『月の魔物』に誘われた者の中でも、特別気に入られたものを指す。名状しがたい『月』の香りを身に纏うとされており、都合の悪い事柄を夢だったことにして、目覚めをやり直すことが出来る。
「君、妙に急いているようだがいつから走り始めるつもりかね」
シンボリルドルフが先に準備運動を終えてスタートラインに立っていると、後ろからツキヒカリが声をかけてきた。シンボリルドルフは数瞬訝しんだ後合点がいったようで咎めるような目線をツキヒカリに向ける。
「トゥインクル・シリーズの話か。君はいつも一言足りない。そのままでは誤解を招きかねないぞ」
だがツキヒカリはそんな視線はどこ吹く風。続きを促すようにじっと目を合わせ続ける。
「……私の夢は、遥か遠い。こんな所で足踏みしている場合ではないんだ。君も分かるだろう?」
シンボリルドルフはツキヒカリの態度にため息を着きながら答える。だが答えるそばからスタートラインに立ち準備を始めるツキヒカリを見て文句を言おうとして―そもそもツキヒカリは昔からずっとこんな感じだったことを思い出し嘆息した。
「そうか。して、距離は」
「距離はいつも通り。ちょうど一周すればゴールだね。今回は右回りでいこうか。」
『いつも通り』とは芝1800mのことである。2人はトレセン学園入学前、実家で良く競争をしていたのだが、その時の距離がこれだったのである。お互い、今となっては若干短く感じる距離だが、入学初日から無茶するのはいただけない。このくらいがちょうど良い塩梅だろうと考えた。ツキヒカリが慣れた手つきでポケットからコインを取り出し空高く放り投げる。これが2人ののいつものスタートの合図だ。スタートの姿勢を取り、極限まで集中する。コインが芝に落ちる音を聞き逃すまいと、呼吸さえ抑えてその時を待つ。
―今
お互いが最高と言っても良いスタートを切った。だがツキヒカリはシンボリルドルフに並ぶことなく、するりとハナを奪う。ツキヒカリの常軌を逸した局所的な集中力と、独特の歩法に裏打ちされた水平と見紛う前傾姿勢から繰り出されるスタートダッシュは同年代を置き去りにする。現状でな決して、下手すれば今後一生届かないかもしれないそれを見たシンボリルドルフは、だが動揺することなく後ろにつける。シンボリルドルフは知っているからだ。スタートで勝てなくとも、最終的に先にゴール板を駆け抜ければ良いことを。そしてそれが間違いないことが勝率から証明されていると。だからこそ後ろから機を窺う。ここまでが彼女ら2人の定石だ。
第一コーナー。ツキヒカリは内ラチに体を擦るようにして最短距離を走る。宛ら恐怖心など忘れたかのように。もっとも、『月の眷属』たる彼女にとってはこの程度の恐怖など、些事に過ぎないのかもしれない。一方でシンボリルドルフのコーナリングも無駄がない。理論体系化された技術に基づく彼女のコーナリングは見るものを身惚れさせるほどに完成している。だが2人の距離は縮まらない。その差は背負ったリスクの差。もっともそのリスク、一歩間違えれば競技人生が終わるような物を背負うべきかは自明である。故にシンボリルドルフは布石を投じる。気取られないように、少しずつ、終盤の可能性を収束させていく。
第二コーナー。2人の距離はジリジリと広がっていく。決してシンボリルドルフが劣っている訳ではなく、ツキヒカリの方が常軌を逸しているだけである。故にシンボリルドルフはこの差を計画に織り込んでいた。直線での切れ味も、最高速度もシンボリルドルフに分がある。勝負所はここではない。今は雌伏の時。数ある手札を吟味し虎視眈々と、シンボリルドルフは好機を待つ。一方、ツキヒカリはと言うと、全力で疾走していた。戦略も何も無い大逃げ。ウマソウルを持たぬが故に勝負勘の欠落している彼女が選べる唯一の手札だ。だがその唯一は数多の手札を無為にする。然して2人は拮抗し、現状は膠着状態にある。
コーナーを抜けて直線へ。ここで展開が少し動く。直線巧者であるシンボリルドルフがコーナーで開いた距離を少しずつ詰めていく。一方でツキヒカリは無理に加速することなく、貯金を切り崩しつつ息を入れる。勝負所は、最後の直線。お互いが共通の認識を持つが故に、乱されることなく淡々と競走は進行する。
第三コーナー。ここでツキヒカリが押し切り準備を始める。彼女がシンボリルドルフに勝る点は、スタートとコーナーである。ここで最終直線の貯蓄を作れなければ、辛酸を舐めることになるだろう。ある種、変態的とも言える超絶技巧の右回りを駆使して、シンボリルドルフを突き放しにかかる。シンボリルドルフはと言うと、己の許す限りの速度でコーナーを回りながら、ツキヒカリに鋭い眼光を飛ばしていた。五感が鋭敏なウマ娘にとって、視線は十分な精神攻撃になり得る。もっともツキヒカリが今更目線程度で動揺することはなく、シンボリルドルフは歯噛みする結果に終わったが。
第四コーナー。コーナーにも関わらず加速し続けるツキヒカリに危機感を覚えながら、シンボリルドルフは慎重に足を貯める。自分なら、どの距離までなら差し切れるか。頭の中で計算しながら、差し切り体制を整える。ツキヒカリにはもうできることはほとんど無い。このコーナーで、できるだけ多くの距離を稼ぐ。その一心で走り抜ける。
最終直線、勝負所だ。シンボリルドルフの末脚が爆発する。ツキヒカリも垂れることなく全速力で走り続ける。2人の距離は徐々に縮まっていく。シンボリルドルフの計算に狂いはなく、このまま行けばゴール直前で彼女がツキヒカリを差し切ることができただろう。
だが、残り200mでシンボリルドルフの計画外のことが起こった。前を走るツキヒカリの姿が瞬きの間ではあるが、霞んで見えたのである。今まで1度も経験したことのない現象に、シンボリルドルフは戸惑い、刹那の間足の伸びが止まる。そしてツキヒカリにとって、その刹那は勝敗を決する重要な要素たり得た。
Tips
『狩人』たるツキヒカリだが、その本質は追跡者ではなく逃亡者である。