【明星の華】   作:真夜中の抹茶ラテ

1 / 1
第三章 ―悪夢討伐作戦後編―
真に道を示すなら


 -真に道を示すなら-  by 赤石 穂香

 

---

 

自分だけでなく、仲間の利益を大切にすること。

受け取るよりも多く、相手に与えること。

幸福になる唯一の道である。

 

by アルフレッド・アドラー

(オーストリア出身の精神科医、心理学者、社会理論家。 Wikipediaより引用)

 

---

 

 

 

 頬を滑り落ちた生暖かいものが、雨粒なのか否かさえ霞んだ頭では判別できない。激しく上下させる肩、口内に満ちる苦い鉄錆の味、足の感覚などとうの昔に無くなって、ただひたすらに前に蹴り出した足を地面に打ち付けた衝撃だけが内蔵へ響いている。肺は石火のごとく熱を帯び、横腹を抉られるような感覚が続く。吸い込んだ凍てつく空気はとぐろを巻いて気管を圧迫し、ついには絡まって震える口からむせて吐き出した。

 それでも、足を止めることは、未だしがみつくような意識が許さなかった。否、今もこうして走り続けることしかできない自分こそ、最も許せなかった。

 どこへ向かえば良いかなんて、わかるはずもない。何故なら行方(いくあ)てなんて、何処にもないのだから。還り逝く所も。

 運命に抗おうとした結果がこれならば、きっとこれ以上ない笑い話だろう。もちろん、(わら)うのは自分ではなく、自分を(さげす)誰か(・・)でしかないのだろうが。

 

 「ぁっ…………」

僅かばかり開いた口から息と、漏れた最後の悲鳴にも似た音と共に、降り続く氷雨(ひょうう)で濡れた土に足を払われる。受身を取ることも、手を着くことも出来ないままに、気がついた時には世界は傾き、冷たい地面に体を叩きつけていた。

 立ち上がろうとする意識に反し、体は木の根のように地面に縫い付けられている。気力だけが虚しく体内を駆け巡り、そして、徐々に襲ってくる睡魔がその気力さえも飲みこんでいく。

 失われつつある体温、人気のない山道、降りやまぬ冬雨……。ツンと鼻を刺した酸いた匂いと、未だ留まるところを知らぬ頬の雫の感覚。脳裏を()ぎるは最悪の想定。誰に知られることも無く屍と成り果て、獣達に貪られゆく哀れな自分の姿だ。

 どうして自分が……と無意味な現実逃避を並べ立てることさえ、もう随分前に諦めてしまった。ただあったのは一筋の抵抗力(きぼう)と、諦めきれない約束だけ。しかし、そんな脆い命綱さえ、今、目の前で崩れ去ろうとしているのだが。

 ごめん、と呟こうとした唇から熱い息が漏れる。喉はとっくに潰れていた。最後の懺悔さえも許されないとは、世界はなんと残酷なものだろう。そう自嘲し、僅かばかり意識をつなぎ止めていた約束の者の名を口ずさみ、白ばむ意識を手放した。

 

 

 

***

 

 

 

 背中を冷ややかなものが伝い、目を覚ます。勢いよく吸い込んだ息を止め、反射神経でも反応したかのごとく上半身を持ち上げた。覚めない頭と耳元で、いつまでも呪うような雨音が響いている気がしたが、存外 窓から差し込む光は眩しく、そして暖かい。耳に届く子鳥のさえずりも、春のうららを歌うように明るく通り過ぎていく。まるで、先程の夢が現実ではないと強く示すように、最悪の目覚めで始まるいつも通りの朝だ。

 もう慣れたはずだ。そう言い聞かせてみれば、未だ鳴り止まない慌ただしい鼓動も、幾ばくか落ち着いたように思う。何度となく繰り返す過去の悪夢…いいや、自分への戒めは、何も今に始まったものでは無いのだから。それでも未だに忘れることもできないとは、自分もそうとう諦めが悪いようだ。

 そう笑って壁にかけられた時計を見れば、時刻は既に午前八時。起床の予定は記憶が確かならば、三十分前だったはずだ。

 ヒヤリと首筋を先程とは別の意味で冷たい汗が滴っていく。……まずい、完全に寝坊した。

 残念ながら、どうやら今のあたしには、憂いて止まない過去とその夢の続きを考える時間は残されていないようだ。あぁ、何て残念だろうか。

 そして、同時に幸運なことに、この堂々巡りする後悔には、とっくに決着が着いている。……いや、決着が着いていれば後悔なんて呼ばないかもしれないけれど。あの日、“あの子”が自らを犠牲にしてまで繋ぎ止めたこの命を、幼子へ慈悲をかけるように拾い上げた人がいた。今できることがあるとするのならば、それはきっと変えられぬ過去を悔やみ続けることなどではなくて、その恩人へこの身を賭して恩を返すことだろう。この身も心も、捧げられるものならば全て、その人のために使おうと決めたのだ。……それが、“あの子”に対して唯一できる罪滅ぼしだから。

 誰の前でも前向きに、誰のためにでも手を伸ばし、もう果てた約束をいつか必ず果たすと誓う。…そして、誰にも、この心の内を悟られてはならない。そう、この、歪み狂った絶望を。

 

 

 

***

 

 

 

 起床から二時間。跨った箒が風を切って進む。視界に映るのは、どこまでも青い青い空。遠くへゆったりと流れる雲以外、目に映るものはない。まるで冬を忘れきれていない快晴。まるで、子供が青いペンキで塗りたくった跡のようだ。

 大きなとんがり帽子を左手で押え、右手で箒の舵を取る。目的地は王都 -首都や中央区とも呼ばれる- の西、小さな農村が点在する穏やかな地域。そのさらに西に広がる森の先には、原住民とか野蛮人とか狩猟民などと差別的に呼ばれたりもする〝獣人〟の集落があるらしい。しかしあくまで伝聞、あくまで噂の域を出ないものだけれど。

 

 〝獣人〟と〝人間〟は同じ〝人族〟という種族でありながら、悲しいことにあまり良好な関係は築けていない。〝人間〟は人間にはない筋力や敏感な感覚神経を持ち合わせる〝獣人〟を恐れ、嫌い、蔑んで、差別の挙句にその居場所を奪った。〝獣人〟は獣人の持ち合わせない高度な頭脳と綿密な計画性を有する〝人間〟を恐れ、恨み、疎み、無慈悲に蹂躙した後にその命を奪った。互いに持ち合わせないものを持ち寄れば、それまで実現困難だった問題を解決させることも出来るはず、協力すれば互いに利益をもたらせるはずなのだが…。現実はそうは甘くない。自分の持ちえないものを持つ相手というのは妬ましく、恐ろしいものだ。我々の骨の髄まで刻み込まれた、種の存続のために外敵を排除する本能は、現代社会にも多大に貢献しているということか。

あぁ、なんて皮肉な。『〝獣人〟と〝人間〟が手を取り合える社会』と御託を並べる政治家たちのスローガンが果たされた理想郷は、素人目ですらまだ程遠い。大それた理想を掲げる前に、〝人族〟が我々を縛る本能に対抗する手段を見出す方が、ずっと堅実だろう。

 

そう脳を駄弁に走らせているあたし -赤石(あかいし) 穂香(ほのか)- は、言ってしまえばそんな理想郷に身を置く者。…少し形こそ違えど、本能に打ち勝った先の平和を知っている一人だ。

 あたしが所属する『怪奇事件解決事務所 -通称・事務所-』は、街のお困り事から奇怪な事件まで幅広く取り扱う、俗に言う何でも屋。ここは先の理想を別の形で実現している数少ない場所である。具体的に言うなら、『あらゆる種族が手を取り合える場所』ということだ。事務所は他種族共栄。無駄に大きな目標を掲げる社会からすれば笑われるだろうが、確かに理想を実現させていると思う。事務所の所属者は現在あたしを含めて六人。たった六人かと嗤いたいならば好きにすれば良い。たった六人であろうとも、不可能とまで言われたことを体現しているのだから。

 もう少し具体的に述べるなら、この世界の種族図から説明しなくてはいけないだろう。もっとも端的にまとめるなら、能無き獣と植物以外全ての生物は〝人族〟〝妖怪〟〝魔族〟〝神族〟のいずれかに分けられており、食いつ食われつの関係を保っているとでも言えば良いだろうか。全ての種族は本来平等などではなく、初めから弱肉強食の食物連鎖の上に成り立っているとも言っておこう。

 事務所の所員の内二人が〝魔族〟二人が〝妖怪〟二人が〝人間〟だ。〝神族〟は他の全ての種族との関わりを絶っていることを考慮に入れるなら、この世界全ての種族が、完璧なバランスを保って共存できている例になり得るだろう。

もちろん、あたしは〝人間〟だ。最弱種だ。多少魔法の扱い方を知っているから、魔法使いと呼ばれることもあるが、根本的にはほとんど普通の人間と変わらない。それでも、所内で蔑まれることも、虐められることも、今まで一度足りともなかったと断言出来る。もっと言うなら、あたしのこの命を拾ってくれた人は〝妖怪〟であり、居場所を与えてくれた恩人は〝魔族〟なのだ。何処にこの理想郷を否定できる問題があるだろうか。

 

 ふと視線を遠くへ投げると、どこまでも続いていた草原の荒れ道の先に、ぽつりぽつりと家が並んでいるのが目に入る。あそこが目的地か。予想していたよりも大きな村のようだ。

 「…………」

村、という単語からなのか、その様相からなのか、脳裏を今朝方の悪夢が過ぎる。実際、あの里を…自分の故郷を、上から見下ろしてみたことは無い。当時は魔法などという概念すら知らなかったのだから。故に故郷がこんな形をしていたのか、これほどの規模だったのか、それを知るよしは無い。

 

 そんな暗い思想に囚われ、沈んだ心へ

『もしも~し、ソラですぅ! ホノカさん、聞こえてますかぁ~?』

と、場違いな程に明るく、間の抜けた声が届けられた。その声に遠い記憶へ揺蕩いかけた思考は切り取られ、再び現実に目を向ける。

「聞こえてるよ、感度は概ね良好。今、村を視認したところ。距離は…あと一キロくらいかな」

箒の風切り音に負けないよう、襟元のマイクに口を近づけて返答した。

 対話の相手の姿は当然ここにはない。声の主は先述したあたしの命を拾った妖怪、名を天宮(あまみや) (そら)という。料理が得意で、聖母のような慈悲深い恩人の一人。音の発生源は、あたしの左耳に取り付けられたイヤリング状の小型通信機だ。一見した程度では到底通信機だと思われることは無いだろう。

 今回の仕事の意味合いは潜入調査と同じだ。だからこそ、少しでも疑われる可能性のある要素は排除するに限る。あくまで、南の田舎町へ観光にやってきた何も知らない未熟な魔法使いの子供。村内での通信も最低限に抑えなくてはならないが、警戒されない分詳細で正確な情報を提供することができるかもしれない。

 『把握ですぅ!それから、お渡ししたカメラを起動していただけますか~?』

オーケーと適当に返事をしながら、体幹を安定させて箒から身を乗り出す。そのまま重心を柄を握っている右手に移動させ、滑るように箒の柄の先端へ左手を伸ばす。柄の先端はC字型に開いており、フックに引っかかる要領で、使い古されたお気に入りのランタンが吊るされている。真上の太陽の光を黄金に弾き返す金具に、いつもならば取り付けられていない黒い球形の飾り。それを伸ばした手で掴み、手探りで隠されたスイッチを探す。

 「うぉあっ…⁉」

あともう少し……とさらに身を乗り出した瞬間、下から煽るように吹き上げた風に、無理な体制を維持していた右腕から重心が外れたことを理解する。それはつまり、目の前に広がる青一色の空と遥か下方に見える大地に向かって、吸い寄せられるように転落しているということだ。

 咄嗟にストラップを模したカメラを弄っていた左手を(ひるがえ)し、ランタンを取り付けている柄の凹みにねじ込む。半ば強引にランタンを押しのけて柄を掴み、同時に右手にも体重を支えるための力を籠める。残念なことに、明らかに逸れてしまった重心を箒央へ戻すことはできなかったが、鉄棒にでもぶら下がるような形になりながらも、なんとか落下だけは免れることができた。

 耳元で心臓がけたたましく鳴いている。無意識のうちに止めていた呼吸も、思い返して吐き出してみれば鼓動に呼応して荒立っていた。一瞬追いつかなかった頭も、この状況をようやく把握して、見開いたままの目でゆっくりと周囲を見渡す。

 頭上にある箒、体を飲み込むのは青、到底助からない高度。一歩間違えば、あるいは判断が一瞬でも遅れていれば、自分はものも言えぬ(むくろ)か、見るも無残な肉塊と化していただろう。静かに悲鳴を上げている体を宥めるが如く、深く息を吐き出し、助かったことに安堵する。

