寂しがり屋の吸血鬼は人間失格と一緒に居たい 作:龍川芥/タツガワアクタ
ぺたり、ぺたりと足音がする。
人々が寝静まる夜、その影は西洋屋敷の廊下を裸足で歩いていた。
廊下は暗く、明かりひとつ灯っていない。
何も見通せないはずの暗がりを、人影はゆっくりと規則的な足音だけを残して進む。
それは雷雨の夜のこと。
ピシャリと窓の外で光った雷光が、一瞬だけその人影を照らし出す。
銀の髪が妖しく光り。
赤い瞳が闇を見通す。
ガタガタと揺れる窓枠、ザアザアと悲鳴のような雨音、突如として響く雷鳴に物怖じひとつせず、人影は歩く。
そう、「彼女」は吸血鬼。
夜を支配するものが、闇の世界を恐れる筈がない。
ぺたり、ぺたり。歩みは進む。
やがて彼女は、ひとつの扉の前に辿り着くと足を止めた。
扉は艶のある黒樫に金の装飾がなされた豪奢なもの。
重々しい両開きの扉に彼女の指が触れると、ゆっくりと音を立てて扉が開いた。
現れたのはひとつの部屋。
暖炉が火を灯し、シックな内装を怪しく照らす。
アンティーク調の家具達が彩る部屋は、まるで中世ヨーロッパの貴族の部屋をそのまま現代に持ち出したかのようだ。
だが、そんな部屋の中で、吸血鬼が見つめるのはただの一点。
部屋の真ん中、そこにあるソファに座る人間の姿が目に入る。
吸血鬼は思う。
その人間の首を、そこを流れる血を想像して、ただ思う。
──「美味しそうだ」、と。
ぺたり、と部屋の中へ足を踏み出す。
蝋より白い肌が光に照らされる。
ぎらり、と口から覗く牙が光る。
それに構わずぺたり、ぺたりと人間との距離を縮める。
フローリングが絨毯となり、もはや足音も出なくなる。
もう手を伸ばせば届く距離。
そのとき。
何かに気付いたのか、ようやくその人間が振り向いた──
今までより大きな雷が、雷鳴と共に夜の雨空を駆け落ちた。
◆◆◆
「──アクタ」
でかい雷の音にちょっとびっくりした俺は、その声を聞いて我に返る。
俺、
人間を襲う存在に対して、我ながら不用心だなと思う──まあ、一緒に半年も過ごせば、大抵の事では警戒できなくもなるだろう。
その吸血鬼は、俺が座る大きなソファに近づくと、俺のすぐ横に腰を下ろした。
肩や足が触れてしまいそうなほど近い距離。
思わず首を向けると、下からこちらを見つめてくる
ちらりと人間のものでは無い牙が覗く口が、言う。
「ただいま、アクタ」
「ああ。おかえり、ガブリエラ」
吸血鬼──ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトと、ただの人間であるこの俺龍川芥は、この大きな西洋屋敷でかれこれ半年程にもなる同居をしていた。
同居といえば聞こえは良いが……要するに俺は保存食である。
吸血鬼(食べる側)と人間(食われる側)、たまたまこっちが殺されてないだけが半年続いたってのが俺たちの関係だ。色気もクソもない。
ま、一応言っておくと……お互いに利益のある関係ではあるけどな。
それに半年も一緒に居れば、情も湧くし多少仲良くもなる。それが例え、自分を餌として見ている吸血鬼が相手でも。
こういうのをストックホルム症候群って言うんだっけな。ま、そんなことはどうでもいいか。
と、その吸血鬼――ガブリエラが動いた。
「ふぅ。今日はつかれた」
こてん、と体を倒し、俺にもたれ掛かる姿勢になる。
……恐ろしい吸血鬼のイメージ全否定である。
まるで猫が甘えるような感じだ。まあこいつはだいたいこんな感じなので、実は吸血鬼にとっては普通の事なのかもな。
「また
「強くは無かったけど、血がニンニク臭くて飲めなかった。おかげでお腹ぺこぺこ」
「はは、そりゃご愁傷さま」
「アクタは何してたの?」
「俺? 俺はいつも通りだよ。ゲームしたり漫画読んだり⋯⋯まあのんびりしてた」
「アクタ、いっつものんびりしてる」
「んだよ、悪いか。これでも外出ないよう気使ってるんだぞ」
