月に寄りそう乙女の作法 Nomadic Rapunzel 作:ペタンコ
りそな視点回です。
それは、あの人が居なくなった翌日の事だった。
母はにこやかに、もう里想奈を脅かすものは居ないのですよ、なんて言う。
私を傷つけたのは、私の頬を叩いた母だけだというのに。
あれから、私は家から出掛けていなかった。
正確には、母が常に引っ付いているので、出掛けられないが正しい。
間違いなく、姉を探しに行くことを警戒している。
私は母の手の下に置かれて、もう逃れることは出来ない。
その事実に、私はどうにかなってしまいそうだった。
あの日、携帯越しに聞こえてきた母の声は、姉を口汚く詰っていた。
それも、乾いた破裂音が何度も聞こえてきて。
恐らくは、母にビンタをされていた音。
私は情けなくも、トイレで涙を流して我慢する他になかった。
どうしてこんな事に、と無力さを呪いながら。
私の望みは、姉と一緒に暮らしていることだけだったのに。
この1年間、私は姉と過ごしてきた。
最初に抱いた優しい人という印象は間違って無くて、でも一緒にいる内に別の面も見えてくる。
努力家で、兄に何度も無下にされても腐ること無く努力を続けられるところ。
気配りが上手で、それでいて時々抜けているところ。
甘やかしたがりで、それなのに甘えようともしてくるところ。
人を信じ、疑うことが苦手なところ。
私や――あの兄を大好きなところ。
趣味や嗜好、表情や気配。
声や仕草を見ているだけで、心が華やいだ。
この人は、愛されるべくして生まれてきたのだと思った。
だからこそ、もう辛い目になんて遭わせたくなかった。
大変だった分だけ、幸せになって欲しいと心から願っていた。
――それを壊したのは、また私の母だった。
兄と契約を持ちかけて、私と姉は何時でも分かたれることはない、と指切りをした。
確か、嘘ついたら兄の小間使いになる、なんて真っ平な内容。
御免被ります、と二人で笑い合っていたあの約束。
それはもう、果たされることはなく破られた。
私と姉を、遠くへと分け隔てて。
諦めたくなんて無いのに、私には何の力もない。
母に抗うだけの権力も、一人で生きていくだけの財力も。
絶望的なほどに、私は無力な子供だった。
「姉、早く帰ってきて下さいよ……。
妹、兄の小間使いは嫌だって言ったじゃないですか……」
引っ付く母から逃げて、自分の部屋に閉じこもって枕に顔を押し付けた。
こうすると、息をするのが苦しくて、姉と一緒の気分を味わえている気にだけなれるから。
あの人はどうしているだろうか、考えるだけで苦しくなる。
子供の身で、着の身着のままに放り出された姉。
普通だったら、警察に保護されるはずだけれど、そうなったらここにはもう帰れない。
母は感情的だけれど、残酷になった時は恐ろしさを感じる程に計算高いから。
二度と顔を見せるなと、母は電話越しに言っていた。
あれは慈悲でもなんでもなく、姉に約束を破らせるためのものだ。
一方的に言い捨てただけとはいえ、母にそんな言い分は通じないだろう。
警察に捕まった暁には、どこか遠くの、私どころか誰にも見えない場所に隠されてしまう。
母がそういう事を出来る人だと、私は昨日の一件で理解した。
でも、もし姉が見つからなかったら、それは姉が行方知れずになったということ。
今の姉に、一人で生きていくなんて出来るはずがない。
それはつまり……考えただけで怖気が走る結論にたどり着く。
胃から込み上げてくるものがあり、トイレに駆け込む。
ゲホゲホと空咳をして、刺激臭のする液体を口から吐き出した。
昨日から何も食べられなくて、出てきた胃酸の量が少なかったのだけは不幸中の幸いか。
「姉……ううん、お姉ちゃん。
帰ってきて、帰ってきてよぉ」
トイレで、膝を抱えて私は姉を呼んだ。
母に聞こえない様に、とてもとても小さな声で。
全てが都合よく片付いた未来を、一人で空想しながら。
……………………
………………
…………
……
何かが鳴っている……これは、携帯の音だ。
目を億劫に開けると、そこはさっきまでと変わらない自室。
口を濯いだのに、まだすえた感じの感触が残っている。
枕に顔を押し付けて、突っ伏して寝たのが悪かったのかも知れない。
「誰ですか、私の携帯、に」
言葉を口にした途端、飛び起きていた。
携帯を手にすると、そこには知らない番号が表示されている。
元々、私の携帯には、姉と母や兄しか登録されていないのだから。
当然、私の番号を知っているのも、その3人の内の誰かに限られる。
そして、わざわざ非通知で掛けてくるのは、携帯を落としたあの人しか居ないのだから!
