寂しがり屋の吸血鬼は人間失格と一緒に居たい   作:龍川芥/タツガワアクタ

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12.羅生門

「お兄ちゃん、見て!」

 

小さな手が指さす窓の外には、ぱらぱらと雪が舞っていた。

妹のその楽しそうな笑顔を見て、オレも笑う。

 

「ああ、綺麗だな」

 

真っ白で小さい雪は、味気ない窓の外の景色を優しく彩る。

オレは妹に読み聞かせていた本を閉じて、彼女の頭を撫でた。

 

「あんまりはしゃぐなよ。オマエは体が弱いんだから」

 

諭すように、言う。

オレはやるせなかった。

妹は体が弱い。

そのうえ、ろくに治療も受けられなかった。

 

オレの家は貴族だ。金に余裕はある。

けれど妹が未だ病弱な体を充分に癒せていないのは……全部、父上のせいだ。

オレの母上は妹を産んだ際、体力を使い尽くしたように死んでしまった。

そのせいで父上は「妹が母上を殺した」なんて本気で思い込んで、妹が苦しもうが死のうが知らん振りだ。

使用人達も父上や母上の味方ばかりで、更には優しくて完璧な兄上さえ妹には興味が無い。

オレと妹は、この広い家に2人きりだった。

 

オレの内心の苦悩を知ってか知らずか、妹は俯いて聞いてくる。

 

「……お兄ちゃん、あたしはずっとこのままなのかな?」

「……それは」

 

ずっとこのまま。

ベッドの上で寝たきりで過ごし、どこに遊びに行くこともできない。

停滞した悪環境。

それをどうにかする力を持たないオレは、何も言えず続く言葉を待った。

妹は言う。泣きそうな声で。

 

「あたしも外に出てみたい。窓の外にあるものを、自分の手で触ってみたい。

あたし、このまま死んじゃうの? 雪の感触も知らずに死んじゃうの?

お兄ちゃん、あたしそんなのやだよ……」

 

オレは……そのとき思った。

こいつのために出来ることは無いかって。

妹を助けられるのはオレだけなんだからって。

 

「……ちょっと待ってろ」

 

オレは部屋を飛び出て階段を降り、外へと向かった。

1面の雪景色を一瞥もせず、また先程まで居た部屋に戻る。

手の中の”それ”を、妹に届けるために。

 

「お兄ちゃん、それ……」

 

オレは持って来た雪の塊を、妹の方へと差し出した。

 

「これが雪だ。触ってみろよ」

 

その言葉を聞き、彼女は恐る恐る雪に触れる。

 

「つめたい……!」

「冷たいだろ? 雪は冷たいんだぜ」

 

その驚いた表情を見て、オレは少し誇らしくなった。

そしてオレたちは、一緒に笑う。

 

雪の塊を窓枠に起き、しばらく触ったり形を整えたりしている笑顔の妹を見て、オレは決意した。

 

「……オレ、決めたよ。

オレがこの家の当主になる」

 

妹が驚いた表情でこちらを見る。

分かってる。それがどれだけ難しい事かは。

長男の兄上は完璧で、間違いなく跡継ぎと言われてる。

オレの取り柄は剣術くらい。それ以外はひとつも長男に勝てない次男。

けれど。

その難しさは、オレの心を折れなかった。

なぜなら、オレにはどうしても曲げれないものがあるのだから。

 

「そしたらさ。オマエが欲しいもの、全部この部屋に持ってこれる。

オマエの病気も、すげー医者呼んで治してやる。

だから心配すんな。オマエはぜってー死なねえ」

 

オレは……妹にずっと笑顔でいて欲しい。

そのためなら何処までも”強い”奴になってやる。

 

惚けた顔の妹を安心させるように、力強く笑う。

 

 

「オレがオマエを守ってやる。

約束だ、ノース」

 

 

それは、雪の振る日の誓い。

オレの覚えている、最も古い記憶だ。

 

 

◆◆◆

 

 

……随分と昔の話を思い出したな。

 

ノーゲート・クリムゾンは痛む体を無理矢理動かす。

時は夜。場所は教会前。

そして……状況は、絶対絶命。

 

「私はガブリエラ・ヴァン・テラーナイト。

お前にとっての”死神”だ」

 

燃える月を背に背負い、紅い死神が此方を見ている。

お前を赦さないと。

お前を殺してやると。

 

ノーゲートは吹き飛ばされた体を精査する。

骨折13箇所。

出血多量。

裂傷・打撲多数。

翼、半壊。

 

その全て……再生可能。

 

ボロボロだった体を、細胞が驚異的な速度で分裂し癒していく。

しかしそれは、ダメージが無くなった訳では無い。

ただ、戦闘を継続するために。これからの闘いに支障が出ぬように。

 

再生した体で、ゆっくりと起き上がる。

 

オレは……これから”死”に抗う。

絶対の”強さ”に反抗する。

 

破られた、破ってしまった誓いの精算の為に。

 

ノーゲート・クリムゾンは、口の中で微かに妹の名を呟いて。

そうして、なんとか体の震えを止めた。

その震えは痛み故か、それとも。

それを意識せぬように、彼は胸中で吐き捨てる。

 