 『大丈夫ですかーっ⁉ カメラは起動しましたが…現状がわかりません!』

ようやく周囲に目を配れる状況になってみれば、先ほどからずっと話しかけてくれていたのか、悲鳴にも似た焦りを滲ませたソラの声が耳に届く。いつも冷静なソラを心配させてしまった自分の落ち度に漏れかけるため息を押しとどめ、

「あー、ごめん! ちょっと手が滑って…あはは~」

()ら元気に笑ってみせる。これから仕事だって言うのに、指揮官に無駄な心配をかけさせるわけにはいかない。それに今は有事でもなければ、完全に自分の不注意だったのだから余計に。

 肺の中の空気を一度全て押し出すように深く息を吐いてから、短く吸い込み、懸垂で体を持ち上げて、そのまま腕で柄を抱きしめ体を安定させる。普段運動をしていないわけではないが、なんだかんだ言って、箒から落ちかけるのはだいぶ久しぶりだったため、これだけの動作でも息が上がりかけている。

「よっ……と」

老人かと突っ込まれそうだが、掛け声と同時にしがみついた体制から箒の上へと体を押し上げる。落ちかけていたトレードマークの三角帽子を被り直し、ようやく一息ついた。

箒に乗り始めて早半年は経っただろうか…。初めてのころは何度もこういうことがあったが、慣れの中で気が緩み油断している自分がいたことは確かだ。ましてや今は仕事中。それも、命の危機にさらされないとも限らないような仕事なのだ。

 気を引き締めよう、そう自分自身に強く言い聞かせる一方で、

「ごめんごめん、お待たせ~。で、どう? 見えてる?」

今しがた起こったことを微塵も説明しないままに、ソラへカメラの確認をさせる。結果論から言えば、特に何もなかったのだ。いちいち報告する必要もないだろう。

 『見えていますよぉ~♪ 流石に360度 全方位を確認することはできませんが、人間の視野と同等程度は確保できているので問題ないと思いますぅ~』

「それはよかった。じゃあ、村に向かうね」

『はぁい、お願いします~! 事前にお渡しした地図が正しければ、予定通りのルートでお願いしますぅ~。もしも間違いに気づいたらすぐに報告を! 村内では極力、そちらからは話しかけないように気を付けてください~。必要とあらばこちらから話けかますぅ! 気になったことがあれば、できるだけ周囲に怪しまれないようにお願いしますですぅ~!」

「了解」

事前準備の段階と、出発前に聞かされた注意事項とほとんど -その実、詳細に覚えているわけではないため、それぞれの場所で別の注意事項が言われていたとしても気づいていない- 同じ話をされ、流石に三度も聞けば飽きてきていたので軽く受け流した。村の地図は事前に大雑把に覚えてきている。細部の構造の違いは分からないかもしれないが、少なからず迷子にはならないはずだ。

 今しがた起こった不注意をもう一度胸中で思い返し、

(気を抜かないこと)

と自分に戒めた後、箒の高度を徐々に下げながら村へ向かう。

 

 

 

***

 

 

 

 初夏へ近づきつつある春の農村は、のんびりとした穏やかさの中に確かな忙しなさを孕んでいる。雲の流れも心なしか早足な気もする。それもそうだろう、春の農家の仕事は山積みなのだ。夏野菜の種まきや植え付け、田んぼの準備、それと同時にタケノコを始めとした山菜が取れ始める時期でもある。また、しばらく経てば梅雨がやってきてしまうし、初夏に入れば暑さは格段に上がるため、丁度良い気温の下で心置きなく作業ができるのは、短い春と秋だけなのだ。

 すれ違う人の良さそうな村民に軽い会釈と挨拶と愛想笑い -ソラ曰く、人当たりが良く見えるこの作り笑いはそこそこ評判が良いらしい- を振り撒きながら、悪目立ちしない程度に周囲を観察して歩を進める。歩幅は普段歩くよりもずっと狭く、忙しなさの中に朗らかさを残しているこの村の雰囲気に浸るように、のんびりとした観光を装うことは忘れない。

 

 事前に指定されていたルート通りに、村の北側から入り、初めに東、次に南、そして最後に西を目指して進んでく。その中で気になったことと言えば、この村は前述の〝獣人〟がそこそこ見受けられることだろうか。傍から見れば確かに〝獣人〟と〝人間〟が共存しているようにも見える。しかし、その実態がどうであるかは、傍から一見した程度ではわからない。便利な道具のようにこき使われているのかもしれないし、本当に共存しているのかもしれない。

 しかし、個人的見解で述べるのだとしたら、この村は後者のようであると感じた。もちろん、ほんの数時間滞在しただけでしかない。それが正しいという確証もない。だが、例えば力を必要とする田畑を耕す作業は〝獣人〟が行い、精密な作業を必要とする田植えなどの作業は〝人間〟が行っているところを見ると、それぞれの長所を活かしているようにも感じる。もとより力の強い〝獣人〟が〝人間〟よりも重労働な部分を任せられているのは仕方ないと割り切るべきなのか、あたしは判断しかねているけれど……。

 でも、もしも普段は〝獣人〟を差別し、奴隷としてこき使っているとするなら、突然何の前触れもなくやってきた観光客相手に、こうも自然な共同作業を見せつけることができるのだろうか……? 主観でしかないけれど、そんな雰囲気は感じなかった。

 …強いて言うならば、〝獣人〟の女性や子供をほとんど見かけなかったことだろうか…。平日の日中だし、子供たちは学校なのかもしれない。女性たちは周辺の村へ仕事に行っているとか、山菜を取りに行っているとか、家事を手伝っているとかなのかもしれない。結局、全て断定などできないのだ。

 「こんにちは」

視界の端に写った、通り道の田んぼの縁で一息ついている初老の男性へ声をかける。取り繕った自然な笑顔で軽く会釈をすれば、男性も人当たりのよさそうな微笑みを返して

「こんにちは。お嬢ちゃん、観光かえ?」

と続ける。

「はい。たまには自然の香りをかごうかと。お隣失礼しても?」

帽子を軽く浮かせて会釈し、男性へ歩を進めている間に、どうぞと優しい声と頷きが返ってきたため、感謝を述べながら男性の横に腰を下ろす。

 優しく身体を受け止めた雑草は僅かに朝露が残っており、その不快感を紛らわせようと見上げた空はどこまでも青かった。結果的にはこの男性を騙すことになるのだと、沸いた罪悪感。それを調査のためだという肯定で押しつぶし、言葉を紡ぐ。

「良い天気ですね。春先の忙しい時期なのに、お時間撮らせてしまってすみません……」

「ええさ、どうせ休憩中じゃったから」

そうだろうと予想して声をかけたことは露にも見せず、流れる雲をゆったりと指でなぞりながら

「ここはどう言った村なんですか? 穏やかで良いところだとお見受けしましたが……」

と話を切り出してみる。そう、これはあくまで情報収集の一環なのだ。この場所を楽しむつもりなどはなからない。

 男性はそうじゃのぉ……と空を見上げ、気にならないほどの僅かな間を置いてからのんびりと口を開く。

「ここは良い。仕事はちぃとばかり老体には堪えるが、みな幸せにやっとるわ」

……まあ、開口一番村の悪さを観光客に言ったりはしないだろうけど。概ね予想通りの返答にため息を隠し、

「やっぱり、良いところなんですね。ちなみに、この村に、学校のようなところはありませんか? 自分も学生なので、ぜひ見学してみたいんです」

と質問を変える。先程の違和感。女子供について何かわかるかもしれない。……もちろん、あたしが学生だと言うのは真っ赤な嘘だ。そもそもあたしは学校に通ったことがないのだから……。

 「そりゃあ あるさ。何分、ここは田舎だからねぇ……。近くの村までもそこそこ距離がある。そんな道を、毎日登下校させるなんて危なすぎるから、こうした田舎町には大抵寺子屋や寄宿舎があるもんさ」

なるほど、と相槌を打って先を促す。

「この村で言うなら、西の方にある新しい建物がそれじゃな。普段は学校として使われておるが、中央 -王都のことだろう- からのお客を(もてな)すためにも使っとるよ」

……ゲストハウスのことだろうか。心中で一度呟く。今日のルートの一番最後に見に行くことになっている。

 が、ソラからの情報によれば、そんな話はなかったはずだ。あそこはただのゲストハウスだったはず……。ソラの情報が違う?田舎だったから古い情報のままになっていたのだろうか?いや、ゲストハウスができたのは最近のはず。ならば、間違いはないと思うのだけれど……。

 なんだろう、この違和感。きっと、見過ごしてはいけない 予感めいた直感なんだと思う。そんな確証もないこと、誰にも言えないけどさ。

 「ありがとうございました、後で立ち寄ってみますね」

鈍り始めた思考を無理やりに言葉で断ち切り、腰を浮かせて服に着いた草を払う。丁寧に男性へ一礼し、村の探索を続けるために道へ戻る。初老の男性は、初めと変わらない人あたりの良さそうな微笑みで小さく手を振り、見送ってくれていた。あたしはもう一度その男性へ深く頭を下げ、今度こそ目的へ戻った。

 しばらく歩き、周囲に人気がない辺りまで行った時、

『ホノカさん、聞こえてますか?』

耳元でソラの声がした。きっと、カメラでも確認し、声をかけるタイミングを測っていたのだろう。

「聞こえてるよ。さっきの話のこと?」

目につくところに人影がないとは言え、念の為声を潜めて返答する。

 『はい……』

ソラの声はどことなく不安げで、何か嫌なものを想像させて止まなかった。司令塔(ソラ)にとっても予想外のことが起こっている。それが吉と出るか凶と出るかはまだ分からないけれど、少なからず司令塔を混乱させるのは避けなくてはいけない。

「上手く能力に引っかからなかった情報だったのかな?」

少しでも不安を払拭しようと、一番可能性の高そうなものを口にする。

 あたしたちの司令塔・天宮 空の能力は “情報を知る” 能力だ。しかし、これは絶対的な正確性は有さず、あくまで相対的に確かだと思われる結果を抽出する。つまり正しくは、大多数が真実だとしている情報を知る能力。母数が少なすぎると、能力に引っかからないことがあると、ソラから聞かされている。今回もこの村の人口は決して多くないだろうし、可能性としては十分考えられる。

 ……しかし、ソラのことだから、ある程度色々な方法で情報の正確性が十分だと調べた上で、あそこはゲストハウスだと結論づけているのだろう。多少の不安は拭えても、結局根本的には何も変わらない。その事実は、あたしを不安に駆り立てるには十分だった。

 『そう……かもしれませんね…………。とりあえず、現段階はでは断定できません。引き続き、調査をお願いします』

「おっけー!」

できる限り明るく返し、歩を進める。ソラのためにも、できるだけ多くの情報を集めて帰らなくちゃ。

 

 

 

 高く上っていた太陽がゆっくりと西の空に傾き始めたころ、そろそろ帰ろうかと足先を西へ向ける。ルートとしてはこの先のゲストハウスが最後だ。村に入ってから、ソラと一度もやり取りをしていないけれど、それほどまでに今回の調査は順調だった。

 西の森の手前、酷く丁寧に手入れされているモダンな雰囲気の大きな屋敷が一軒佇んでいる。それはここまでに見てきた村の古びた和風な建物とは対照的で、いかにも近代、いかにも新品のようだと感じる。村の他の風景から確実に浮いているし、よそ者のあたし以上に悪目立ちしているようにしか思えない。

 軽く握った拳の中に、じんわりと汗が滲んだ。明らかな違和感。確かに資料にも、この建物はつい最近建てたばかりの、王都からの客人のためのゲストハウスだと記載されていた。先に出会った男性の話も含めるならば、学校でもあるらしい。

 ……しかし、一歩引いて考えてみれば、おかしくはないだろうか……? なぜ、こんな田舎に王都から客人がやってくるのだろう。観光だろうか? ……観光ならば、村の雰囲気を楽しみに来ているはずだ。わざわざ、こんなゲストハウスを用意する理由が理解できない。学校にしても立派すぎる。村を否定する訳では無いけれど、教育機関としてここまで立派なものを作る必要は無い気がする。そもそも農村ならば、学ぶべきは農業と多少の経済くらいだと思うのに。

 「……ソラ?」

周囲に人がいないことを確認し、ゲストハウスの門を守っている〝獣人〟からかなり距離を置いた位置で声を発した。遠巻きに観察できるほどの距離とはいえ、実際は三百メートル程度しか離れていない。〝獣人〟の感覚神経は犬や猫の種族によって多少差異はあるだろうが、〝人間〟よりは遥かに良いはずだ。どれだけ注意しても、こちらの声を聴きとられる可能性は十分にある。

