月に寄りそう乙女の作法 Nomadic Rapunzel   作:ペタンコ

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今回、暴力描写がありますのでご注意下さい。
次回の前書きに、この話の簡単なあらすじを掲載する予定です(忘れて無ければですが)。


第10話 暗転

「ぁ……」

 

 扉が開かれて、その人物を見た瞬間に震えが止まらなくなった。

 経験が、その感情の正体を知っていた。

 私を睥睨する眼差し、固く握られた拳からこの方が怒りを抱いていることは容易に想像がついた。

 そして、私がどうなるということも。

 

「奥、さま」

 

 震えた声で呟いて、それがこの方の神経に障ってしまった。

 顔色は既に紅蓮の域に達するかの様な程で、後は爆発するのみ。

 許されるなんてこと、元々あり得ない話ではあった。

 でも、その努力すら、私は放棄してしまったのかもしれない。

 

「雌犬の娘っ! いいえ、お前は雌犬そのもの!!

 よくも私の子供達を食い物にし、寄生してくれたな、この売女!!

 キエッーーーーーーーーーーッ!!!!」

 

 白目を剥いて、けれども大きく開かれた平手は確実に私の頬を打った。

 衝撃が、頬を通り過ぎて行く。

 頭が揺さぶられる衝撃が最初に来て、次に頬に引き攣る痛みがやって来た。

 その場にへたり込んだ私に、奥様は馬乗りになられた。

 そうして、両の手で何度も私の頬を力強く叩かれる。

 

「謝りなさい! 謝りなさい!! 謝りなさいっ!!!

 我が真星一家の栄光を汚した分際で、よくものこのこと顔を出せたものですっ!

 あまつさえ、その妖術で衣遠と里想奈を誑かすなど!!

 恥知らずが! 恩知らずが! この人非人がァ!!!」

 

 何度も叩かれ、頬が腫れていく。

 感情と痛みが綯い交ぜになって、涙が勝手に溢れていく。

 体が言うことを聞いてくれない。

 泣いたら駄目だと言い聞かしても、体はそれを無視してしまう。

 私は、とても弱い人間だ。

 

「っ、申し訳、ござい、ません、奥様っ」

 

「心にもないことぉっ!

 涙を流せば、慈悲を得られると思っているのですか!

 条件反射で泣くように、あの女に躾けられたのでしょうに!

 卑しさを隠さないっ! 卑賤な身の上の! 動物の子供!

 夫を腐らせてっ、次は衣遠の番だとでも言うのかっ!

 一家の、私の栄光をどこまでも汚さんとする女狐!

 我が一家を滅ぼさんとする悪鬼が! 外道が!! 悪魔が!!!

 その様な真似、この大蔵金子が許しませんっ!

 今この場で、貴様を滅ぼし尽くしてくれる!!!」

 

 奥様は本気だった。

 本気で、私の存在を消そうとしていらした。

 けれども、私はそれを止められない。

 何故なら、奥様にとって私は異分子で、旦那様の不貞の子供という事実は変わりないのだから。

 その存在である私が認められないのも通りで、けれどもそれが悲しくて仕方なかった。

 奥様が認めてくれないと、私はお兄様やりそなと共に暮らせないから。

 

「おゆるし、下さいっ。

 共にあることを、お許しくだしゃい!」

 

 頬の腫れが大きくて、言葉を上手に扱えない。

 ボロボロと溢れる涙が、それを更に加速させる。

 どうしようもないほどに、私はボロボロになっていた。

 

 頭が回らない。

 何も考えられない。

 ただ心の奥底から望んでいることを、必死に乞うしかできない。

 けれども、それは更に奥様を怒らせただけだった。

 

「往生際の悪い!

 この期に及んで、よくもその様なことをっ。

 悍ましき売女の遺伝子!

 見目で惑わし、性根で腐らせる傾国の系譜がっ!

