月に寄りそう乙女の作法 Nomadic Rapunzel 作:ペタンコ
「リリアさん!」
「アサヒさん、その人は貴方の味方ではありません!
こっちに来てくださいまし!」
リリアさんは勢い良くそう言うと、ツカツカとこちらに歩み寄ってきて。
お兄様に掴まれている反対の手を、とても強い力で繋いできた。
そのまま、お兄様に鋭い視線を向けて、切り裂かんばかりの気配を漂わせる。
「ラグランジェ家の汚れた娘か。
よく恥ずかしげもなく、人前を歩けるものだ」
「賊が何かを仰っているようですが、フランス語で話さないで下さいます?
貴方程度に口にされると、音が汚れてしまいます」
「お前如きが使っているのならば、それ相応の言語なのだろうよ。
だが、望むのであれば日本語で話してやろうか?
少しは学んだのだろう、あの婚約が推し進められていた時に」
「っ、良くもおめおめと、我が家に踏み入れたものです!」
唯でさえボルテージが高かったリリアさんが、更にお顔を赤くされて激昂する。
とても嫌なことを指摘されたみたいに。
日本語を学んでいた……それだけ本気だったということだ。
お兄様との婚約を、リリアさんは受け入れようとしていた。
けれども、事件が起こり婚約は無くなった。
プライドの高いリリアさんは、それにどれだけ傷つけられただろう。
リリアさんの有色人種嫌いは、この件も一因にあるのだと思う。
「追い出された娘が、請われもせぬ内に足を踏み入れる。
その行為は、俺よりも遥かに無様だがな。
誇りはやはり穢れ、あの時に犬にでも作り替えられたか。
ならば、この無礼も理解しよう。
犬なれば、帰巣本能と呼べる範疇の行動なのだから」
「巫山戯ないで!
私たちはアサヒさんを、貴方の魔の手から助けに来ただけです!
こんな家、用事が済めば即刻出て行きますわ!」
「クク、クハハ!
この雌犬の子は、女すらも誑かしたか!
げに恐るべきは大蔵よりも、この雌犬の遺伝子なるやもしれんな」
「――何がアサヒさんのお兄様、ですか!
可憐で優しくて愛らしいアサヒさんを、雌犬呼ばわりなどと!
アサヒさん、目を覚ましてくださいまし。
これは貴方を、家族なんて思ってなどいません。
このままでは、連れ去られて性奴隷にされてしまいます!」
「下劣な女は、直ぐに下品な発想に辿り着く。
それに、そのような価値はない。
恥を知れ、屑め」
「あなたに礼節を説かれたくありません。
己の罪深さこそを恥いるべきです」
お互いに一歩も譲ろうとしない。
私を掴む力も、段々と強くなってきている。
ふと、大岡政談の中にあった子裁きという話を思い出す。
……ご勘弁、いただけるのでしょうか。
「アサヒさんを離してくださりません?」
「貴様こそ、人の所有物から手を引け。
雌犬の系譜、媚態の権化、貴様の手にこそ余る」
「その様な言葉、やはりアサヒさんに気があるから出てくるのでしょう?
なのに並べる言葉は、雌犬だのこれだの、最悪な口説き文句ばかり。
論外です、好きとも言えない軟弱な方にアサヒさんは渡せません!」
「己の感情を他人に押し付けるな、汚れたラグランジェの娘。
これを物扱い出来ているのは、俺が正常が故だ。
情欲を催し、眼前が曇っている貴様に論ぜられることなど何もない」
言葉はもう必要ないと言わんばかりに、お兄様は腕への力を強めて。
対抗するようにリリアさんも、反対側へ引っ張り始めて。
「……お兄様、私はお兄様の所有物であることを認めます」
「アサヒさん!? 一体何を仰っているの!」
いよいよとなった段階で、私は思っていたことを口にする。
リリアさんが目を見開き、驚いた、ううん、傷付いた顔をする。
お優しい方で、友人としてとても大切にされていたから、この言葉がリリアさんを裏切るような言葉であることは百も承知だった。
けれども、と私は続けた。
きっと、この言葉がお兄様の癪に障ることを承知の上で。
それが、この場を打開する言葉になればという気持ちを載せて。