 『はぁい?』

その状況を察してなのか、カメラからの情報で理解したからなのか、幾分か声のトーンを落として小声で返答が来た。できるだけ端的に……自分の中で言葉を吟味してから、

「農村にしては随分立派だね?」

と一言。これだけでも意図は伝わったはずだ。

 『……そうですねぇ…………。実際に目で……と言ってもカメラ越しではありますが、確認してみて、確かにワタシもそう感じましたぁ。でも、納得いく部分もあるんですよねぇ……』

無言で先を促しつつ、遠巻きにゲストハウスを見つめる。

 洋風な建物の重厚な金属で作られた門の前には門番らしき屈強そうな〝獣人〟が二人。建物は広く、庭園も手入れが行き届いている。まるで、あの門の先にだけフィルタがかかっていて色がついているような、そんな錯覚に陥りそうなほどだ。逆にそこから少しでも目を離してみれば、先ほどまでのどかだとしか思わなかった民家は、色あせて崩れ落ちそうにまで見えてしまう。

 『……近年、〝獣人〟の権利について世論は随分と声を上げています。しかし、〝獣人〟という種族を未だに〝人間〟以下であるという差別も根強いのが事実です。現にセレブの間では〝獣人〟の所持(・・)あるいは保有(・・)が、宝石や指輪を身につけるのと同じような……いわば、ファッションの一環のようにさえ思われています。……となれば、〝獣人〟の拉致被害も少なくありません。彼らは金持ちに高額で売れる商品(・・)にもなりえるのですから』

ソラは一度そこで言葉を切る。喉の奥から反吐が出そうになるのをなんとか堪える。彼らの命を何だと思っているのだ。……現にあたしが差別を受けたわけじゃないのに、彼らの立場から物を言うのもどうかと思うけれど、やっぱりそういうのは許せそうにない。……胸の奥に痛みが生じ、瞳に影が差したのを感じ、振り払うように軽く頭を横に振った。

『あのゲストハウスは、単なる外交の場ではないそうですぅ。〝獣人〟の保護や、いざとなったときに逃げ込めるように、最新の技術が詰め込まれているらしいのですぅ。王都から派遣された人権協会の方々の視察の場……というよりは、拉致被害に対する牽制の意味を強く持っていると考えています~』

つまり、あれは一種の要塞であると……。明らかに周りから浮いているが、それも意図していると……? ……確かに、ほとんど完璧に村民の安全が守られている村から拉致するよりも、もっと手ごろな村を狙った方が良いと考えるかもしれない。ゲストハウスの維持・建設にかかる費用も人権協会が出していると考えれば不思議でもない……か。

 『……しかし、学校云々については、やはりそれ以上分かりませんね……。こちらでも調べてはみていますが……特段、そう言った話は見つかりませんでした』

「もしかしたら、学校としての機能も備えてるから、想像以上に立派に見えるのかな?」

ソラの不安を煽らないように、ケロッと言って、首を軽く傾ける。もちろん、この動作はカメラには映らないから、ソラには見えていないだろうけど。

『かもしれません。……しかし、確証はできませんけれどね』

慎重にそう言葉が返ってくる。

「だね」

深く息を吐き出しながら頷き、言われてみれば納得いく部分もあると自分の中の落とし所を作った。分からないことは分からずじまい。でも、多少は有益なものもあったはずだ。何より、正しいか否かに関わらず、無知よりは一つでも情報があった方が良い。

……しかし、やはり現状のままですべての理由が解決できるとも思えない。胸につかえたままの違和感に蓋をして、夕日色に染まっていく村に背を向けた。納得しきれない部分は、きっと帰ってから、ソラが収集したデータをもとにほぼ真実と一致すると予想される推測で補填してくれるだろう。箒に跨り、最後にもう一度村を振り返って、夕闇に飲まれまいと早足に畑から家へ向かう村民の姿を目に映してから、端々から紺へ染まりつつある茜色の空に飛び込んだ。

 

 

 

***

 

 

 

 「ふぁぁ~……」

全身の力を抜いて、情けない声を上げながら事務所内の食堂にて、自分の席に身を投げた。突然降りかかった人間の体重に、椅子はギシリとも文句を言わずに体を受け止める。あたしはそれに甘んじて、強ばった全身を余すところなく椅子に任せた。

 今日の仕事は特段大変なものでは無い部類だ。しかし、所外での仕事はこの一件が初仕事となる。覚悟はしていたが、長距離移動と責任の重圧は想像以上に心身を疲弊させた。他の所員がいつもこれほどまでの疲労を負担していたことに、驚きと感謝と労りの念が止まない。

 「お疲れ様です~」

朗らかな声と共に、目の前に湯気立つマグカップが置かれる。時期は春先、初夏前。丁度良く過ごしやすい気候になってきてはいるが、やはり朝晩はまだ冷える。

 自分専用のマグカップに口をつければ、口内を満たしていくココアの甘い香り。じんわりと胃の内側から熱が伝わり、思わず深い息が漏れる。

「沁みるわぁ…………」

生き返ると零し、背もたれへ体を押し付ける。これから毎日、こんな疲労と緊張感の板挟みの中でやっていかなくてはならないのだと考えると、気が遠くなるような、気分が重くなるような錯覚に襲われた。それでも、誰かのために尽力するというのは誇らしく、対価としての労力以上の価値を感じられる。

 

 「もう、ここに来て一年なんだね……」

感慨に似た呟き。目まぐるしく過ぎ去った月日は、遠く昔のようにも感じられるのに、僅かばかりにも色褪せてなどいなかった。

 ソラに拾われ、仕事と居場所を与えられ、魔法を学び、目指すべき未来を知った。初め半年はソラの手伝いや家事・書類整理などの雑用だった。真冬に氷よりも冷たい水に腕を浸して掃除だってしたし、多言語の依頼書の翻訳だってやった。とにかく毎日が大変の一言で、いつもそれをこなしているアリスやソラには頭が上がらない。

 その後半年は魔法の勉強。ある日突然もう一人の恩人であり事務所(ここ)の所長から、魔法の道を示された。連日連夜、所長の書斎の本棚と書庫の本の山とを行き来し、詰め込めるだけの知識を詰め、覚えることに疲れれば外に出て箒に跨ってみる。時には気まぐれでやってくる所長に手合わせを挑んだり、スパルタな所員にしごかれたり…飽きない半年ではあったけれど、生傷は絶えなかった。それでも、充実した一年だったと思う。

 「……そうですねぇ……。もう、一年ですか……。時の巡りとは、無情なほどに早いものですねぇ……」

どこか遠い目をしたソラは、きっとあたしには見えない世界を見ているのだろう。人よりも長い時の中に身を置く、妖怪としての視点。……それでも…………それでも、その隣で、ソラの隣で、同じ道を歩いていきたい。時折、どこか遠くを見つめるような、酷く儚く寂し気な目をする、この恩人と共に。

 そのために、今回のこの一件をきっと解決してみせる。初仕事には華を飾りたいしね。

「次の仕事はいつ?」

わざとらしく話を振り、唇に触れていた 熱を帯びたマグカップを口から放して、軽く首を倒しながらソラを見上げる。視界に映るのは生え際が若草色、毛先が日の出の色に染まっている十代前半の白髪の少女の姿。その頭から顔を出しているのは、右側にしかない同じ色の羽。太陽を映したような鬱金色(うこんいろ)の瞳がこちらを真っ直ぐに見つめている。

 静かに目を伏せてから、声のトーンを幾分か落とす。表情もビジネス用のそれに切り替えて、

「三日後です。先の村での拉致及び人身売買の案件についてはご存じの通りでしょう」

と、ソラは重々しく口を開いた。

 もちろん、そのことは知っているし、今回の調査の目的はそれだと考えている。かといって、直接的なかかわりがあるとは思っていなかった。どちらかというと、実態調査が目的なのかと思っていたのだ。

「うん、軽くはね」

適当に相槌を打ち、先を促す。

 「今日行っていただいた村の獣人の、引渡しの取引が行われるそうです。拉致された不運な住民が人士売買にかけられたのは、数日前の裏社会ででまわっていた情報です。」

なるほど。今日行ったあのゲストハウスができる前とかなら、まだ拉致もあっただろうし、その時の被害者だろうか。

 絶対的正義のために動いているつもりは無い。でも、やっぱり非道徳的と感じてしまえば、当の被害者が望もうが望まざるかに関わらず、助けたい -道徳の示す方へ加担したい- と思ってしまう。傍から目にも、あたし自身も、きっとソラも理解してる。これはエゴだ。当事者でもないあたしが介入すること自体が間違ってる気もする。しかし、そこは仕事だからと割り切って……。

 「その取引を潰し、獣人の少女を無傷で村へ連れ戻すこと。それが今回の仕事ですね。場所は近隣の森の中です」

思考を分断したソラは、言外で引き受けるか否かを問うように首を傾けてあたしを見下ろした。つまり、引き受かるかはあたしの判断によるのか……。それなら、仕事だからと言い訳はできない。その責任を背負う覚悟があるか、と? ……ならば答えは初めから決まっていた。

「分かった、引き受けるよ。必ず、やり遂げてみせる」 

拉致された上に売られるなんて、あまりにも可哀想だという、この道徳心に従う。もとからこの全てがエゴと自己満足であると理解した上で。

 できる限りのことをする。まあ、あたしはソラの指示にしたがって動くだけなんだけど……。それでも、やっぱり許せないと思ってしまうから。人だろうが、獣だろうが、それはまるで、遠い日のように思う つい一年前まで続いた日々を、謳っているかのようで……。一瞬、いつかの記憶が脳裏をかすめていく。……今朝 夢を見たからだろうか。……思い出したくなんて、ないはずなのに……。

あたしは助けてもらった。ソラに、所長に、そして “あの子” に……。だからこうして今ここで、平穏な日々を謳歌できている。けど、そんな今 この瞬間だって、遠く離れたあの里では、“あの子” はきっとまだ苦しんでる。……あぁ、これはエゴだ。“あの子” への罪滅ぼしになるだなんて思ってない。でも、昔の自分に重ねてしまって、手を差し伸べたくなる。

 

 「……お腹すいたよ! ご飯にしよ!」

疲れを吹き飛ばすような笑顔をソラに向ける。今、あたしは、何も思い出さなかったことにして。これは、知られなくて良いことだから……。

 

 

 

***

 

 

 

 生温い風が、ざわめき立つ神経を刺激するように肌を撫でていった。頭上を流れる雲は灰色で、今晩は大荒れだと容易に想像できる。この場で息をしている生き物が 自分だけではないかと錯覚する程の静寂は、周囲の草木が奏でる葉の擦れる音で飽和されており、無音よりは幾分かマシだと言い聞かせる。今はとにかく、目の前の仕事に集中しなくてはならない。

 今日の仕事は前回と違い、ただ観光して終わりという楽なものではない。幾度となく打ち合わせを重ね、資料に穴が空くほど目を通し、段取りと予定を余すところなく頭に叩き込んだ。人命がかかっていると言っても過言ではないこの一件で、あたしの立ち回りは重要な鍵を握っている。だから、一瞬の油断も許されてはいないのだ。

 もちろん、不安がないとはお世辞にも言えない。自信だって微塵もない。上手くできるか分からないし、失敗したらどうしようとか、相も変わらず記憶の片隅に居座っている過去の悪夢が胸を締め付けるし、今になっても、これからやる自分の行動が正しいと断言なんてできないし。上げ始めれば、今回の仕事から逃げる理由も思いも山積みだ。

 でも……でも、もし、あの日の自分のように苦しんでいる人がいるなら、今度は、あたしが、その手をとって、苦しくない所へ導いてあげたい。無い脳で浮かんだ せめてもの恩返しと罪滅ぼしが、これだから。

 

 『ホノカさ~ん、聞こえてますかぁ?』

「聞こえてるよ。こっちはとりあえず準備できた。ちょっと天気悪いから、帰ったらお風呂に入りたいな」

濁った思考を追い出すように、呑気な声を返して空を仰いだ。初夏も迫る頃だと言うのに、薄暗く、肌寒い。人間の精神状況 ひいては脳に働きは、気候によって左右される場合があると聞く。この落ち着かない感覚は、きっと神経伝達物質であるドーパミンの低下という単純なものでしかないだろう。今は目の前の仕事に集中すれば良いだけなのだし。

 作戦開始時刻まであと三十分。握った拳からじんわりと汗が滲む。

『本日の作戦の最終確認を行います』

「うん、お願い」

深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。あたしの腕時計は連続秒針(スイープセコンド)なのに、高鳴る心臓が秒針を刻んでいる。

 『最終目標は、拉致された獣人の少女を無地に村へ帰すこと。そのために、人身売買の取引を潰していただきます。現在時刻から約三十分後、指定ルートを白い農作物輸送の商業トラックが通りかかるはずです。そちらに乗っているのが〝人間〟の男四人と被害者の〝獣人〟の少女が一人。男のうちの一人は運転手とみられます』

