月に寄りそう乙女の作法 Nomadic Rapunzel 作:ペタンコ
お兄様の足が、私の正面で止まった。
今、お兄様が私の目の前に居る。
その事実が夢みたいで、でもどうしてこんな状況になっているのか分からなくて。
心が動揺したまま、落ち着けない。
「これはこれは、イオン殿。
ご用事は済まされたようで、何よりです。
アサヒさんを退屈させないように、少しばかりのお話をさせて頂いていました」
この中で、真っ先に話し始めたのはラグランジェ伯だった。
何の気負いもなく、何の躊躇いもない。
空気を破るような、そんなマイペースさがあった。
「ラグランジェ伯、ご配慮痛み入ります。
ですが、久方ぶりの兄妹の歓談をさせて頂きたい」
お兄様は口調は丁寧に、けれども素っ気なさを滲ませていた。
何というか、最低限の礼儀を纏っているといった感じで。
その言葉に、ラグランジェ伯は頷いたのだろう。
そっと、この部屋から離れようとしていた。
「確かに、それならば積もる話もございましょう。
イオン殿、ごゆるりとなされてください。
アサヒさんも、わだかまりなく話せることを願っております」
にこやかな口調でそう言い残し、ラグランジェ伯は颯爽と部屋を去っていった。
このお屋敷で、お兄様が一番尊重される存在であるかのように。
「狸めが」
伯の姿勢に、そんな言葉をお兄様は残して。
――視線を、感じた。
見下ろされている、私のことをお兄様が見ている。
あの日以来の、思い出の中にだけ存在していたもの。
それが、私の手の届きそうなところにある。
その事実に、どうしようもなく混乱させられる。
事実が嬉しくて、けれども恐ろしくて。
私は、ずっと俯いたままでいた。
「フン」
そんな愚妹に、お兄様は呆れられたのか。
私の顎に手を添えられて、お兄様の方へと顔を持ち上げられてしまった。
「おにい、さま」
精悍な顔立ち、美しいと言えるギリシア彫刻の如きお顔。
けれども、より大人になられていた。
身長差はかつてよりも縮んで、お兄様が近くに感じる。
あの日よりも、私もお兄様も成長されている。
それが、私達が離れていた年月の長さを実感させられて。
「お久しぶりです、朝日です」
忘れられていないかを確かめる様な言葉が、私の口から溢れていた。
妹の臆病を悟られたのか、もしくは気にされてなんていないのか。
表情を変えずに、お兄様は私の顔を覗かれて。
その手が、サラリと私の髪をなぞったところで、思い出したように口に出された。
「……やはり、似ている」
誰に? そんな言葉は、きっと愚問だ。
私が、旦那様に似ているとは思えなかったから。
なら、きっとそれは……。
「髪、また伸ばしてみました」
お兄様が、伸ばしてみろと言っていたから。
きっと、長い髪がお好きなのだと思って。
思えば、お母さまの髪もそうだった。
あの分かたれた日から、多くの人と交流を持ってきた。
人生に彩りや交流が増えて、より多くを知った。
それでも、お母さまの髪は特に綺麗だったと思える。
「どう、でしょう?」
後ろめたさから目を逸らしていたお兄様を、見上げてその目を覗き込んでしまう。
我ながらひどく現金で、浅ましい。
けれど、お兄様に言葉を掛けてもらえる期待を捨てられなくて。
「――だが、違う」
だから、その言葉に冷水を掛けられてしまっていた。
肯定的な言葉でないことだけは、確実だったから。
期待は萎み、お兄様の瞳に映る私は、何だかションボリとしていて。
そんな姿をお兄様に見せているのだと思うと、申し訳無さが湧いて出てくる。
「あの女は、今にも死んでしまいそうに諦めて笑う女だった。
お前のその笑い方とは、全くの別物だ」
お兄様の評に、はてと小首を傾げる。
私の知っているお母さまは、疲れた様に笑うこともあるけれど、お兄様のいう様な笑い方は見たことがない。
色々な笑みを見せてくれて、私といるのが楽しいと、嬉しいと、幸せだと思ってくれているという実感を与えて下さった。
だから、やはりお兄様の言葉に違和感は拭えなくて。
「お母さまの笑顔は、元気を与えてくださる素敵なものでした」
生意気にも、私はささやかな反駁を行なっていた。
恐らく、お兄様は確かにそんなお母さまを目撃したのかもしれない。
けれど、それは一面に過ぎないのだと。
万華鏡の様に、見方を変えれば別の側面も見えるものなのだと。
「私はその笑顔によって育まれて、幼少期を育ちました」
