違いない。それでも──シービーがここにはいる。

 

──ジャパンカップ。

未だ日本勢が勝利したことのないこのレースは、海外から強豪と呼べるウマ娘が集まっているのはもちろん、クラシック級から上がってきたウマ娘たちとも初めて戦う場になる。

それこそシンボリルドルフは強敵だし、本来この場にいるはずだったアンタレスだって絶対に無視できない相手だった。

 

熾烈で、過酷で、まさしく私を苛んできた勝負の場。

シニア級ウマ娘としても、日本勢としてもかかるプレッシャーは限りない。

そう考えると、指先はまだ震えていた。

 

「……っ」

 

だからこそ、ぎゅっと拳を握ってそれを諌めた。

歯を食いしばって、きっと前を向いた。

 

でも……もう、迷いはない。

ここがどんな場所であろうとも、私がこれからすることは一つだけ。

シービーの隣で、ただ許されるまま走る──たった、それだけだ。

 

『各ウマ娘、ゲート入りが完了しました』

 

晴天、青々とさざめく芝はきっと、軽やかに私の足を押し返してくれるだろう。

前へ進ませてくれることだろう。シービーならきっと、笑って走りきってしまうに違いない。

それなら、私だって──。

 

──ガコンッ!

 

ゲートが開いたその瞬間に、精一杯振り上げた腕。

踏み締めた足が地面を蹴り上げ、跳ねるようにして大きく一歩目を取る。

 

一斉、横並びに飛び出していった他のウマ娘達が視界の隅で動き出す。

一人は私の行く手を塞ぐように、一人は虎視眈々と先頭を付け狙うように中断に。そして、シービーは──。

 

「──っ」

 

遠く、遠く。かなり後ろの方で、そのシルクハットが煌めいた。

彼女はあくまでも足を溜めている。そして、最終盤になった瞬間に解き放つ──。

我慢をするのは途中まで、一緒に駆け回って横になって、笑って、そうしていた時と同じように、ただ無邪気な走り。思いっきり、楽しんでるんだって走り。

そうなってしまったら、私は彼女の持つ瞬発力に敵わないことを知っている。

 

あと数秒、この時間が続くのはきっとそれだけだ。

そうしたら、もうそれぞれポジションが決まって、下手すれば私は押し込められてしまう。

それならば──。

 

「──行かなきゃっ!」

 

──前へ、前へ、前へ……!

 

苛んでくる足音、満ちた大歓声、忙しない実況の声──。

昂った心音が塗り潰し、足音が境界線となって、その全てを遮ってしまう。

そうだ。押し潰されたくないなら逃げれば良い、もっと先に行けば良い。

 

『それなら、走りたいな──わたし』

 

あの日、砂浜で寝転がって、そしてふと漏れた言葉。それに応えるように。

 

『……あのさ、一緒に走らない?』

 

コートでシービーに声をかけられてからというものの、まだ続いている約束に応えるために。

スタミナなんか関係ない、温存したって今は意味ない。

思いっきり、先に行けばいい──。

 

「まだ、まだ──っ!」

 

──私は、更に強く地面を蹴り上げた。

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

『一番手を行きますカツラギエース、大きく差を取る、まだまだ粘るか。六番手、シンボリルドルフもジリジリと距離を詰めている。最後方にはミスターシービーが収まります』

 

カツラギエースはひたすら逃げるまま、どんどんと後続との距離を伸ばしていく。

彼女の逃げ切りが成功するか、それとも後続から一気に誰かが追い抜くか──このまま行けば大味なレース展開になることが予想される。

実際、周囲の観客は熱狂しているし、それで良かったのだろうけど。

 

普段とは違って随分と口数少なくレースを鑑賞する担当ウマ娘──アンタレスの隣では、どんなリアクションを取っていいのか、トレーナーにはわからなかった。

 

『私、ジャパンカップを観に行きたい』

 

それは、捻挫した彼女との帰り道に告げられた言葉。

普段はもっと声や表情で感情を表現する彼女にしては端的な言葉に驚きつつも、出走できなかったレースを観ていて辛くならないのか、だとか、いつもみたいに口うるさく漏れそうになった言葉を堪えて、その場でオーケーした。

 

何せ、それ以上にトレーナーとしてケガを治してすらいない彼女には、それ以外にしてやれることがなかったのだから。

結局のところ、真意は聞けないままだ。ケガをしたウマ娘がポツリとレースを観たいと漏らして、その口から肯定的な答えが聞けるとは思えなかったから、怖くて躊躇ってしまった。

 

『ミスターシービー、最後方から次第に追い上げていきます』

 

レースが動こうとしている。今まで最後方にいたミスターシービーが少しずつスパートをかけてきて、前へと迫り始めて──その時だった。

 

「……ねぇ、あそこ……さ」

 

不意に、じっとレースを見つめていたアンタレスが声を漏らした。

 

「私だったら、もう少し遅めにスパートをかけてたのかな」

 