 

この世界はクソだ。

 

 

弱ければ強いヤツから奪われる。

 

強くなったって、より強いヤツからは奪われるしかねえ。

 

優しさの欠片もねえ。

 

愛が何かも教えてくれねえ。

 

だから、オレが立ち上がるのは⋯⋯。

 

それはきっと妹のためだ。

 

こんな世界で唯一輝いていた彼女に恥じない兄で居るためだ。

 

 

紅い死神(ガブリエラ)がふわりと地面に着地する。

 

ノーゲートはふらつきながら、なんとか立ち上がる。

 

彼らは同じように翼を広げる。

 

四枚羽と、二枚羽。

 

それが何よりも雄弁に、両者の力関係を暗示していた。

 

四枚羽の死神は告げる。

ただ、己が罪咎を懺悔せよと。

 

「お前が私を殺そうとした理由、今ならなんとなく解る。

⋯⋯さあ、選べ。

ひれ伏して断罪の刻を待つか。

立ち上がり苦痛の中で死ぬか」

 

紅い翼が、燃えている。

あれはもしかしたら、オレに奪われた者の怒りの炎なのかもしれないな、なんて。ノーゲートはどこか他人事のように思った。

 

オレを断罪する、地獄の炎か。

冗談じゃねえ。

 

「ハッ。笑えねえジョークだな。

コッチは妹が奪われてんだ。

それ以上をテメェらから奪わなきゃ割に合わねェだろうが」

 

あくまで強気に笑い。

ノーゲート・クリムゾンは。

死神に、その翼を突き付けた。

剣のように。

断罪するのはこちらだと言わんばかりに。

 

「テメェが炎ならさしずめオレのは断罪の刃、テメェ専用のギロチンだ。

ガブリエラ・ヴァン・テラーナイト……テメェの首を地獄に持って行くくらいしなけりゃ、オレは妹に合わす顔がねェんだよ」

 

ノース・クリムゾンを殺害した男、龍川芥の末路をノーゲートは知らない。

ただ、彼は今、目の前に立つ死神だけを見ていた。

それがいかなる理由の執着かは、彼しか知り得ないが。

 

死神は……ガブリエラはその目を細める。

瞳で燃える炎が、刃となって夜を切り裂く。

その殺意が爆発する。

その憤怒が放出する。

 

「私を殺す?

私から芥を奪っておいて、芥の願いまで奪おうとするのか……ノーゲート・クリムゾン。

お前は、赦せない。

お前の存在そのものが芥への侮辱だ。

――もういい、殺す。お前は私達の世界に要らない」

 

四枚の翼が、四つの炎が、夜を砕くように激しく燃え盛る。

誓いの雪を蒸発させる、否定の業火。

ならばこそそれに抗うのは、ノーゲート・クリムゾンに課せられた宿命だったのかもしれない。

 

空気が焦げる。

殺意が、闘志が、空間を蹂躙する。

張り詰めた糸のような緊張感が世界を支配し……。

 

そして。

 

ノーゲートは突進し。

ガブリエラは歩きながら。

 

両者は、激突した。

 

 

それは言わば、儀式に似ていたのかもしれない。

 

お互いに結果は分かっている行為を、それでも行う。

 

 

翼を振るえば、翼が砕ける。

 

腕を伸ばせば、腕が吹き飛ぶ。

 

足で蹴るなら、足がひしゃげる。

 

何も出来なければ、体の何処かが削られる。

 

それが、ノーゲートに与えられた運命で。

 

 

翼を振るえば、剣を壊し。

 

腕を伸ばせば、血と肉を掴み。

 

足で蹴るなら、骨ごとひしゃげさせ。

 

相手が何も出来なくなれば、ただ暴力で圧倒する。

 

それが、ガブリエラが行った作業だった。

 

 

紅い翼が、暴風のように暴れ回り。

 

赤い色は、嵐の中でただ散っていく。

 

それは見方によっては幻想的で。

まるで月下の舞い。

「死」の舞踊。

 

 

そして決まりきった勝者は決定する。

 

ノーゲート・クリムゾンは死に体で地に倒れ。

 

ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトはそんな彼を見下ろしていた。

 

薄皮1枚、数滴に満たない出血量の傷がひとつ。

 

それがノーゲートがガブリエラに与えた、唯一の抵抗の証で。

それすらも、音を立てながら一瞬で再生、完治してしまった。

 

 

「懺悔しろ」

 

死神は告げる。

けれどその胸中は、絶対的な力に見合わないほどにボロボロだった。

彼女の心は哭いていた。

未だに涙は止まらなかった。

豹変したと思われた人格は、しかし芥の血から得た知識で壊れかけたそれを補強しただけ。

本当は今にも慰めて欲しかった。

抱きしめて欲しかった。

そんなことやめて帰ろうぜと。

いつもみたいに一緒に眠ろうぜと。

言って欲しかった。

それはもう、二度と叶わない願いだけれど。

 

そんなボロボロの死神に見下ろされながら⋯⋯赤髪の吸血鬼は、ただ笑った。

自分の無様さを笑ったのか、相手の胸中を察して嘲笑ったのか。それは本人にすら分からなかった。

彼はただ言った。

 

