月に寄りそう乙女の作法 Nomadic Rapunzel   作:ペタンコ

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第9話 あの日も、そうだったかも

 春は目覚めの季節だ。

 寒さが解け、代わりに朗らかさが身を包む。

 冬眠明けの動物が寝ぼけ眼で空を見上げ、木々は枝葉に花を咲かせる。

 私も、そんな春に浮かされているのかもしれない。

 

「は? お花見に行きたい?」

 

「駄目かな、りそな」

 

 そんな私を胡乱な目で見ているりそなは、頭お花畑になりましたかと言いたげでさえあった。

 

「どうしたんですか、急に」

 

「ほら、こうしてマンションからでも桜が見えるでしょ?

 するとね、段々近くで見てみたくなったの!」

 

「勝手に見に行けば良いじゃないですか」

 

「行ったよ。でも周りは人でいっぱいで、他の人と見に来ている人が殆どだった」

 

「それで寂しくて、妹に一緒にお花見しようって言い出したんですか。

 姉、やっぱり頭お花畑ですね。

 私は人混みが嫌いです、知ってますよね」

 

 妹はつれなかった。

 そして、とても辛辣だった。

 口も目も、どちらも雄弁なのは才能だと思う。

 

「寂しいからじゃないよ。

 この感動を、誰かと共有したいって思ったんだ」

 

「だったら兄がいるでしょう。

 兄妹デートでも楽しんでくれば良いじゃないですか」

 

「やだなぁ、りそな。

 お兄様にそんな事言い出せるはずないよ」

 

「え、妹になら何を言っても良いって思ってません?

 妹、姉に甘えるのも甘えられるのも好きですが、甘ったれる姉はそこまで好きじゃないです。

 あと、皮肉だと気付いて下さい。

 兄とデートとか、それだけであり得ないことでしょう」

 

「駄目?」

 

「駄目です」

 

 どうやら駄目みたい。

 少しヘコんだけど、りそなは知らん振りをしていた。

 優しい子だけど、自分が嫌なことでは梃子でも動かない。

 アウトドアよりインドアな、白い肌が素敵な妹だ。

 

「人混みが駄目なの?」

 

「姉、しつこいですよ。

 ……でも、そうです。

 人混みが嫌です、無かったら我慢できるかもしれません」

 

 無かったらですけど、と念押しするりそな。

 この東京で、人の流れが途切れることはない。

 それを見越しての、無理でしょう? という表情に、返す言葉が出なかった。

 

「そんな薄幸の美少女みたいな雰囲気出しても、行きませんからね。

 そんなことより、ゲームしましょう。

 ワイルドでアニマルなレーシングです」

 

「知ってるゲームと違う気がする」

 

「良いじゃないですか。

 姉のために、イギリス産のゲームを探してきたんです」

 

 そこまで気を使ってくれたのなら、拒否するのも可哀想かな。

 そう思い、私はコントローラーを握った。

 そうして30分後、りそなは死んだ目をして遠くの世界を眺めていた。

 

「クソゲーじゃないですか!」

 

「駄目だよ、りそな。

 女の子がクソなんて言ったら」

 

「論点が違うでしょうが!

 妹、何を考えてこのゲームを買ったのか、本気で分からなくなりました」

 

「このゲームは、りそなが思い遣りで買ってきてくれたんだよ」

 

「そんな思い遣り、熨斗付けて兄にでも送りつけます。

 クーリングオフ不可、返品受付終了です」

 

「思い遣りだけにプライスレスだね」

 

「底値で価値が無くなっただけです。

 りそな銀行の思い遣り株価は大暴落しました」

 

 確かに操作性が難しくて、様子も挙動も面白いゲームだった。

 ゲームのディスクを、そっとベッドの下に隠したりそなは、何事も無かったかのように私の前に座る。

 馬鹿馬鹿しくて、だからこそどうでもいいかと拘りを忘れられた僅かな時間で。

 何か言いたげで、けれども察して欲しいという視線。

 私は意を汲んで、りそなに声を掛けた。

 

「出かけよう、りそな」

 

「家に居ても、勉強しかすることがありませんしね。

 仕方ないですね、妹ついていってあげます」

 

