月に寄りそう乙女の作法 Nomadic Rapunzel 作:ペタンコ
「目標、マンションを飛び出して走り始めました」
『追跡しろ、見失うな』
「了解、ストーキングを開始します」
『……言い方を考えろ』
「失礼致しました」
『毒は忍ばせるものだ、振りまくものじゃない』
「薬になればと思いまして」
『劇薬だよ、全く』
一年間、監視任務に付かされていたからか、少女の様な彼女は少し毒舌だった。
ただ、それだからこそ、今走っている彼女には思い入れがある。
人間、可愛いものとか弱いものには存外弱いのかもしれない、と彼女は自己分析する。
少なくとも、任務以外の同情心が芽生えていたから。
少女の難儀な身の上を思うと、少し心が痛んだ。
「難儀ですね」
英語で投げかけられた、聞き覚えのある声だった。
青山のあの街で、幾度か会話をした覚えがある人。
けれども、その人の名前さえ未だに知らない人の声。
「難儀、なんです」
顔を上げた先に居たのは、ギシアンの服を着た彼女だった。
知っている顔だった事に安心して、けれども恥ずかしさを感じずにはいられない。
だって今の私は、泣きっ面で腫れぼったく、髪だって不揃いで満身創痍でもある。
とてもじゃないけど、人前で誇れる姿とは言い難かったから。
「そうですか」
か細く、けれどもか弱さを感じない声。
彼女は、こんな私を見ても、微塵も動揺した気配を見せなかった。
おおらかな人なのか、それとも……。
「私を、追ってきて下さったのですか?」
知り合いの尋常じゃない姿を見て、思わず後を追ってきたかだ。
だって、ここは彼女の生活圏ではないのだから。
少なくとも、前に話を聞いた時はそう言っていた。
「はい」
抑揚なく、淡々と彼女は肯定した。
それに、酷く申し訳なく思う。
心配を掛けてしまったことに、こんな姿を見せてしまったことに。
それに、子供の足とはいえ、ここまで走らせてしまった。
今日は迷惑を掛けてばかりだと、心底思ってしまう。
「すみません……お恥ずかしい限りです」
掠れた声で返事をしてしまい、焦ってしまう。
これじゃあ、余計に心配を掛けてしまうだけだから。
どうにか元気を振り絞ろうとして、ケホケホとまた咳き込んでしまう。
何とかしないとと思っても、身体の方が付いてきてくれない。
あまりの情けなさに、枯れたと思っていた涙がまた滲みそうになる。
「焦燥、しておられますね」
淡々としている声の中に、ほんのりと労りが滲んでいた。
そっと近付いてきたこの人は、斜め切りにされた髪をサラリと触れる。
パラパラと流れる髪に、彼女はほんの少し顔を顰めた。
「手、握ります」
「え?」
言うや否や、手をそのまま握られた。
一方的で驚いてしまうけど、彼女は至って真顔だった。
もしかして、励まそうとしてくれているのか。
そうも考えたけれど、どうにも気配がそうではない。
どちらかというと、しっかりと捕まえられている感触。
「あの……どうして?」
「どうしてでしょう?」
問いかけを投げても、変わらぬトーンで質問を返される。
もしかしなくても、私はこの人にからかわれているのか。
考えれば考えるほど、分からなくなってしまう。
この人が、全く表情を変えないから。
「……困り、ました」
「そうですか」
そうなのだろうか、と思ってしまい頭が混乱する。
まともに考えようとするには、私は疲れ切っていた。
「難儀ですね」
「難儀させられています」
貴方に、と口に出さずとも伝わっていた様で。
ようやく、ここで表情が変わった。
薄く微笑を浮かべて、軽い調子で頭を撫でられる。
この人なりに、私のことを励ましてくれようとしていたみたい。
その意地悪な手法に、私は今日はじめて笑った。
ちょっと不器用なんだ、と思いながら。
「ありがとうございます、元気が出ました」
「良かった」
弛緩した空気が、ゆるりと場に流れる。
この人が優しい人だと、ここで私は信じられたから。
「では、行きましょうか」
そう思った途端、彼女は私の手を取ったまま歩き始めた。
どうして? と疑問符で頭が埋め尽くされるけど、関係ないと言った風に。
「どちらに向かうのでしょうか?」
「私の住み処です」
住んでいる場所に、と彼女は言った。
つまり、また青山に戻るということ。
彼女がどうしてそんな事をするのか、理由が分からない。
ただ、今はあの土地に戻るわけには行かなかった。
だって彼処には、奥様やお兄様が住んでおられるのだから。
「あの!」
のどが痛いけれど、それでも出した大声に彼女は足を止めた。