見えていないとは知りながらも首肯する。例え多少魔法が扱えるとは言え、成人男性四人を相手にするのは流石に辛い。止むを得なければ森ごと焼き払うことも考えてはいるけど、出来れば奇襲、あわよくば戦闘は回避して被害者だけを連れ去るつもりでいる。上空へ逃げてしまえば、そう簡単に追ってこられないだろうから。

『対する買取手は黒のポルシェで来るようです。護衛の男が三人と運転手の男が一人、同伴するようです。中肉中背の男……多分見ればすぐにわかります、その男が当の買い手ですね。こちらと揉めると色々と面倒なことになりそうなので、極力手は出さないようにお願いします』

どんな世の中だって、金と権力を握ってる輩ってのはめんどくさいもんだからね……。苦笑いを浮かべて再び首肯する。護衛がいるとはいえ、こっちは最悪無視で良い。取引を潰そうが、あたしの知ったこっちゃないし。

『想定外の事態が発生した場合は、こちらから別プランを指示しますぅ! 状況報告だけは忘れず行ってくださいね~。ご不明点などありますかぁ?』

脳内で事前資料と今聞いた情報、今日の行動をもう一度思い描き、

「大丈夫! 多分上手くいくよ」

自分を鼓舞するように言葉を吐いた。

 秒針は刻一刻と進み、作戦開始まで残り十七分を示している。

 

 

 

 未だ生温い風が静かに吹き抜ける中、何の合図も無く予定時刻となった。多少トラックの運行に遅れが生じることは予想していたが、うるさく脈打つ心臓と僅かな痺れを感じる掌……緊張しているのが自分でも分かり、このままトラックが来なければ良いとさえ感じていた。

 しかし、そんな淡い願いも虚しく、遠くから響く異音は明らかに機械的であり、視界の悪い森の中でも確かに視認できる白いフォルムは、作戦の開始を暗示している。が……

「!?」

トラックの全容を視認し、即座にソラへ連絡を入れる。

「ソラ、ソラッ……!」

『はい、どうしました?』

通信機越しに伝わったあたしの動揺へ、ソラは至って冷静に対応した。ここで司令塔まで混乱しては作戦は成り立たない。英断であり、称えるべき自制心だと、そう思考すれば、まもなく自分の動揺が過ぎたものだったと鼓動を諌めることもできた。

 「事前情報を確認するけど、被害者の獣人の子は……」

そこまで言うと、我らが司令塔はあたしの示さん現実を暗に理解したようで、

『イヌの獣人の方ですね。実際、村からの被害届もそうでしたし、人身売買の話に上がっていたのもイヌの獣人でした』

と淡々とした声を返した。

 そう、この目に写っているのは、イヌの獣人ではないのだ。白いトラックのコンテナに腰掛けているのは、白いウサギ耳のフードの少女。イヌの耳も尻尾も見受けられない。偽装?その可能性もある。それとも、ソラの情報が何か間違っていたのだろうか……。

 『ホノカさん、状況説明をお願いします』

先走りがちな思考を咎めるように言われる。深く息を吸う。そうだ。現場では臨機応変な対応が不可欠。ここで慌ててはいけない。そう自制し、

「白いトラックは事前情報通りだったよ。今 北東から予定通りのルートを進んでる。でも、トラックの荷台のコンテナの上、獣人っぽい女の子がいる。白いフードで下は見えないからフェイクかもしれないけど、ウサギ耳のフードだね」

できるだけ正確に状況を報告していく。

 可能性は二つ……いや、三つだろうか。一つ、事前情報が間違いでイヌの獣人ではなくウサギだった。一つ、イヌの獣人だと周囲にバレないように、ウサギ耳のフードを着せている。一つ、事前情報には無かった護衛……。あたしに思いつく予想はこの程度だ。きっとソラは、これ以上の予測を立て、最も相応しいモノを選び出しているだろう。

 『……判別しかねますね。もしも被害者の少女であった場合は、こちらから攻撃することは避けなくてはなりません。しかし、そうでない場合は……。ひとまず今は、できるだけそのウサギ耳の方には攻撃しないようにお願いします。攻撃された場合は応戦して構いません。油断だけはしないように』

ソラの妥当とも言える案に短く返答し、目標地点にトラックが到着するのを待つ。

 

 あたしの今いるこの目の前には、大木が一本道を塞ぐ形で横たわっている。正確には、あたしが事前にこの木を倒しておいた。その証拠に、倒木の根元には焼き切られた跡が残っており、見る者が見れば火の魔法が使われたことが解るだろう。

 取引を潰すためには、まずトラックを停車させなくてはならない。走行中のトラックへ下手に攻撃すれば、被害者まで巻き込む形になりかねないからね。しかし、トラックを停車させるとなれば、護衛の男四人と一戦交える可能性もある。出来れば負傷者は出したくない。それをソラに頼んだところ、自然的にありがちな進路妨害 -つまりは倒木による進行不能- であれば、確認のために護衛を分断できるかもしれない。その隙をついて奪取しろ、ということらしい。もちろんこれだって簡単ではない。けれど、最良と思える選択だったのだ。

 

 聞こえてきたのはエンジンの駆動音でも、タイヤが土を転がる音でもなく、人間の足音。再三混乱し始めた思考へ鞭を打ち、現状を確認すべく、顔だけを音源へ恐る恐る向ける。

 歩いてきていたのは男が二人。トラックの姿を探せば、少し遠くで停車しているようだ。視界が悪いため具体的な距離の把握は厳しいが、現在トラックにいる男は二人だけということになる。おそらくもう一方は運転手。……となれば、完璧とはとても言い難いが、かなり良い状況だろう。

 ソラへ報告すべきか一瞬迷ったが、近くに男がいる状況で行うのは危険だ。こちらの存在はおそらくまだバレていない。ならば、まだこちらの存在を知られるような行為は避けなくてはいけない。警戒されない方が動きやすいはずだから。三日前に使った箒に取り付けてあるカメラはもう起動されているし、視覚の情報もソラに届いていると思うから……何も言わずとも現状は理解してほしい。……とはいえ、森の中で箒は邪魔すぎるから、近くの木に立てかけちゃってるけど。

 ソラの判断を仰げないのは心配……だけど、今は、できることをやろう。胸中で決意を固め、箒をとり、足音を消してトラックのある方向へ向かう。

 

 

 

 先ほどと同じように息を潜めて木に身を隠し、状況を窺う。トラックの運転席に男が一人、コンテナ付近で警備している男が一人、コンテナの上にフードの少女……。やはり、あの子が救出対象なのか護衛なのかの判別がつかない限り下手な行動はできない。せめて顔が見えれば、事前資料で覚えた顔か判断できるんだけど……。深く被られたフードが、それを許さなかった。

 もし前者なら、男に見つからない状況で少女とコンタクトが取れれば、協力してもらえるかもしれない。それか、上空からコンテナに接近し、箒に乗ってもらって逃げることも できるかもしれない。それが目的でコンテナの上にいるのかもしれない……。けど、あたしが今回の仕事をすることをソラが外部に漏らすとは思えない……。つまり、その可能性はないのかもしれない。

 もし後者なら、あの少女に見つかる訳にもいかない。攻撃される可能性だってあるわけだし、こちら側の判断を鈍らせるための囮かもしれない。普通護衛を増やすなら、他の護衛のような男を増やすべきだ。それに、人身売買の取引ってことは、被害者は商品(・・)。それを雑に扱うとは思えない……。

 もちろんこれは、ただの主観の予想でしかないんだけれど。

 そう思考しているうちに、運転手の男がトランシーバーのように見える通信機を弄る。そして何かを口にする。コンテナを警備していた男が助手席へ乗り、トラックは事も無げに発進してしまった。

 「っ……!」

そのトラックの航行を後ろから見守っていたわけだけれど、一瞬、フードの少女がこちらを見ていた気がした。目が合った気がした。実際は、その顔を把握したわけではない。…でも、こちらの存在に気付いているような気がした。

 ……もしも今、あたしの存在に気づいたのなら、他の護衛に連絡を入れそうなものだけど…………。そう予想を立て見守るが、少女が連絡などを行う様子は見られなかった。……見逃された?……あるいは気のせい?

 「……ソラ?」

どうすべきか分からず、司令塔へ判断を仰ぐ。例え情報が錯綜していようが、最適な判断を下していることだろうから。

『トラックを尾行してください。それは二人乗りで、四人の男が移動するためには、少なくとも二人はコンテナ内に入るしかありません。今外に出ている二人がコンテナに戻る際、コンテナ内を把握できるかもしれません』

「なるほど……、それで、あの少女が敵か味方か判断しろってことだね?」

『はい』

もしもコンテナ内に別の少女がいた場合は、そちらが救出対象。否なら彼女が。無言で了承の意を示し、箒に跨った。さすがに走行中の車を -いくら道が悪いとはいえ- 徒歩で追いかけるのは難しいため、一定距離を保って低空飛行で追いかける。

 

 

 

 先ほどまで倒木があった場所へ戻ってくると、倒木は道のわきにどけられており、疲労した様子の男二人が、倒木に腰を掛けていた。あれを倒した身だからこそわかる。樹木っていうのは、そう簡単に動かせるような物じゃないってね。これはきっとソラにとっても想定外だったと思うけど -ソラが予想できたかを、あたしは予想できていない可能性も十分にあるけど- 、護衛のうち二人が重労働で多少なりとも疲弊している。仮にこの後彼らと争うようなことになったとき、僅かばかり優位に立てるかもしれない。

 距離を保ち、彼らを見つめる。助手席から男が降りてきて、コンテナに手をかけた。あの中に……と思うと不思議と胸が高鳴る気がした。こんな状況下なのに。おそらくこれは緊張なのだろう。倒木に腰かけていた男二人が腰を上げ、開かれたコンテナへ向かう。身を隠していた木から顔だけを出して、その様子を視界に収めようと試みる。コンテナの中、そこには…………

 

犬のモノと思われる三角の耳をした少女が一人。両手足に枷をかけられ、轡を噛まされて、座っていた。

 

 「っ!!!!」

息を飲んだ音が誰にも聞こえなかったのは、おそらく幸運だったのだろう。そして、反射的に上げた視線の先で、こちらを見下ろしていたフードの少女と目が合う。今度こそ、正面からこちらを睨みつけるようなその目と。

 夕日の色を閉じ込めたようなオレンジの髪が白いフードから漏れている。その時刻の光の破片のような黄色の右目、夕闇に染まりゆくような赤色の左目。幼い顔つきのどこも、事前資料の少女と似てなどいなかった。

 囮か戦闘要員かと聞かれれば、前者だろう。そして、彼女はあたしの行為を理解し、己の存在意義の必要性がなくなったことを知った。だからこそ、こうして顔を見せた……。

 全て読まれていたかのようで、気味悪さと不快感が腹の底を駆け巡る。人の掌の上で転がされていたかもしれない、これ以上にムカつくことも そうそうないと思う。……まあ、こうやって思考していられる程度には、あたしにもまだ余裕があるってことなんだろう。

 間もなくトラックは発進してしまった。……でも、確実に前に進んだ。コンテナの上の少女を攻撃するのは、…もちろんやりたくなんてないけど、最悪の場合許容される。できることなら、最善は、そう、攻撃なんてしたくない。そう思う度に、いつの日かの傷が痛む。熱した鉄が皮膚を焦がす痛み。もう、それは、無いはずなのに……。

 首を横に振り、

「ソラ、救出対象を捕捉。コンテナの上の少女は救出対象ではないみたい」

思考を現実に向ける。過去から目を逸らす。幸いなことにソラはあたしの考えを介することは無く、

『わかりました。それがわかっただけでも十分です。距離を保って尾行を続け、時を見て上の少女への妨害を試みてください。できるだけ、他の護衛に気づかれないように。彼女にはこちらの存在が知られています。ならば、できるだけ早く対処してしまうべきでしょう』

恐ろしいほど淡々と。その言葉は、思考を氷漬けにするには十分すぎた。

 「それは……それは、誰かも知らず、今のところはまだ何もしていない子へ、攻撃しろ……と?」

思わず声になった動揺が、既に遠ざかっていたトラックとその上の少女に聞かれなかったことは 喜ばしいことこの上ない。現状、何一つ喜ばしいことなんてないけど。

 

 沈黙。

 

 生暖かい風の音が、不気味なほどに周囲を飽和している。

 違う、ちがうちがう。あたしは、誰かを傷つけたかったんじゃない。皮膚が焦げ落ちる痛みを、肉の焼ける匂いを、冷水が感覚を切り裂く感覚を…それを、誰かに与えるために、ここに居るわけじゃない。魔法を習ったのだって………っ

『……ノカ、さんっ! ホノカさん、聞こえていますか⁉ お気を確かに。手段としてそれを用いるのであって、あなたの攻撃を強制しているわけではありません! 全ての責任は、指示を行ったワタシが致しますからっ……!』