それは、親としての責任感だったのかもしれない。
もしかしたら、無理をして浮かべていたものなのかもしれない。
でも、全てがそうだった筈がない。
口幅たい物言いだけれど、お兄様よりもお母さまと一緒に居たから。
私の方が沢山、お母さまのことを見てきたから。
「私とお母さまの笑顔は、きっと似ています」
自信を持って、そう言い切った。
我が事ながら、なんて恐れ多いことだと思う。
けれども、微塵も後悔はしていなかった。
私は、よく感情が顔に出る方だと言われる。
見れば分かると言われると、自分が単純な人間な気がして複雑だった。
けど、こうして思い返してみれば、それも当然だったのかもしれない。
お母さまが分かりやすく感情を示してくれていた様に、私もそうなっていたのだから。
あえて違いを上げるとするならば、お母さまはスイッチをオン・オフできて、私にはそれがまだ難しいという点くらいだけれど。
お兄様は、私をじっと見つめておられた。
眼か、表情か、それとも髪か。
何かしらを観察されていて、そんなお兄様を私は眺めている。
お美しい顔は芸術品のようで、きっと眺めようと思えば何時までも見ていられる。
お互いが無言で、そんな時間が過ぎていって。
「…………奴には、見せていない表情だ」
ポツリと漏らされたお兄様の言葉は、誰のことだか分からなかった。
奴と形容するからには、お兄様以外の誰か。
お母さまはお屋敷に住み込みで暮らしていて、常に私と居てくださった。
別の言い方をするなら、閉じた世界で暮らしていた。
だったら、自然と関わり合いになる人の数も少なくなる。
ならば、とそこまで考えて、一人の人物のお顔が浮かんできた。
「旦那、様?」
声に出して言ってみたそれは、何とも言えない響きであった。
何故なら、その、お母さまと旦那様がいらしたから、私は生まれた訳で。
お母さまが旦那様を愛しておられたか、それは難しいところだけれども。
改めてそれを突きつけられると、曖昧に笑って誤魔化すしかなくなる。
けれども、旦那様に対して何かしらの情は持っておられたはずなのだ。
でなければ、他者の家庭に踏み入ってまで、そういう関係になられる方ではなかったのだから。
「そうだ、奴はお前の母を慰み者にし、される側も虚弱故に寄生する対象と見定めそれを受け入れた」
お兄様の言い方は、酷く意地の悪い言い方で二人の関係を言い表した。
しかし、一面では間違いではない。
お母さまと旦那様は、そういう絆で結ばれていたのは確かだ。
幼い頃は理解しきれていなかったけど、周りの人達が陰口を叩いていたのはそういう一面があったから。
「故に、雌犬。
卑しく飼い主に寄生するしか生きていけない、愛玩の徒。
生き方だけでも、侮蔑に値すると言える」
じっと、お兄様の言葉に耳を傾ける。
それは、舌鋒の鋭さに比して、お兄様のお声が小さく、寂しげだったから。
「間違いなく魔性ではあった。
失望し、堕落しきっていたとは言え、あの男が、大蔵家の総裁候補に上がった奴が懐に入れた。
無能ではあったが、厳格さを纏っていたアレがだ」
お兄様の言うお母さまと、私の知るお母さまが重ならない。
お母さまに、その様な生き方ができるとは思えないから。
それ故に、お母さまと旦那さまは運命的なものがあったのだと思う。
それとも、何か誰かに話せない秘密を共有する仲になったのか。
二人だけの秘密を作ってしまったからこそ、離れられなくなったのか。
全部、他愛のない妄想で、答えなんて旦那様を訪ねないと分からないのだけれど。
「だからこそ、愚かなる母はあれ程の嫌悪を催した。
仮にも夫、その人物像は知り尽くしている。
それがより腑抜けて、取り返しがつかなくなった。
他者に己の所有物を取り上げられる、さぞ恐怖と憎悪を感じたことだろう。
与えられる人生で、奪われる立場になったことなどあの時まで無かったのだから」
きっと、お母さまにも事情があった。
けれど、だからといって不義が許されるわけでもない。
誰だって、結婚相手が密通することなど考えたくもないのだから。
奥様の怒りは正当で、お母さまは恨まれても仕方なくて、私は奥様にとって許されない象徴でもある。
そのことを思えば、生きていられるだけでも温情なのだろう。
「だが、愚かなる母は誤謬を犯した。
奪われる屈辱を知りながら、奪うことを躊躇いもしない。
覚悟も、努力も、実力も無いままに、己が権能を感情のままに振り回す!!
