月に寄りそう乙女の作法 Nomadic Rapunzel 作:ペタンコ
あと、滋賀編が想定よりも大分伸びたので、1.5章としておきました。
今回はりそなとお兄様視点です。
それは、姉が出ていって半年が過ぎたくらいのこと。
兄の様子が、あれからずっとおかしかった。
言動がおかしいのは何時ものことだけれど、様子までおかしな兄を見るのは初めてだった。
あの日、姉が家から追い出されてから、兄から表情が抜け落ちた様になっていた。
母の前では平然と“気が違っておりました”と言うくせに、母の見えないところでは透徹した目になる。
あの激情家で、傲岸不遜で、色で表すならば赤の兄が。
何を考えているのか、何を思っているのかが分からない。
姉が居なくなってから、兄はまるで仮面を被ったみたいになっていて。
私のことに関しても、今までは視界に入れば鬱陶しそうにするのに、今では居ないもののように扱われている。
前までは怒鳴り散らされる様な失敗をしても、今では何の感情も見せることはない。
前も恐ろしい人だったけれど、私は今の方が恐怖を感じる。
だって、前はどれほど劣っていようと、一応は人間の扱いをされていたから。
今は、兄の気まぐれでゴミのような扱いを受けるかもしれない。
そんな疑心ばかりが、私の中で大きくなっていく。
だからこそ、私は安心した。
――姉のことを話した時、僅かに兄の顔に色が戻ったから。
「……やはりな、この現代社会で人一人がまるごと消え失せることは有り得ない。
死体が出ていないのであれば、誰かが埋めたか匿っているに相違ない。
そして、アレを手札にするメリットを持つ者も、おおよそ限られている」
駿我め、と舌打ちをする兄には、確かな忌々しさが表情に出ていて。
安堵と同時に、震えも同じく体から現れた。
兄のその目が、私を捉えたから。
「それで、りそなよ。
アレの居場所を報告したのは何故だ、何を企んでいる?
お前は俺を恐れている、それは間違いない。
だが、雌犬の子に関して、貴様が妥協しないタチであることを俺は知っている」
兄が目を細めるだけで、私は一歩後ろに引き下がってしまう。
さっきまでの正体不明の怖さではない。
心が覚えている、規格が違う上位者に対しての怯え。
ここで、私は思い知った。
この人がそう簡単に変わるわけがない。
姉が居なくなって気落ちしていた訳ではなかった。
単に、私に覗かせていた僅かな信頼すら隠してしまっていただけで。
兄にとっては、血を分けた肉親ですら油断してはいけない人になっていて。
ここで初めて、前まで僅かなりとも兄が私を妹扱いしてくれていたことを知った。
「私は、衣遠兄様と敵対するつもりはありません。
だからこそ、こうして姉のことを話しています」
半分は本当で、もう半分は嘘を吐いた。
兄に従属するなら、上の従兄弟から報告を受けた時点で直ぐに知らせている。
それをしなかったのは、姉をこれ以上困らせたくなかったから。
だから上の従兄弟が姉を隠し、防備を固められるまで話をしなかった。
そうした上で今更話すのは、さっき言った通りに兄と敵対するつもりがないから。
もし私が兄を心から裏切ったのなら、姉は心から悲しむ。
姉は、本当に疑問に思うけれども兄のことも好きだから。
それに……、
「だが、駿我は雌犬の子を手に入れた。
故に、お前に連絡を寄越した。
お前が、アレの為ならば俺を容易く裏切ることを知ってだ。
そんな貴様の言葉を、何を持って信じるに値するというのか」
兄の言葉は、確かに正しい。
私は兄か姉かと聞かれれば、迷いなく姉を取る。
けれど、それは崖から落ちかけていたらどちらを助けるかという二択での話。
兄は健在で、足を滑らせる間が抜けたことをしないと、私は何よりも知っている。
そして、兄が今、何を恐れているかということも。
「怖いのですか、衣遠兄様」
「――何?」
声に険が交じる。
上位者としての態度が崩れて、激情家としての兄が面を覗かせた。
間違いないと、いま確信する。
兄は、姉のことに関して我慢ができないということを。
「誰かに裏切られることに対して、です。
前の兄ならば、圧を掛けるだけ掛けて、私を泳がせるくらいはやってみせた筈。
でも、今はひどく慎重です。
……姉が、衣遠兄様の下を去ってから」
まるで当て付けるような言葉になってしまっていた。
けれども、怯えているだけでは会話が出来ないから。
精一杯の勇気と姉を想うことで、自分が逃げられる橋を落としてしまった。
背水であるのだから、会話をせざるを得ない状況へと自分を追い詰める。
もう、傍観しているだけでは嫌だから。
何かが起こった時、私も何かを起こせるようになっている必要があるから。
「言いがかりでマウントを取ったつもりか、愚かなる妹よ。
アレが売女の娘であることなど、百も承知していた。
俺の命であれ裏切るのも、それだけで納得がいくというもの」