「ファック」

 

べぇ、と舌を出し、必死の思いで中指を突き立てる。

 

破壊音。

 

ノーゲートは肉を地面に散らしながら、ゴロゴロと転がった。

もう彼にはなんの力も残っていないことが分かる、抵抗も何も無い光景だった。

 

ガブリエラは再び彼の傍に立ち、見下しながら言う。

 

「懺悔しろ」

「イヤ、だね」

 

破壊音。

 

ノーゲートの左腕が吹き飛び、灰になった。

 

「懺悔しろ」

「ぜってぇしねえ」

 

破壊音。

 

ノーゲートの背骨を、紅い翼が貫いた。

 

「懺悔、しろ」

「ハッ。クソ喰らえ」

 

破壊音。

 

ノーゲートは顔面の皮膚を半分持っていかれるほどの威力の一撃を受け、また無様に吹き飛んだ。

 

「懺悔しろ!」

「答えはファック(くたばれ)だ、クソ野郎」

 

破壊音は、しなかった。

ただ、泣きそうな女の子は叫んだ。

 

「⋯⋯どうしてっ!」

 

それを聞いて。

愚かな絶対強者の間違いを正すように。

ノーゲートは⋯⋯まだ自由に動くその眼で感情を剥き出しにして、吼えた。

 

 

「どうしてもクソもあるかよッ!

オレはオレの行動に何一つ負い目はねェ! その結果死んだとしても悔いはねェ!

 

だがよ、オレが嘘でも謝っちまったら⋯⋯オレは妹を裏切ることになるんだよッ!!

あいつの為に戦ったことを否定することになんだッ! 分かるかッ!?

テメェがどれだけ、あの人間を大事にしてたかなんて知らねェよ!!

 

あの人間が死んだなら、オレにとっちゃ仇討ちが終わっただけだ!!

妹殺したカスが死んだってだけだ!

それを懺悔しろだと!?

オレに謝れだと!?

ふざけんじゃねェよ!

テメェの都合押し付けてんじゃねェ!

オレを悪役にすんのは勝手だがよ、オレの譲れねェもんを奪えると思ってんじゃねェぞクソッタレ!!

 

 

テメェのクソみてぇな”強さ”に奪われるほど!!

オレの想いは弱くねェ!!!

 

 

一丁前に被害者面しやがって、冗談じゃねェぞ!

いいか、教えといてやるッ!

 

捨てられねェモン持ってるのは、クソみてえな悲劇背負ってんのは――最愛のひとを殺されてんのは、テメェだけじゃねえんだよッッ!!!」

 

 

それは敗北者の、魂の叫びだった。

決して譲れない、命の意味だった。

 

彼はただ、妹への愛で動いていた。

彼女へ誓った約束と、それを果たせなかった負い目で戦っていた。

 

それはまるで、芥への愛で動いているガブリエラのように。

 

 

 

この世界は残酷だ。

 

ありとあらゆる悲劇がまかり通り、全員が幸せになるハッピーエンドなど存在しない。

 

けれど何より残酷なのは。

 

絶対の正しさなど、この世に存在しないこと。

 

戦いは正義と悪のぶつかり合いではなく。

 

曲げられない意志同士のぶつかり合いで。

 

そしてそれは意志の強さなどではなく。

 

ただ戦いの強さだけで結果が決まってしまう。

 

そう、龍川芥は知っていた。

 

「愛ですら敵をつくり、誰かを傷つけることもある」と。

 

ふたりの譲れぬ愛は……今、互いを敵と認識した。

 

 

 

ガブリエラは⋯⋯ようやく理解する。

 

これは正しさを貫く戦いではない。

 

これは、ふたつの正しさの中から、どちらかを間違いにしてしまう戦いだ。

 

否定するのだ。

蹂躙するのだ。

 

相手が持っているだろう、自分と同じ愛を。

死者の仇を取りたいという悲願を。

彼にもある、ふたつの心の全てを。

 

そう、それが”殺す”ということ。

それが”奪う”ということ。

 

そして、それが”生きる”ということ。

 

自分が自分として生きるために。

誰かの(いのち)を、否定する。

 

 

ぽつり、ガブリエラは呟いた。

決意と覚悟と愛の言葉を。

 

「よく、分かった。

お前に懺悔は求めない。

それは私の傲慢でしかない。

 

私は⋯⋯芥を愛してる。

だから私は、もう彼を言い訳にしない。

傷つけることに、奪うことに、その理由に彼を使わない。

芥の命を奪ったのは私だ。

だから今からすることに、芥は関係ない」

 

四枚の翼が、より激しく燃えるように揺らめく。

 

「ああ、それでいい。

結局オレらは、どこまで行っても敵同士だ。

 

さあ……殺し合いの再開といこうぜ、死神」

 

ノーゲート・クリムゾンは、死神の翼が燃えるのを見ながらゆっくりと立ち上がった。

 

それは奇跡だった。

顔面の半分は肉と骨が露出していて、左腕は再生していない。

両足も間違いなく折れていて、再生する余裕もなかった。

けれど彼は立ち上がった。

唯一自由に動く右腕で、赤い剣を握りしめながら。

それをガブリエラは、何処か当然のように受け入れていた。

 