「ん、そういうことじゃなくて⋯⋯私もアクタとのんびりしたい」
「そーか。ま、いいんじゃねーの? わざわざ外行かなくたって。俺って保存食がある内は、さ」
「⋯⋯うん。明日はずっと一緒にいよ」
俺はガブリエラ、通称ガブを受け止めながら、のんびり会話をする。吸血鬼とくっつくなんてかなり恐ろしげに聞こえるが、もう怖いとか怖くないとかの段階は超えてるんだよな。まあガブは見た目も怖くない方だからな。
俺はくっついてくるガブリエラをまじまじと見る。
そこには美しい少女の姿があった。
銀糸の髪、血色に輝く大きな瞳、蝋よりも白く滑らかな肌。
白いワンピースから出た肢体は細く、まるで動く人形のよう。
人間ではありえない、正しく人外の美だ。芸術品の様に整った顔は見るものにどこか空恐ろしさすら感じさせる。⋯⋯いや、実際恐ろしい。人間の本能が叫ぶのだ。目の前の生き物は自分を簡単に殺せるほど遥か格上の存在だと。多分檻を隔てずライオンやトラと向き合ったらこんな怖くなるんだろうな、て感じだ。
ただ俺より年下の少女の姿だからか、微妙に親しみやすさも拭えない。なんとも不思議な感覚だ。
そう、吸血鬼ってのはだいたい人間と同じような姿をしてるんだよな。その方が血が吸いやすいとかあるのだろうか。
吸血鬼。
それは人間の血を吸う、つまり人間を捕食する生物。
太陽と銀とニンニクを嫌い、人間を襲って吸血し、永劫の時を生きる⋯⋯まるで御伽噺の存在のようだが、確かにこの世界に居る生き物だ。
それを狩り人間を守る
この世界の皆が吸血鬼を恐れてるとか、その影に怯えてるとか、そんな大層な存在では無いんだ。
早い話が熊みたいなもん。たまに街に降りてきて人を襲う。襲われた方はたまったもんじゃ無いが、吸血鬼自体数が少ないんだ、そうそうある事じゃない。
人間にとって脅威だが、吸血鬼を恐れるくらいなら車の事故とかを警戒する。ちょっと身近な猛獣とか、毒蛇とか⋯⋯実際の危険度はともかく、一般人目線だとそんくらいの存在なんだよな、吸血鬼ってのは。
まあ危険度はともかくとして、この可愛い女の子の見た目したガブリエラも、吸血鬼である以上人間である俺なんかよりよっぽど強いのだが。熊とか毒蛇とかと同等以上に脅威なのだが。
そんな存在にじゃれつかれるのは、ちょっと怖い⋯⋯まあ、拒否出来るわけでもないけどな。
ライオンに懐かれた人間の動画を見たことがあるが、基本そんなイメージだ。無抵抗ならむしろ可愛いもんだし、無理に抵抗して怪我する方がよっぽど怖い。幸い、猛獣と違って吸血鬼は知性があるからな。俺が痛いの嫌いなのはもう知ってるだろうし、「そのとき」もなるべく優しくしてくれるだろう。
「⋯⋯クタ、アクタ。聞いてる?」
「おっと、悪い。何の話だっけ?」
と、考え事をしていて話を聴き逃していたらしい。見ればガブは不満気な表情。
拗ねたように口を尖らせて、ちょっともじもじしながらねだる子供のように彼女は言う。
「だから、その⋯⋯血、吸わせて?」
ガブリエラの口、そこから見える牙が、照明の光を反射してぎらりと輝く。
見れば彼女は熱に浮かされたような顔をしていた。そう言えば腹が減っているとも言っていたな。俺も気が利かない奴だな。
「⋯⋯いいよ」
俺はあっさりと承諾の答えを吐いた。
断る理由は、実は無い。そもそも俺がここに居る訳は「それ」なのだから。
服の襟を引っ張って首筋を出す。吸血鬼が血を吸うのは決まってここだ。
ガブリエラはそれを待っていたかのように、首筋目掛けて飛びついてきた。
ソファの上に押し倒される形になる。体格差もクソも無い。全く、吸血鬼ってのは馬鹿げた力持ちだ。
はぁ、はぁ、と熱い息を首に感じる。
どうやら俺は、未だに垂涎もののご馳走らしい。嬉しいような、そうでも無いような。
ぬるり、と肌に濡れた感触。
ぴちゃぴちゃと水音が部屋に響く。
