セイウンスカイとトレーナー。春先のお話

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悔類先生(https://www.pixiv.net/users/650159 )の企画に参加させて頂きました

セイウンスカイとトレーナーの春先の話です。

この短編は「トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない」(https://syosetu.org/novel/273727 )の少し未来の話となります。
よろしかったらそちらも、ご覧下さいね


1年後のあおぐもと共に

 ぬるく吹く強い風は、春の足音をしみじみと感じさせる物だった。とは言えこの速度では、それなりに体温が奪われる。リードを握った手が非常に冷たくて、トレーナーが手袋いらない? と聞いてきた時に、貰っておけばよかったと彼女は後ろ髪を引かれ続けていた。

 

 比較的短く整えられた白群かかった芦毛がウマ娘のスピードで揺れている。青碧の瞳はまっすぐ前、彼女が走っている先の道を見据えており、まわりへ注意を払っていた。

 

「そろそろ……かな」

 

 歩幅、足の回転、周りの景色からスピードを概算し、手首のスマートウォッチを叩く。4キロを走りながら、13秒あたり200mをどちらも正確に撮る、というのが今のトレーニング内容だった。

逃げウマ娘に必要なスタミナと正確な時間感覚を鍛えるのだと言う。最初は学園内でやっていたのだが、目印となるものがないところでやろうということで河川敷に来ている。

 

 最初こそ首を捻りたくなったが、もう慣れた。ちらりとスマートウォッチを見ると、205.4m/13.56sという表示。僅かなズレだが、求められているのは果てのない正確さ。走ることだけ考えたいと叫ぶ脳みそを無理やり動かし、またスピードを換算する。

 

 足の調子は戻っていると医者もやっているトレーナーが太鼓判を押してくれたので心配はしていない。暫く全力で走れなかった鬱憤を晴らす如く、彼女は走るのを楽しんでいた。

 頭上には厚い雲がその重い身を横たえている。トレーナーさんの話なら、雨は降らないって言ってたよね……。今3本目で、ノルマは達成している。

 

「4本目いくかは君の好きにしたらいい。皐月賞前だから、無理はして欲しくないけど。足りないならやってもいいから」

 

 銀色の保温シートにくるまってパソコンを叩くトレーナーの姿を思い出し……早く終わらせた方が良いだろうと結論づける。

 

「じゃ、最後行くよ」

 

 芦毛のウマ娘。セイウンスカイはひとつ心の中で自分の頬を叩く。改めて気合を入れると、夕方の多摩川を走り抜けていく。

 

 

「……で、なんでこうなっちゃうかなぁ?」

 

 春雨と聞くと随分と風流だし、細やかに降り注ぐ雨のように思える。だが今日の雨は春雨ならぬ春豪雨だ。大粒の水滴が遠慮もなしに地面を叩き、水たまりを作る。

 

 セイウンスカイは橋の下で止むのを待とうと思案したが、スマートウォッチの予報によるとあと4時間は続くようだ。日も落ちかけ、気温は急激に下がってきた。トレーナーに断ってそのまま帰ることも頭をよぎったが、貴重品や汗かいた用の着替えは彼の横のバッグ。回収しない選択肢は乙女として無い。絶対にない。なにせ上から下まで全部入っているのだから。

 

 雨が降る中をトレーニングの数段早く走る。「危ないから焦らなくていいよ」というメッセージが来たが焦ってはいない。急いでいるだけ。なぜなら……と言うところで、橋の下に人影がある。サングラスにスーツという出で立ちで、カバンふたつを持った男。

 

「お待たせ! ……トレーナーさん」

 

「早かったね。怪我してない?」

 

 穏やかな笑顔で真っ先に怪我の確認をしてくるところが彼らしいが口の端が震えているし、保温シートが肩からかかっている。

 そんな少し情けない姿を見せているのが、セイウンスカイのトレーナーだった。

 

「私は大丈夫。だから、早く帰りましょ?」

 

「そうだね。じゃあ……」

 

 差し出されたカバンごと、彼の手を掴んだ。怪訝そうな顔にまくし立てる。

 