 

 鳴り響いた混乱へ、訴えかける恩人の声。

 

 深く息を吸う。大丈夫、大丈夫。今は、目の前のことに集中するんだ。必要犠牲だなんて言葉、信じないし信じたくもないけれど、最終的に今果たすべきことのためなら、手段を選んではいけない。

 

 「……ごめん、大丈夫。できるよ。やる」

深く息を吐く。ゆっくりと首肯する。腹をくくる。

『お願いします』

その言葉を最後に、通信機は再び無音を湛える。やり遂げる。きっと、救い出してみせる。

 

 

 

 箒に跨り、離れた位置でトラックと並走する。運転席の男はこちらに気づいている様子はなく、フードの少女も進行方向を見つめている。あちら側からでは、こちらの姿はだいぶ視認しにくいはずだ。

 狙いを定めるように右手を前に伸ばし、左手を右腕に添える。体内を血液が駆け巡る感覚。口の奥が乾くような、後頭部が熱くなるような。約半年でようやくこの感覚が何かを理解した。まじめなことが書かれた本によれば、それが魔法を使う感覚なんだとか。

 右手の掌の数センチ先で、熱い空気が渦を巻くのを感じる。多少の躊躇いと後ろめたさを覆い隠す。眼下で生成された火球を、目標である白いフードの少女へ向かって飛ばす。直撃したとしても、威力はそんなにない低級魔法。普通に殴られるくらいの感じだと思う。……まあ、火属性だから多少の火傷はあるかもだけど……。

 妨害って言って、攻撃以外に案が思いつかないあたしもあたしなんだとは思う。でも、それ以外どうしろって言うんだろう……。ましてや、彼女が他の男へあたしの存在を告げ口したら、面倒なことこの上ないのに。

 火球は狙い通りにまっすぐに進んだ。

 

 まもなく、小規模な爆発が起こる。それが示すのは、火球が少女に直撃したこと。きっとこんな状況で考えることとしては場違いなんだろうけれど、少女がやけどを負っていないかと心配になる。

 一方で彼女は顔の前で両腕を交差させ、攻撃を防いでいたようだ。フードと同じ白い長い袖が焦げている。そこから顔を上げた彼女は、あたしの心臓を射殺すようなきつい目をこちらに向けた。ひゅっ…と冷たいものが背筋を伝い、息が詰まりかける。

 しかし彼女はそれ以上何をするでもなく、そのままトラックのコンテナに揺られていった。なぜか、男たちに今しがた起こったことを報告することもなく。

 ……敵? 見方? ……味方である可能性は低いだろうけど……。どういうこと?敵意は無いとでも? ……わからない。

 ……とにかく、報告しなくちゃ。

「ソラ、攻撃してみた。防がれた? けど、怪我はなさそう……かな。でも、攻撃を受けたっていうのに、仲間にそれを報告している様子は見られなかったよ。……あの子、本当に敵なのかな……」

纏まらない思考をそのまま吐露する。敵であって欲しくないと、争う理由なんてなければ良いと願ってしまった。情けなさに思わず下唇を噛みしめる。例えここから血が出ようと、握りしめた拳に爪が食い込もうと、それにかまっている余裕などとうにないのかもしれない。

 『なるほど……その方の目的がよくわかりませんね……。しかし、人間……ひいては生き物というのは、時に非合理的です。すべてに理由付けできるわけではないでしょう。今のところ、敵だと思って間違いないと思いますよ』

「わかった。気を付ける」

結局のところ、あたしは実行担当。ソラの指示に従う他無い。ソラが下した判断こそ、あたしが下した判断だということになる。わからないことに思考を裂いて、行動までおろそかになるくらいならば、いっそ何も考えない方が良いのかもしれない。

 そう割り切り、尾行を続ける。もうしばらく行けば取引現場だ。買い手と揉めるのは面倒ごとになりかねないため避けたい。なら、被害者が買い手にわたる前に、決着をつけなくてはならない。もう、手段を選んでいる場合ではないのだろう。

 取引場所に到着し、トラックが停車したタイミング。運転席の男が行動を始める前。中の男三人を相手にしなくてはいけないのは、かなり骨の折れることだけれど……それしか方法が無いのならばそうするしかない。

 恩人の役に立つ。

 もう一度、胸中で意志を確認してから、再び意識を現実に向けた。

 

 

 

 しばらく並走を続け、目的地に到着する。それを尾行していたあたしも、続いてそこへ到着し、音を立てないように着地する。こちら側からは視認できるが、向こう側からは確認しにくい場所というのは本質的にそうそうないものだ。やはり木の裏が妥当だろうか…と、身を潜め、トラックの方を窺う……が、ここで異変に気付く。

「ソラッ! あの子がいない!」

半ば叫ぶように、周囲の状況を気にする間もなく通信機に向かって話しかける。

 そう、あたしの視界に映るのは白い中型のトラック一台。その荷台に積まれたコンテナの上には何もない。まるで先ほどまで見ていた状況が嘘だったかのよう。逡巡した思考が一瞬にして停止する。

 

 「お静かに頼みますよ」

 

背後からその声が聞こえたときには、既に遅かった。鼻と口に当たる布の感触。慌ててそこへ右手を持っていき触れ合う人間の肌。あたしの手よりも随分か細い。残された左手首を、その細い指がしっかりとつかんでいるのを感じる。手首にあてがわれた冷ややかな感触。それは、思考を冷やすと同時に気力を奪っていく。

 息を吸ってはマズイと理解しながらも、訓練もしていない人間が長時間にわたって息を止め続けられるわけもなく……。

 「ご安心ください。ただの麻酔薬です」

高く鈴を転がしたような可愛らしい声色に似合わず、状況は絶望的だった。吸引麻酔薬は、即効性が無く効果も弱いとどこかで聞いた。しかし、そんなこと程度で安心できるような状況じゃない。

 麻酔が効き始めるまでに、まだしばらく時間があると思う。だから、動けはするだろうけれど……。この、左手へ当てられている物、おそらくは、あたしから魔力を吸い取る何かだろう。現に、だいぶ体が怠い。魔法使いにとって、魔力は気力と同然だ。感情にも大きな影響を及ぼすと誰かの論文で読んだ気がする。

 そ、そうだ、ソラに……ソラの指示を仰がなくちゃ……。必死に回り始めた頭は、ようやく妥当な案を発見する。が、耳元へ意識を向けると、流れ続けるノイズ。これは……

「初めまして、赤石 穂香さん。そちら側にいらっしゃるのは、天宮 空さんですね?」

下手に動くわけにもいかぬまま -麻酔か魔力かで言えば、圧倒的に後者のせいである- 、静かに戦慄する。背後で少女が笑った気がした。

 濁った思考で導き出したのは通信妨害。こちらのことを完全に理解したうえで、ここまで綿密に計画を練り、彼女は今ここに来ているのだろう。……どう足掻こうが、もはや勝ち筋があるようには思えなかった。

 ……でも、こっちだって諦められない理由がある。まだ敗北したわけではないのなら、持ちうる全てを使ってでも、最後までできることをやり抜く……!

 そんなあたしの意思を介すことなく、少女は淡々と話しを進める。

「私はうさぎと申します。以後お見知りおきを。……と言っても、どうせ忘れてしまうでしょうけれどね……。礼儀として一応名乗らせていただきますよ」

忘れる? ……忘れてなんてやるものか。あたしの初仕事をこうも無残に潰した相手の名前を。……強いて言うなら、あまりにも変な名前だから、ウサギ -動物の- を見るたびに思い出しそうで嫌だけれどね。

 せめて睨んでやろうと首を捻る。すると、あたしの体を支えるように握られていた左手が解放され、投げ出されるように体が前に傾いた。受け身を取ろうとする脳。それを否とする身体。その間で、心はひたすらに動揺している。

 結果、身じろぎをすることもままならないまま、短い草の上に倒れこむ。顔面直撃だけは何とか避けようと、顔だけ横に向けたが……。それでも、傍から見た今の姿はあまりにも滑稽だろう。

 麻酔はまだ効き始めていない。つまり、反撃だって不可能ではないはず。魔法使いとして、致命的な状況にあることを除けば。

 頼みの綱のソラはだんまり。人は見た目によらないものだし、経験の差だって、きっと彼女とあたしでは相当なものだ。何か…何か、案を考えなくちゃ……。

 「おや、そんなところで転がっていては、これから起こることが見えないではありませんか。大丈夫ですよ、私がその目にも映るようにして差し上げますから」

その言葉と共に、浅く生える草と木々の根元を映していた視界が、灰色に染まっている空へ向けられる。仰向きにさせられた体は、逆進するようにひきずられ、少し離れた木へ座るような形で上半身を立てかけられた。遠くに白いトラックが見える。それは、この少女が言ったところの、「これから起こること」を見えるようにするためだろう。

 見たくなんてない。失敗した仕事の結果だなんて。……結局、あたしはまた、何も救えなかったのか……。あの日も、今日も。“あの子” のために変わらないといけないと理解しているのに、何一つ変えることなんてできなかった……。

 卑屈になる思考。今にも泣きだしそうな曇天。鼻を刺した酸い匂いは、雨の臭いのようにも感じられた。でも、みっともなく、こんなところで泣く訳になんかいかない。

 「道中、妨害ご苦労様でした。大変面倒で、こちらとしても歯ごたえがありましたよ」

濡れかけた視界を、夕日色の髪の少女 ーうさぎー が覗き込む。やれやれというように、両の手をわざとらしく広げて首を横に振った自分よりもずっと幼いその表情が、どこからどう見ても悪役にしか見えなかった。

 唇を強く噛む。溢れかけた全てを無理矢理に押し込む。見せてなんて、やるものか。拳の中で残り火が瞬いた気がした。二つに結った赤い髪の毛先がチリチリと音を立てる。それと同時に、背後の木から焦げるような匂いがする。諦めない。初めから、最悪の場合、この森ごと焼き払う覚悟はあった。……ソラの判断を仰げないのは不安だけど……。

 うさぎはそれに気づいたのか否か、踵を返し、買い手の黒のポルシェが到着した取引現場の方へ歩いていく。……これは……チャンス?

 初仕事を台無しにされた怒り、彼女の嘲笑うような態度、救えなかったモノ、種族だなんてくだらない理由で命を無下に扱う行為……。その全てに対する行き場のない感情を、燃える体温と鼓動に乗せて、最後の抵抗と言わんばかりに外側へ押し出す。それは、魔法への着火剤。周囲の空気が焦げる。爆発的に温度を上げていくのを感じている。しかし微塵も熱くはない。

「さて、私はそろそろ行きますかね……。サラ・サタラによろしく言っておいてください」

少女は悠々と告げ、こちらに向かって白い紙のようなものを一枚投げた。それが首の横を掠め、背後の木に深々と突き刺さると同時に、体内に満ちていた感覚が静寂のように引いていく……。冷えた空気が首筋を締め上げる。

 どうしてっ……、どうしてっ、サラを、知ってるの……?