彼らは⋯⋯戦いが始まってから初めて、彼らは真の意味で目が合った。

 

 

ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトは宣言する。

 

「私はお前が赦せない」

 

炎の翼が夜に咲く。

 

 

ノーゲート・クリムゾンは獰猛に笑う。

 

「オレはテメェが気に食わねえ」

 

剣の翼が夜を裂く。

 

 

ふたりの吸血鬼は。

相容れぬ者同士は。

互いの眼を見て、ただ、純粋な思いを口に出す。

 

 

「「だから、(オレ)お前(テメェ)を殺す」」

 

 

言うと同時、彼らは動いた。

 

それは埋められない戦力差こそあれど、決して一方的な蹂躙ではなく。

お互いの全てを賭けた闘争(たたかい)で。

 

 

月夜に赤い暴虐が刃を纏って舞い踊り。

 

その赤色ごと夜を殺す様に、紅い死神が全てを灼く。

 

 

訪れる、激突。

 

そして――。

 

 

◆◆◆

 

 

ノーゲート・クリムゾンの(いのち)は。

ただひたすらに、己の無力さを呪う旅だった。

 

 

――それは、吸血鬼になった日のこと。

屋敷は襲われ、家族は皆殺された。

残ったのは自分と妹だけ。

 

震える体で、剣を構える。

大人にも勝てる剣の腕なぞ、吸血鬼には通用しなかった。

それでも背後の妹を守るために、ノーゲートは剣を離さなかった。

 

どちゃり、と。

先程まで”兄上”だった死体を無造作に放り、吸血鬼は嗤う。

 

「威勢の良い事だ。お前は使えそうだ」

 

それがなんの事かは理解出来ずとも、ノーゲートは吠えた。

 

「妹には手を出すな!」

 

それは虚勢にしかならなかったけれど。

吸血鬼はニヤニヤと嗤い、ノーゲートから背後のノースへと視線を飛ばす。

きゃ、と短い妹の悲鳴に、ノーゲートは慌てて振り向く。

 

「ノース!」

「お兄ちゃんっ!」

 

背後から現れたもう一体の吸血鬼がノースの首を掴んで持ち上げていた。

必死に伸ばした手は、しかし届かない。

 

「お前が妹を愛しているなら……そのために戦ってもらおうか」

 

ぶすり、と。

ノースの首に吸血鬼の牙が沈む。

 

「テメェッ! 妹を離せッ!!」

 

剣を振り上げて突進するノーゲートだが……最初に姿を見せていた吸血鬼に、背後から組み伏せられた。

カラン、と剣が床に落ちる。

 

「ぐっ……ノースッ!!」

 

万力の如き力で床に固定された体は、這いずることすら出来ない。

唯一自由な左手で、必死に妹の方へと手を伸ばすも……無力なノーゲートには、それ以上の何も出来なかった。

その絶望に付け入るように、吸血鬼が背後から囁く。

 

「安心しろ。妹は死なないさ。お前が我々に従ううちは、な」

 

そして、ノーゲートの首に吸血鬼の牙が沈み。

不快感と、それ以上のおぞましい快楽に飲まれながらノーゲートは気を失った。

否……人間としてのノーゲートは死んだ。

 

彼は消えゆく意識の中、ただ呪った。

己の無力さを。

この残酷な世界を。

 

 

 

 

――それは、【紅い暴君】に出会った日のこと。

妹共々吸血鬼となったノーゲートは、妹の身の安全を保証するために憎き仇の手下となっていた。

そんな彼らの前に……それは現れた。

 

それは満月の夜。

群れた吸血鬼を睥睨する”それ”は――既に吸血鬼史上最悪と謳われていた、夜の帝王。

 

「貴様は【紅い暴君】!」

「同胞を喰らう罪深き吸血鬼めが!」

「眷族達よ、ヤツを殺せ!」

 

吸血鬼達が勇ましく、あるいは愚かにも喚く言葉は、ノーゲートの頭に微塵も入ってこなかった。

【紅い暴君】。

そう呼ばれた、目の前の吸血鬼を見る。

 

月が、燃えている。

炎の翼が、月を背に立つ吸血鬼が、満月を太陽の様に見せている。

そしてその燃えるような、夜を否定するような紅い瞳は――絶対の”死”、その顕現にすら見えた。

 

殺される。

絶対に殺される。

勝てるとか勝てないとか。

怖いとか怖くないとか。

そんな次元じゃない。

 

アレに抗えば死ぬ。

アレの気まぐれで死ぬ。

アレは”太陽”。夜の太陽。

アレの前で、吸血鬼なぞ人と同じ弱者でしかない。

 

オレは、オレ達は――ここで死ぬ。

妹を守れず死ぬ。

そんな予感。

それだけがノーゲートを支配し。

 

「ッ、ファックッ!」

 

ノーゲートはただ、鎖で繋がれていた妹を抱いて逃げた。

 

「ノーゲート、貴様ッ!?」

「戻れ腰抜けが!」

「おい来るぞ……ギャアアッ!!」

 