「ハーネスじゃないからセリカちゃん使えないし、白杖もこの天気じゃ無理でしょ? ほら。遠慮しないでいいのでー。帰りましょ」

 

 曖昧に頷くのを確認する前に、彼女はトレーナーの手を引いて走り出す。もちろん、彼にも着いてこれるように随分と手加減をしながら。

 

 

 

 それから2,30分ほどして。

 彼女は温かな湯船に肩までその躯を沈めていた。

 

「なんでこうなっちゃうかな……」

 

 心臓の鼓動が水面を揺らすのではないと思うほど大きく、そして早い。風呂で温まったからでは無いのは、彼女にはよく分かっていた。

 ……濡れた髪の毛と尻尾にまずお湯をかけ、張り付いていた草の欠片とか土くれを落とす。いつものシャンプーやトリートメントは持ってきてないし、ここにあるのは男性用シャンプーと犬用シャンプーだけ。

 

 さすがにこれを使う訳には行かないよね。大型犬用、と書かれたそれを手に取ることも考えたが、止めておいた。そして慎重に湯船に体を預けると、一挙に安心感が彼女を満たす。

 そこまでは良かったのだ。半分、ここが誰の家か忘れている。扉の外から、「ぬるくない? 追い炊きするならしていいからね」という声がするまでは。

 

「いやいや。ちょうどいいですよー」

 

「それは良かった。タオルは置いてあるから」

 

 ドキン、と暴れそうになる心臓を深呼吸で無理やり押さえつけながら応えたが、正直叫び出しそうだった。知らない仲じゃないし、信頼もしている。

 

 だが、部屋に上がり込んで風呂を借りるというのは……。熱が顔まで上がってきて、それを誤魔化すように口元までお湯に浸かった。

 

「キングに知られたら怒られちゃうなぁ」

 

 キングだけじゃない。エルとかグラスちゃんとか。きっと、暫く言われ続けるに決まってる。「じゃ、早く帰りまーす」と言ったところでくしゃみをした自分の体を呪うしかない。

 

 寒さからの顔の赤みが羞恥に変わり。それが風呂のせいであると言い訳できるくらいにはなったかな……と鏡を見ながら頬を触った。うん。大丈夫と胸を撫で下ろす。

 

 上がる前に、『落し物』の最終確認。残していくのは乙女として絶対にありえない。1片たりとも逃さないようにすくってから流す。排水溝トラップの中? ……きっと、この後にセリカがシャワーを浴びると言ってたから。紛れる。はずだ。

 

 扉を少しあけ、首だけでタオルを探す。洗面台に白いタオルが畳んでおいてあって、それを使わせてもらう。全身拭いてからドライヤー……多分セリカ用だ。それで髪の毛と尻尾の毛を乾かして。持っていた換えの下着に足と腕をそれぞれ通して……彼女が手に取ったのは同じく持ってきた体操服ではなかった。

 

 さっきまで乾燥機に入っていたであろうワイシャツ。少し暖かい。トレーナーがいつも着ているやつで、白衣の下に合わせているものである。ちょっとしたいたずらごころ。着て出ていったら、なんと反応してくれるだろうか。散々ドギマギさせられたのだから、少しはやり返したい。選んだのは自分であるということを棚に上げておいて、そんな思いから、彼女は大きめのシャツに袖を通した。

 

「結構大きいんだね。トレーナーさん」

 

 やはりと言うべきか、大人と子供の体格差はかなりある。彼女のトレーナーはそんなに大きい方ではないが、それでもかなりブカブカだった。袖も裾も胸元も随分余る。腕は2回ほどまくるとちょうどよくなったが、全体的にダブついているのは仕方ないだろう。

 

 裾は太ももの真ん中くらいまである。肩の位置は合ってない。体操服を履くか悩んだが、それを伝えたらなんという顔をするか楽しみで止めておいた。

 

「上がったよー。トレーナーさん」

 

 気づいたらどんな反応をしてくれるかな。そう思ってドアをスライドさせ、火照った足裏に伝わるフローリングの感触を楽しむ。何があっても冷静に。大丈夫。主導権はにぎれる。