通話ボタンを押すなり、私は大声を出しすぎない様に、けれども感情を乗せて訴えていた。
「もしもし! 姉、姉なのでしょう!
今どこに居ますか、すぐに衣遠兄様に手配してもらいます!
心配しましたが、無事で良かった……」
焦りを覚えながら、私は捲し立てて話していた。
今まで覚えていた不安を、必死になって掻き出すみたいに。
高揚で、私は抑えが利かなくなっていたのだ。
そんな私に、冷水を掛けて窘めたのは携帯から聞こえてきた声の主だった。
『残念ながら、俺は君の望んだ姉じゃない。悪いね』
え、と声が出てしまった。
期待があったから、確信に近いものがあったから。
それを裏切られた時、落胆よりもポッカリとした無に支配されるのだと初めて知った。
また、その声を私は知っていた。
「上の、従兄弟……」
『へぇ、裏ではそう呼ばれていたのか』
どこか楽しげに聞こえる声は、気のせいか楽しんでいる様にも感じた。
だけど、それ以上に私は訂正しなくてはいけない。
この人は真星の一家の敵で、兄と同じくらい恐ろしい人なのだから。
「も、申し訳ありません。
知らない番号からの電話が、駿我さんのもので動転してしまいました」
『その割には、結構スラスラと話せているけど?』
「動転したままだからです!」
何故、私の携帯の番号を知っていたのか。
何の用件があって、私なんかに電話をしたのか。
疑問が次々に湧いてきて、それを頭が処理していく。
携帯は誰かが漏らした、もしくは盗み見た。
何の用件か、これについては分からない。
分からないけど――少し前の光景が頭を過ぎる。
それは、晩餐会で姉の事に付いて触れてきた件。
この時期に、わざわざ電話を掛けてくる辺り、それが可能性として一番高い。
胸が脈打つ感触に任せて、私は心臓が高鳴っている内に話し始めた。
勢いそのままに、私が話せなくなる前に。
「姉の、ことですよね。
姉を調べていて、だから私の携帯の番号も分かった。
あの晩餐会の日から、ずっと姉を嗅ぎ回っていたんですね。
だから、こうして電話を掛けてきた。
……何が、望みですか?」
電話越しに、わざとらしい拍手の音が聞こえた。
私の言ったことが間違って無くて、そして恐らくは姉の行方を知っているのはこの人であると確信できたから。
そうだ、あの晩餐会の時だって、善意だけで話しかけてきたはずがない。
こういう仕込みをして、いつか使える手札として種を蒔いただけ。
ただ、それが分かっていても、私はこの人の言葉に耳を傾けるしかない。
何故なら、現状で姉を救えるのが上の従兄弟の他に居ないのだから。
『賢いとは常々思っていたけど、これは想定外だ。
成程、君はお姉さんの事になると本気になれるのか。
大蔵の血は愛によって目覚める、なんて眉唾だと思っていたがね』
感心した風に装う上の従兄弟に、私は焦らせられているかの様な感触を与えられる。
求めているのは姉の居場所と、無事かということ。
この怖い人と楽しくお喋りなんて、それこそキックバックしてお断りしたいくらいなのだから。
「答えて、下さい」
声に緊張が含まれているのは、心臓がとても煩いから。
上の従兄弟と話していることより、姉の安否を確認できそうなことが何よりの原因だ。
一片も、他の余分を排斥した私の声に、この人は思ったよりも柔らかな声音で答えた。
『君の本気に引き込まれて、言葉を無くしていただけさ。
その誠実さと勇気に敬意を払い、俺も嘘なく答えよう。
君の姉、大蔵朝日は俺の庇護下にある』
上の従兄弟の下に、姉がいる。
その言葉は、私に様々な感情を齎した。
安堵、不安、心配、焦り。
姉が無事だったことを喜びつつも、その身柄が敵対している人の手元にあるのがソワソワする。
そして、恐らくはそれを口実に、私を便利に使おうというのだろう。
ここまで来て、私はもう後に引くきは無かった。
姉を助けてくれるなら、私は悪魔と取引だって出来そうな気分だったから。
「話を、聞きます」
私の声は、問答無用に震えていた。
でも、一度発してしまった言葉は、もう引っ込みがつかない。
後は上の従兄弟に任せるしかない、と私は携帯を握りしめて。
『別に、特にないよ』