そこに、私は上手く纏められないながら事情を伝える。
彼処に、私の居場所がないということを。
「私は、罪を犯しました。
人を傷つけることをしてしまったんです。
その人に、二度と顔を見たくないと言われたから、私は家を出ました。
それに、私が青山に留まるのなら、私の好きな人に迷惑が掛かってしまいます。
それだけは、どうしても嫌だったから」
お兄様、私はお兄様のお役に立ちたかったです。
でも、私の存在そのものが障害になるのなら、居なくなってしまいたい。
お兄様の足を引っ張る存在にはなりたくないから。
奥様とお兄様との家族の仲を、断絶なんてさせたくなかったから。
どうか、私の存在が問題の焦点なら、これで解決しますように、と。
一度、考え始めたら止まらない。
脳裏に、りそなの顔も浮かんで来た。
引っ込み思案で、他の人の事をよく見ていて、私の助けになってくれていた優しい子。
あの子は、私が居なくなって悲しい気持ちになってくれるだろう。
自惚れそのものだけど、それには自信があったから。
ごめんね、と苦い気持ちで懺悔する他になかった。
祈りにも似た気持ちで、薄っすらと顔を見せつつあるお月様にお願いする。
お兄様に武運長久を、りそなにどこまでも悠久の幸せを。
何時までも、私が生きている限り祈らせて下さい。
「……貴方は、優しい人ですね」
そっと、彼女が私の頬を撫でた。
そこで気がつく、その箇所が濡れていたことに。
また、私は泣いてしまっていたのだ。
「泣いて、しまうのはっ、私が弱い証です!
本当に優しい人は、誰かの力になれる人なんです!」
訴えるように、心のままに叫んでいた。
私の未熟を、糊塗して隠したくなかったから。
お兄様は、その溢れんばかりの才能で私を助けてくださった。
りそなは、その類まれな観察眼で私を支えてくれていた。
そんな思い遣りを、私は返しきれなかった。
だから、今流しているのは悔しさの涙。
決して、優しいものではない。
心から、そう思っていた。
……けれども、彼女は諭すような口調で言う。
変わらないトーンで、けれども柔らかさを携えて。
「誰かのために涙を流せるのは、その人を想っているから。
私には出来ません、社長が死んでも残念だな、で済ませてしまいます。
その涙は、綺麗なものだと思います」
話しすぎましたね、とこの人は言って。
やや引っ張り気味に、私の手を引いて歩き始めた。
私の意見に耳を傾けてくれて、けれども有無を言わさずに。
そこに、違和感を覚えた。
親切というのなら、説き伏せてくれる筈。
お節介というなら、押し付けがましい筈。
照れ隠しというわけでも無さそうで、だったらと考える。
もしかすると、という希望も込めて。
「あの、もしかしてなのですが……」
願望があった。
そうであったら、希望は続いていると思えるから。
自分は拒絶しなくては行けない立場だけど、そうだったら喜びに満ちるだろう。
それは、兄妹の絆を感じることができる命綱だから。
「誰かに、依頼されて私を追いかけてきて下さりましたか?」
「はい」
肯定されて、心臓が高鳴った。
そういう事をしてくれるのは、私が知っている限りで世界に一人だけ。
お兄様、と心の中で呟く。
日頃から、この方を通して見守って下さっていたと思うと、擽ったさを感じたから。
半ば、確信的に私は彼女に尋ねた。
それはつまり、と。
「お兄様の、大蔵衣遠様の遣いの方ですね」
「……………………いいえ」
表情が、僅かに変わった。
微かに見せてくれた笑みでも、表情を消した姿でもない。
ちょっと苦い、困ったといったもの。
そして私も、疑問符で頭がいっぱいになった。
お兄様しか、心当たりがなかったから。
では、この人は何の理由で、こうして私の手を取られているのか。
どこに連れて行こうとしておられるのか。
そもそも、誰の命令であるのか。
全てが分からずに、答えだと思ったものが解けていく。
その代わりに、残ったのは結構大きい羞恥心。
迷惑を掛けたくないなんて思いながら、未だにお兄様に執着していたという事実。
それが明確に、浮き彫りになってしまったから。
「あ、ぅ……」
恥ずかしい人だ、とりそなに何度か言われた事を思い出す。
自分の中で情報を整理して、そうして悶絶へと至った。
顔が赤い、とっても熱い。
羞恥というものは、頭に血を登らせてくれるのだと今日はじめて理解した。
穴に入りたい、居なくなってしまえればという気持ちが強くなる。
――そうだね、りそな。
――初めて自覚したよ、私は恥ずかしい勘違い妹だった!