 

「わかった。ありがとう」

 

 トレーナーの声は、何故か玄関の方から聞こえてきた。少しして足音がしてくる。片眉を上げつつそちらを見ると、彼女のトレーナーはセリカを抱えていた。大きなシェパードであるセリカを抱える彼は余裕が無いらしく、一直線に風呂場へ行き、大事な相棒を下ろす。

 

「トレーナーさんトレーナーさん? なにか気づきません?」

 

 またでてきた彼に声をかける。が、見向きもせずにソファに置いてあった着替えを掴むと、自分もシャワーを浴びようとしていた。

 慌てる心を悟られないようになんとか引き留めようと試みる。

 

「トレーナーさんトレーナーさん? もっとよく見てくれないとなー」

 

「あー……ごめん。セリカが風邪ひいちゃうからさ」

 

 もう少し押せばもしかしたら見てくれたかもしれないが、トレーナーは穏やかな笑顔でそう断ると引っ込んでしまう。

 

「そんなー……えー……」

 

 例えば一瞬でも気づいて、そそくさと風呂に逃げていくとかしてくれれば少しはやり返せたと思っただろう。だが現実はどうだ。全く気にもされなかった。

 

 盲導犬であるセリカを大事にしているというのは分かる。1番の相棒だからだ。とはいえもっと愛バに興味を持ってくれてもいいじゃないか! と彼女は声高に叫んでこの心にかかった落胆を払おうとする。

 

「でも、改めて気づかれたりすると……ちょっと、恥ずかしいかなー?」

 

 ちょっとどころではなくだいぶ恥ずかしい。改めて考えてみるとトレーナーの家で下着とワイシャツ1枚。下にはズボンも履いてない。

 ……相当まずいことをしているのでは? 顔の血流が良くなる音と、耳の先に血液が集まる感覚と。正気に戻るのが遅すぎるよ私。と彼女は体操服へ着替えることにした。

 

 ……彼が暖房をきかせてくれたおかげで、たとえ見つかったとしても夕暮れのような顔の言い訳がたつかもしれないのは、幸いだった。

 

 

 セリカをシャンプーし、自分も風呂に浸かって。トレーナーが出てきた時、セイウンスカイは部屋の真ん中のソファでサイダーを飲んでいた。 

「上がったよ」

 

「あ、ああ。トレーナーさんおかえりなさい」

 

 さっきのイレ込みが思い出されてセイウンスカイは顔をまた赤くしていたが、トレーナーはセリカの方を見ている。冷たいサイダーの缶を頬に当て、気持ちを鎮めようと深呼吸。何秒もかけて呼吸していると、セリカが膝の上に乗ってくる。

 自分が入った直後に彼が入っていたことは考えないように。風呂上がりのシェパードに話しかけた。

 

「お、セリカちゃん……ふわふわだねぇ?シャンプー気持ちよかったかなー?」

 

「できるだけ乾かしたけど、濡れてたらごめんね」

 

「ん? ああ、大丈夫ですよ。ちゃんと乾かせてますから」

 

 それはよかった、と彼はセイウンスカイと同じサイダーとセリカのおやつを持って彼女の隣に座る。大人の体重を受け止めたソファが少し軋み、トレーナーは背もたれに大きく体を預けていた。

 

「皐月賞前なのに風邪ひいたら私のせいだね。天気予報を軽視してたかな」

 

「仕方ないと思いますけどね。だって、降水確率けっこー低くありませんでした?」

 

「うん。でも、局地的なにわか雨はあるかもって言ってたような気がする」

 

 走る前にスマートウォッチで確認した天気予報を思い出す。降水確率は20%ほどで3本目いけると判断したのは自分だ。今のところ悪寒もないしそれで良い。

 

「風邪は大丈夫そうですから気にしない方がいいんじゃない? ってセイちゃんは思います」

 

「そうかな。まあとにかく、今日は暖かくして寝なさい」

 

「はーい」

 