ガブリエラが俺の首をぺろぺろと舐める音だ。
「⋯⋯噛んで、いい?」
「ああ」
首肯すると、今度はかぷかぷと甘噛みを始める。吸血鬼の食事ってのはなんというか⋯⋯まどろっこしいのだ。甘噛みなんてする意味あるのか? 俺だったら飯を前にして食う以外の選択肢は無いんだけどな⋯⋯匂いを楽しむとか、テイスティングとか、そういう感じなのかな? まあ慣れたし、こいつの好きにやらせるのだが。
はぐ、と首筋に硬い牙が押し付けられる。
そのまま力を入れたり抜いたり。
挟んだまま舌で肉を舐めたり。
吸血鬼の唾液で首が濡らされていく。
自分のものでは無い熱が、肌をじりじりと炙るように体に伝わる。
「はむ、はふ⋯⋯」
⋯⋯うーん、正直恥ずかしい。
絵的には年下の少女に押さえつけられはむはむされてる男性(18)だ。どことなく背徳的というか、なんというか⋯⋯まあとにかく、むずがゆい。
でかい犬とか猫とかなら癒されていいんだが、見た目は完全に美少女だしな。そこまで割り切れるほど図太くない。
流石にむずがゆさが勝ち、俺はガブリエラの後頭部をぽんぽんと叩きながらギブアップする。
「ガブ、悪いけどそろそろ⋯⋯」
ぱぱっと血吸って終わらせてくれないか。その言葉は喉から出なかった。
ぱ、と首から口を離したガブリエラと、目が合う。
そこには最早「少女」の貌など無かった。
血色の瞳は爛々と輝き、射すくめるような視線の鋭さは獲物を捕食する肉食獣を想起させる。
頬は捕食の興奮ゆえか白い肌が朱に染まり、唾液の垂れた淫猥なほど赤い口内からは血を吸う為の牙が伸びている。
それは、1体の血に飢えた吸血鬼。
──生物としての格が違う。そう感じて硬直してしまった。俺は蛇に睨まれた蛙のように、一瞬喉すら動かなくなったのだ。
最早見慣れたはずなのに、それでも尚──永遠に魅入られるほど美しく、今すぐ逃げ出したいほどに恐ろしい。
人間など足元にも及ばない正真正銘の怪物。
食物連鎖の真の頂点、1000年生きる夜の王。
人喰いの、吸血鬼。
ごぼり。
それは幻聴、頭の奥で鳴った泥の音。
⋯⋯嗚呼、それでいい。
それでこそ”俺の
「ん、わかった。ベッド、いこ」
言葉足らずだったが、言いたいことは伝わったらしい。
俺は起き上がり、こっちに体重を預けたままのガブリエラをお姫様抱っこし、ソファから立ち上がってベッドに向かう。ガブも姿や体重は少女だ、俺の力でも運ぶのは容易い。
思えば吸血鬼というのは律儀だ。血を吸う準備はどこでもいいのに、血を吸うのはベッドがいいらしい。
ただ俺が運ぶ理由はあんまり分からないけどな。俺にとってガブの重さが少女なら、ガブにとって俺の重さは赤子くらいだろうに。
「⋯⋯アクタ」
「わかってるよ」
ベッドへと向かう途中、天井の照明を消す。
これも半年間で学んだことだが、ガブリエラは明るい場所で吸血したくはないらしい。
恥ずかしがり屋なのか、それとも吸血鬼の習性なのか。
ぼんやりとそんなことを考えつつ、俺は暗い部屋を照らすベッドライト目指して歩く。
そんなこんなで部屋の隅のベッドに到着し、俺はガブリエラをベッドの上に優しく下ろす。見た目が少女だとこんなとこまで気を使ってしまうのだ。
「ありがと」
「どういたしまして、お姫様」
馬鹿力の甘えん坊を皮肉りながら、俺もベッドに座る。柔らかくてでかいベッドがぎしりと軋む。
こちらに向き直るガブリエラの目は、まだ爛々とした捕食者のものだ。「血を吸いたい」とその表情が叫んでいる。
「アクタ、私ももう⋯⋯」
ガブリエラが俺の胸の中に飛び込むようにしなだれかかる。どうやらこいつも我慢の限界のようだ。
「ああ。いつでもどうぞ」
未だ濡れた首筋を示すと、その目には最早それしか写っていないようだった。
「いただきますっ」
がぶり、とその牙が突き立てられる。
先程までのお遊びじゃない。正真正銘の吸血鬼の食事⋯⋯吸血の始まりだ。