 サラ・サタラ、それは、あたしの恩人の一人である『怪奇事件解決事務所』の所長の名だ。こんな、悪事に加担する奴の、知人であるはずがない。

 どうかそれが、あたしを錯乱させるための嘘であってくれと願う思考は、坂を転がり落ちるように暗闇の中に吸い込まれていった。

 

 

 

***

 

 

 

 「っ……⁉」

目を覚ました頃には、あたりは完全な静寂に包まれていた。より黒を濃くした曇天は、いつ降り出してもおかしくないだろう。

 慌てて立ち上がる。麻痺の効果も、魔力封じの効力も、もう無い。理解したくなくとも、全てが終わった後なのだと理解する。

 警戒しながらあたりを見回し、とにかく現状確認を急ぐ。全てが終わった後だとしても、今日はこの近くで別の所員が待機している予定だった。もしかしたら彼女らが異変に気付いて、加勢に来てくれていたかもしれない。

 

 そして、その惨劇に目を向け、言葉を失った。白いトラックはまだそこにあり、周囲には四人の男が倒れている。買い手の車も、獣人の少女も……それと……あの少女も、居ないけれど……。

 そこまで思考し、違和感に目を見開く。心臓が握られる痛みと、首の裏を伝う汗の感覚だけがやたら鮮明で、叫びだしたくなる気持ちを抑えるのが精いっぱいだった。

「あ…れ…………?」

霞む記憶。おぼろげにつながってこそいるが、虫食いの痕。思い出したいことを理解ているというのに、肝心のその部分だけが抜け落ちているような、そんな違和感。

 確かにそこにいた、ウサギ耳の白いフードの少女。あたしはこの目で見たはずだ。彼女の顔も、髪の色も、目の色も。何を話したかも、どんな声だったのかも、そして、何をされたのかも。

 しかし、現実はどうだろうか。記憶にあるのは“白いフードの少女に出会った”という部分だけ。それ以外の具体性は一切残っていない。泡沫の夢か、淡いへ消えた思い出話のように。

 ……思い……出せない…………? なぜ……? 自分の記憶が確かなら、自分は記憶障害を患ったことは無いはずだ。過去にこんな経験をしたことだって……。しかし、理由は分からない。解かるはずもない。

 

 『……ホ…ノカ……さんっ! 聞こえますか⁉』

混乱した脳へ三度響いたのは、いつだって最後に頼り続けた司令塔・天宮 空の声だ。喧しく響いていたノイズは晴れ、たった今まで澱んでいた思考もすぐに正常へ戻る。

「聞こえてるよ……。ゴメン、失敗した……。」

情けない自分の声にため息が漏れる。ただ、これが事実である以上、伝えないわけにはいかない。

 初仕事、だったのになぁ……。そう空を見上げるが、青い色も、照り付ける太陽も、恋しいほどに今は遠い。生暖かかった風は僅かな冷気をまとって、初夏に似合わない雨の気配を運んでいる。

 『いえ、こちらの判断が遅れたのも原因ですぅ……。それに、まさか、通信が妨害されるなんて……。事前に対処できた部分も大いにありました。ホノカさんの責任ではありませんよ~』

優しく慰める口調が胸にしみる。それは慰めであり、同時に傷口に塩を塗り込む行為でもあるからだ。司令塔が判断を下せなかったのは、現場で収集する情報の質も量も劣悪だったからに他ならない。もっとうまく立ち回れたはず。振り返れば振り返るほどに、自分の粗が嫌になる。

 とにかく、報告を続けなくては。

「こっちは、全部終わった後。獣人の女の子は連れ去られたか、逃げたみたい……。トラックの男は全員ここでのびてる……。何があったか分からない。マイク越しに何か聞こえたりしなかった?」

未だに混乱する頭を整理しながら、視覚をそのまま言葉にする。

 『いいえ、なにも。しかし、状況から考えると……誰が救出対象を連れ去ったと言うのです……?』

「わからない。あたしはそれを見てないから。……でも、可能性があるなら……」

思い出そうとすればするほど、鈍い頭痛が霧を濃くする。まるで、その先の領域へ立ち入ることを警告するように。でも、でも、その警告の向こう側に、真実があるのだと直感が告げている。例え本能に邪魔されたとしても……、そこには、確かに居たはずなんだ……。

『なら……?』

ソラが先を促す。

「白いフードの女の子。あの子が、きっと、何かしたんだと思う」

確信もなければ、確証もない。でも、そうとしか思えない。わざわざあたしを襲った理由は何? 結果として被害者を救出する予定なら、こっちに協力してくれたって良かったはず。それをしなかった理由は? 人間は完全に合理的に行動しないことは知ってるけど、この一件に関してはあまりに理にかなっていない。

 『詳しい報告は所に戻ってからにしましょう。ホノカさんもお疲れでしょうし……。アリスさんとビターさんが付近で待機しているはずですぅ。合流して帰還してください』

「わかった」

もう一度深くため息を吐き、体を起こす。帰ろう。今できることをする。なら、今できることは帰ることだ。帰って、頭と体を休めて、今日あったことを整理して……。それから、あの少女が誰なのか、ソラに調べてもらおう。

 わからないことはいくら考えてもわからないままだ。そう自分に言い聞かせれば、少しばかり気持ちが軽くなった気がする。みんなの前では、ドジ踏んで失敗したただの見習いの顔を装えば良い。ここ一年間そうしてきたように。何もない。大丈夫。

 数歩離れたところにある箒を手に取り、歩き出す。根こそぎ持っていかれた魔力では、所までギリギリ飛べるかどうかだろう。他の所員と同流するまで、それは温存しておかなくては。……まあ、こんなところで迷子になったら元子もないから、どうしようもなくなったら使うけど。

 

 見上げた空は嘲笑うような曇天だ。

 全ての真相は闇の中。

 あたしは無力さを呪う。

 ……そう、まるであの日のように。

 脳裏をあの子(・・・)がかすめていく。

 救えなかった一番大事な人の影が。

 

 

 

***

 

 

 

 事務所に帰り、報告書をまとめて、二階の最奥にあるソラの部屋へ向かう。自分の足音だけが響く廊下は、不気味なほどの静けさを称えており、そこに生きる物の息を感じさせない。

 目的の部屋の前にたどり着き、ゆっくりと深呼吸をする。これからしなくてはならないのは、失敗報告なのだ。緊張と僅かばかりの恐怖が胸中を支配している。

 腹を決め、ノックの後に開けたドアの先は、無数の書類が並ぶ我らが司令塔の書斎。入口に背を向けたソラの背中からは明らかな疲れが見える。その横に並んで立つ人影に見覚えはない。灰色の猫耳のフードを被っており、短いスカートの下からは黄色い毛の二又の尾が揺れている。

 ソラはこちらを振り返ることなく

「ホノカさんですね。報告書はそこに置いておいてください」

淡々と告げる。何の感情も籠っていない、ゾッとするほど無機質で作業的な声で。

 しかしそれを表に出すことはしない。ソラにとっても、それは好ましいことでは無いだろうから。ただ指示に従い、入口横の棚に報告書を置いた。

 

 「何か分かった?」

あえて見慣れない人影のことへは触れず、今 我らが司令塔を苦しめている元凶へ話を向けた。

 ソラがこんなにも疲れているのは珍しい……。労力を費やして求めている情報は、十中八九あのウサギ耳のフードの少女のことだ。情報戦に長けたソラでもなおこれほどに苦労する相手……。当然、凡庸なあたしには見当もつかない。

 「いいえ、特に重要そうなものは。強いて言うなら、裏社会では『うさぎ』と言うコードネー厶で知られている、謎の人物という程度。素性不明、職業不明。それ以外にわかる情報はほとんどありません……。そうですね?」

視線をモニターへ向け ーつまり、入口に背を向けたままー 、軽く首を倒してみせる。その行為はあたしに対してではなく、件の……

「そんなところだな」

灰色のフードの女がこちらへスモーキーゴールドの目を向ける。紛れもなく〝獣人〟のものだ。

 無断で所内に知らない人物を連れ込んでいると言うなら、それは立派な反逆行為だし、所長が知らないはずもない。ということは、この女性はソラの協力者に他ならない。

 その予想が正解だと示すように

「私は『果実屋』次女・檸檬(レモン)だ。界隈では『黒猫』という(コードネーム)で通っている」

と女性が自己紹介する。男と間違えそうな低い声。フードから漏れる尾と同じ色の髪は短く、服装によっては本当に男と間違えてしまいそうだ。

 「彼女はワタシが協力を依頼している情報屋ですよ。『うさぎ』について何か知らないかと呼び立てたのです」

捕捉に と、ソラが続ける。

 なるほど。同じ情報屋なら、何か知っているのでは無いかってことね……。その行動の速さに感嘆し、深く頷く。

 「で、何かわかったの?」

ソラとレモンと、どちらに視線を向けるべきか迷い、二人の顔を交互に見る。

 「さぁな。私が知っていることも、アイツのごく一部に過ぎない」

レモンがため息をつき、一度言葉を区切ってから話し始める。

「情報屋って界隈は広いようで狭い。互いの商売域が被らないように棲み分けをするもんだ。(黒猫)は表社会、うさぎは裏社会、モグラは地下ネットワーク……ってな具合にな。だから私はアイツのことをほとんど知らないし、アイツからしてみてもそれは同じだろう。……まあ、たまに情報交換程度には会うけどな」

つまり、彼女からあたしたちが求めてる情報は得られない……と?

 ……無駄足か、とため息をつこうとしたところで、見計らったかのようにレモンが口を開く。

「ただ、ある程度は話せることもある。例えば、アイツの能力について……とか」

にやりと口角を吊り上げた表情は、どことなくこちらを見下しているようで鼻持ちならない。

「知っている情報があるのなら、早く吐いたらどうですか。こちらは要求された対価を支払っています。聞く権利はあるでしょう」

ようやく画面から離れた太陽の色の目が、厳しい視線を隣に立つ人物に向けられる。静かな圧力。普段の温厚な姿からは想像できない冷酷さを目の当たりにし、呼吸が止まる。……怒らせてはいけない人物って、こういう人のことを言うんだろうか……。

 「まぁそう怖い顔するなよ」

そう前置きをし、両手を広げてやれやれと(うろぶ)いて、嘲ていた表情を真剣そうに戻す。

「大方予想はついているだろうが、アイツの能力は記憶か認識に作用するものだ。私も詳細は理解していないが、ほとんど核心をついていると考えている。……まあ、私がそう能力を誤認するようにアイツが仕向けていたら、お手上げだがな」

一気にそう告げ、一枚の紙をソラに渡した。遠目に見えたのは、どこかの住所のようなメモ。

 「この情報は今のところ私以外の情報屋からは得られない。……ここに行けば、アイツに会える。ほぼ毎日、アイツはここに通っているからな。深夜に行くのが確実だ。それ以上は行って直接確かめろ」

そのメモを見て、ソラは思い当たることがあるようで、

「カフェ……ですよね?それも、普通の……」

と疑問を呈した。数歩進み、そのメモを覗き込んで、あたしも同じ疑問を感じた。

 メモに書かれていた住所は、あたしでもよく知っている喫茶店。アットホームな落ち着いた雰囲気で、店主の出す日替わりのスイーツは頬が落ちるほど美味しいらしいと噂だ。いつかは行こうと思っていたけど、まだ行けていない。そんなところが深夜営業しているとは聞いたことないけれど……。

 「まあ、騙されたと思って行ってみな。二十二時前後から午前二時の間が妥当だろう」

一種の核心があるのか、はっきりと言い切った言葉のどこにも嘘は感じさせなかった。

 

 そこまで言い終わると、言いたいことは言ったからと冷たく笑い、獣人の情報屋は部屋を出て行った。再び静寂に包まれた部屋に、秒針の音だけが響いている。なんとも居心地が悪く、そばにいる恩人の考えが微塵も理解できない恐怖を痛感する。

 「…………ホノカさん、今日はお疲れ様でした。()の情報屋との接触は私が行いましょう。何かわかるかもしれません」

そうソラが切り出すまでかかった時間は、夜が明けてしまうのではないかと心配になるほど長かった気がした。

「そっか……。気を付けて」

任務に失敗したあたしには、ソラを危険だと止める権利もなければ、一般所員のあたしには、ソラの仕事を決定する権限もない。司令塔がそう判断したのなら、それに従うしかできないのだ。

 ……でも、せめて、恩人の無事を祈ることくらいは許してほしい。

 

 一つのため息が部屋に響く。

 それがあたしのものだったのか、あるいはソラのものだったのか、知る由はない。

 コードネーム『うさぎ』。

 彼女は一体誰……?

 目的は何?