背後から聴こえる、怒声。

それが塗り変わるように放たれる悲鳴。

肉が壊れる音。

”死”が訪れる音。

 

「ハァッ……ハァッ……ハァッ……!」

 

ノーゲートは逃げ続けた。

夜が明けるまで、吸血鬼の脚力で走り続けた。

立ち止まれば殺されると、本気で信じて走り続けた。

夜が空けた時……初めて振り向いた背後には当然、恐れた”死”の化身の姿は無く。

何故逃げのびられたのか、それすら不思議だった。

ただ、ノーゲートは……逃げた自分に気付いたそのとき、再びこの世を呪った。

 

「オレは、弱い……弱すぎるッ……!」

 

吸血鬼になってさえ。

強者に奪われるだけなのか。

再びあの化け物に会えば。

妹を守るなんて出来ず、ただ殺されると断言出来る。出来てしまう。

 

ノーゲートは、震える妹の体を抱きしめながら……この世の摂理を悟った。

 

弱ければ奪われる。

その事に文句を言うことも出来ず、弱者は強者にねじ伏せられる。

オレは……強者の側で居なければならない。

そうでなければ、妹を守れない。

 

「強く、ならねェと」

 

ぽつり呟いたソレは、二度目の誓い。

妹を守るための、兄の約束。

 

 

 

 

オレは。

ノーゲートは、何も守れない。

 

「怖かったけど……でも吸血鬼になったおかげで、あたしは強い体を手に入れられた。だからお兄ちゃん、そんなに自分を責めないで」

 

違うんだ、ノース。

オレがもっと強ければ。

吸血鬼を倒して、当主になって、オマエの体を医者に治してもらって

そして、オマエを真っ当に、幸せにできた。

オマエを守れた。

 

「お兄ちゃんがあたしを連れて逃げてくれたから、あたしは生きてるんだよ。あたしひとりだったら死んでたんだから、お兄ちゃんは凄いよ」

 

違うんだよノース。

オレがアイツより……【紅い暴君】より強ければ。

追われることに怯えることも、物陰を恐れることも、故郷を捨てるまで逃げ続けることもなかった。

オマエに怖い思いをさせなくて済んだ。

オマエを守れたんだ。

 

オレが強ければ。

誰よりも強ければ。

 

破り続けた「オマエを守る」って誓いも。

ホンモノに出来たのに。

 

だから、強く。

誰より強く。

奪う者に。

奪われない者に。

 

妹を、守れる兄に。

 

 

 

「……オイ、聞いたぜノース。日本に行くんだってな」

 

アメリカ。国の影である吸血鬼社会を仕切るクリムゾン家の筆頭吸血鬼ふたりは、夜の路地裏で話をしていた。

 

「ああ。ウチ(クリムゾン家)はアメリカ国内で1番影響力がある家だが、あの貴族気取りのイギリスや数だけ多い中国の奴らにゃ相手にもされねー。

アタシ達も外に出る時が来たんだ。手始めに諸国に支部を作る。そーゆー話は兄貴も聞いてるハズだろ」

 

「K」のバッチを胸元で輝かせる、燃えるような赤髪の吸血鬼――吸血鬼として成長した、ノース・クリムゾン。

彼女は吸い尽くした人間の死骸を、ゴミの山へ乱雑に放る。

路地裏は血が飛び散る惨状を見せていた。

人の死体もひとつやふたつでは無い。

そんな死と暴力の撒き散らされた光景の中、返り血を頬に付けた、赤く妖しい女吸血鬼。

そんな彼女に、同じく「K」のバッチをつけた兄、ノーゲートは言う。

 

「だがよ、お前があんな遠い島国まで行くことねェじゃねェか。しかもボスの野郎、オレの同行は許可しねェって話だぜ。もしお前に何かあったら……」

「ハッ。兄貴は過保護過ぎんだよ。アタシはもう昔の病弱なガキじゃねー」

「けどよォ――ッ」

 

ピタリと。

ノース・クリムゾンの翼が、ノーゲートの首に押し当てられた。

それ以上喋るなと言わんばかりに。

夜闇の中で爛々と光る妹の目の中に、得体の知れないものが燃えているのを兄は目撃した。

 

「わりーけどよ、兄貴。アタシは強くなりてーんだ。そのためなら独りで何処へだって行くぜ。

誰からも奪われねー。アタシから奪うなんざ許さねー。

ボスよりも、イギリスのクソ貴族共よりも、他のどんな吸血鬼よりも強くなって――兄貴、いつかアンタも超えてやる」

 

彼女は。

もう誰も信用していなかった。

血を分けた兄ですら、力に任せて自分から奪うかもしれないと……そういう、怖くて寂しい目をしていた。

ノーゲートは……きっと笑ったんだろう。

吸血鬼として生きていくには、それでいいと思ったから。

 

「……分かったよ、ノース。テメェは強くなれ。

誰にも負けねェくらいになァ」

 

