月に寄りそう乙女の作法 Nomadic Rapunzel 作:ペタンコ
『これより俺は貴様の飼い主であり、貴様は俺の駒になる。
それが、この契約の条件だ』
私が朝日と再会するための条件。
それは、この人の言う通りにすることだった。
「衣遠さん……」
「来たか、メリル・リンチ」
酷薄な笑みを浮かべているこの人は、何を考えているのか。
それが分からないまま、私はプランケット家が経営するホテルにやって来ていた。
エッテが日本のお菓子をおみやげに持ってきた翌日は、この場所に来いと指示をされていたから。
「無理に、酷い笑顔を浮かべない方が良いと思います」
「クク、早々に何を言うかと思えば。
甘い蜜月を、存分に楽しんだだろう。
尤も、お前はヤツにとって一番ではなかったようだが」
衣遠さんの言葉は、楽しくて仕方ないといった風だ。
私が、どれだけ朝日に焦がれていたかを知っているから言える言葉。
朝日が今はリリアさん達を優先していて、それで寂しかったのは確かだ。
でも、と思う。
「それでこそ、朝日だと思います。
リリアさんは落ち込んでいました。
彼女を励まし、元気付けるために一生懸命だった朝日は正しいです」
「つまらん解答だ、本心がまるで見えない。
隙を見せていないつもりか?
無駄な抵抗はよせ、愚かなる灰かぶりよ」
衣遠さんは、あまり人を信用していない人だ。
だから、私が伝えた気持ちも受け取ってくれない。
困った、と思ってしまう。
朝日なら、こういう時はどうするのだろう。
この人の心に、キチンと気持ちを届けるには、と。
「私は朝日に会いたくて、こうして再会させて頂けたことに感謝しています。
だから、衣遠さんに嘘を言う理由がありません」
「クク、欲をかいて自滅する人間などいくらでもいる。
アレ欲しさに俺を裏切る、実にありそうな愚行だ」
衣遠さんの言葉を、悲しく思う。
それは、信じてくれないから生じるものではなく、この人が誰に対しても心を閉ざしてしまっている故に覚えたモノ。
固く閉ざされた心の扉の取手を、私は回す術を知らない。
鍵を持っているのは、ここにはいない彼女に他ならないのだから。
胸に苦しいものを抱えながら、私は彼女のことを想う。
朝日、きっと貴方しか衣遠さんを助けてあげられない。
私では、悲しいことにどうにもしてあげられない。
私が勝手にいなくなって、朝日はきっと驚いている頃だと思う。
必死になって、私を探してくれてるのも分かっている。
そうなると分かっていて、事情を話さなかった私が願うのは凄く身勝手だ。
それでも、と貴方の事を想ってしまう。
助けてあげて、どうかこの悲しい人を。
棘だらけで、誰も触れないハリネズミみたいな人を。
朝日は、この人が家族で誇らしいと手紙に書いていた。
この人も、朝日のことをとても気にしている。
だから、噛み合えばきっと、やり直せるはずだから。
「衣遠さんは、朝日のことをとても魅力的に感じているのですね」
「――何だと」
そうなるには、私がどうすれば良いのか。
考えてみれば、とても答えは簡単だった。
伝えれば良いんだ! 朝日の良いところをいっぱい!