 もとよりそのつもりなので、ありがたく受けておく。ふと渡されたセリカのおやつをあげながら、今日ずっと聞こう聞こうと思っていた事を質問する。

 

「そういえばトレーナーさん。何か忘れてませんか?」

 

 いきなりそう言われても困るよな、と思いながら、答えを待つ。「何か忘れてる……?」と額を指で叩き始めた。

 

 そういえば、今トレーナーさんってサングラスしてないよね……。久々に見る素顔が新鮮だった。きっと、家の中だからだろう。眉間にシワが寄り、あー……と何かを絞り出そうとする声。

たっぷり秒針が3回は回った。めんどくさいウマ娘だと思われてないかが心配だったが……トレーナーは文句一つ言わずに考え続けていた。 

 

「えー。分からないの?」

 

「情けない限りだけどさ」

 

「もー。1年1緒に過ごした愛バ相手にそれはないかなー。セイちゃん悲しくてもう明日からトレーニング行けないかも」

 

「1年……1年?」

 

 よよよ〜と大袈裟に悲しんでみた所で、彼はなにか思いついたようだ。

 

「もしかして出会って1年、かな?」

 

「お! トレーナーさんだいせいか〜い。拍手しちゃいます」

 

 ぱちぱちーと気の抜けた拍手を送ると、トレーナーは両手で顔を覆い、大きく大きく息を吐いて体を弛緩させていた。

 

「何日か後にチーム結成1年は覚えてたんだけどね。そうか、今日か……」

 

 医務室でお昼寝をしていたところ、出張に出ていたトレーナーが来て。それが出会いだった。随分と色々なことがあったが、良いチームとして、良いウマ娘とトレーナーとして歩めているとセイウンスカイは考えていた。

 だが、こんなことを言い出したのは何も彼を苦しめたかったからじゃない。ちょっとは困らせたかったが、満足した。

 

「トレーナーさん。ありがとね。私を担当してくれてさ」

 

 セリカを撫でる手を止め、隣に座るトレーナーを見据える。気づいてくれるかくれないか。平穏な時より、少しだけ心臓が早い。

 

「私? 特になんにもしてないよ。ここまで来れたのは君がよくやったからさ」

 

「たまには素直に受け取ってよね。素直じゃないんだからー」

 

 ほれほれとトレーナーの脇腹をつつく。くすぐったそうに「や、やめなさい」と身を捩って逃げるマネだけしていた。本気でないことがわかるのが嬉しい。

 いつも褒めても自分は大したことないと言っているが、そんなわけがあるか! と声を大にして言いたかった。

 

「もしさ。トレーナーさんと出会わなかったどうなってたかなって……あんまりいい結果が想像できなかったんですよ」

 

 サングラスをかけていない穏やかな笑顔が、彼女の正面にあった。真っ直ぐ見つめて、感謝を述べる。こういう時くらいは、ちゃんと言わなきゃいけないだろう。

 

「だから、トレーナーさんと会えてよかったって。ちゃんと面白いことさせてくれたしさ!」

 

「君のお眼鏡にかなって良かったよ」

 

「でもちゃーんとセイちゃんポイント稼いでくれないと。愛想尽かしちゃうかもなー」

 

「そうならないようにするけど……」

 

 穏やかな笑顔が曖昧に崩れ、言葉を探しているようだ。

 

「ちょっとちょっと! そんな真剣に考えないでくださいよー。普通にやってれば大丈夫ですって」

 

「なら、これからもよろしく。セイウンスカイ」

 

 あんまり冗談が通じないのが彼の悪い所だ。とはいえ、そういうところも含めて最高のトレーナーだと彼女は思う。

 

「ちょっとじっとしててくださいねー」

 

まあ、今なら少し攻めても大丈夫だろう。精神的な余裕をじっくり歩いて確認して、彼女は身を乗り出した。膝の上でだれているセリカを落とさないように、彼ににじり寄る。

 

「何してるんだ?」

 

「まあまあ悪いことはしませんって」

 