「けれども、メリルさんはお兄様個人のモノではなく、一個人としての立場があります。
私の友人で、皆さんの友人で、それだけでなくこのパリに迎えられて祝福される才能もあります。
お兄様は、ご自身の何らかの目的の為に、服飾における一つの才能を摘み取ろうとしておられるのです」
「――何?」
「お兄様は才能ある人の未来よりも、私のことを求めてくださっているのですか?」
正面からの言葉は、お兄様には通用しない。
なので、論点のすり替えを行う。
姑息だけれど、お兄様の信念を盾にして、その正当性に疑問符を投げる。
……お兄様相手とはいえ、約束を反故にされて不満は確かにあったから。
特に、お兄様の様に立派な方には、そういったことをして欲しくなかったので。
初めて、自分の意志でお兄様に楯突いてしまっていた。
「貴様に、才能の真贋を見抜ける様な眼力はない」
「確かに、私自身には才能がありません。
ですが、凡人だからこそ、持っている人への憧れはあるのです。
お兄様に対してそうだったように、メリルさんに対しても光り輝くモノを見ました」
私の言葉に、お兄様は手の緩められて。
その隙に、リリアさんは力いっぱいに私を引っ張り、お兄様から私を引き剥がした。
リリアさんと二人揃って、勢い良く尻餅をつく。
お兄様は胡乱ともいえる目で、私を見ていて。
「アサヒさん」
お兄様への視線を遮るように、リリアさんが私を背にお兄様の前へと立っていた。
リリアさんはお兄様と相対し、けれども私に語りかける。
怒ったように、困ったように。
「二度と、あの様なことは言わないで下さい。
道具と友となった覚えなど、私にはありません」
「……申し訳、ありません」
私の不徳を、優しさを持って咎められた。
どんな考えがあったとしても、尊厳を捨て去るような物言いは自分以外も傷付ける。
素直に口にできた謝罪に、リリアさんは頷かれて。
「許します、ですのでアサヒさんは今からこの屋敷を脱出して下さい」
「え?」
その唐突ぶりに、即座に反応できるだけの神経を、私は持ち合わせていなかった。
頭が理解に追いつかないまま、言葉だけが零れ出ていく。
「だって、お兄様が目の前に……リリアさんも、一緒に」
取りとめない、羅列しても繋がりがない言葉。
どうしようの一語で全て片付けるには無責任で、だけれど即断即決できるだけの器量もない。
状況的には、ここにメリルさんは居なくて、お兄様は私の身柄を拘束しようとしている。
だから、リリアさんの言葉が正しいことは理屈では理解できる。
――でも、ここで逃げるのは、お兄様に対する裏切りではないか?
雑念が、足元を掬いに来る。
きっと、それは罪悪感。
一度、私は既にそれをしてしまっていたから。
「アサヒさん、何をしているのですか!」
急かすリリアさんのお声が、耳を通り過ぎていく。
私はお兄様に向けて、わやくちゃになっている頭から何とか言葉を引っ張り出す。
一つだけ、これだけは大切なことだと心に留め置いて。
「お兄様、メリルさんは……帰ってこられますか?」
それは、既にお兄様から知る必要はないと切り捨てられた問い。
お兄様は不快に思われるだろうし、実際に無意味な問いではある。
それでも、私が決断を下すのに、お兄様の言葉が欲しかったから出た問いで。
「チッ、貴様がここから逃げ出せば、二度と小娘はこのパリに戻ってくることもなくなる。
飼い殺しにし、才能があると評した服飾にも近付けさせない。
分かるか、愚かなる妹よ。
お前の判断で、貴様が見出したと思い込んでいる才能が消え失せることになる」
ただ、お兄様の返事はあまりにも苛烈だった。
それこそ、私が思考を放棄して、流されても仕方ないと思えてしまうくらいに。
全部他人のせいにしてしまえる、そんなレベルのもので。
「卑劣極まりましたわね!
下劣を通り越して醜悪ですらあります、アサヒさんは下衆の言うことを真に受けないで下さい!