いずれ、奪われた者の刃に切り裂かれるなど、想像すらしていないだろう」
お兄様のお顔が歪む。
怒りを堪え、まだご自分の内に秘されたものを押し込める様に。
その圧に、私は言葉を失いそうになって。
「ですが、お兄様」
お兄様の仰ることに、私が口を出す権利などありはしない。
でも、思ったのだ。
奥様に奪われた、とお兄様は口にされた。
その奪われたと感じたモノの中に、僅かにでも私がいれば。
そのことで、怒ってくださっているのだとしたら。
伝えたいことが、私の中にあった。
「家族は愛して、愛されて然るべきものです。
奥様はお兄様を愛しておられて、だからこそ腕の中にいて欲しい。
毅然としている奥様の、不器用な愛情表現なのでしょう。
疎ましく感じられても、お兄様を想ってのことでしょう」
だから、分かりあうために、と続けようとして。
お兄様の表情が、あまりに冷たいことに気がついた。
まるで、無関心な他人に向けるような視線。
思わず、お兄様から一歩遠ざかる。
失望は何度もされて来たが、お兄様は見捨てずにいてくださった。
それはきっと、無能な妹に対する慈悲があった。
けど今のお兄様は、私を他人に縋られた様な疎ましさを感じていらっしゃる。
私が感じていた家族というものは、全てまやかしに過ぎないとでも示す様に。
「おにい、さま?」
恐々と、家族である確認を取ろうとする呼び方をして。
お兄様の顔色を伺い、何か嫌な予感が止まらなくて。
「――家族、血縁、それにどんな意味があろうものか」
お兄様は、私が夢を見ているものを吐き捨てた。
価値観が違う、共有できない概念として。
「大蔵家、その家の住人は俺よりも劣った連中だった。
陰謀を弄び、他者を陥れ、己が身を破滅させる。
身の程を弁えない愚図共と、老いぼれた麒麟が中身を腐らせていく。
何ら生産性のない、愚かなる一族共」
私は家族に対して、素敵で羨ましいものだと憧れていた。
私を育んで下さったお母さま、賢くて愛らしいりそな、いつだって尊敬できるお兄様、穏やかに見守り続けて下さった駿我さん。
これだけ素敵な巡り合わせがあって、だからこそ求めずにはいられなかった。
幸せな形が、確かにそこにあったから。
けれど、お兄様にとってはそうではない。
それが、酷く残念で仕方なかった。
「だが、奴らは醜く欲望は滾らせている。
求め、強欲に自分のものにしようとする。
その底なしの傲慢さは、敬意を表しても良い」
お兄様の口角が上がり、けれどもその目は私を睨めつけていた。
狩りに出る猛禽類、捕食者の如き威容で。
「最も恥ずべき者、それは流されるままに生き、唯々諾々と他者に阿り、困難からは逃げ、何者に対しても戦わぬ者!
そこまで怠惰な者は、最早人と呼ぶのも烏滸がましい!!