「姉に裏切られたと、そう思われているのですね」
「くだらない揚げ足を取って何になる。
余計に俺の神経をささくれ立たせるだけだと分からないか、無能なる妹よ」
「衣遠兄様の、あの時の切実な声。
家族を想う声を、初めて聞きました。
電話越しであれ、忘れられる筈ないです」
“お前は、俺の妹で居なければならない”
あの時、兄は確かにそういった。
私が初めて聞いた兄の執着、それは姉に対するもの。
後になって思い返し、驚いて、そうして納得した。
あの姉ならば、兄の心を溶かすことも出来るかもしれない、と。
そして、だからこそ兄よりも母の言葉を優先した姉に対して、裏切られたという気持ちになったのだろうと。
「……黙れ」
「いいえ、黙りません。
衣遠兄様は確かに姉を、大蔵朝日を想っていました!
貴方は、あの人を大切に想っていた!
それは間違えようもない事実です!」
「――黙れとッ、言っている!」
机を殴りつけた兄の声で、自身の勢いが止まるのを自覚する。
そして、取り繕いもない程に激高している兄の姿に、恐怖が身を浸していくのも理解して。
兄が私を睨みながら近付いてくることに対しても、私は震えて足を動かせなくて。
私の服の襟首を掴んで引き寄せることに対して、微塵も抵抗することが出来なかった。
「お前がどれほど囀ろうと、俺の言葉こそが事実!
アレが居なくなったことに対して、俺が苦しみを覚えるはずがない!!
あの時に舐めさせられた苦渋に対しての怒りのみが俺を支配し、行動させる!!!
忘れるな、愚かなる妹よ!!!!」
地面に叩きつけられるように、その手を離される。
ケホケホと咳き込む私に、兄の呟きが何故だかクリアに聞こえた。
「この俺が執着などと……おのれ、忌まわしき雌犬の系譜がッ」
その日から、私は兄に話し掛けることはなかった。
あれ程の怒りを買って恐ろしかった。
我に返った自分を、心の底から本気で呪った。
だけれど、あの日から兄の顔に色が戻っていた。
そうして、私の顔を見ると忌々しそうな表情を浮かべる様になっていた。
これは多分……本当に希望的観測だけれど、私を妹として扱ってくれていると思うことにしている。
偶に会話して、舌打ちされて、吐き捨てられる。
それが私と兄との関係、微塵も好きになれない身内。
けれども、確かに私は兄を兄と認識していて、私にとっては唯一の肉親である様に感じる。
母を許せそうになくて、父は家族全てを遠ざけているから。
それに、私は上の従兄弟に対して感謝こそしているけれど、信頼は微塵もしていない。
兄が姉を好きに扱う権利があると思い込んでいたように、上の従兄弟が姉の生殺与奪を握っている現実が不安で仕方ない。
あの人は怖い人で、気楽に話をしてくる中に計算が幾つも隠されている人だから。
だから、兄に姉のことを話した。
兄が上の従兄弟に噛みついている間は、姉はキチンと人質として機能しているし、粗略に扱われることがないのだから。
こういう計算ができるようになった自分に憂鬱になりつつ、自分の出来ることにコツコツと取り組んでいく。
そうすることしか、姉に会える道が無いのだから。
けれども、私は少し勘違いしていたかもしれない。
兄は、私の計算の上で踊り続けてくれる程に小さな人物ではなくて。
そして、世の中には私の知らない事実というものが存在するということに。
いわゆる大人の事情という世界について、私は知っている様で知らなかった。
だからこそ、私は兄がトチ狂ったのかと思った。
ある日、どこか知らない別荘に連れてこられて、3月の中頃まで面倒を見ろと知らない女の子を押し付けられた辺りで。
「こんにちは、メリル・リンチです」
「えぇ……」
駿我は、恐らく時期を待っている。
後継者争いが激化し、その攻防の中で使える切り札。
それがアレの扱いで、だからこそ後生大事に隠している。
であればこそ、ジョーカーと思いこんでいるカードがブタであったと思い知らさなければならない。
役立たずであるのならば、拘る必要はなにもないのだから。
なればこそ、より強力な手札が必要だった。
雌犬の子の価値を落とし、家中を掌握するに足る鬼札が。
それに、一つばかり覚えがあった。
始めに、欧州に潜ませている駿我の配下を根こそぎにした。
如何に駿我といえど、アレを守るのに必死でこちらにまで人員を回しきれていない。
共同で封印したモノで、駿我もその危険性については承知している。
故に、今は無き家の亡霊を呼び起こすのは博打とも言える。
だが、現在は駿我の策略こそが俺を脅かし、立場を不安定にさせる。
メリットとデメリットを比較した時、座して待つ愚かさを上回る劇薬がそれだった。
「アレに……朝日という女に会わせてやろう」
だからこそ、俺はそれに手を差し伸べる。
駿我の妨害を粉砕し、ついでにアンソニーに蹴りをくれてやり、俺はここに立っていた。
「朝日は……朝日は元気でやってますか?