 滅びなさい! 滅びろ! 滅びれろ!」

 

 奥様の手が、私の首へと回された。

 あぁ、と理解する。

 奥様は、どうしても私の事が許せなくて仕方ないのだと。

 

 お母さま、どうやら私は貴方の下へと向かえるようです。

 それが不幸かどうなのか、私には判断が付きかねます。

 ですが、お母さまと共にあれるのならば、それは幸せであるはずです。

 

 ……でも、やっぱり少しだけ……ううん、とても残念です。

 衣遠兄様とりそなの二人と、もう会えなくなってしまうのだと思うと。

 一緒に過ごして、愛すべき兄妹のことを理解したいと能動的に思えて。

 この人達と一緒にいるのは、とても幸せなことでしたから。

 未練がましいですが、未だこの様な状況になってでも求めてしまいます。

 まだ一緒に居たいと、共に語らい笑い合いたいと。

 

 体が震えていた。

 心残りが沢山あるからか、まだ死にたくないという気持ちが段々と沸き上がってくる。

 けれども、奥様の両手の力はとても強くて。

 

 ――お母さま! お月様! お師匠様!

 まだ死にたくありません! 私はしたいことがあります!

 ですから、ですから!

 

「母上! 気持ちは分かりますが落ち着いて下さい。

 これ以上は、この雌犬の子が死亡します。

 そうなれば、母上は定義上の犯罪者となる。

 私は母上に栄光を届けたいのです。

 獄中などという、過酷な世界に送り出したくなどありません」

 

 私の首を締めていた手が緩んで、息が吸えるようになる。

 その力の隙間から、必死になって呼吸をする。

 求めて、足りないものを補うために。

 

「衣遠! そもそも貴方が誑かされなければ、この様な事態を招かなかったのですよ!

 大蔵家の長男として、恥を知りなさい!」

 

「申し訳ございません。

 ですが、それでも私はコレに使い道を見つけたのです。

 我が覇道のためならば、悪しき亡霊すら使いこなしてみせましょう」

 

 息をする度に、思考が少しずつクリアになっていく。

 そうして、ようやく事態を少し理解できた。

 今、私を助けてくれたのは、神様ではなく衣遠兄様で。

 部下に裏切られたという屈辱を抑え、こうして奥様を説得して下さっている。

 

 だから衝動を堪えて、必死に歯を食いしばった。

 今、泣いては全てを台無しにしてしまうから。

 私の涙を、奥様は卑劣な武器だと感じている。

 他の何を差し置いても、今だけは泣けなかった。

 ただ、心の中だけでは、感謝の言葉を述べさせて下さい。

 ありがとうございます、お優しい衣遠兄様。

 

「知っているのですよ、衣遠。

 お前はこれに入れ込んでいる、見れば分かります」

 

「母上、お戯れはお止し下さい。

 私にとって、これは道具に過ぎません。

 今は加工している最中で、こうして様子を見に来るのもその一環です」

 

 私の頭の上では、奥様と衣遠兄様が舌鋒を交し合う。

 奥様の冷たい声を、お兄様は軽やかに受け流す。

 爽やかな仮面を被り、本心は誰にも見えない様にして。

 

「――衣遠」

 

 だけれども、奥様は低い声のままだった。

 それどころか、声音の温度も段々と失われていく気配がある。

 お兄様はおくびにも出さないけど、警戒する様に私をその背中に隠した。

 

「この母を、単なる愚昧だと思っているのですか?

 何も調べず、感情のままに乗り込んできたとでも?

 知っていると申しましたよ――貴方が、その雌犬に偏執しているということを!」

 

 まさか、だとか。

 道具故に、だとか。

 衣遠兄様にも、様々な言い分があった筈だ。

 けれど、それを押しのけて、奥様は大きな声でそれを弾劾する。

 奥様が知っている、お兄様の事を全て。

 

「この雌犬がオスであったのならば、その言い分も認めたかもしれません。

 ですが、コレは女として生を受けました!

 髪を伸ばした姿は、あの女に瓜二つ!

 そして、お前はあの汚らしい売女を気にかけていた!

 この母娘が揃って女であったからこそ、私は警戒しました。

 マンチェスターに、私の目を配置する程に!」

 

 一瞬、衣遠兄様は言葉を失してしまった。

 あり得ないと否定するわけでもなく、事情があったと言い訳もしない。

 ただ、忌々しそうに、顔を歪められただけ。

 一方の私も、知らない情報に目を白黒させてしまう。

 

 衣遠兄様が、お母さまを気に掛けていらした?

 それは、妹を産んだ人物だから?

 ううん、それは多分違う。

 だってマンチェスターでは、衣遠兄様は私を気に掛ける素振りを見せられなかったから。

 それなら、衣遠兄様はお母さまに事情があって接触していたと考えるのが妥当で。

 栓のないことを考えて、気を取られてしまった……そんな時だった。

 

「目を覚ましなさい、衣遠!