――家畜、そう呼び習わされて然るべき存在。
そうだろう? 愚かなる……いいや、雌犬の子よ」
体が震えた、心が凍った、背中には冷たいものが走っている。
間違いなく、今の言葉は私に向けての言葉だったから。
お兄様は私を、私の存在を許せないと、そう仰られた。
朗らかな話し合いになるとは思っていなかった、険悪になるのも想像していた。
けれども、実際に目の前に結果があると、頭が白くなりそうになる。
――でも、私はお兄様を見上げた。
私を嘲弄されている、見下している眼。
常に魂を燃やしながら生きておられる衣遠兄様にとって、惰弱な私の生き方は癪に障られることでしょう。
だからこそ、ずっと昔のままではないとお兄様に伝えたかった。
お兄様やりそなと、また一緒に暮らしたい。
ずっと夢見ていたことで、これが私の欲望だと、それを示す必要があるのだ。
それが、何よりの成長の証だから。
「私だって人間です、それなりの欲があります」
そっと、手を伸ばす。
人並みの体温、けれども少し冷たく感じるお兄様の手。
恐れ多くて、かつてはこんなことができなかった。
いや、今だってそうだ。
多分、私は照れより緊張でドキドキしている。
「何?」
困惑したお兄様の声。
意味が分からないと、戸惑っておられる呟き。
だから、私の想いを伝えよう。
お兄様の心に、届くように。
「私には夢があります。
それは家族で食卓を囲み、共に笑いあうことです。
あの時に……お兄様に拾われてからの時間に、私の幸せはありました」
笑顔に満ちて、研鑽に溢れ、育まれていたと感じる過去。
胸の内から、幸せだったと思える思い出。
お母さまが儚くなり、心が谷底にあった時に救われたあの時。
兄だと言って下さった時に、私は確かに救われていたのです。
「お兄様が与えて下さって、りそなが実感させてくれたもの。
与えていただいた分だけ、お兄様にも届けたい。
――お兄様を、愛しておりますから」
臆面もなく、むしろ胸を張って。
恥じらいなく言い切れたのは、その気持ちに偽りがないから。
でも、心はまるで、縫ったものをお兄様に見てもらうくらいにソワソワしていて。
伝えられるだけを伝えて、私はじっとお兄様の反応を伺っていた。
「…………愛、などと。
ありもしない幻覚で物事を語るなど、恥を知れ愚かなる妹よ。
この大蔵衣遠をまやかそうなどと、笑止!」
握った手を振りほどかれ、お兄様は表情を歪ませていた。
少し手を見つめ、忌々しそうに私を睨まれた。
「そうやって、貴様の母はあの男に取り入ったのだろう。
だが、それはあの男が堕落し、蒙昧と化していた故のこと。
俺に同じ手が通用するなどと思わないことだ」
お兄様の怒りに、私は何とか微笑んだ。
何となく予想はついていて、そういった感情よりも合理性を重んじられる方だから。
けれども、私の言葉が今はお兄様の胸に届けられないことは、やはり残念に思えて仕方なかった。
でも、必ずしもお兄様に愛される必要はないのかもしれない。
本当はそうあって欲しいけれど、両思いなんて世の中にそうあることではないのだから。
ただ、私がお兄様を敬愛し、尊敬しているのは間違うことのないこと。
その一点は、確信を持って胸にしまっておける事柄なのだ。
「構いません、お兄様はお兄様ですから」
この言葉を発した時、私は微笑めていただろうか。
キチンと、強がれていたのか。
自信がなくて、その難しさを実感する。
「その笑み……ふん、負け犬特有のモノだということか」
だけど、私の強がりは一応の効果があったようで。
お兄様は怒りが複雑そうなお顔に覆われて、それを隠すように無表情へと変遷していった。
私の笑みに、お兄様が何を感じられたかは分からない。
ただ、酷く触れがたいモノがあるのかもしれない。
ここではないどこかに、想いを馳せられていたように見えた。
「それではお兄様。
何時までも会話を交わし、どこまでも語り合いたくはありますが……その前にお願いごとがあります」
きっと、これ以上はお兄様の心に触れさせてもらえない。
だから、本来の目的に立ち返る。
妹としてではなくて、メリルさんの友人として。
そもそも、再会の喜びに浸るよりも、最初に尋ねるべきことだった。