急に手紙をくれなくなって、事情を知りたくても分からなくて。
ずっと、心配していました」
「それを知るためには、お前がここから旅立つ必要がある」
「この場所に、このサヴォアに戻ってくることは出来ますか?」
「全てが終わり、貴様が用済みになれば可能だ」
「わかり、ました、付いていきます」
雌犬の遺伝子というものは、誰であれ蕩けさせるのだろう。
たとえ、それが女であろうとも。
それ程に、この女からは決意を感じられた。
「メリル・リンチです、よろしくお願いします」
「大蔵衣遠、これより俺は貴様の飼い主であり、貴様は俺の駒だ。
それが、この契約の条件だ」
「はい……ところで、貴方はお兄様でしょうか?」
「大蔵衣遠だ、お兄様などではない」
「いえ、朝日が手紙に書いてました。
とても素敵で、大好きで、尊敬できるお兄様がいるのだと」
「……………………衣遠と呼ぶが良い、お兄様などと間違っても呼ぶな」
「はい、衣遠さん」
アレは、俺が手紙を検閲していたことを知らなかった。
だが、抜け抜けと俺を称賛し、くだらないことを書き連ねていたことをこちらは知っている。
知っているからこそ忌々しい、古い写真に触れて指を切った感覚が近い。
愚かで、愚鈍で、平凡な小娘。
だが、人の心に土足に踏み込んで住み着く、厚顔さを持ち合わせている。
しかし、俺は知っていた筈だ。
アレは飼い主に尻尾を振る能はあれど、飼い主に噛みつく野心も才覚も持ち合わせていないことを。
なれば、あの時の行動は、本気で俺を案じた末の行為であったということになる。
そうであったのならば……、
「愚か者め……」
奴の愚昧さを見誤っていた俺もまた、目が曇っていたことになる。
無能なものはやはり、害にならないように檻に閉じ込める必要がある。
二度と逆らえないよう、躾ける必要があった。
そうでなければ、あの死んだ女を、幽閉している父に思い知らせることなど、出来るはずがないのだから。
故に、俺はアレを掌握しなくてはならない。
俺が俺で、大蔵衣遠であるために。
その過程に、復讐以外の感情が折り混ざることなど有り得ない。
「次は、ない」
愚かなる雌犬の子を、屈服させる必要がある。
俺の言うことに対して、はいと頷く様にしなければ。
もう二度と、俺の掌から逃げ出そうと思わないように。
「駿我か、俺だ、大蔵衣遠だ。
状況はもう把握しているのだろう?
ならば、今のうちに頭を垂れる権利をやろう。
雌犬の子と山弌家の遺児では、当然価値が違いすぎる。
あの爺がどんな判断を下すか、それも理解できよう」
『こうもあっさり不可侵を破り捨てるとはね。
山弌家は既に消滅したと思われていた筈の家。
その家の系譜がまだ続いていたとなれば、総裁殿は勢いのままに全てをその子に捧げかねない。
だからこそ、山奥に見つからないように隠したんだろう?