 貴方は毒されているのです!!」

 

 何かが破裂したような、乾いた音が響き渡った。

 顔を上げれば、呆然としている衣遠兄様と、それを睨み付ける奥様の姿があって。

 信じられない気持ちでいっぱいになる。

 あの衣遠兄様が、偉大な人物であると疑いもしなかった人物が、平手打ちを受けていたのだから!

 

「この俺を、平手打ちにしただと……。

 あの愚かなる母親が……あり得ない……」

 

 お兄様も、信じられない面持ちで現状を受け止めていた。

 それ程に、天地が反転するくらいに信じられないことだった。

 ただ、奥様はそれで気を収められた訳ではなかった。

 白目ではない、お兄様にも似た意志の強い苛烈な瞳が私を捉える。

 

「貴方のせいです、朝日。

 私の栄光が汚れたのも、衣遠が傷ついたのも、全ての災厄は貴様から撒き散らしたこと。

 それに事欠いて、一緒に居たいなどとは笑止の一語。

 生きているだけで不幸を撒き散らす害虫がっ!」

 

 奥様は、懐から鈍色に光る物を取り出された。

 それは、仕立ても良く、切れ味の有りそうな鋏。

 そうしてそれは、迷う素振りもなく、私に振りかざされた。

 ヒュッと風を切る音を耳が捉え、ハラハラと何かが舞い落ちる。

 

 あっ、と声を漏らしてしまった不作法は、今回だけは許してほしかった。

 だってそれは、お兄様に伸ばしてみろと仰って頂いた髪が、パサリと呆気なく床に溢れた音だったのだから。

 

「貴方は不幸を呼びます。

 呪われた出自から、アレの怨念を宿したかの様な容姿に至るまで。

 特に、この髪自体が呪物そのもの。これに衣遠は惑わされた。

 故に、刈り取りました」

 

 髪の長さなんて、今まで気にしたことはなかった。

 ただ、珍しくお兄様にやってみろと言ってもらえて、とても嬉しかった覚えがある。

 それが、私が髪を気にして、よく手入れを始めた理由で。

 こうして分かたれて、初めて思い入れがあったことに気が付いた。

 私、思っていたより自分の髪が好きだったみたい。

 

「お兄、さま。ごめ、んなさい」

 

 髪が好きだった理由は、お兄様が気にしてくださったから。

 好きでいる理由なんて、それだけで十分だったから。

 悲しさの理由の大半は、お兄様に申し訳ないというものばかり。

 この時だけは、奥様への罪悪感よりも、お兄様への気持ちが上回った。

 

「この様な時にも、衣遠衣遠と!!

 魔性が! 毒婦が!

 どれほど衣遠を惑わせ、狂わせようというのか!

 私に苦痛を与えるだけでは済ませず、全てを破壊しようというのか!

 おのれ朝日! おのれ雌犬の遺伝子!

 キ、キエエエエエエエエエエエエエエエ!!!」

 

 奥様の、叫声が辺りに響く。

 憤り、憎悪、焦燥、それらが綯い交ぜになった叫び。

 奥様との和解は、出来そうにないと理解せざるを得ないものがあった。

 

「もうしわけ、ございません!」

 

 涙が止まらなくなる。

 お兄様やりそなと、もう語らいあえないという現実に。

 私の存在そのものが、奥様を傷つけてしまうのだ。

 それならば、私は奥様に近付いてはいけない。

 少なくとも、それが我欲によるものである限り。

 自分勝手になってしまえば、お母さまの私に託してくださった想いが無くなってしまう。

 それだけは、どうしても耐えられそうになかったから。

 

「命ばかりは取らずに居ましょう……出ていきなさい!

 そして、二度と我々の前に立ち塞がらぬことです!

 次は在りません。今度その姿を見た時は、この身命に懸けても葬ってくれるぅ!」

 

 その言葉に従って、私は家から出ようとした。

 お兄様、りそな、これまでありがとうございました。

 多くの思い出を、数多の技術を、多々様々な物を二人は与えて下さいました。

 それらを胸に抱えて、どうにか足掻いて生きて……生きていけるのでしょうか?