皮膚に穴が空き、注射針より何倍も太い牙が刺さるのを感じる。肉を押し退けながら体に深く沈んでいく凶器。しかし異物感はあれど、大した痛みはない。吸血鬼の体液は傷を癒すというし、その効果だろうか。
ガブリエラの手が、ぎゅうと俺の服を掴む。
何かを我慢するような、耐えるような⋯⋯そんな彼女の頭に手を回し、ぽんぽんと軽く叩いてやる。
「大丈夫。俺は拒んだりなんかしないよ」
そして、ゆるゆると吸血が始まる。
こく、こくと血が吸われる感触。
命が吸い取られる感触。
それが俺の体に伝えられる。
未だ知らぬ死がすぐ側にある。
薄皮を突き破り、俺の首に死神の鎌が触れている。
その実感が……絶望が、俺の全てを暴いてゆく。
どろり、と。
心の洞から闇が溢れた。
それは俺の心を覆い尽くし、余分なものを洗い流していく。
死への恐怖。
他人を慮る優しさ。
僅かに残った人間性。
その全てを取り除き、塗り替え、嘘と欺瞞の武装が剥がれて俺の真の姿が晒される。
暗い、暗い命。
心が人で在ることを捨て、それ以外の何かと成り果てた男。
壊れた魂が象る、生きながらにしてガラクタへと身を堕とした人間。
即ち――人間、失格。
黒い泥に似た闇は、俺の心を塗り替えた。
龍川芥という人間を、
俺は首から血を吸われる感覚を強く感じながら、心中で呟く。
嗚呼、全く――相変わらず愛おしいなぁ、この感覚は。
”醜い生”と”美しい死”⋯⋯人はどちらを選ぶだろうか。
俺、龍川芥の答えは後者──つまり、俺は死に惹かれている。それも、とびっきり美しいやつに。
自分の命を醜悪だと感じたことはあるか?
生きるべきではない、産まれるべきでは無かったと悟った事は?
俺は、有る。
ずっとずうっと、気付いたときには既にそう思って生きていた。
朝起きて、何故目覚めたのかと絶望する。
夜眠る時、何故死ねなかったのかと絶望する。
それが龍川芥の人生だった。
生きることは苦しい。狂うほどに苦しい。
他の誰もがのうのうと笑って暮らせる世界で、俺だけが俯いて絶望していた。
他人にとっての当たり前は、俺にとってはそうではなく。
人間として社会の中で生きることに、酷い抵抗と不適合感を覚える。
そんな自分が「欠落した人間」だと気付いた時には、既に俺の人生は手遅れだった。
救世主は現れず。
愛は当然のように与えられず。
夢はいつしか見るだけで息苦しくなり。
明日はずっと変わらず恐怖の対象で。
そして俺は、最早変わることなど出来なかった。
そう、そんな絶望の中……俺は気付いたのだ。
やっとの思いで目覚めたのだ。
”醜い生”が苦しいなら……いっそ捨ててしまえばいい。
ただ死ぬのでは無い。
捨てるだけでは勿体ない。
そう、今までの苦しみも、痛みも、そして世界に撒き散らした醜さも、全てを帳消しにできるような。
――そんな”美しい死”が欲しい。
それが、人間失格が辿り着いた結論で。
そして俺は
”醜い生”を諦念と共に享受する旅が、”美しい死”を求めて歩く旅に変わったから。
そして18年間の人生を経て。
死に場所を、死ぬ理由を、死への筋道を。
ただそれだけを求めた俺は、出逢った。
そう、出逢えたのだ。
今俺を喰らっている、この美しい吸血鬼に。
彼女に喰われて死ぬという――最高に”美しい死”に。
俺は恋をした。
ああそうだ、この感情の名は恋だろう。
永劫を生きる人喰いの怪物。
孤独と優しさをその強い躰に不釣り合いに抱えた、まる芸術のような命。
そんな彼女が与えてくれるであろう死は、きっとこの世で最も美しいと信じられる。
それが欲しい。
身を裂く程に欲しい。
この渇望を、この欲望を、何か言い表すとするならば。
それはきっと、俺が知り得なかった「恋」に他ならないだろう。
――陰惨に、嗤う。
底無しの闇が形を成したような表情。
絶望が象った奇形の希望が、黒く黒く輝く笑顔。
それは、この場に他人が居れば、化け物はこちらだと即答するような悍ましいもので。