それは独り言だったか。

問うてきているような口調だったけれど、答えを待っているような素振りはなく、ともすれば、言葉は継がれていく。

 

「……それとも、そもそも先行してたとか……? 色々、やり方はあったんだな……」

 

それは、走っていたとしたら存在していたであろう複数の選択肢。

もっと足を溜めていたか、先に前に出ていたか──両立し得ないたらればが、その場で過ぎる。

過ぎった、だけだった。

 

「でも、結局、どれを選んでたかって……わっかんないや」

 

その言葉を聞くのは二度目だった。

以前のミーティングの時に続けて、当日になって実際のレースを前にしてもなお「わからない」とアンタレスは口にする。

決して振り向くことはなく、その顔を向けてくれるわけでもなく、どんな思考でいるのか伝えてくれるわけでもない。

だからこそ、尚更触れがたい。だんまりになったまま、彼女の声が耳を突いた。

 

「……生き生きしてるなぁ」

 

それは、どこか遠くにあるものを俯瞰で見ている時のような口調だった。

自分がその場にいないような、一緒に走っていた相手に投げかけるには、あまりにも他人行儀な。

途端に、アンタレスがどこに立っているのかすらも、わからなくなる。

彼女が置いていった言葉だけが、ただそこにあって。

 

『シンボリルドルフ来た、先頭に迫っていく──』

 

それでも、レースは続いていく。

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

「はぁっ、はぁ……っ」

 

息は次第に荒くなっていく。

前へ前へと、全速力で動かし続けていた脚は悲鳴をあげていた。

 

足音が次第に近づいてきて、多くの影が私を追っている。

皆が私を抜き去ろうとしている──そんなのは、ここがレースの世界である以上は当然で。

進めば進むほど、この苛烈な戦いに私は巻き込まれていく。シービーとたった二人で走っていた時とは違う、明確な闘争心が背後から束になって私に迫ってきていた。

 

これ以上走っても、苦しいことには違いない。

どんどんと息が詰まっていって、挙げ句、心音はどんどんと加速していって、堪らなく追い詰められて。そんな瞬間が嫌だったから、私は何もできずに座り込んでいたんじゃなかったのか。

疲れからか僅かに生じたもつれ、地面に脚を取られて、傾いて──。

 

『……ご、ごめんなさいっ』

 

シービーと出会った時も、思えば、そうして転んだところから始まったんだったか。

 

『──エースっ!?』

 

彼女は、私がその手を跳ね除けてもなお、ずっと見守ってくれていたんだったか。

良い。この先に広がっているのが──どんな苛烈な世界だろうと、また私が追い詰められるのだとしても。

 

傾いた身体は、前方やや斜めを向く。

その体勢を直すよりも、するべきこと。

 

「……っ」

 

踏んだ地が、私を押し返す。つんのめりながらでも、私は地面を蹴り上げた、前へ。

全ては──たった一つの目的のために。

 

「……走りたいっ!」

 

どこまでだって──彼女に応えるために。

地方からここに来て、レースの世界に飛び込んでいって、勝てば嬉しくて、負けたら悔しくて、心無い声には傷ついて──一言じゃ表しきれないぐらいの感情を味わってきて。

 

それでも、根っこの部分は変わらないって信じたい。

私はいつまでだって、カツラギエースだ。

 

『私、走るの、好きだから……よろしくお願いしますっ』

 

あの日、シービーの手を取った、走るのが大好きなウマ娘だ。

傾いた太陽が示す先、光を追って、吹き付ける風に抗って、果ての見えない道だろうと。

この血液が、脈を打つままに、脚を前に運ぶ。

 

「はぁぁぁぁっ!」

 

巡る、進む、全てを背にして、私は前に行く!

 

「……そっか」

 

ゴール板を踏み抜いたその瞬間は、案外あっさりとしていた。

だからこそ、更にその先へ走り続けている中で──私は、それを聞いたのだ。

 

『カツラギエース堂々と逃げ切った! ゴールインッ!』

 

勝ったんだって──この大舞台で。

それが意味することは、きっと多いのだろう。

日本勢にとっては初の快挙だとか、シンボリルドルフらクラシックの強豪を相手にしても勝ちきれたとか。だけれど、そんなことよりも、大事なことは別にある。

 

白いシルクハット、汗を滲ませながらもシービーが近づいてくる。

その息は荒げられてて、いつも飄々としている彼女の印象とはまた遠いものだ。

言葉を交わす以前に、視線同士がかち合う。

 

──最高だった、と。

 

ニッと、疲れているであろう中でその表情を歪めて、そうアピールしてくるシービー。

いつも、一緒に走っていた時と同じ笑顔に、思わず頬が緩む。

 

「……わかったよ」

 

その感情が答えだった。

私が唯一知りたがっていたことの──走るのが好きだって、また、そう思えるのかなって。

 

 

「……私、走るのが大好きだ」

 




次話は急ぐとは言ったものの、年末が中々に忙しく遅れてしまいました。
言い訳はここまでにしておくとして、引き続き執筆していきます。
後編はアンタレスサイドです。
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