 

 私は強い人間ではありません。

 堪えられず、思い出に浸る日々を過ごすかもしれないのです。

 奥様は、それを許して下さるでしょうか……。

 

「待て、朝日っ!」

 

 力強い、けれども懸命な声が聞こえた。

 頼りになると感じて、およそ万能であると信じた人の声が。

 振り返ってはいけない、奥様は怒りを強くされる。

 そう理解していても、どうしても耐えられなかった私は、やはり弱い人間だ。

 

「――衣遠、兄様」

 

 奥様に与えられた、頬への赤い紅葉が残っていた。

 けれども、それは衣遠兄様の雄々しさを微塵も貶めることはない。

 誰よりも、その姿が凛々しく見える。

 

「何のマネですか、衣遠!」

 

「これは俺の物だ!

 爪先から髪の毛一本に至るまで、俺が生殺与奪を握ってなければならない生き物だ!

 そうでなければ、全てを奪ったことにならない。

 故に、お前は俺の妹で居なければならない!」

 

 何を仰っているのか、その意味は私には理解できない。

 けれども、私に分かれば良いことなんて、一つしか存在しなかった。

 自分の妹でいろと、そう衣遠兄様が仰ってくださったこと。

 これだけが、真実何よりも重要なこと。

 

 それに、私は込み上げてくるものを止められない。

 お許しください、衣遠兄様。

 私はどこまでも、愚かな妹です。

 

「血迷いましたか、衣遠!

 骨の芯まで蕩けさせられて!!」

 

「母上がアレの存在を許せない様に、俺もアレが野に放たれるのを許せないのです!」

 

 普段の衣遠兄様なら、その様な言葉を出すのは、奥様を激高させるだけだと計算される。

 けれども、言葉に出して私を呼び止めてくださった。

 それは、お兄様の心の中に、私の居場所を作ってくださっていたということで。

 その事実だけで、どうしても堪えられそうになかった。

 

 ――でも、ごめんなさい。

 貴方の愛を感じても、私がここに居ることを不条理だと感じる方がいらっしゃるから。

 その方に逆らうと、お兄様は多くのものを失うことになりますから。

 私は行かせて頂きます。

 どうか何時までも、お元気にお過ごしください。

 

「――さようなら、衣遠兄様」

 

 悲しみの鎖を断ち切って、私は部屋を飛び出した。

 去り際の、お兄様の裏切られたという顔が、酷く心にこびり付く。

 ごめんなさい、本当に私は不出来な妹です。

 兄不幸を、妹不幸をする私を、どうかお許しください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 走って、走って、走って。

 涙で視界が潰されながらも、私はがむしゃらに走り続けて。

 本当は悔しくて、辛くて、苦しくて。

 八つ当たりするように、とにかく宛もなく走り続けて。

 そうして、日が暮れ始める頃には、見覚えのない場所で息絶え絶えとなっていた。

 

 これからどうしようか、と考え始めたのはそんな時。

 さっきは考えられる程の理性を失っていたけど、正気に戻ると困ってしまった。

 考えなしに飛び出して、こうして路頭に迷ってしまう。

 全力疾走を行い、酸欠気味の頭で考える。

 アテもなく、お金もなく、家もない。

 むしろ、持っているものがない。

 

 そうか、と理解する。

 奥様がサヴォワでもなく、こうして日本に放逐されたのは行く場所がないと分かっていたから。

 子供の女が一人、生きていく術なんて無いと知っていたからだ。

 

 このままだと警察に補導されてしまうかもと考え、それは避けたいなと思った。

 お兄様達に、ご迷惑を掛けてしまうかもしれないから。

 でも、どうしようこれから。

 

 ジプシーみたいに渡り歩くには、私の体は貧弱だ。

 所謂ホームレスという人達のように暮らすには、私の知識はあまりに足りていない。

 唯一、私にできそうな事は、物乞いくらい。

 それも、警察に捕まらない様にとなると、かなりの難易度。

 

 困りきって、このまま物陰で寝てしまおうか、と考えていた時だった。

 背後から、影が差した。

 私の他に、誰かがいるということ。

 意味もなく後ろめたい気持ちになって、息を止めた。

 誰にも気付かれてはいけない、気付かれたく無いと、そう思っていたから。

 ただ、その人は私の後ろに立ったまま、微塵も動こうとしなかった。

 

 どうして、と息苦しく思う中で不満に思って。

 けれども、俯いて顔を上げなかった私に向かって、その人は話しかけてきた。

 一言、どこかで聞いた声を添えて。

 

「難儀ですね」

 






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