 警戒するように半身引かれて少し傷つく。しかし、諦めるセイウンスカイでは無い。さらに半身乗り出し、彼の頭に手を伸ばした。

 ざらり、と短く刈られた髪の毛に触れる。あっけに取られたトレーナーの顔を楽しみながら、右手をわしわしと動かした。

 

「いつもありがとうの感謝の気持ちです。よーしよし」

 

「撫でるのはセリカだけにしておかないか?」

 

 ざらざらとした後頭部から、比較的長めで柔らかい頭頂部まで。自分の手よりもとても大きな彼の頭を撫でる。セイウンスカイの手が動く度にやりにくそうに頭を動かすが、結局根負けして大人しくなる。

 

「ねぇ、オッサンを撫でて楽しい?」

 

「私、やるのもやられるのも、私が嫌な事はしない主義なんです」

 

「そういうものか?」

 

 短く刈られた後頭部は中々、ウマ娘には無い感触だ。逆立てるように触るのがとても心地よい。トレーナーはなにか逃避の対象を探していたが、彼女は逃さなかった。

 

「そんなに嫌ですか?」

 

「あー、嫌ではないがなんというかな。やりにくい」

 

「ま、やめないんですけどねー」

 

 これで全部の感謝が伝えられるとは思わないが、少なくとも信頼の情はよく伝わるはず。今まで、わざわざ感謝を述べることは無かった。

 

「ほんとうに……ありがとう。トレーナーさん」

 

 しみじみ言うのは少し恥ずかしい。体温が彼女のはにかんだ頬から漏れだし、ほんのりと茜さした。彼に見られなくて良かったと思うべきか、見られないことを残念に思うべきか。

 静かな時間。動いているのは彼女の手だけで、している音はエアコンが温風を吐き出す音だけだった。無言。セリカも吠えず、ただただ、セイウンスカイがトレーナーを撫で続ける空間。異質であることには間違いないが、少なくとも2人にとってはなんとも背筋が緩む空間であるのは間違いなかった。

 

 サングラスをかけていないトレーナーを見るのはなかなかないことだ。セイウンスカイは見下ろした彼の顔を観察する。深く溝が切られたほうれい線に、線が消えなくなった額。目尻には小さなシワがあって……激務に晒される肌は少し荒れ気味だった。

 ウマ娘の為なら、学園の為なら迷わず無理をする。何回も何回もやめるように訴えたが、相も変わらず変わっていない。

 

「いい加減恥ずかしくなってきたな……実はね。私も君に言わなきゃ行けないことがあるんだ」

 

 まあまあ、ちょっと手を止めてさ、と彼女は座らされた。真正面から見つめられると、少しばかりではなく身を引きたくなる。行き場の無い手はセリカの頭の上に置いたが、そこも尚居心地が悪い。

 

「私も君に感謝を言わなきゃいけないんだよ」

 

「はてさて、なにか感謝されることありましたっけ?」

 

 本気で頭に浮かばないのだが、なにかしただろうか。特段思いつくことがなく、目を泳がせても分からない。

 

「まあ、分からなくても仕方ないとは思うよ。私が一方的に感謝してるだけだしね」

 

「ほほう?」

 

「私を、トレーナーにしてくれてありがとうってことさ」

 

 目を見開く。まさか、そんなことを言われるとは準備をしていなかった。随分と大きな感謝に、セイウンスカイは押しつぶされそうだった。

 

「別に〜。私は選抜レース走りたくないから契約しただけで。まあ、結果的には大成功だったんですけどね?」

 

「それでもさ。ずっと私はトレーナーになれななかった。セカンダリトレーナーとしての道も模索したけど、結局どこも断られた」

 

 その話は、随分前にヒシアマゾンとフジキセキから聞いた。しかし、比較的トレーナーと良好な関係を築いているふたつのチームはどうなのか疑問が出てくる。

 

「〈リギル〉は人足りてるし、〈スピカ〉は逆に2人だと過多だからね」

 

 サポートスタッフ含めて完備の〈リギル〉、当時の話ではあるがウマ娘の数が少ないので1人でも回せる〈スピカ〉と言ったところ。結局、彼の居場所は医務室にしか無かったということだ。