 行き先は尋ねてこない。

 りそなは、騙された体で付いてきてくれようとしているから。

 そうして、私達は手を繋いで、外へと旅立つ……その瞬間だった。

 開けても居ない扉が独りでに開き、人が部屋に入って来たのは。

 

「衣遠兄様!?」

 

 動揺したりそなの声は、思っていたよりも大きい。

 一方で、大混乱を起こしているりそなに、お兄様は皮肉げに口元を歪められた。

 

「愚かなる妹達よ、この兄の来訪がそれ程に予想外か。

 ククッ、姉と二人の方が良かったと表情に出ているぞ」

 

「と、とんでもありません。

 ご機嫌麗しゅうございます、衣遠兄様」

 

 嘘だった、りそなは急な出来事に表情を取り繕えていない。

 まじで? と堂々と顔に書いてあった。

 お兄様は、りそなのそんな表情を見て、滑稽さを覚えたのか嗤っていらした。

 

「姉、姉っ」

 

 小さな声で叫ぶという器用なことを行いつつ、りそなは私の耳元に口を近づけてきた。

 何だろうと耳を貸すと、早口気味に捲し立てる。

 

「聞いてませんよ、何で兄がいるんですか!

 それに兄が笑ってますよ、こわぁ」

 

 心底不気味そうに、りそなはお兄様から視線を逸らす。

 気まずさを隠さないのは、お兄様の言う通り取り繕えていないからか。

 すると、一方のお兄様の方に、危うげな笑みが浮かび始める。

 なんというか、加虐的と評しても良さそうなものが。

 

「りそなよ、目を逸らすな。こちらを見ろ」

 

「は、はぃ」

 

 有無を言わせない口調。

 逆らい難い圧を持って、りそなに命令するお兄様。

 何かあったら助けなきゃと思いつつも、心臓が嫌な跳ね方をする。

 

「目を逸らした理由を言ってみろ」

 

「い、衣遠兄様に失望されると感じたからです。

 私は現在、とても腑抜けた顔をしております。

 そんなものを、衣遠兄様に見せるわけには参りませんので」

 

「ふん、相変わらず減らず口を叩く。

 でまかせばかりは才能があったようだな、愚かなる妹よ。

 だが、今回求めているのは、その様な答えではない」

 

 本音を話せと衣遠兄様に促されて、りそなは縮こまってしまった。

 とてもじゃないけれど、お兄様が怖いですと口には出しづらいのだろう。

 りそなの怯えと共に、衣遠兄様の口角が比例して吊り上がる。

 楽しいというよりも、それは獲物を前にした肉食獣にも似ていた。

 

「りそなは偉大なお兄様の前ですと、緊張してしまう様です。

 どうか、寛大なる御心で許しを賜りますようお願い申し上げます」

 

 思わず口を挟んだのは、これ以上にりそながお兄様を悪く思ってほしくないから。

 正直に言うと、お兄様にこんな事を言うのは私も怖い。

 けれど、私はお兄様の妹であると同時に、りそなの姉でもあるのだから。

 姉は、妹のために頑張りたいと思う生き物だ。

 

「ほぅ……朝日、貴様如きが出過ぎた真似をするか。

 そうまでするという事は、貴様は為すべきを成しているということだろう。

 抵抗をするな、成果物を採点してやろう」

 

 お兄様はそういうと、私達の横を通り過ぎて、部屋へと上がられた。

 残された私達は、お互いの手を握りあったまま固まっていた。

 

「兄は相変わらずおっかないです」

 

 りそなが寒々と言うので、私はそうじゃないと否定する。

 お兄様は確かに不機嫌でいらしたけど、それには理由があっただろうから。

 

「ごめんね、りそな。多分巻き込んじゃった。

 お兄様は、私が努力を惜しんでいると考えられている。

 だから、それを糺すために怒られたんだ」

 

「え、でも矛先は私に向いていましたけど?」

 

「だから、巻き込んじゃってごめん。

 りそなをここで怒るのって、凄く理不尽でしょう?