その顔はしかし、首に噛み付いた美しい吸血鬼の眼には写らない。
俺は恋をしたのだ。
世界一綺麗な死神に。
「――ガブリエラ、俺の”
銀の髪を撫でながら、人間失格はそう囁く。
この半年間、毎晩のように血を吸われながらことごとく生き残った俺は、気づけばそう彼女に言うのが通例となっていた。
それは、この
何時であろうと構わない。どんな終わりでも受け入れよう。
ただ、君が与えてくれるなら。
それはきっと、この世で最も美しい死だと信じているから。
吸血は、続く。
俺は細い背中に手を回した。
自然、抱き合う形となる。片方は相手の肩に顔を埋め、もう片方は相手の牙に命を預ける。
それはまるで、愛を求め合う恋人のように。
そうして、何分たっただろうか。
気付けば、首から牙を離したガブリエラがこちらを見ていた。
表情が薄いが、どことなく不安そうな顔だ。⋯⋯流石に抱き返すのは不味かったか、それとも俺の血になにか不具合が。
ざあざあ、と。
焦りからか、心の泥が引いていく。
戻ってくる。
対話するための心が。
僅かばかりの人間性が。
人間失格の龍川芥が、心の奥深くに隠されていく。
気付けば俺は、普通の人間の顔に戻っていた。
そんな俺に、彼女はおずおずといった感じで問う。
「アクタ、その⋯⋯気持ちいい? 私、ちゃんとできてる?」
⋯⋯?
何か分からんが⋯⋯ガブリエラは不安そうだ。
そんな顔を見ると、訳が分からなくてもとりあえず安心させてやりたくなる。
「ああ。ちゃんと気持ちいいよ」
うーん。嘘をつく理由もない気がするが、まあこれでいいだろう。俺は年下には甘いのだ。⋯⋯ガブリエラは200歳超えてるらしいけど、雰囲気が年下だからいいのだ。
ま、丸っきり嘘って訳じゃないしな。
お前と一緒なら”醜い生”も許せる気がする。それはきっと、快楽より尊いものだろ?
「よかった⋯⋯」
俺の答えにあからさまにほっとして、また彼女は吸血に戻る。
止まっていたこくこくと血を吸う音、漏れるように聴こえる荒い息の音が再開する。
一緒に暮らして半年経つが、未だに吸血鬼の考えていることは分からない。
そもそもガブリエラは表情が希薄だし饒舌な方ではない。俺も保存食の立場を弁えあまり踏み込んだりしてこなかったから、人間との文化の違いはほとんど不明なままだ。
そもそも、自分が半年生きている⋯⋯生かされている理由も分からない。さっさと吸い尽くせばいいだろうに、今もちびちびと飲むように吸血に勢いを感じない。
ガブリエラは実は超少食な吸血鬼とかなのだろうか。
ほとんどのことが分からないまま、半年が過ぎてしまったが⋯⋯まあ、この日常は嫌いでは無い。
ここは俺の居場所だ。
人間社会に居た頃は無かった、心の安らぐ場所。
家族も、友人も成れなかったそれを、彼女は俺に与えてくれる。
ガブリエラ。お前が許してくれるなら、俺はお前に喰われるまで傍に居るよ。
だから、これからも楽しく日常を過ごそう。
いずれ訪れる最後の日まで、ね。
血を吸う美しい吸血鬼。
大人しくそれを受け入れる変わり者の人間。
ちょっぴり異常な日常は、今日も変わらず過ぎていく。
ごぼり。
心の奥で、汚泥に浮いた泡が弾ける。
⋯⋯はあ。
どうやら、今日も死ななかったみたいだな。
◆◆◆
私はガブリエラ・ヴァン・テラーナイト。
吸血鬼だ。
昔は色々あったけど、今はタツガワアクタっていう人間と一緒に暮らしてる。
アクタは私を救ってくれた、私にとって大事なひと。血を吸う相手ってだけじゃなくて、ほんとに私に必要なひとなんだ。
私とアクタは「恋人」だ。
吸血鬼は殺さず攫って一緒に暮らす人間のことをそう呼ぶんだ。日本語は理解したけど、この呼びかたは別にまちがってもないと思う。
私はアクタが大事。
アクタにとっての私も多分そうだし、そうであってほしい。
それって「恋人」ってことだよね?