出来なかったのは、目の前にお兄様が居るという事実で視界が塗りつぶされていたから。
それに加えて、もしかしたらという思いも捨てきれていなかったからだ。
笑いながらメリルさんが出てきて、心配掛けてごめんなさいと言ってくださるのを。
お兄様が、メリルさんと親しげに話しているのを。
けど、現実はそうではなくて、メリルさんは一向に現れる気配がない。
私は口を震わせながら、何とか本来の目的を尋ねた。
何か、ボタンを掛け違えてしまった気がしながら。
「メリルさんをお返しください。
私だけでなく、彼女の友人達も酷く心配しています。
どうか、お兄様……私はお兄様の物であっても、メリルさんはメリルさん自身のものなのです」
私の哀願は、お兄様の苦笑を誘っただけだった。
まるで、愚かな道理を語るものを見たかのように。
「――奴は、既にパリに居ない」
「………………え?」
言葉が、よく理解できなかった。
だって、それは約束なんて最初から守る気がなかったと言わんばかりの対応だったから。
「どう、して?」
「貴様が来る前に、駿我に嗅ぎつけられた。
奴は俺との話し合いなど、最早不可能だと理解していたのだろう。
故に、小娘は外に出した。
交渉以前に、既に決裂が決まっていたことだ」
ラグランジェ伯に頂いたメモのことを思い出す。
あれには、駿我さんが今はパリに居ないと書いてあって、つまりは何かしらの事情が生じていたということ。
それがメリルさんの事ならば納得がいく、のだけれど。
「お兄様、メリルさんは一体……何者なのでしょうか?」
もしメリルさんが、単なる私の友人であっただけならば、駿我さんは警察などの機構を頼りにしていただろう。
お兄様も、私のことだけでメリルさんを利用したといった感じではなく、彼女自身に何かしらの意味を生じている様にも感じる。
メリルさん自身が重要人物のように。
「それは、貴様の預かり知ることではない」
分からない、判明したこと以上に分からないことが増えていく。
ただ、私は空回りして、メリルさんの行方はまた分からなくなった。
メリルさんや皆さんに申し訳なく、だからこそこのまま引き下がることもできなくなっていた。
「せめて、何かしらの連絡を取りたいのです。
私はどうなっても良いので、どうか皆さんにメリルさんのことを……」
「愚かなる妹よ。
貴様の言い分など、端から聞き入れられることなどない。
要求とは、相応の条件を提示できる者にのみ与えられる権利。
お前如きは、俺の所有物に過ぎず、黙して従う木偶でいればいい。
何も期待していない、する能が無いのだから」
お兄様に腕を掴まれて、私は自らの浅慮を恥じ入った。
結局、私はずっと無力なことに変わりはなかったのだと。
心持ちが変わっても、それは立場が変わることを意味しない。
なのに、こうも奔放に振る舞ってしまった。
心配してくれていたリリアさん達に、ごめんなさいと言いたくなった、その時のことだった。
お兄様の眉が揺れた。
廊下側から、何やら声と足音が聞こえてくる。
一人はラグランジェ伯で、もう一人は……。
「待て、早まるでない、ようやく全てが治まる時局に!
このお転婆娘が、ジッとしていろ!!」
「お父様だって、品なく立ち聞きしていた癖に、偉そうなことを仰らないで!
何が貴族ですか、匹夫の如き立ち振舞で!」
「親になんてことを言うんだ!」
「家から追い出したのに、親の振りをなさらないでください!!」
聞き覚えのある、ありすぎる声。
思わず、唄う様にその名を呟いてしまうくらいに。
「リリア、さん」
「馬鹿が乗り込んできたかっ」
私の呟きに、お兄様は鬱陶しそうに吐き捨てて。
何か行動に移る前に、部屋の扉が勢い良く開かれた。
「止まりなさい、下衆!
汚らわしい手で、アサヒさんに触れないでください!!」
赤く、ルビーの煌めきを纏った髪。
それが赫怒の証に見えたのは、リリアさんの眼が見開かれて、お兄様を視線で縫い付けようとしているみたいだったから。
廊下では、青い顔をした華花さんがラグランジェ伯に組み付いていた。
やっべ、クビ確定だわという華花さんの声が、緊張感広がるこの場によく響いていた。
エッテとト兄様は、使用人相手に立ち回ってくれております。