 その理不尽への怒りが、私に火を点けると思ってるのかも……」

 

 私はお兄様ではないから、全ては分からない。

 けれど、私に奮起して欲しいという気持ちは感じている。

 私が、お兄様の求める才能を未だに示せていないのが、その原因と言っても良い。

 私を叱るだけでは足りないと、そう思われたのかもしれない。

 

「そう、ですか。

 元々が理不尽な人ですから、それもあり得ると思います。

 私に立場を分からせる、という理由も幾分含まれてそうですが」

 

 疲れを隠さず、りそなはお兄様のことを話す。

 理不尽で、厳しくて、そして何よりも厳格であること。

 他人に厳しく、努力を怠る人間を何よりも嫌うこと。

 そして、りそな自身が努力をしない人間で、だからこそ嫌われていること。

 話している内に、段々とりそなは不貞腐れた顔をしてきた。

 それは、この理不尽が意味を成さないことを理解して。

 

「それなら、私は怒られ損でしたね。

 姉は申し訳ないと思っても、兄に対して怒る姿が想像できません」

 

「うん、お兄様を許せないという気持ちは、どうしても抱けないよ。

 ただ、私のせいで、りそなが意地悪されたのは事実だから。

 しっかりしないといけないとは思った」

 

「そんな申し訳無さそうな顔、しないで下さい。

 姉は悪くないです、兄が酷いだけですから」

 

 手を握る力が、さっきよりも強くなった。

 自分で思っているよりも、落ち込んだ顔をしていたみたいだ。

 りそなの心配そうな顔が、より申し訳無さを呼び込む。

 りそなの方が、心配されて然るべき状況なのに。

 

 この子に心配を掛けたくないと、気持ちを奮い立たせる。

 私はりそなの姉で、この妹を支えたいと思っているのだと。

 

「りそなの優しさは、何時だって私を救ってくれるね。

 ありがとう、お陰で元気が出てきたよ」

 

 だから、この子の前ではせめて笑っていよう。

 その努力を惜しまず、明るくいよう。

 りそなの力になれるように。

 

 

「今日、もう出かける雰囲気じゃなくなりましたね」

 

 どうしましょうか、とりそなは部屋の方に視線を向けた。

 中では、険しい顔をされた衣遠兄様が、私の服飾の採点をされてる。

 あの様子だと、今日も指摘を受けるだろう。

 口調は厳しくとも、お兄様の言葉は為になる。

 なので、そわそわとお兄様の方を気にしてしまう。

 

「行ってきたらどうですか?

 妹、もう帰る気マンマンですし」

 

 りそなはとても気が付き、賢く立ち回れる子だ。

 誰が何を思っているのかを、容易に汲み取ってみせる。

 それこそ、こちらが申し訳なく思うくらいに。

 

「りそなが来てくれて、今日はとても嬉しかった」

 

「やった事と言えば、クソゲーだけでしたけどね」

 

「楽しくなかった?」

 

「貴方と一緒なら、笑っていられるゲームでした」

 

「なら良かった」

 

 こっそりと、二人だけで私達は笑みを浮かべた。

 きっと、今後もこういった事はある。

 それでも、二人で協力して手を取り合って行こう。

 それが、私達が最初に交した約束だから。

 

 

 静かに帰ったりそなを見届けて、私は部屋に戻った。

 お兄様に、教えと懇願を請う為に。

 

「ふん、愚かなる末妹は逃げ帰ったか」

 

「いいえ、お兄様の邪魔をしてはならないと思ってのことです」

 

「愚者とは群れるものだ。

 そして、他人の足を引く特性を有している。

 無能が無能たる由縁だ。

 それを理解し、戒めろ」

 

「私が成長し、りそなも才を羽ばたかせられる様に努力致します」

 

 鋭い視線で一瞥され、お兄様へ真っ直ぐに視線を返す。

 すると舌打ちをされて、興味を失った様に服飾の教材へと目を落とした。

 そうして、幾つもの指摘を受ける。

 私がまだ至らないままなことを教え、より成長させてくれるために。

 

 

 裁縫の針、型紙の図面、デザインの筆致。

 指摘には様々あれど、最近は裁縫のみを点検されることがお兄様は多い。

 そうして点検の後、お兄様は次の課題を伝えて去られて行く事が殆どだった。

 けれど今日は、点検された後の時間に、一つ尋ねてこられた。

 

「りそなと、どこへ向かおうとしていた?」

 