アクタは、私が「ただいま」って言ったら「おかえり」って言ってくれる。
「きみの居場所はここだよ」って言われてるみたいで、うれしい。
アクタは私が近づいたりくっついたりしても、嫌がりも怖がりもしない。
「きみを信用しているよ」って証拠みたいで、なんだか胸があったかくなる。
アクタは私とおしゃべりしてくれる。
「きみと関わりたいんだ」ってことだったらいいなあ、ってどうしても夢見ちゃう。
アクタは──私の吸血を拒まない。
「いいよ」って、ただそう言って受け入れてくれる。
怖くないのかな? 辛くないのかな?
私は吸血鬼なのに。
アクタはただの人間なのに。
なのに、当たり前みたいに、いつも私を受け入れてくれるんだ。
だからなのかな。
アクタの血が、他のどんな人間の血よりも、甘くて美味しくて⋯⋯お腹だけじゃなくて、胸の中の「なにか」も満たしてくれるのは。
アクタの肌は、舐めるとなんだか不思議な味がする。甘い匂いがして、どこか落ち着く。
アクタのこと噛むと、自然と体が熱くなる。噛んでも逃げられないのが、どうしようもないくらい嬉しくて。
そしたらもう我慢出来なくなって、頭の中がアクタのことでいっぱいになっちゃって、早く血を吸いたくてたまらなくなって⋯⋯こんなんじゃアクタに嫌われるんじゃないかなって、いっつも不安になるけど、それでも止まれないんだ。
⋯⋯でも、間違えて吸い殺さないようにだけは気を付けてる。
アクタの血は私と凄く相性が良くて、アクタが死なないくらいの量でも私は生きていける。
私の満腹には全然足りなくなるけど、でもアクタを殺しちゃったら、私はまたひとりぼっちに戻っちゃうから。
そんなの絶対嫌だから⋯⋯。
──さて、ここでひとつ補足を。
吸血鬼は吸血行為によって快楽を得る。
特に”首を咬む”場合は同族を増やす、所謂「繁殖」と同じ方法の食事となるのだ。
そう、”首からの吸血”を人間の行為に例えるなら⋯⋯それは「食事」と「性行為」の中間または両方と言えるかもしれない──
私は血を吸ってるとき、とっても気持ちいい。だからゆっくり血を吸って、その時間を長引かせちゃう。
でもアクタがどうかは分からない。私は気持ちよくするやり方を知らないから。
一応、多分だけど、上手くいってるとは思う。アクタも気持ちいいって言ってくれるし。
「──ガブリエラ、俺の最期は君のものだ。他の誰にも渡さない」
どき、と。耳元で囁かれるたび、心臓が跳ねる。吸血のときにアクタは雰囲気が変わる。普段は言わない甘い言葉も言ってくれるようになる。
これはアクタの口癖。血を吸う度に言ってくれる愛の言葉。
愛してるって意味だよね、添い遂げようって意味だよね、ずっと一緒に居ようって意味だよね。
私に
アクタ、私もだよ。
私のさいごはアクタのもの。ほかのだれにもわたさない。
だから、私を独りにしないで。
置いていかないで。離れてかないで。
ずっと一緒に暮らそう。
抱きしめて。
拒まないで。
全部あげるから。
どうか、ずっとこのままで。
寂しいのはもういやだよ、アクタ⋯⋯。
◆◆◆
龍川芥。
ガブリエラ・ヴァン・テラーナイト。
彼らはどうしようもなくズレている。
片や、人間の破綻者。壊れた人格を隠しながら、相手に”美しい死”を求める男。
片や、寂しがり屋の吸血鬼。愛に飢えぬくもりに飢え、それを相手に求めた女。
本来なら噛み合うはずのない運命は、しかし何故か彼らに平穏と幸福を運んでいくこととなる。
これは、そんな奇妙で奇跡な彼らの日常の話。
あえて言うなら──歪みきって尚美しい、愛と救いの物語。