 

「でも、君があらわれてくれた。君のおかげで、私はトレーナーになれた。人生に光がさしたんだよ。私の夢は君なしでは叶わないものだったからね」

 

 トレセン学園で、彼はずっと曇り空どころか暗闇の中を歩いていた。医者としては最初は信用されず、トレーナーとしては拒絶され。

 

 何年か前、1人のウマ娘をスカウトしたことを思い出す。選抜レース3着だったが、楽しそうに走るウマ娘だった。〈アルゴル〉で走らない? と声をかけ、彼は待った。だが、いつまで経っても彼女は医務室に来ることは無かった。名前は……もう思い出せない。

 

 視覚障害は、それほどまでに重かった。だが、セイウンスカイはそんなの関係ないと〈アルゴル〉に入ってくれた。それが、どれだけ有難く、どれだけ嬉しかったか。

 

「いやー……そんなに感謝されても何も出てきませんよ?」

 

「何かを求めてるわけじゃないけど……敢えて言うなら、君がずっとチームにいてくれたらなって思うよ」

 

 ずっといて欲しい。というどストレートの一球。困惑しながらも、本日何度目かの血流が良くなる感覚。やっぱり、トレーナーが顔を見れないのは正解だったかもしれない。息が熱くて、吐いたそれが彼に伝わってないか心配だ。

 

 ああ、きっと自分はこれ以上ないほどキレイな夕暮れなんだろうなぁ。彼女は熱がこもる頭で、ぼんやりとしていた。

 

「べ、別に私は……そんなことは考えてなかったですし」

 

 あたふたと動く手が邪魔だが、自分の意思ではもう止められなかった。

 

「私は、私がやりたいことをやろっかなーとやってたらこうなってただけでその……なんと言いますか」

 

 言葉を並べ立てて時間を稼ぐ。変に深読みしてるだけかもしれないが、彼女としては平静ではいられなかった。ここまで、彼がはっきりと気持ちを言うのは珍しいというのもある。

 

 あー、とかえーと、とか。そんな意味をなさない言葉だけが口から飛び出るが、トレーナーは段々と不安を覚えてきたようだった。

 

「その、もしかして、嫌だったかな」

 

「そんなわけないです!」

 

 即答した彼女に、少し彼は目を見開いた。ぼんやりと見えている彼女の顔の中心を探して、目が動いている。

 

「あ、その……なんて言ったらいいのか分からなくて。私には大それたことをした自覚がないわけでして」

 

 だから、なんて言ったらいいのか分からなかったんです。頬に手の甲を当てながら、セイウンスカイはそう言い残す。だが、彼女にはまだ言わなきゃいけないことがあると分かっていた。

 

 気持ちは言わなきゃ伝わらないのだ。再び、心臓が大きく波打つ。体の隅々に、耳から尻尾の先まで熱い血が巡る。体温より一回り暖かい息が彼に届いていないか。それだけが心配だった。

 

「わ、私も……出来るならさ。〈アルゴル〉にずっと居たいなって思うし」

 

 卒業するまで。願わくば、私が卒業してもふらっと帰って来れる場所であって欲しい。彼女は取り留めもなく、そんなことを紡ぐ。

 

「なら私もさ。君が安心できるような場所を作らないとね」

 

 どこか遠くに顔を向ける。猫のように気ままな彼女の事だ。いきなりふらりと現れて、ソファでジュースを飲んで帰っていくのだろう。ありありと想像出来るいつかの未来の光景を、トレーナーは好ましいと思った。

 

「ソファの寝心地がいいともっと嬉しいんだけどなー」

 

「ならベッドを使えばいいだろう?」

 

「ベッドは寝すぎちゃうのでだめなんでーす」

 

「ワガママだなぁ」

 

 少し嘘をついた。ベッドで寝ている瞬間は幸せなのだが、寝すぎて結局何も出来ずに終わるのが嫌なのだ。

 

 最近、全てを寝て過ごすよりもだらだらと話している方が幸せだと気づいた。

 