「うぅ……」
グウの音も出ない。
お兄様に常々、愚かなる妹よ、なんて言われていた。
それは事実だけれど、もしかするとお兄様の想定を超えて私はポンコツだったのかもしれない。
そうして、右往左往する私を見て、彼女は一言だけ呟いた。
「難儀ですね」
日は暮れて、夜になって。
私は未だに、東京に留まっていた。
私みたいな子供が、遠くへ行けるなんて思ってはいない。
けれど、気持ちの上では東京を出るつもりだった。
でも、こうして気持ちが落ち着いてしまったのは、この人の差配が大きい。
奥様やお兄様は、日本のお屋敷に戻られて今日会うことはないと太鼓判を押されたから。
お二人の状況を知っておられるこの人は、一体何者なのだと思ったけど。
寄る辺のない私は、死んでしまってもお兄様達にご迷惑をお掛けしてしまう。
なので、必然的にこの人の手を握る他になかった。
「カリンさんってお名前だったのですね」
「はい、難儀の人こと、カリン・ボニリン・クロンメリンと申します」
「その節は、妹が失礼を致しました」
「いえ」
歩きながら、私達は自己紹介をしていた。
話してみると、表情の起伏からは想像できないくらいに気安く会話をしてくれる。
今までは、姿を見かけたら軽く会話をするくらいの関係だった。
それが今は、会話をしているだけなのに、前よりも親しさを感じてしまう。
名前を知るって不思議だ、と改めて知る。
「ここです」
「ここ、ですか」
そうして案内されたのは、中々の大きさのホテル。
恐らくは、東京でも一等地の場所。
お値段も、かなりの価格がするだろう。
そんな場所に、私を連れてくる様に指示を出した人がいる。
きっと、私が知らない人。
「付いてきて下さい」
けれども、そんなことはお構いなしと言った感じで彼女、カリンさんは進んでいく。
エレベーターに乗って、カリンさんが押したのは最上階のボタン。
一等地ホテルの、それも一番値段が高いであろう場所。
つまりカリンさんの雇い主は、かなりの財力を有している人物だ。
そんな人が、私に何の用があるのかわからない。
ただ、私を大蔵の人間だと辺りをつけての接触なら、私は名前だけの人間で大蔵家とは関連性を持たない人間だと伝えないといけない。
それだけは、ここまで育ててくれた大蔵家への礼節で、私のケジメだから。
「この部屋です」
エレベーターを降りて、静かな廊下を歩いた。
他に人の気配がないフロアで、少し歩いた場所で私達は足を止めた。
部屋から、僅かながら明かりが漏れている。
もしかすると、この部屋以外にこの階は人が居ないのかもしれない。
困惑と緊張を交えた心臓を落ち着かせるため、軽く呼吸を入れる。
その間に、カリンさんは部屋の扉をコンコンと叩いた。
中から、開いていると若い男性の声がした。
やっぱり、私の知らない声。
「失礼致します」
カリンさんが扉を開けた。
開いた扉の向こうには、推定していたよりも落ち着いた風情の一室があった。
ただ、広めの窓からは、東京を一望できる異空間が広がっていて。
まるで、東京の全てを手に入れたかの様な錯覚を与える、選ばれた人しか入れない部屋。
そんな部屋に、一人の男性が立っていた。
背が高く、けれども気配はとても落ち着いている。
窓から見える夜空も相まって、まるで影法師みたいだと感じた。
「ようこそ、大蔵朝日」
カリンさんと同じく、感情を見せない表情で。
淡々と私を迎える黒い人は、まるでタイプが違うのに、衣遠兄様みたいな支配者の気配を持っていた。
自然と緊張を覚えて、私は震える声で返事をする。
「お初にお目に掛かります。
大蔵朝日と申します、この様な姿で申し訳ございません」
深々と、頭を下げた。
こんな汚れて、不揃いで、無作法に私は訪れてしまったから。
酷く場違いな感じがして、申し訳なくなってしまった。
ただ、彼はそれに穏やかな声で応えた。
「うん、礼儀正しい人は好きだな。
それに、俺が呼びつけたんだ。
むしろ、その点に関しては俺が頭を下げるべきだな。
顔を上げてくれ、朝日さん」
呼び方が、朝日さんと変わっていた。
そして顔を上げたら、僅かに嬉しそうに笑みを浮かべる黒い人の姿が。
部屋に入った時よりも、雰囲気が柔らかく感じる。
そんな彼は、冗談めかした口調で名乗りを上げた。
そうだな、と軽く考えてから。
「俺の名前は……うん、小倉だ。
小倉駿我っていう、出来れば駿我って呼んでくれるとありがたい」
大蔵と名乗り、動揺させたくないと考えた駿我さん。
適当に偽名を考えたけど、それが気に入ったご様子。
小倉、悪くないなと内心にっこりしておられます。