ノーゲート・クリムゾンはそう言って、妹の前から立ち去った。

もういいのだと。

きっと妹は、自分が守る必要も無いくらい強くなったのだと。

今はまだ少し不安だが……きっと十年後くらいに会った時は、きっとこの不安も晴れるのだろうと。

そのときに、やっと。

このボロボロの約束は、遂に守られるのだと。

強くなった妹を見て、「妹を守る」という約束は必要無くなり、自分の役目は終わるのだと。

そう思っていた。

希望論だけを信じてしまった。

 

この最後の会話を、一生後悔することになるとも知らずに。

 

 

 

 

そしてそれは――妹が、ノース・クリムゾンが死んだと知った時。

 

数百年に渡る生を支え続けた誓いは、遂に修復不能なまでに砕け散った。

2度破られた約束。

けれど取り返しのついた2回。

3度目は……もう、取り返しなどつこうハズも無い。

死は絶対の不可逆。

だからこそ、ひとは死に絶望するのだ。

 

ノーゲート・クリムゾンはあのとき。

妹の死を知ったあのときから、きっと抜け殻となったのだ。

胸の内を焼き尽くす、憤怒と憎悪と悔恨と悲哀と絶望とが綯い交ぜになった感情の奔流に突き動かされる、ただ強いだけの抜け殻に。

 

 

 

最後の剣撃を放ちながら、ノーゲートは考える。

 

そう、オレは本当は、誰でも良かったのだ。

ただ八つ当たりがしたかった。

こんな世界に、オレの絶望をぶつけられる相手が欲しかった。

丁度現れたかつての【紅い暴君】を連想させる吸血鬼。

コイツを殺せれば、殺せさえすれば……。

その先に待つものなんて考えずに。

考えてしまえば、本当に絶望してしまうから。

戻ってこない妹のことを考えてしまったら、その瞬間に全て無くしてしまうから。

だから、オレは八つ当たりに逃げたのだ。

仇討ちなんて言い訳して。

抜け殻になることを、考えなしに奪うことを選んだのだ。

 

けど。

けれど。

 

思い出す、ノース(いもうと)の笑顔。

 

彼女を守ると誓ったこと、それだけは、その思いだけは本物で。

 

 

弱者は。

何を奪われても仕方ない。

その事に文句を言う権利すら、無い。

 

 

ならば。

この積み重ねた強さなら。

手に入れた吸血鬼としての力なら。

文句のひとつくらい、奪った者に届くのだろうか。

オレから妹を、約束を――人を殺してまで生きる意味を奪った、強い強いクソ野郎に。

 

そうだ。

きっとオレには、それだけが残ったのだ。

だから。

 

 

負けられねえ。

認められねえ。

諦められるハズがねえ。

妹を奪ったこんな世界を。

オレを絶望させた世界を。

このクソみたいな世界を。

 

――全部、ぶっ壊してやるッ!!!

 

 

その吸血鬼は。

妹を守れなかった、無力な兄は。

きっと、この世界の全てを壊したかった。

「誓いのため」「妹のため」と理由をつけて、この残酷な世界の全てを否定したかった。

絶望と。

憤怒と。

無力感を誤魔化すための破壊衝動。

彼にはもう、それしか残っていなかった。

 

全てを無くした吸血鬼は、そのボロボロの魂で叫ぶ。

 

 

――まずはテメェだ、ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトォッ!!

 

 

魂の絶叫と共に放つ、ノーゲート渾身の斬撃。

その一撃は。

まるで赤い月。

弧を描く月が、空気を裂いてガブリエラの首へと迫る。

速度は神速。

威力は絶死。

ただ、破壊だけを願った斬撃の果ては――。

 

 

ファック。

分かってたぜ。

こうなることくらい。

 

 

ガブリエラの翼、死神の翼が燃え上がる。

炎の翼が、振るわれる。

それは破壊そのもの。

それは絶望そのもの。

夜を焼く翼が、ノーゲートの一撃と衝突し……ノーゲートの剣は、呆気なく砕け散った。

細胞が。威力が。意地が。

簡単に敗北を認めてしまい。

 

 

だがよ。

止まれるワケねェだろうがッ!

オレの絶望は!

オレが敗けた程度で消える程、ヤワじゃねェ!

思い知れ、ガブリエラ・ヴァン・テラーナイト!

思い知れ、【紅い暴君】のクソ野郎!

思い知れ、このクソッタレな世界の全て!

 

――オレの”(つよ)さ”を思い知れ!!!

 

 

折れた剣を、それでも振るう。

正真正銘最後の一撃。

目指すはガブリエラの首。

細く白い、その一点のみ。

半ばで折れた刀身が、まだやれると叫んでいる。

壊れかけた体に残る力全てが、その斬撃に注がれる。

殺す。

斬り殺す!