 トレーニングして、マッサージを受けて。ソファでジュースを飲んでいる時間が替えがたいと気づいた。

 

 1年前ならきっと、さっさとベッドに入っていただろうが、今の彼女は違った。昔の自分なら考えられないが、固いソファに寝っ転がって、〈アルゴル〉でのひとときを過ごすのがとても楽しい。

 

「とにかく、これからもよろしくね。スカイ」

 

「……おや? 今なんと言いました?」

 

「これからもよろしくって」

 

「その後ですよ!」

 

 なんともお約束なやり取りな気もするが、セイウンスカイはもっと重要なことを確かめたかった。

 

「スカイ?」

 

「それですそれ! やっとあだ名で呼んでくれるんですか?」

 

「1年経ったし、いいかなと思って」

 

「遅すぎです。私はもっと早く読んでくれても良かったんですよ?」

 

 何となく踏ん切りがつかなかったと笑うトレーナー。それを見て、彼女は褒めて下さい。と言っできた。照れ隠しのひとつなのはよく分かっている。

 

「1年ずっと心の距離を感じながらもついてきた健気なウマ娘を褒めてくださーい」

 

 あまり心の距離はなかったような気がするけど。という火にガソリンを注ぐような言葉は飲み込む。

 いつだったか、うっかり彼女を撫でたことがある。別に嫌だった訳では無いが、セリカにするようについうっかり。それから彼女は、定期的に求めてくるようになった。

 

 普段より一回り多くのトレーニングをした日や模擬レースで勝った日。そして、初勝利を上げた日も、レースで負けた日もだった。

 すすす、とセイウンスカイの身体が近づいてくる気配。ぼやけた彼の視界でも、腰を浮かせたのは分かった。体を傾け、首をのばし、耳を畳む。

 

「ほらほら〜」

 

 今日も同じ。右手をのばし、白群かかった芦毛にそっと触れる。いつ指を潜らせても艶々としていて、思わず息を漏らす。

 

 根本から毛先までよく手入れされているが、あまり長くないとはいえ気を使っているのだろう。髪の毛というものは痛みやすい。特に彼女の毛は細く、大変に注意しなければならないだろう。

 

「痛くない?」

 

「だいじょーぶですよー」

 

 絵面としては犯罪そのものだが、人の頭を撫でるとオキシトシンというホルモンが分泌される。いわゆる幸福ホルモンと呼ばれるもので、やる気をアップさせたり食欲や代謝を良くしたりという効果がある。つまり、これは医学に基づいた合理的な行為であり、やましいことは一切ない……と言い訳を並べ立てれば並べるほど、やましいことをしてるような気になってくるのでいけない。

 

 撫でられている当の彼女は、鼻歌を歌いながらゆっくり左右に揺れている。脱力し、気を緩ませた動きというのはすぐに分かった。耳に触れないようにとか多少なりとも気を遣うが、彼女が嬉しそうにしてくれると満足気に頷きたくなる。

 

「気持ちいいか?」

 

「むふふー」

 

 大人しく撫でられてる姿は猫だな。という感想を抱いたトレーナーだが、彼女は気付かなかった。

 

 脱力した肩と、乗り出した体を支えている両手。普段意味ありげに立てられている耳はぺたんとすっかり畳まれ、尻尾はリラックスし安心している心情を表すかのようにゆったり、のんびりと揺れている。

 

 幸せ過ぎてどうにかなりそう。という事を、彼女はぼんやりと……だんだん熱を持ち始めた頭で考えていた。彼の手から体温以上の熱を貰っている。どうしても、頬が緩むのを、口角が上がるのを止められない。目をつぶると、細かな彼の動きがよく分かる。気を遣ってくれているとか、労わってくれているとか。

 

 だらしないと思いながらも、キングとか色んな人に怒られるとは分かりながらも、すべての力を抜きもう成すがままに任せたい気分になる。

 

 これも全部ぜーんぶトレーナーのせい。きっと、トレーナーさんは私に何か薬でも盛ったのです……というのが彼女の結論。本当にずっとこのままでいいと叫びたかったが、結局、その時間は終わりを迎えた。それなりに唐突に。