私が上辺だけの言葉をいっぱい並べるよりも、きっと効果がある気がする。
真心は伝わるって、マザーも言っていたから。
それに、修道院でオルガも言ってた。
”気になる子に意地悪するのが、男の子”って。
「私も、その気持ちは分かります。
朝日のことは沢山好きで、衣遠さんにとても感謝しているから」
衣遠さんは、苦いものを食べてしまったみたいにこちらを見ていた。
だから、精一杯の甘さで私はその顔を解きほぐせたらと思って。
「朝日の、誰にだって優しいところ。すごく器用で、何だって簡単にできてしまうところ。誰かの助けになりたいと、一生懸命なところ。物覚えが良くて、教えると服を縫うのが直ぐに上手くなってくれるところ。お料理がとても美味しくて、毎日だってこのご飯を食べたいなと思わせてくれるところ。お掃除が得意で、玄関を掃いているのがとても素敵なところ。知らないことを、優しく教えてくれるところ。嬉しい時に、一緒になって喜んでくれるところ。悲しい時に、優しく手を握ってくれるところ。それから――」
「もういい、黙れ」
私の声を、衣遠さんが遮った。
さっきのお薬を丸呑みしたみたいな表情は無くなっていて、無表情に……朝日の手紙に書くところのギリシア彫刻のような無機質さで包まれていた。
朝日のことを話し始めて、先程までとは違って分かりやすく心を閉ざしてしまった。
それに、戸惑いよりも寂しさを感じてしまう。
「貴方のことを語る朝日の、誇らしげで寂しさの影がある表情を知ってますか?」
だから、もう少しだけと眼の前の人の苛立ちに見ないフリをした。
貴方の知らない朝日を、側に居られなかった分だけ心の隙間に届けられたらと思ったから。
「朝日は衣遠さんと言葉を交わして、食事をして、服飾について語らって、そうして側に居られればと話してくれたことがあります。
今はできないけれど、そうなれるように努力したいと。
朝日の服は気持ちが籠もっていて、優しくて、それなのに情熱を感じさせてくれる。
服が縫えるのだって、お兄様のお陰だって言ってます。
朝日は、貴方のことを忘れていたことなんて一度だってありません。
あの子を知っているなら、衣遠さんだって分かりますよね?」
衣遠さんの目に、光が宿った。
強く何かを想っている、そんな意志が宿った目。
音もなく私の側にまでやってきた彼は、私を見下ろしながら告げた。
「茶番は終わりにしろ。
でなければ、永遠にアレと引き剥がす。
俺はそれを簡単にできるのだと、今後は弁えておけ」
淡々と、けれども苛烈な眼光に射竦められて、私は震えてしまった。
十数センチの身長差と、男の人に怒りを持って見下されるのは初めてで。
それでも、と声を絞り出す。
もし朝日と会えなくなったら悲しいけれど、あの子が幸福になってくれるのが一番だから。
「朝日は、いつだって貴方の味方で居たいと思っています……」
囁く様な声で、どうにかそれだけが私の口から絞り出された。
衣遠さんは答えてくれずに、そのまま部屋を後にする。
不安でいっぱいになる胸をギュッと、衝動的に掴んでいた。
どうか、朝日の声だけでも、あの人の心に届いてくれますようにと主に祈りながら。
――奪わなければならない。
それが、最初の計画だった。
あの日、あの場所で、俺は奴を失った。
愚かにも、自らこの俺の庇護の下を離れた。
兄である俺の、所有者足り得るこの大蔵衣遠の下を!
許されざる愚行、未だにあの日のことは忘れてなどいない。
この俺に、屈辱をアレは与えたのだ。
あの日に、俺を慮ったつもりで、だ。
故に、与えることから始めた。
かつて分かたれたモノが、己が内に戻ってくる。
僥倖などではない、この俺が、意のままに状況を整えたに過ぎない。
だが、奴は思い通りの喜びを露わにした。
かつての友との再会に笑顔を振りまき、愚かにも特に深い理由を考えずにそれを受け入れた。
想像通り、成長の欠片も感じさせられない愚鈍さだった。
だからこそ、こうして奪われる。
いつまでも、どこまでも弱者足りうる証左であった。
草食動物の方が、まだ危機感を持っている。
愚者でさえ、経験から学ぶという。
ならば、それすら行えない者は何と形容するのか。
――そう、家畜だ。
奴は飼いならされた、そして何時か食い物にされる犬だった。
馬や牛ほど役には立たない、愛玩動物以上の価値は奴にはない。
愛されている訳ではない、愛玩されているに過ぎない。
であるからには、それを教えるのが躾というものだろう。
駿我は、放任することでアレの自我を肥大化させた。
調べたからこそ、読み取れる。
奴が他人にアレを預けて、傍に置かなかったことを。