 

驚いたようなガブリエラの顔。

その首に迫る刃。

 

風を斬る。

距離を裂く。

命を狙う。

 

届け、届け。

オレの怒りよ、”死”に届け――。

 

 

血が、夜に舞った。

 

 

ノーゲートの剣は、ガブリエラの首に届いていた。

 

……ただし、薄皮一枚分だけ。

 

じわりと滲んだ血が、その細い首を流れる。

 

 

「オレの――敗けか」

 

 

ノーゲートの胸には、巨大な穴が空いていた。

ガブリエラの翼の一撃で、心臓諸共骨肉を吹き飛ばされたのだ。

 

どさり。

ノーゲートは倒れた。

今度こそ、二度と立ち上がれないことを悟った。

 

指1本動かない。

悪態の一言すら吐き出せない。

息も出来ない。

寒い。

ただ寒い。

そう、これが……死か。

 

ノースは、こんなにも怖かったのか。

 

ガブリエラが此方を見下ろしている。

その顔は……されど、勝者のものに相応しくなく。

 

クソッタレ。

なんて顔してやがる。

オレから奪うヤツが悪役じゃねェなんて……そっちのがよっぽど悪夢だぜ。

 

彼女の表情は、ただ寂しげで。

儚げで、まるで今にも泣き出してしまいそうな。

ノーゲートにはそんな頼りないものに見えた。

 

 

ファック。やっぱテメェは気に入らねェ。

……恨むぜ。

テメェを恨みきれねェ自分の弱さを。

そんなテメェを死神に寄越した、クソッタレなこの世界を。

 

嗚呼。

やっと、終わるのか。

終われるのか。

無力で無意味な男の、クソッタレな命が。

ノース、ゴメンな。

オレは……最後まで、弱かった。弱いままだった。

お前の為に戦うなんて言っておいて……この命の終わりに、絶望の終わりに、安堵している自分が居る。

やっぱりオレは最低だ。

お前を裏切り続けた、最低の兄だった。

 

 

視界が、ぼやける。

いや、視力が失われていく。

何もかもが奪われていく。

死が、ノーゲートの全てを奪っていく。

 

寒い、寒い。

冷たい、冷たい。

 

……どうして寒いんだろう。

 

そうだ、きっと雪が……。

 

 

雪が降っていた。

 

しんしんと、降っていた。

 

それが現実なのか、それとも瞼の裏の出来事なのか。

 

もうノーゲートには分からなかった。

 

雪が降っている。

 

ただ、降っている。

 

 

嗚呼、そうか。

 

此処に居たのか、ノース……。

 

ゴメンな、守ってやれなくて。

約束、また破っちまって。

こんな情けねえ兄貴で、ゴメンな……。

 

――お兄ちゃん

 

ノース……?

 

――あたしね、嬉しかったよ。お兄ちゃんに守ってもらえて

 

……オレは、オマエを守れなかったんだぞ。

 

――違うよ。お兄ちゃんはね、ちゃんとあたしを守ってくれたの

 

――だって、あたしの為に、命を懸けて戦ってくれたでしょ?

 

――それって、お兄ちゃんの心の中のあたしを守ってくれたってことだよ

 

――あたし、それで充分だよ

 

 

雪景色の中。

窓の外、決して出れなかったその光景の中に、小さな妹は兄を連れ出す。

それはノーゲートの創り出した幻覚か。

はたまた神と呼ばれる誰かの悪戯か。

 

 

――兄貴、最後にもう一つだけ、約束しよう

 

やく、そく?

 

――ああ。今度はアタシから、アタシを守ってくれた兄貴へ

 

 

雪の降る世界で。

燃えるような赤髪の女吸血鬼は、泣きそうな赤髪の少年へと笑いかける。

 

 

――アタシ達は地獄に堕ちる

 

――でも、もし何百年か後、罪が許されることがあったなら

 

――もし、生まれ変わることが出来たなら

 

 

――そのときは、また兄妹として

今度は、お互いを守り合おう

弱いままでいいから

強くなくてもいいから

ただ、まっすぐに

誰かに、自分達の生き方を誇れるように――

 

 

 

雪の降る中、妹は微笑む。

兄は……ボロボロと涙を流しながら、不器用に笑った。

 

 

――……ッ、ああ、ああ! 約束だ、ノース!

 

 

それは……雪降る日の、最期の誓い。

明日の無い彼等が、それでも笑って死ぬ為の。

この世界では救われなかった兄妹が、それでも救いを得る為の。

 

 

一生涯にひとつしかない、ふたつ目の、来世の分の大切な約束。

 

 

兄は……神に、己の罪に、そして最愛の妹へ誓った。

 

今度こそ、この約束だけは破らない――

 

 

 

吹雪く白の中、赤毛がふたり。

雪の勢いが強くなる。

白が赤色を覆い隠していく。

やがて、完全に見えなくなるその寸前まで。

ふたつの灯火が、ひとつの炎に見えるように。

彼らはただ、静かに寄り添っているように見えた。

 

 

そして。

 

ノーゲート・クリムゾンは。

 

灰になって、死んだ。

 

 

その灰は夜風に攫われて、空に昇っていく。

 

ぽつり。

紅い死神が出した手に、ひとかけらの灰が乗る。

白く、まっさらなそれは。

溶けるようにほどけて、手のひらから消えていった。

彼女は空を見上げる。

そこには、白い灰が舞っていた。

暗い暗い夜空を彩るように。

残酷な満月を霞ませるかのように。

灰は、空に昇る。

ひらひらと、はらはらと。

 

 

その最期は何処か……冷たくて優しい、雪に似ていた。

 

 

◆◆◆

 

 