どちらにしろ、既にメリルさんを返す気なんてないのです。
約束を破ったものは、一度やったことに戸惑うことなんてありません」
私は自分の意志以外で、他者の言葉の重さで行動を決めてしまおうとしていた。
自分では判断できない、その無形さこそをお兄様が憎んでらっしゃると知っておきながら。
あまりにも自分の手には余るなんて、お兄様とリリアさんの二人に対して不誠実な言い訳を捻り出して。
「私――」
「無責任な肘打ち!」
「………………何だこの女は」
返答をしようとしたその時、突如として華花さんがお兄様に襲いかかった。
肘を武器にし、勢い良くそのまま突っ込んで。
あ、と声を出すまもなく、グサリとその肘をお兄様の背中に刺さった。
眉をピクリと揺らして、お兄様は華花さんへと視線を落とす。
しなやかに鍛えられたお兄様の肉体に、華花さんの攻撃はあまり効いている様には見えなかった。
ただ、確実に意識は華花さんへと向けられていて。
「あーあ、やっちゃった」
「……華花さん?」
無表情でリリアさんの横に並んで、お兄様と相対する華花さん。
それは仕事だから仕方なくといった振る舞いで、けれどもそれはありえないと理解できる。
ラグランジェ伯に組み付いた時で既に雇用主に歯向かっていて、お兄様相手に乱暴をしたことで既にこの家に華花さんの居場所は無くなってしまっている。
けれども、こうしてくれているのは……。
「貴女のせいです、大蔵さん」
淡々と、機械的に告げられた言葉は、私に対してのもの。
「もうクビになってしまうことが、これで決まりましたね。
家族への仕送りが出来なくて、私自身も生活は危うくなるでしょう。
全部、ぜ~んぶお前のせい」
「ご――」
「だから、ここであっさり捕まられると、私がひたすらに馬鹿を見ただけになる」
めんなさい、と続くはずの言葉が、華花さんによって断ち切られる。
彼女は、私を糾弾している訳ではなくて。
「責任取って雇用先を用意できないなら、とっととどっか行っちゃってください。
罪悪感を押し売りに来た立場で言うことじゃないけど、それすら出来ないならガバガバビッチ雌奴隷と呼びます」
明らかに、それは私に対しての助け舟で、思いやりだった。
意志薄弱な私を思って、華花さんは崖から身を投げてくださった。
理解した途端、動悸が早くなって、体が震えそうになった。
言われた通り、私には責任なんて取りようがないから。
「華花、貴方の友情に感謝を。
そして、アサヒさん。
逃げて下さい、これはお願いではなくて……華花の主としての命令です」
そのリリアさんの言葉で、遂に私はお兄様から背を向けてしまった。
未練と申し訳無さに追いつかれないように、走り出す。
今回は、お兄様に待てと声を掛けられることはなかった。
走って、走って、走って。
脳内に酸素が足りなくて、少しボンヤリする。
夕日はゆっくりと沈みつつあって、まるでボヤケた頭で思い出したのは、あの日のこと。
宛もなく彷徨っていた、家族と別れた日。
着の身着のまま、今回も頼るべき寄る辺はない。
いや、きっとエッテさんは助けてくれると思うけれど、それには信じられない程のご迷惑が掛かるから。
だから誰にも頼る訳にはいかず、パリの複雑な街並みを放浪する。
あの日との違いは、私を探しているお兄様達の部下の方が何人もいらっしゃることだ。
コソコソと隠れながら、必死になって息を整えて。
何とか、ボロボロの思考で考える。
これからどうするか、何とかなるのかを。
でなければ、華花さんのことを考えて、その場で蹲ってしまいそうだから。
公共交通機関には、きっとお兄様の追手が待ち構えている。
なので、不用意に近付けばその場で捕まってしまう。
かと言って、メゾンド・パピオンも張られている筈だから、戻る訳にはいかない。
では、他に頼っても良い人は居るのか?
少し考えてみて、私はどうしようもないと頭を振った。
駿我さんはパリから出ており、今回は助けてもらうことはできない。
アンソニーさんなら、何とか頑張ってくれるとは思うけれど、ラグランジェ邸を脱出したあとから携帯に着信できなくなってしまっている。
リリアさんやエッテさんからも着信はないから、恐らくはお兄様に捕まってしまって、携帯を取り上げられてしまったのだと思う。
良い考えが浮かばない、どうしようもないことが多すぎる。
何とかしなければならないのに、どうしたって何も思いつけない。
……それでも、私はまだ諦めらめてはいけない。
不甲斐ない私を、みんながどうにか逃してくれた。
私の我儘でお兄様とお話して、そのせいで華花さんを追い詰めてしまった。
どうしようもなく、私が皆さんの足を引っ張っている。
だからこそ、ギリギリでも意地を張り続けないといけない。
無力で無能な私だけれど、思い遣りに不義理で返すようになりたくない。