つまりは、利用するだけの能力を有していないことを駿我は理解しているのだ。
だからこそ、前にアレを気掛かりにしているようだった、奴の態度が気になるのだが。
駿我は、幼児性愛者の気はなかった筈だ。
だが、それならば何故……。
「待て、何をそこまで気にしている。
よもや、アレが駿我を篭絡したとでも言うのか。
…………いや、あり得ない。
その様な知恵を、アレは有していない。
安穏とした日々を貪るしか能がない者に、その様な芸当はできまい。
いやしかし、ならば……」
幾ら雌犬の系譜とは言え、駿我がそれに嵌まる愚を犯すはずがない。
そもそもが、感情を持たない爬虫類の様な輩であるのだから。
であれば、駿我がアレを気にかけていた理由は一つだろう。
「なるほど、アンソニーにでもくれてやる気か」
アレが住まう場所に、足繁く愚かなる従弟が通い詰めているのは知っている。
アンソニーと番わし、ジジイの情に訴えて晩餐会の票田にするつもりならばありえなくもない。
大方、この娘にも大蔵の血は流れていて、アンソニーの嫁ならば卑しさも覆い隠せるといった腹か。
奴にしては悠長な策ではあるが、打てる手を幾つも放っているつもりなのかもしれない。
「だが、だとすれば、奴は俺の敵になり得ない。
ジジイは、アレが生まれた時に名は与えるがそれ以外を全て与えなかった。
今更認めるはずがない、忌々しき母も絶対に許さないはずだ。
そうであるのならば、何の根拠があって――」
その時、ようやく奴の思惑の一端を感じ取れた。
あの小娘、メリル・リンチだ。
今まで小娘を保護していた功績を誇って、ジジイに取り入るつもりなのだろう。
本来ならば、もっとやりようがあったはずだが、肝心の小娘は我が手中にあり。
使える内に、ゴミ札をジョーカーと偽るつもりなのだ。
俺がシラを切っても、アレと過ごした小娘の痕跡は点在している。
DNA検査の結果を見せれば、総力を上げてジジイは捜索するだろう。
そうなれば、いくら俺と言えども隠しきれるものではない。
駿我も今まで黙っていた咎を受けるだろうが、それ以上に隠し立てした俺の権勢は地に落ちる。
他者を上回ることを諦めた、陰険で醜悪な策だ。
如何にも、奴が好みそうな陰謀である。
だが、腹の中を分かっているのならば簡単だ。
その裏を掻けば良い、幾らでもやりようはある。
諸共に自爆などさせはしない、地獄には一人で落ちろ。
「クク、クククッ、浅はかなり駿我!
感情を偽ったつもりだろうが、この俺に見抜けぬものなど無い。
貴様の詭計、しかと逆用させてもらうとしよう。そして――」
そうして、駿我の庇護が無くなった後に、ようやく全てが始まる。
あの日の屈辱、あの時の衝撃、あの瞬間の心の叫び。
全てを、アレに返さなければならない。
泣きべそをかき、己が無力を呪わせなければならない。
――アレに与えて良いのは、俺だけだと思い知らさねばならないっ。
「待っているがいい、愚かなる妹よ。
全てを終わらせ、お前を覆う偽りの世界を破壊してくれる。
愛などという巫山戯た幻想を取り払い、力こそが全てと分からせてやる」
アレは笑って、日々を過ごしている。
アレは楽しみ、日常を過ごしている。
アレは喜び、毎日を寿いでいる。
到底、許せることではない。
自覚させなければならない。
自身が俺のモノであり、全てを俺に管理されなければ生きていけないのだと。
そうと決めて、俺は内線から秘書に食事の準備をしろと言いつけた。
幾多の束縛から解き放たれる道筋を見つけ、歓喜の念が湧き出てくる。
その熱を逃さないように、エネルギーを摂取する必要があった。
「社長、失礼致します」
秘書が持ってきた白米の盛られた茶碗に、俺は高級卵を落とし、掻き混ぜながら容赦なく醤油を注ぐ。
まるで、醤油を卵で希釈したかの様な色合いに、食欲が刺激された。
そのまま、俺は箸でどす黒く変色した米を掻き込んでいく。
「旨いっ、アミノ酸が迸っているっ!
この旨味を理解できないものはいない!!」
秘書は飯を置いて退室し、この部屋は一人きりだった。
だが、まるで何人も部屋にいるかのような熱量が俺には備わっていた。
猛っている、忌々しくも遂にあの妹に分からせることが出来ることに。
「クク、クハハッ!
心しておくがいい、愚かなる妹よ。
最早、とんかつを作ることにしか人生の意義を見出だせなくしてくれる!」
あの時に止まった、俺の中の時が動き出そうとしている。
とんかつを食することすらままならず、好物でさえアレに支配されていたという怨念返しせねばならない。
俺の目は、恐らく憎悪で塗れているだろう。