 お兄様の顔を、失礼に当たるのを承知で、まじまじと見てしまった。

 素っ気ない、けれどもさり気ない表情。

 いつもの、りそなが恐れていた様な怒気も覇気もない。

 ただ、兄妹の様子を気にしているお兄様の姿が垣間見えた気がした。

 こんな表情をりそなが見たら、お兄様への見方が変わるかも。

 そう考えると、少しのワクワクを覚えた。

 

「お花見に行きたいと、そう話しておりました」

 

「馬鹿騒ぎに興じようということか、愚かしい」

 

「いいえ。花を愛でられたら、それで良いのです。

 ただ、それを間近で、家族と観れたのならより幸せだと感じました」

 

 そう告げると、お兄様は考えに耽る為に俯かれた。

 数秒後、顔を上げた衣遠兄様は僅かに忌々しげだった。

 何か、気に障る様な発言をしてしまったのではないか。

 そんな考えが巡り動揺してしまったけど、そうでないと知れたのはお兄様が不機嫌そうに返して来た言葉からだった。

 

「桜を鑑賞し、それでもなお足りないという。

 つまり貴様は、大蔵の人間であるのにも関わらず、未だに桜を見たことが無いということか。

 日本人であるにも関わらず、その真価を!

 姿形の話ではない、心に迫る深層の姿のことだ!」

 

 声を荒げられたのは、それが許せないと思われたからか。

 だけれど、胸の何処からか、知っているよと声が聞こえる。

 そんな声に従って、お兄様がいう桜を脳裏に浮かべてみる。

 

 深層の姿をした桜、きっとそれは日本人の心の底にあるもの。

 淡く光る、ハラハラと舞い散る桜。

 どこか、妖精でも宿っているのではと感じさせられる気配。

 誰か、桜の木に寄り添っている気がするけど、その姿は何処にも見えない。

 ならそれは、私以外の誰かで、無邪気でいられる奥底での気持ちなのだろう。

 

 どうして他の人達が、ああやって桜を囲むのか、少し分かった気がした。

 この気配を共有し、楽しくて嬉しくて仕方がなくなるからだ。

 お兄様が見ている光景を理解できた気がして、話したくて堪らなくなった。

 賢しら振って、多くの言葉を語りたい気持ちになる。

 

「見えております、お兄様。

 桜の原風景こそが、拠り所になりうることを」

 

 けれども、多弁を要するにはそれは美しすぎる。

 私が言葉で価値を付加しようとしても、それは毀損になるだけだ。

 なら、最低限の言葉しかいらないんだと、素直に理解できた。

 

「……最低限の教養は持っていたか、愚かなる妹よ。

 そうだ、拠り所だ。

 馬鹿どもが桜を囲んで騒ぎ立てるのも、それを無意識に自覚してるからだ。

 雌犬の子であっても、魂は日本人の形をしていたらしい」

 

 お兄様の言葉に、ほっと息を吐く。

 美しいものを理解できない人物を、とても嫌う人だから。

 そんな気の緩んだところに、但しとお兄様は付け加えられた。

 

「雑音の多い東京では、桜の姿が捉え辛くなることもあるだろう。

 故に、静寂の中にある桜の園へと、いずれ連れて行こう」

 

 お兄様が口にされたそれは、本当に無償のものだった。

 何ら私の技術や知識に、影響を与えるものではないのだから。

 お兄様が、ある意味で初めて私に心を重ねて下さった。

 それが嬉しくて、大声で叫んでしまいたい衝動に必死に蓋をする。

 ムズムズと湧き上がるかの感情は、おおよそが喜びと称するものだと理解できたから。

 変な事を口走らないようにと、一生懸命にならざるを得なかった。

 

「りそなも共にでしょうか?」

 

「ふん、あの愚かなる末妹も、あれで大蔵家の人間だ。

 桜の美しさを解する心は有しているだろう」

 

 良いだろうと、お兄様はりそなの同行も許可してくれた、

 お兄様のいずれとは、いつのことか分からない。

 もしかしたらそれは、私が一人前になった時の遥かに遠い未来のことかもしれない。

 けれども、この約束があれば、何処へでも遠くへ向かえるような気がした。

 

「ありがとうございます、お優しい衣遠兄様」

 