終わった。

戦いは終わった。

いや⋯⋯きっとそれ以外の多くのものも、ノーゲートの絶命と共に終わって逝った。

彼の最期を看取りながら、ガブリエラはぽつり、呟く。

 

(アクタ)⋯⋯終わったよ」

 

終わっちゃったよ。

私と芥の、夢みたいな半年間(ものがたり)が。

 

燃えるような翼も消え、ガブリエラは死神から吸血鬼へと戻った。

 

フラフラと、教会へと歩いていく。

もう一度、彼の顔が見たかった。

諦められなかった。

捨てたくなかった。

置いて行きたくなかった。

 

何も返ってこなくても。

もう一度だけ、抱きしめたかった。

 

教会の中、紅い絨毯の上に、龍川芥の死体はあった。

 

ステンドグラスに描かれたヘタクソな神様の絵が、嘲笑うみたいに現実を突きつけていた。

 

龍川芥は死んだ。

私が、殺した。

 

けれどガブリエラは、ただ悲しそうな顔をして、それを受け入れた。

彼女はもう、孤独に怯える子供ではなく。

自分の罪を受け止めようとする成長を遂げていた。

 

それを褒めてくれる相手は、もう彼女の隣に居ないけれど。

 

芥の傍に膝を着く。

彼は目を覚まさなかった。

当たり前だった。

その当たり前が、何よりも心を締めつけた。

 

「芥」

 

彼が助けに来てくれた時にそうしてくれたように、抱き起こす。

やけに重い肉の塊は、ぐったりとしていて。

いつもあたたかかった温もりは、今ではひどくつめたかった。

 

「芥、私ね。

この半年間がすごく楽しかった。

誰かと笑い合うことも。

誰かを好きになることも。

誰かに寄り添えることも。

それがとっても嬉しいことだって、全部この半年間で学んだんだ。

芥が教えてくれたんだよ」

 

返事は返って来ない。

相槌も、笑顔も、なにも無い。

頭を撫でてくれることも、頬をつまんでくれることもしない。

 

ガブリエラは⋯⋯笑った。

それはとても痛ましい笑顔だった。

無理矢理つくった偽物の表情だった。

 

けれど、愛した人を送るには。

この顔でなければいけないと思ったから。

 

「⋯⋯そう言えば、これはしてなかったね。

吸血鬼じゃなくて、人間の愛の証」

 

 

ガブリエラ・ヴァン・テラーナイトは。

静かに眠る龍川芥に、そっと口付けをした。

 

 

世界で一番悲しいファーストキス。

 

触れた唇が、肌が、何よりも相手の死を刻みつけてくる。

 

ガブリエラの瞳から、一雫の液体が溢れた。

 

それは透明な血。

心が傷ついたときに流すもの。

 

それは、涙。

 

吸血鬼は泣かない。

ならばこれは、彼女がヒトであることの証明だったのかもしれない。

 

例え、吸血鬼と呼ばれようと。

誰からバケモノと蔑まれようと。

その胸の中にあるのは確かにヒトの心だという――最愛の人間に貰った心は確かに在るのだという、確かな証。

 

 

涙は流れ、そして唇を伝って芥の唇を濡らした。

 

それ以上の何も起こらなかった。

そう、これは現実で。

乙女の涙が奇跡を起こすなんて、そんな都合のいい話は無くて。

 

 

だから、これから起こるのは。

様々な偶然が重なり合った、ただの必然。

 

運命(バッドエンド)という名の悲劇をひっくり返す、彼らが掴み取ったどんでん返し。

 

 

ガブリエラは、自分の口内に侵入する何かを感じた。

 

慌てて唇を離してから体を引き、芥を覗き込む。

何も変わっていない。

何も動いていない。

 

けれど、あれ?

つめたいけど、感じる。

小さいけど、聴こえる。

さっきまではしなかった、規則的な命の音。

 

これは⋯⋯心臓の、音?

 

 

──聞け、ガブリエラ・ヴァン・テラーナイト

 

それは思念だった。

 

舌に、自分のものでは無い吸血鬼の細胞がこびりついている。

それが細胞を通して直に意志を伝えてくる。

 

──時間が無いから手短に話す、アタシのことを教えてる時間はねえ

 

「え⋯⋯あれ? だって芥は、私が⋯⋯」

 

──龍川芥はまだ死んでねー。コイツに死なれると困るから、アタシが延命させてやったんだ

 

ここに来て。

全ての前提はひっくり返る。

 

ガブリエラは、これからひっそりと生きるつもりだった。

ただ芥のことを思いながら、彼の望み通りに生きていこうと。

 

けれどそれは、龍川芥が死んでしまったからの話で。

彼が生きてさえ居れば。

半年間の日常が、これからも続いていく。

 

ガブリエラの脳裏にあの風景がよぎる。

芥が笑って、私が笑って、それで完成されていた世界。

 

あの幸福が、取り戻せるとするならば。

 

 

──アタシの指示に従え。そうすれば、アンタの求めた”ハッピーエンド”ってやつ、叶えてやるよ

 

 

希望が。

まるで夜明けの朝日のように、ゆっくりと顔を見せ始めていた。


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