 何も分からない。

 全ては闇の中だ。

 でも、いつか必ず、突き止める。

 あたしたちの仕事に手を出したんだ。

 ケジメはつけなくちゃ。

 静かな闘志を燃やす中、夜は刻刻と更けて行く……。

 

 

 

 真に道を示すなら、その結末まで案内するのが筋だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 -真に道を示すなら-  by 16代目うさぎ守

 

 

---

 

幸福というものは、一人では決して味わえないものです。

 

by アレクセイ・アルブーゾフ

(ソビエト連邦出身の劇作家。 Wikipediaより引用)

 

---

 

 

 

 肌を冬風に揺蕩う深い霧が撫でていく。もう、後ろを振り向くことはないだろう。そして、それはもう、許されないのだろう。

 徐々に失われゆく体温は、自分自身のものでもあり、先刻まで抱きしめてくれていた先生のものでもある。恩を仇で返すとは、こういうことを言うのだろうか……。それが先生自身の意思だったとしても、二度とは戻らない平穏な日々を想う頬の雨は、まだ当分止みそうにない。

 今引き返したら、まだあの場所に先生はいるのだろうか。そう現実から逃れようとした頭へ、否と突き返す心。どちらも私自身なのに、どちらも自分ではないような錯覚に(おちい)り、振り払うようにひたすら足を前に踏み出す。ちぎれそうなほどに、長い髪を引かれていたとしても。

 どうせ、私に決められることなど、私の人生のうちでも僅かでしかない。ならば、振り返らずに身を任せてしまえば良い。鮮血に散った花は、もう元は戻らないのだから。足掻いたところで、何をも思い通りにはならないのだから……。

 

 ふっと光が射した気がして、秘境の森が終わりを告げる。鬱蒼(うっそう)とした森の外には、どこまでも続く平原が広がっており、生き生きとした草花を朝焼けの太陽が照らしていた。

 振り返れば、密林は未だ静かに霧を湛え、後戻りを禁ずるように佇んでいる。前へ進めと背を押されたように思う。色褪せない思い出の舞台はいつだってこの場所だった。そんな日々との決別がさらに色濃さを増し、ようやく乾きかけた頬の雫へ、再び雨の香りを運んだ。

 それを必死の思いで飲み込んで、流れ落ちた最後の一雫をぬぐい去る。黒いベールをかけ直し、肩にかかる髪を払い除ける。進まなくては。私を私たらしめる過去を、単なる幻想としないために。教えを、学びを、業を……全て背負って。

 遠い恩人へ向け、黒い森へ一礼する。深く、深く息を吐き出して、心の底からの感謝を。

 

 そして、顔を上げ、曇天の切れ間から覗くような眩い光の道へ、歩を向けた。

 

 

 

 

***

 

 

 

 「……さぎっ! うーさーぎっ!!」

耳元で叫ぶ騒がしい声と私の名前。遠い日の面影を魅せる美しい悪夢は、立ち所に掻き消えてしまった。

 重い瞼を開くと、眼前に同居人の顔が迫っていた。私の額に当たりそうな位置で揺れているのは、紛れもなく同居人のものである桃色の髪と黒い角。この奇怪な姿の同居人は、黒い天馬(ペガサス)の〝獣人〟である。この獣人と共に暮らして長いが、今日は朝っぱらからタックルを喰らわなかっただけ穏便な方だ。

 「あー、起きたー! おはよっ!」

「おはようございます」

万遍の笑みで笑う彼女の名は、テリー・テール。とある縁で共に過ごしている。出会いは最悪だったし、天真爛漫で生来の破天荒な性格にはいつも振り回されてばかりだ。できることならば早く別れたいものだが、生憎、そうは問屋が下ろさない。仕方が無いので、今は我慢するしかないらしい。

 一応、こんななりの同居人だが、これでも界隈ではそこそこ名の知られた盗賊だと自称している。私もその技術だけは、ある程度認めている部分があることは否定しない。

 もちろん、褒められたことではないから褒めないし、彼女自身も仕事自体には興味も無い様子。彼女はたまたまこの仕事に向いていただけなのだ。

 顔にかかる、彼女の角に巻かれた深紅のリボンを払い除ける。すると顔が引っ込んだので、固くなった体をほぐしながら起き上がった。やる気なさげに天井からぶら下がっている割れた豆電球を見上げ、ゆっくりと視線を下に向けていく。古い木張りの床の至る所に散らばる依頼書、脱ぎ捨てられた服、机の上には昨日テリーが食べたのだろうカップラーメンの空箱……。お世辞にも綺麗とは言い難いプレハブ小屋に小さくため息をついた。

 

 「もうすぐ二時だよ。仕事でしょ?」

月の光で笑みが不敵に揺れる。同居人はこの空間を気にも止めていないようだ。

「そうですね……。行かなくては」

私たちはそれぞれ忙しい。部屋を片付ける暇もないほど。時間さえあればやると言い訳をして、一番手近にあった依頼書を一枚拾う。

 とある取引についての依頼だ。もともと世の中というのはどこもかしこも物騒なものだが、その影が近年はより濃くなっていると感じる。影からのその手が伸びた先、それが今回の仕事ということだろう。何度も読み直した資料にもう一度目を通し、今回は少しばかり面倒そうだとため息を飲み込んだ。しかし、仕事は仕事。報酬が出る限り、私たちに拒否権は無い。

 トレードマークのウサギ耳のフードを深く被り、暗闇の中で手探りにバイクの鍵を探す。

「あ、そだ。今日何時帰り?」

どこかへ遊びにでも行く時かのような軽い口調で聞かれた言葉へ、

「日が昇る前には戻りますよ」

と靴を履きながら答える。不真面目な同居人がこういうことを聞く時、続く言葉は大抵、

「ワタシ、仕事だから、多分しばらく帰らないわー」

だ。予想通りの言葉に、

「わかりました。お気をつけて」

そういつも通りに返す。そして、背後から聞こえるお互いにという言葉に首肯しながら、まだ夜闇が支配する世界へと身を滑らせた。

 

 

 

***

 

 

 

 静寂が支配する森に、けたたましいエンジン音を響かせること二時間。向かう先は、中央区の西に位置する農村のさらに西。今でも昔ながらの狩猟生活を続けている〝獣人〟の集落だ。こんな早朝に安眠を妨害してしまうのは大変申し訳ないことだが、呼びつけているのは先方故、多少は我慢していただきたい。

 元来、森というのは人の手が入らない場所だ。無造作に伸びきった枝が絡まり合い、頭上の光は僅かさえも地へ届かず、下草は枯れ果ててしまう。しかし、その点ここはどうだろうか? 木漏れ日は幻想的に朝日で地面に影を落とし、健康的に伸びた雑草は益々青く見える。森と共に生きていた時間があるからこそ、わかるものがある。つまり、

「おはようございます、皆様の集落まで案内してはいただけませんか?」

ゆっくりと速度を落としたバイクを、半ば木にもたれかけるように停車させて降りる。この辺りに、彼らの拠点があるはずだ。一般の目には触れられぬよう、密林の奥に隠された集落が。

 もちろん、私の目には人影の一片すら映ってはいない。しかし、これだけ存在を周知させながら向かえば、少なからず見張りくらいは気がつくだろう。ましてや〝人間〟より幾倍も感覚が鋭い種族だ。そして、必要とあらば攻撃をも厭わない彼ら。ならば、既に私へ目をつけているはず……。

 ガサリと背後で植物の葉が擦れる音がした。反射的に振り向きたくなる本能を抑え、あたかも初めからそこにいることを予見していたかのように、ゆっくりと振り返る。つい手癖で愛銃を取り出しかけた衝動を自制し、無害そうな無表情を湛えて

「お初にお目にかかります。情報屋・モグラから話は行っていると思いますが、うさぎと申します。本日はどのようなご要件でしょうか」

簡潔に目的を伝える。駆け引きはもう始まっている。努めて冷静に、情報屋としての自分で接する。

 背後に立っていた灰色をした三角の耳を持つ獣人と、茶色い羽を持つ獣人の大男二人組は、それを聞いて顔を見合せ軽く頷いた。ひとまず、いきなり攻撃されるようなことは無くて済みそうだ。

 「話は聞いている。尾行という失礼(つかまつ)ったこと、申し訳ない。長老の所へ案内してもよろしいか? 本題はその後だ」

三角耳の口から多少の言語差を感じるハスキーな声が流れ、

「よろしくお願いします」

首肯する。自力でたどり着く頃にはとっくに日が登ってしまいそうだったし、ブラフをかけたのもそのためだったので、私に断る理由などあるはずもない。そして私は、この難儀な依頼に足を踏み入れることになったのだ。

 

 

 

 獣人の傭兵に連れられて歩くこと約三十分ほど。もはや、道無き道を進むことにも慣れて来ている自分がいた。この三十分でようやく、彼らの拠点である獣人の村が、噂程度になりを潜めている理由に納得がいった。彼らは〝人間〟には到底たどり着けないような、自然が織り成した険しい砦の向こうに拠点を構えていたのだ。岩に塞がれた獣路(けものみち)、切り立った崖、方向感覚を失わせる密林の迷路……それらは、〝人間〟の行く手を阻むには十分すぎる効果を発揮している。

 かく言う私も息が上がっているのだ。彼らが軽々と飛び越えていく岩石や崖を這いつくばってよじ登り、木の根や草の蔓に足を取られながら進む。何度彼らを見失いかけたか、数えるのも飽きてしまった。自分一人では絶対に到達できなかったであろうことを確信し、尾行という形でこそあったが、彼らが私を見つけてくれたことに感謝した。一体、モグラ -情報屋の- はどうやって、こんな秘境まで出向いたのだろうか……。

 

 「この先だ」

傭兵の一人の言葉の直後、どこまでも鬱蒼としていた木々が開け、幻想的な空間が視界に飛び込んでくる。

 彼らの拠点は二本の巨木が築き上げるツリーハウスが中心となっていた。巨木は空を覆い隠すものの、枝の間から降り注ぐ木漏れ日は、薄暗い森に朝の光を届けている。よく耳を澄ませば小川の(せせらぎ)が遠くから響いており、それに混ざる住人たちの朗らか笑い声がこの場を飽和していた。まるで小説の一説から飛び出したかのようだ。

 傭兵に連れられて長老の元へ向かう。住民達がこちらに向ける視線は、よそ者へ向けるそれだったが、ウサギ耳のフードを被っているからなのか、〝獣人〟が〝人間〟に向ける敵対的な視線は感じなかった。特段、それを意図している格好ではないのだが……。

 「立派な拠点ですね。皆さんはいつ頃からここに?」

明るい住民の声が響く中、私たちだけ無言というのもいたたまれなくなったため、適当な話題を振ってみる。

「ここのシンボルツリー -ここの二本の巨木の総称と思われる- は、木々の女王・セコイアが初めに実らせた種から生まれたと言われている。我々の祖がこの木々を発見した時には、既にこのような姿だったそうだ。つまりはそれほど昔ではないだろう」

「つかぬ事を聞くが、情報屋。貴殿は、自分の祖がいつ自分の地に根ざしたかを知っているか?」

「いいえ」

言葉を継いだ二人目へ、首を横に振って回答する。そもそも、私の祖先が()だったかを、私は知らない。私は気がついた時には私で、先生に拾われて、育てられて、今ここにいる。先生を祖先という意味で呼ぶならば、先生がいつからあの場にいたのかも知らないため、嘘にはなっていないだろう。

 「つまりはそう事だ」

「なるほど」

木々の女王・セコイアは世界樹と根を介して繋がっていると聞く。同じ〝獣人〟であり、世界樹の座すところを知る桃髪の同居人ならば、より詳しいことを知っているのだろうか……。

 

 木製の扉を叩く音が意識を現実に向けさせる。前を見れば、おそらくは長老の家 -部屋のようにも見える- の前。個人の住居スペースは、巨木の枝先に点在する洋梨型の場所のようだ。遠くから見れば巨大な果実のようにしか見えないが、近づいてみればそれは木製で、窓や装飾がなされている。巨木の外壁に取り付けられた階段のような足場を渡り、枝の上を伝っている状況で下を見て、落ちたらどうなるかなど容易に想像できてしまい、小さく震える。

 中から年季の入った穏やかそうな老人の入室の許可の声が聞こえ、三角耳の傭兵が扉を押し開けた。そして、目配せで入って良いと示される。しかし、彼らは中に入る様子はない。

 ……一瞬、何かの罠かと疑う。が、今ここで彼らがそれをして得るものが無い点と、私の行動の先を見ることなく来た道 -道ではないのだが……- を引き返していく点からして、ただ単に彼らの役目がここまでだったという考えに至ったため、

「失礼します」

と、軽く頭を下げながら入室した。

 部屋の中は外観よりも広く感じる作りだった。広さは三十畳ほどだろうか。三階程度の高さの吹き抜けになっており、二階と三階部分は壁から飛び出した足場のような部分が床になっている。その部屋の中央で、まっすぐにこちらを見つめて待っていた白髪の老人が家主だろう。威厳を感じさせる白い髭、長い毛に覆われたやや垂れ気味な三角の耳、眼光を隠すように鼻にかけられた小さな丸眼鏡。温和そうな老人の顔と、底知れぬ獣の鋭さを併せ持った不思議な雰囲気の長老だ。

 「遠路はるばるご苦労であった」

「いえ、お構いなく。優秀な(・・・)情報屋であるモグラを介してまで、わざわざ私にご依頼とは。それも、閉鎖を好む〝獣人〟の皆様なのに」

入口から一歩ほどの距離に立ち止まったまま、白いフードを一度外して挨拶をする。彼ほどの年季を積んでいれば、私が〝人間〟だということくらいすぐにわかっただろうが……。

「初めまして、情報屋・うさぎと申します。本日は何をご依頼でしょうか」

一瞬の営業スマイルを見せ、温和な雰囲気で話を始める。だが、例え今の彼から敵意や殺気を感じなかったとしても、いつ何時手のひらを返されるかわかったものではない。故に、扉を背後にし、退路は確保したうえで、最低限の警戒は怠らない。