 お兄様は何も仰らない。

 無表情で、心を全て覆い隠している。

 だから、これは単なる願望でしかない。

 それは、私には見えないお兄様の最奥で、兄妹との語らいを望んで下さったのであれば良いなという、そんな気持ち。

 お兄様、私はいつか兄妹三人で朗らかに語り合える日が来ることを望んでおります。

 さっきの約束が、その萌芽となってくれることをも。

 

 そんな時、携帯電話が音を出して鳴り響いた。

 お兄様に頂いた、二つ折りのもの。

 表示されている名前は、先程帰路についたりそなから。

 さっきのお兄様との約束を伝えたくて、ルンルンとした気持ちで電話を取った。

 

「りそな、りそな、聞いてよ! あのね――」

 

 

『今すぐ逃げてください!』

 

 

 私の言葉を遮って、りそなが叫んだ声がする。

 普段はローテンションで、落ち着いて話すあの子が。

 私の夢想していた喜びの言葉は、形を紡ぐ前に霧散して。

 代わりに、りそなの必死の言葉が流入してくる。

 

『私の母が! 貴方のお母さんに酷い仕打ちをした人が、そちらに向かってるんです!』

 

 ヒヤリと背中が冷えて、肌が粟立つ感触に包まれる。

 りそなの御母上、奥さま。

 お母さまが怖がり、常に怯えていた人。

 絶対に怒らせてはいけない、お母さまを憎んでいた人。

 そして、恐らくは私も憎むに足る理由を持っている方。

 

 その現実に、私は呆然とりそなの言葉を聞いて。

 その大声は、携帯越しでお兄様へも届いていた。

 お兄様は何を馬鹿な、と一笑に付す。

 

「あの母親の動向は、我が部下が監視している。

 そのような事があれば、逐一報告が届く」

 

「り、そな、お兄様の部下の人が見張ってるから、そんな筈ないって!」

 

『今日は家に居ない筈だった母が待ち構えていて、私の頬を引っ叩きました!

 私を溺愛して仕方がなかった、あの母が!

 野良犬は汚く、雌犬ならば尚更だと。

 そんな事を言って、姉を口汚く罵りました!』

 

 涙声交じりのりそなの叫びは、信じるに足る程の切実さがあった。

 流石のお兄様も顔色を変えて、警戒した表情で携帯に手を伸ばした。

 何度かのコールが掛かるけど、何故かその電話は繋がらない。

 

「――何故、出ない。

 まさか、あの母親如きに頭を垂れたとでも言うのか!

 この俺の、才能を見出した部下が!

 本当に裏切ったのか、小早川!!!」

 

 お兄様が、愕然とした表情で携帯を見つめていた。

 自らの部下が、自分を裏切っていた。

 才能を重視し、それを指針として掲げていたにも関わらず。

 お兄様は震えた声で呟かれ、次の瞬間にそれは赫怒へと変化した。

 

「おのれ、忌々しいっ!

 よもや俺を裏切り、母に付く愚か者がいるとは!」

 

 机を殴りつけ、無念さで口惜しさを隠そうとしないお兄様。

 普段の、感情を巧みにコントロールする姿はそこにない。

 自らを全否定されたかの様な、苦しげな姿が痛ましかった。

 

『もう時間がありません!

 私はさっきまで、母の部下に監禁されていました。

 抜け出してこうして電話を掛けられていますが、母が出てから時間が経っているんです!

 急いで下さい、姉! 兄!』

 

 時間がない、その認識は直ぐに私とお兄様との間に共有された。

 怒りよりも優先するのは、私自身の身の確保。

 そう考えてくださったのは、お兄様の切り替えの早さから来るものだ。

 

「朝日、付いてこい」

 

「はい、衣遠兄様」

 

 お兄様と共に、玄関へと向かう。

 早く出なくてはいけない、その一心で。

 

 二人で部屋から出ようとした――その時だった。

 ゆっくりと、扉のドアノブが回されたのは。

 私ではない、お兄様でもない、りそなはこのマンションに居ない。

 つまりは、兄妹以外の誰かが、この向こうに居るということ。

 

 ――そう言えばと思い出す。

 ――お母さまと別れた日も、嬉しいことがあってから悲しみに襲われたな、と。

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