誰が相手でもそうあるべきだけれど……助けに来てくれたみんなは、パリで出会えた暖かさだから。
みんなが私を逃してくれたのは、私とまた会いたいと思ってくれていたから。
友達として認めてくれていて、またねと言える間柄で居ようとしてくれている。
それを、私が簡単に裏切りたくない……ううん、私もそうありたいと思っている。
メリルさん……ごめんなさい。
今は自分のことで精一杯ですけれど、何とか切り抜けられたら探しに行きます。
日が暮れて、人が減って、私は木陰を歩き渡る。
ぼぉっとする。意識は朦朧として、まるで夢の中を歩いているみたい。
休めていなかった疲れが、今になって現れ始めている。
みんなに心配させて、挙げ句にこの体たらくなのが本当に申し訳がない。
そう言えば、とふとした意識の空白で思い出す。
最近は心が温かくて、落ち着いていて、あまりお月様に祈りを捧げていなかったことを。
空にはお月様が、今も昔も変わらずにあるというのに。
お月様、お母さま、メリルさん、私は……。
何かに縋りたくて、心に浮かんだよすがに思いを馳せようとした、そんな時のこと。
ブルブルと、何かがポケットで震えて。
緩慢な動作で取り出したそれは、メリルさんが持っててと書き置いていったアドレスの空っぽな携帯。
まさか、という気持ちで、蜘蛛の糸を掴むように私は携帯を耳に当てた。
『あー、もしもし。
君はメリル・リンチか』
聞こえてきたのは、同年代くらいの女の子の声。
話している言語は日本語で、もしメリルさんが携帯を手にしていたら何を言っているのか分からなかっただろう。
期待があったのか、僅かな落胆を元に返事をする。
「すみません、私は大蔵朝日と言います。
携帯の持ち主であるメリルさんは、現在は遠くにいらしていて……」
『あぁ、そっちか。
分かった、逼迫しているのは本当らしいな』
とても落ち着いている、聞いていると安心してきそうな声。
メリルさんでなかったことを残念がっていた癖に、電話から聞こえてくる声に安心感を私は抱いていた。
初めて聞いたはずなのに、何だかピタリと嵌る様な感覚。
不思議な、第六感的なものを何故か感じていた。
『一応聞くが、大変な状況で困っているな?』
「は、はい」
『分かった、なら私の言うことに従ってほしい。
嫌なら仕方ないが――』
「分かりました」
『まだ喋ってる途中だぞ。
いや、それだけ必死なのか。
それなら仕方ない、今どこにいる?』
「パリのブローニュの森に隠れています」
『ちょっと待って、地図で……ここだな。
分かった、どの地点だ?』
「テニス競技場が、比較的近くにあります」
『なら、今から15分後に黒のベンツがそっちに向かう。
それが停まったら、迷いなく駆け込め』
「分かりました」
『物分りが良くて助かるが、あっさり信じ過ぎじゃないか?』
「何ででしょう、特に理由もなく貴方が信じられる人な気がしているんです。
……もしかして、お月様でしょうか?」
『なんだ、りそなから私のことを聞いていたのか?』
「り、そな?
どうして、りそなの名前が?」
『知らずに口にしていたのか、偶然にしても怖いな』
何だか引いたような口調で、彼女は困惑をそのまま口にしていた。
私も、何を言っているのだろうと赤くなってしまう。
人に向かって、急にお月様なんて言い出してしまうなんて。
直後に思い浮かべていたものだとしても、支離滅裂すぎてビックリされて当然だ。
「ご、ごめんなさい」
『いや、素直か。
君、ちょっと電波だが面白いな』
クツクツと笑う声が、何だか愛らしい。
それに、私も綻んで笑ってしまった。
あれ程感じていた不安は、今は距離を取ってくれていた。
「時間です、ありがとうございました」
『あぁ、頑張れ』
「はい、ところで聞きそびれてしまっていたのですが、お名前は?」
『あった時にでも、直接名乗ることにするよ』
「分かりました、ご縁がありましたら。
ありがとうございます、お優しいお月様」
『……やっぱり知ってるんじゃないのか?』
訝しむ彼女の声を最後に携帯は切れ、私は指定の車まで駆け寄った。
「すみません、大倉朝日と言います。
こちらの車に――」
話している最中に後部座席の扉が開き、そのまま車内へと引っ張り込まれた。
これがお兄様の部下の人たちだったならば、間違いなくお手上げの状態になる。
だけど、車内に居たのはお兄様の部下の人でも、知らない人でもなくて。
目の前の顔はかつてよりも成長していて、けれども私が間違える筈のない大好きな家族の顔。
「り、そな?」
「姉、見ない内に美少女ぶりが上がりましたね」
私の顔をマジマジ見つめて、そっと抱きしめられた。
知っている感触、心も、体もこの子を覚えている。
「りそなは、相変わらずお姫様だね」
「この妹をお姫様扱いしてくれるのは、姉だけですよ」
まるで日常の続きのように、何気ない会話を再会した私達は行っていた。