その子を利用すれば、お前は自分で自分の野心を潰すことになるぞ』
「構わない。この女が当主になろうが、爺は相当な歳だ。
ならば、奴が死んだ後に俺が大蔵を掌握すれば良い」
『なら、結局のところ、俺がお前に頭を下げる理由はないな。
俺はお前が大蔵の全てを掌握させないために、総裁の座を狙っているだけだ。
一度その子が総裁の座に着くというのならば、俺がその後ろ盾になれば良い』
「そうして、傀儡として大蔵を牛耳る黒幕になると。
クク、陰険な貴様らしい策だな」
『お前にどうこう言われようと、考えを曲げる気はない。
だから何を言われようと、俺は退かないし……朝日さんを引き渡すつもりもない。
脅迫のつもりだったのだろうが、共倒れはこちらの望むところだ。
逆に衣遠、お前が焦っているのが手に取るように分かる。
でなければ、こんな短絡的な手段は取らない』
「いいや、俺の方こそ分かる。
お前の焦燥が! 強がりが!
冷静に俯瞰すれば分かる筈だ、駿我。
己が置かれた状況を、そうして強がるしか策がない現状を!」
『俺としても、このまま強情を張り合っても良い。
確かに富士夫一家は、暫し劣勢に立たされる。
だからといって、即座に大蔵家から排除できる訳がない。
そしてお前は、一つ見落としをしている。
山弌家の子が、幽閉していた俺とお前を許しておく訳があると思うか?』
「クク、ククク、カハ、ハハハハハハハ!!!」
『……何が、おかしい』
「残念ながら、お前の願望は何一つ叶わない。
何故なら、奴が望んでいる願いは一つのみ」
うまく行っている。
全てが望むままに、自分が望んだ方向に運んでいる。
その絶対の自信を持ったまま、俺は高らかに告げた。
「大蔵朝日、奴の願いはアレとの再会のみだからだっ!」
『……なるほど、そう来るか』
「取引しようじゃないか、駿我。
なに、悪い話ではない。
これが守られる内は、メリル・リンチを爺に見せびらかさずにおこう」
『何が望みだ』
苦々しさが垣間見える駿我の言葉が、とても甘美に感じる。
最早やつが、この選択を避けうることはない、避けても無駄だと理解しているからだ。
取引に応じて傷を最小限に留めるか、それとも爺に話が回って余計に話がややこしくなるか。
馬鹿でなければ、選択肢は一つしか無い。
「アレを、朝日をフランスへと連れてくるがいい。
爺に監視されず、ことを運ぶには最適な場所だ」
『…………分かった、従おう』
「ククッ」
自然と零れそうになった笑い声を、最小に抑える。
ようやく、アレが手元に戻ってくる手筈が整ったのだから。
『だが、一つ訂正させてもらおう』
そんな愉悦の中で、駿我の声が聞こえる。
寛容な気分でそれに耳を傾けると、駿我はおかしなことを言った。
『アレとか、雌犬の子とか、猥雑な表現を止めてもらおう。
君の妹の名は朝日だ。
尤も、今の発言で彼女のこれまでの扱いが分かるというものだ。
やはりお前は信用できない』
言い捨てるように、電話が切られる。
あとに残ったのは、言いようもしれない不快感だった。
何故かと分析すれば、自ずと答えは明確になった。
駿我が、道具であるはずのアレに対して、まるで自らが庇護を与えているかのような……。
そこまで考えて、有り得ないと首を振った。
あの爬虫類の様な男が、そんな感情を持ち合わせているはずがないのだから。
あるのは有益か、そうでないか、それだけ。
それだけの、はず……。
「何だというのだ、この不快感はッ」
どうしようもないムカつきに、体を支配される。
だが、暴れるという選択を取るほどには、それは明瞭な形をしていなくて。
それを振り切るように、席を立った。
久しぶりにトンカツを食べようと、そう思って。
あの日、あの愚妹が消えてから、食べる気が失せてしまっていたから。
自分に振る舞って、まるで犬が懐いてるようににこやかにしていたあの顔を思い出すから。
全てが錯覚、そんなものはマヤカシに過ぎないと、自分に言い聞かせて。
好物があの妹に囚われたまま食せぬ等という軟弱さを、再びまみえる前に振り払う必要があった。
「俺は全てを手に入れる。
大蔵家も、トンカツも、愚かなる妹も、全てッ!」
そう、でなければ許せない。
それこそが、大蔵衣遠の生き方なのだから。
to be continued
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