だから、その告げられた言葉が、何よりも意外だった。
「な、ぜ?」
『君に出来ることなんて、たかが知れているからさ』
一刀両断、バッサリと私の懸念を上の従兄弟は断ち切った。
確かに、私は自分の力の無さを何よりも実感していた。
だからこそ、その言葉には真実味を感じられた。
だけれども、それだと辻褄が合わない。
それが気持ち悪くて、私は矢継ぎ早に質問を飛ばしていた。
「それなら、私に電話を掛けてきた意味が分かりません。
利用価値があった、もしくはこれから作れると思った。
だから電話を掛けたのではないですか?」
『さっき君の事を賢いと言ったけれど、それは子供にしてはということさ。
君は自身の価値を大きく見積もっているようだが、それは傲慢だな。
精々、使い道と言えば、晩餐会での決議権くらいか』
それも、衣遠に煽られれば吹き飛ぶ風見鶏みたいなものだが、と上の従兄弟は付け加えた。
誂い交じりの言い方で、それが神経に障る。
姉に関しては、私は間違いなく本気だから。
「確かに、衣遠兄様は恐ろしいです。
脅されれば、私は意見を翻すかも知れません。
ですが、私は姉と一緒に居ると約束しました。
その約束さえ守れないなら、せめて姉のために出来ることを一つでもやりたいんです!」
必死だった。
訴えて、どうにかして私が姉に関われる場所を作ろうとする。
ただ、返ってきたものは、私が求めていたものではなくて……。
『駄目だな、姉の一声で意見が裏返る。
そんな君を用いるのは、リスクが高い』
にべもなく、私の意見は退けられた。
この人の言う通り、私は姉の存在自体で意見を翻す可能性がある。
上の従兄弟が、姉をずっと庇ってくれるとは思っていないから。
言葉を詰まらせる私に、上の従兄弟の声は段々と色が落ちてゆく。
優しげだった声は、どこか無味乾燥のそれになっていた。
『自分が無力だと知れ、里想奈さん。
君に出来ることなど、何もない。
君は君の姉に関われない、俺が彼女の生殺与奪を握っている』
淡々とした、私が知っている怖い人物の筆頭その人だった。
今回の会話だけで、私でも交渉ができると僅かでも思ったのが、そもそもの間違い。
私とこの人では、交渉にならない程の差が存在する。
「私は、どうすれ、ば……」
絶望感を覚えながら振り絞った声は、とても情けないことこの上なかった。
それでも思考を巡らせるのは、諦めるわけには行かないから。
姉は私の中で、唯一信頼できる家族なのだから。
『今はただ、朝日さんが俺の手の中にあることだけを知っていれば良い。
それを衣遠に言うも、秘めたまま俺への交渉材料にするも君次第だ』
悪魔と言うには、底意地が悪い物言いだった。
悪魔だって、契約する相手には都合よく優しくしてくれるものだから。
それすら許してくれないこの人は、私にとって理不尽そのもの。
胸につっかえが刺さったままの様な気持ちで、私はそれでも、と言葉を絞り出した。
「姉の安全を保障して下さい。
お願いします、私には貴方の寛大さに掛けるしかないんです」
私に出来るのは、既に慈悲を乞う以外に無かった。
それは手段でもなんでもない、恥も外聞も捨てた五体投地。
何の効果も無いことを理解しつつ、こうするしか私には術が残ってないのだから。
その滑稽さ故か、あまりの情けなさからか。
電話の向こうの人は、溜息を露骨に吐いてから一つの口約束をしてくれた。
『……分かった、安全は約束しよう。
――大蔵である君を否定して、残ったものは姉への想いのみ、か』
どこか、感慨深そうな声を出して。
電話越しでも感じていた威圧感のようなものが、スルスルと解けていった感じがした。
ヘナヘナと、腰をベッドに下ろしてしまったのは、もう気力が残っていないからだ。
『実はね、俺は君を応援していた。
君の想いを知った今は、その幸福を願っていると言っても良い』
上の従兄弟は、今まで与えていたプレッシャーを忘れたかのように話しだした。
聞いてもいない、私をどう見ていたかということを。
ただ、私はそれに返事をする元気もなく、ただ耳を傾けている。
『ただ、君の母上はあの金子殿だ。
君は血の繋がりがあの人とある以上、どんなに母を敬遠してもその軛から逃れられない。