 

 洗面所の方から、乾燥機が運転終わったというアラームの音。彼女の濡れてしまったトレーニングジューズを乾かしていたのである。それが、終わりを告げた。

 

 甲高いアラームが騒いだ瞬間、トレーナーの手が止まる。この心持ちでは耳障りなだけで、彼女は蕩けていた目を開いて不満を表した。

 

「終わったみたいだね」

 

「そ、そうですねー……」

 

 分かっている。トレーナーは悪くないし、時間が来たのは仕方の無いこと。だが、自分の声に険が混じるのを止められない。幸いだったのは、今の今まで頭を撫でていた手が、髪のひと房を名残惜しそうにしながら離れていった点だろう。少しだけ救われた気分になる。

 

「じゃあ、そろそろ帰りますね」

 

「うん。そうした方がいいさ」

 

 セイウンスカイも名残を惜しむようにのろのろと立ち上がり、最後まで横目で彼を見ながら、乾燥機へ向かった。トレーナーはトレーナーで右手の指先を擦り合わせて、彼女の髪の毛の感覚を思い出そうとしている。

 

 乾燥機内を汚さないようにと布を巻いたシューズを取り出す。びしょびしょだったそれはすっかりと乾いており、軽いシューズとは反対に自分が少しばかり落ち込んでいることを改めて自覚する。

 

 もうちょっと、してもらいたかった。引かれる後ろ髪を断ち切って、玄関へと歩く。トレーナーとセリカが後ろに着いてきて、上がり框の縁に立っていた。

 

「傘、何か持ってきなさい」

 

「いいの? 1本しかないですけど」

 

「風邪ひかれたら困るからね……あと、セリカと一緒の時はレインコートなんだ」

 

 玄関脇の傘立てに黒い傘が立てられている。手に取ってみたが男物だしセイウンスカイより背の高い彼のものだしで扱いづらい。

 

「……ポンチョ持ってくればよかったですねぇ」

 

「扱いづらいか」

 

「いいんでーす。セイちゃんもっと成長する予定なので」

 

「そうか。楽しみだな」

 

 そう。まだ成長期なのだから、と持ってきたバッグを背負い、ふたつドアに付けられたシリンダー錠に手をかける。

 解錠、そして開放。重く水っぽい空気と雨が地面に衝突する音。一気にそれが玄関に吹き込んできて、彼女は少し怯む。また1歩足に力を入れて踏み込んで、扉を開け放った。

 

「じゃあ、本当に帰ります。トレーナーさん」

 

「また医務室でね。スカイ」

 

「セリカちゃんもまたねー」

 

 ひとつ吠えて、セリカが返事をしてくれた。トレーナーは、にこやかに手を振ってくれる。その姿を目に焼き付けながら、彼女は扉をゆっくりと閉めた。

 

 エントランスまで1人歩き、屋根が切れ、雨に打たれる所で黒い傘を開く。重くて少し安定しないが、何年も使い込まれた柄は不思議と彼女の手に馴染んだ。

 

「さて! 帰りますか」

 

 独りごち、雨の中へ歩き出す。明日から、トレーナーさんと私の2年目が始まる。幸先はこの雨で良くないかもしれないが、お互いに逆境はうんざりするほど経験している。最高の2人と1匹なら、どんな障害だって乗り越えられるし、こわしていける。

 低く身重に横たわった雲とは裏腹に、彼女の心はまた少し軽くなっていた。

 

「だけど、この傘なんて言い訳しようかな……」

 

 どう見ても男物の傘。柄の先には明らかにトレーナーの名前が彫ってある。布張りの傘が水滴に叩かれる音の中、彼女の心はひと言こんなことを言ってくる。

 

 ……前言撤回。私の2年目のスタートは、少しだけつまづきそうだ。




感想や評価、ここすき等もお待ちしております

まえがきの通りに、拙作「トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない」もぜひご贔屓によろしくお願いします

では読んでいただき、ありがとうございました

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