俺が、俺の父から逃れられないようにね』
冗談めかして、でも真実であろうこと。
私だけでなく、この人も大蔵の血に思うところがある。
だから、私にこんな話をする。
乱暴なやり方には言いたいこともあったけど、小さな共感がそれを流させる。
家も親も選べない、それは裕福でも変わらないのだと実感したから。
『親に囚われている君を、残念だが朝日さんには会わせられない。
君達がどれほど望んでも、世界は君達二人で閉じていないからね。
より残酷な現実が、二人を過酷な道へと突き落とす。
大人の理屈だけど、それをむざむざ座して見ているのは悪趣味極まる。
悪いけど、そういう理由で兄弟姉妹である君達を俺が別つ』
口調は穏やかに、けれども恨めと意図を込めて言う。
そんな我儘、私が言える立場でもないのに。
また私を試しているのか、それとも本当に善意だけで言っているのか。
この人の本心は、電話越しでも、きっと対面していたって分からない。
でも、そんな事はどうでもいい。
上の従兄弟のことなんて、知りたいと思っていないのだから。
私がこの人に興味を抱いているのは、たった一つだけ。
「姉と出会うには、私は何をすれば良いのでしょうか?」
この人は、私と姉を会わせられないと言った。
けれど、永遠の別れになるとは言っていない。
手段があって、目的があるなら、私だって頑張れる。
本当は努力なんて嫌だし苦しいけど、今だけはそう思い込んだ。
『うん、駄々をこねて求めるだけより、ずっと好ましい』
上の従兄弟は思っていたよりもお喋りだった。
晩餐会での端的な物言いは、今に限って言えば冗長とさえ言える。
そんな私の不満を感じたのか、僅かな苦笑が電話越しに聞こえた。
『それで、君達を会わせられる条件だったね。
答えは、至って端的だ。
……強く、なるしか無い。
君が、親に向かって言い返せるくらい。
少なくとも、君と関わるだけで朝日さんが害されることが無いように』
単純で、それ故に難しい。
この人は、私に自立を促しているのだから。
私は、まだまだ文字通りの子供でしかない。
だからこそ、その先行きは途方もなく感じる。
暗雲が立ち込めて、先を想像するだけで徒労感を感じそうだ。
でも、それでもと、私は気持ちを確かめた。
姉と再会できて、幸せだったことを。
姉との交流で、世界が広がったことを。
姉と分断されて、心が引き裂かれそうだったことを。
姉が居た1年、これまで生きてきた時間に匹敵するくらい、幸せと楽しさに満ちていた。
それをくれたのは、間違いなくあの人だから。
私は、もう既に施しようも無いくらいにシスコンにされてしまっていたと自覚する。
だったら、頑張れると自分に言い聞かせる。
今、私の持っている武器はシスコン魂だけなのだから!
「ありがとう、ございます。
姉の無事を知らせてくれたことも、ありがとうございます。
お陰で、少し安心できました」
『どういたしまして。
大人の気遣いが子供に見破られるようでは、俺も未熟だな』
「手段が大人気なかったから、そっちを反省して下さい」
違いない! と思ったよりも爽やかな笑い声を残して、その通話は終わった。
私は、そのままベッドに倒れ込んだ。
もう、この人と電話をするのは懲りごりだと思いながら。
ただ、倦怠感の様に纏わり付いていた無力であるという気持ちは晴れていた。
やるべきこと、やりたいこと、それらが決まったから。
なので、今だけはこの脱力感に身を任せる。
明日から、この妹は頑張らないといけないので。
「明日から本気出す……なんか駄目なフラグみたいですね」
もっと、良い標語がないかと考えてみる。
グチャグチャとした頭の中を、解すみたいに。
そして一つ、思いついた。
「なろうなろう理想になろう、明日は理想の木になろう」
これだ、と理性よりも感情が訴えた。
少なくとも、負けフラグは立っていない。
「姉、待っていてくださいね。
妹は理想の木になりますから」
目を閉じて、そのまま姉を空想した。
今日はこのまま寝たら、きっと良い夢見だろうなと思いながら。
次回で、第1章完! となぐり書きのプロット書いてありました。