 長老は正座のままで、近くのちゃぶ台へ手を伸ばし、薄く湯立つ湯呑みを口に運ぶ。そして一口含み、深いため息をついた後、重々しく、かつゆっくりと本題を切り出した。

「最近、我ら〝獣人〟が〝人間〟にぞんざいに扱われていることはご存じかな? 全く腹立たしいことこの上ないがね」

その言葉の端々には、幾年にも渡って蓄積された〝人間〟への恨みが深く滲んでいる。隠しきれていないどころか、はなから隠すつもりも無いようだ。

「ええ」

しかし、その点には一切触れず、軽く相槌を返して先を促す。

 「では、ここよりさほど離れてもいない東の農村については?」

「多少ですが。先日、(くだん)の村の村民の一人が誘拐されたと」

その村民は〝獣人〟の少女で、そして、その少女が売りに出され、買い手が決まったことも。

「なるほど、よくご存じのようだ」

ええ、もちろん。なぜなら誘拐の情報を仕入れ、裏社会に人身の(せり)の情報をばら撒いたのは、他でもない私自身なのだから。

 「それがどうかしたのですか?」

まるで白々しく、首をかしげてさえ見せる。何も、私がその獣人の少女の競に加担したから、逆恨んで私を八つ裂きにしてやろうというわけでもないだろう。もしもそんな内容ならば、モグラは私へ話を通さないはずだ。……ただ、彼女(モグラ)がまんまと騙された可能性は否定しないが……。

 「確かに我らの仲間が〝人間〟に下等な扱いを受けていることを許しなどできぬ。が、ここで無為に〝人間〟を襲うほど愚かでもない。しかし、東の村の悪い噂を放棄するわけにもいかぬ。故に……」

長老は一度ここで言葉を切り、これから口に出す言葉のために、腹をくくるように間をとった。私は辛抱強くその静寂を飲み、老いた唇が音を奏でるのを待ち続ける。

「…………故に、これ以上我ら〝人族〟間の摩擦を起こさぬよう、できる限り穏便に、件の少女を逃がしてもらいたいのだ。〝人間〟の手を借りるなど、誠に遺憾だがな」

 なるほど、とため息交じりに呟く。まるで、その答えを決めあぐねているかのように。初めから答えを決めてきていることは、露にも見せず、一度深く頷いた。

「……なぜ、それを私に?」

自分はあくまで情報屋であると全面に出しながら、無垢な少女の顔を装って尋ねてみる。

 一瞬の静寂が飽和し、

「我らの仲間の話が情報屋(モグラ)から出た時、すぐにでも(さら)っていった人間を八つ裂きにしてやりたかった。……しかし、我らは〝獣人〟。それを我らが行えば、再び我らの仲間が苦しめられるやも知れぬ。ならば、その汚れ仕事は〝人間〟にやってもらわねばならぬ」

という老人の言葉で間もなく無音は決壊した。

「情報屋にそれを話した時、あやつは感情のない薄っぺらな笑みで『腕の良い情報屋を紹介しよう』と(のたま)った。当然、なぜそこで情報屋なのかと問うたさ。するとどうだ。『彼女はとても優秀だ。自分の不利益になる情報を掴んだ者を処分することだって。そして、彼女は皆さんと同じ獣の者と共に暮らしている。きっと役に立ってくれるだろう』とな」

……なるほど。後ほどモグラには、お礼の鉛玉でも差し上げなくては。まったく、どうして彼女はこうも口が軽いのか。その内、取引材料までも流出させてしまうのではなかろうか……。

 先の老人のように、私も深くため息をこぼす。それは同業者の仕事意識の低さに対する呆れでも、これから先のことを想定しての諦めでも、ましてや〝獣人〟からの依頼を受けるということへの差別的な否定でもない。ただ単純に、息が口から洩れただけだ。そこに深い意味などありはしない。強いて言うなら、深呼吸の一種であるため息だった。

 夜も明けてしまいそうなほどの長い沈黙を律儀に守り、真摯に、しかし心底面倒そうな長老の瞳を見つめ返す。そして、やれやれと姿で示すように、ゆっくりと首を横に振り、

「…………仕方ないですね、本業ではありませんが、協力いたしますよ。もちろん、対価を払っていただけるのならですがね」

事の回答をようやく述べた。

 その言葉を聞いて、不動の長老の表情に僅かな安堵が見えた気がした。初めからこの答えは決まっていた。私は基本的にどんな依頼でも断ることはない。情報提供も、それ以外も。口の軽い同業者は私のそんな仕事スタイルを承知のうえで、彼に -あるいは彼らに- 話を持ち掛けたのだろう。私が基本的に断らないことを伝えていたかは定かではないが。

 「安心なされ、報酬は言い値でくれてやろう」

「おや、随分と気前の良いようで。……まあ、モグラからの紹介ですし、多少まけておきますよ」

「それはありがたいな」

無味乾燥とした実務的なやり取りを挟み、私は報酬の金額を告げた。今後のことを考えると、もう少しばかり高額でもよかった気がしなくもないが、今後のことを考えると、臨時報酬で嵩増しされるだろうから気にするほどでもないか。

 これほど複雑に絡み合った面倒くさい依頼を -しかも本業ではない- こなすのだ。こちらもこの件を良いように使わせてもらおう。そう言い訳する頭で、この依頼書が届けられたころをからある程度計画していた予定を軽く確認する。本題に取り掛かるのは明日からにしよう。今日の下準備はなかなかに骨が折れそうだから。

 

 「村の外まで案内させるか?」

軽い情報交換を済ませ、常に確保していた退路へと足を踏み出そうとしたとき、幾ばくか絆された様子の長老が気を効かせてくれた。……ここまでの道のりを考えれば、その判断は妥当だろう。帰りもあの道を使うならば、物理的に骨の一本や二本折れても不思議ではない。

 しかし、

「お気遣い痛み入ります。ですが、遠慮させていただきます」

そう丁重に断った。白い髭が怪訝そうに傾けられるが、来た時と寸分変わらぬ有料の笑顔で会釈し、彼の家を後にした。はなから、同じ道で帰るつもりではないのだから、彼の好意も必要ないのだ。

 

 ツリーハウスを下り、来た時と同じように白いフードを揺らしながら村を出る。その先は今しがた見ていた幻想的な場所とはかけ離れ、自然の厳しさを教える世界が広がっていた。やはり、この道を〝人間〟が通るには不可能のように感じる。

 「……ま、通らないんですけどね」

独り()ちに呟いて、心を落ち着かせた。今からやろうとしていることは、本来、私にはできないことだ。不可能を可能にするなんて聞こえは良いかもしれないが、多少の緊張はする。何度となく繰り返そうが、これに関しては慣れる気がしない。

 薄い空気のベールの向こう側を覗き込むような、意識を深淵に浸すような、形容しがたい感覚を想像しながら、右手を前に伸ばす。脳内でファスナーを開くようなイメージをすれば、手の先の風景がゆっくりと捻じ曲がった。歪んだ風景は、混ざり合って黒く塗りつぶされる。目の前の渦を巻く真円の空洞は、完全な虚空に浮かんでいた。そう、これが私の帰り道。これの本来の所有者は『異端的なやり方』だとか『非正規的な抜け穴』だと卑下する。

 この真円は、空間の壁に直接こじ開けた穴だ。平たく言えば、異空間へのゲートホールのようなもの。この穴の先は、先の所有者の保有する空間に繋がっている。そして、出口はバイクを停めた場所。つまりは、過酷な道を通らずとも帰ることができる片道専用切符なのだ。

 自分の能力を悪用して、勝手に旧友の能力を使っているようなものであり、私が本来できる芸当では到底ない。故に、穴を開くことには大変な労力を消費する。激しく脈打つ鼓動がその証拠だ。しかし、こんなところでバテていては、苦労してまでせっかくこの穴を開いた理由がなくなってしまう。

 この道を通ることはあまり良い気はしないし、穴を開くことと過酷な道を帰ることとどちらが楽かなど聞かれれば、どっこいどっこいでしかない。ただ、お世辞にもあまり運動神経がよくない私にとって、脳内の天秤はこの手段の方がマシだと判断したらしい。

 自分でこの手段を選んだというのに否定的な意見ばかり浮かぶ脳を押しとどめ、眼前の黒い穴に身を滑らせる。

 

 

 

 全ての色彩を飲み込んだ色をしていた穴の先は、存外にも眩しい程とりどりな色で構成されている。この空間を知っている者は、一様にここを境界(・・)と呼ぶ。三つの世界に分かれて構成されていると考えられているこの世界だが、ここはそれら全てを繋ぎ合わせている、その名の通りの堺を守る場所なのだ。全ての世界の外側であり、ここがどの世界の内に属するのかを知る(よし)はない。

 「……誰かに見つかる前に立ち去りましょう」

誰にも聞かれぬ呟きを色で満ちた世界へ投げ、早足に出口の穴を目指す。この空間の中でさえ、一切の色を映さない抜け穴は異様であり、見つけることに苦労はしない。だが、所有者である旧友や、そこに居座っている旧友のコレクション(・・・・・・)たちに見つかれば、それはそれで厄介だ。長居する理由もない。見つけた対になる穴へ吸い込まれるようにして、ここでの滞在時間を終えた。

 

 

 

 穴の先は再び緑一色の森の中。しかし、もうここに獣人たちの話し声が響いてくることはない。先述の場所へ戻ってこられたようだ。その証拠に、周囲を見渡せば愛用のバイクが静かに木に(もた)れている。

 ……さて、と息をつき、すぐに仕事に取り掛かる。まずはこのバイクで、行かなくてはならない場所が二か所……いや、三か所ほど。これだけでもやる気が失せるが、一度引き受けてしまったのなら、完遂する以外に選択肢はない。これでも私とて、優秀な(・・・)情報屋だから。

 鍵を回してエンジンを噴かせれば、たった今までは風が吹く音だけだった静けさは、たちまちのうちに崩壊した。旧時代的なガソリンエンジンなんて使わずとも、今時なコアを使用したバイクだって存在する。しかし、どうしても私はこの機械的な方が落ち着くのだから仕方がない。誰に何と言われようと、この移動手段を変えるつもりなどありはしない。

 

 

 

***

 

 

 

 先ほどまでいた西の森 -獣人の村がある森- からそれほど遠くない位置に、よく訪れる妖怪の里がある。そこの住人は大半が〝妖怪〟で、他は彼らに気に入られらた〝人間〟が数人いる程度の、どこにでもあるような里だ。もとより、〝妖怪〟と〝人間〟は対等にはできていない。〝妖怪〟は〝人間〟を主食としているのだ。つまり、その里にいる〝人間〟は非常食であり家畜。それを〝人間〟が良しとして甘んじて受け入れているのか否かを、私は知らないけ。

 そんな里の一角にある、アンティークな様相の雑貨屋。いつからここにあるのかを悟らせない、古くも新しくも見える看板には『果実屋』と書かれている。しかし、名前とは裏腹に、ここで売っている果物など、少し特殊なリンゴ程度。定期的に訪れているが、今回の用は普段とは少し違う。

 いつも通りを装って店のドアを押し開けて入店する。カランカランと、ドアに取り付けられたベルが軽い音を奏でた。

「いらっしゃいませ~。あら、うさぎさんではありませんか。ご無沙汰しております」

その音を聞いて顔を上げたのは、入口の正面奥に設置されているカウンターで本を読みふけっていた、十代前半に見える少女。

「こんにちは。すみません、最近は少しバタバタしていまして……」

苦笑いを浮かべながら、そのカウンターへと歩を進めれば、店主の少女は、読みかけの本にしおりを挟み、笑顔で対応をしてくれる。

 「お茶をお持ちしますよ。あちらでお待ちください」

「ありがとうございます。それと、レモンさんがいらっしゃれば、呼んでいただけますか?」

「多分、帰ってきていると思います。呼んできますね」

「お願いします」

手短に会話を済ませ、店の一角にあるいつもの応接机へ向かう。その机も、向かい合わせで置かれた四脚の一人掛けの椅子も、外観に見合ったアンティークな装飾が施されている。

 いつも通りの席に腰を下ろし、店主の帰還を待つ。普段ならば、先に必要な物を伝えておいて、店主が紅茶を入れがてら倉庫へ物を見繕いに行く時間。今日もいつもも、窓辺のこの席でぼんやりと流れる雲を見つめて待っているこの時間を、私は密かに好いてる。忙しなく過ぎ去る日々の中で、ほんの一時、肩の力を抜いて肩書きも仕事も全て忘れられる瞬間、それはまるで時間が止まってしまったかのような穏やかさを感じることができる。

 

 しばらくして、

「お待たせしました」

との済んだ声と共に、明るいブロンドの色の長いおさげを揺らしながら、手にしたトレーの上で金のティーカップの紅茶を波打たせて、待ち人が帰ってくる。そして、私の目の前の席へ、灰色のフードから黄色い髪がこぼれている十代後半から二十代前後に見える、店主とは別の女性が乱暴なそぶりで腰を下ろす。

 今、目の前に座った、この灰色のフードの女の名は檸檬(レモン)さんという。灰色のフードが猫耳の形を作っているのは、彼女の黄色い毛皮がその下で猫の耳を持っているからに他ならない。短いスカートの下で揺れている髪と同じ色の尾は二本。

 紅茶を机に置き、レモンさんの隣に腰を下ろしたのは、この店の店主でレモンさんの姉である林檎(リンゴ)さん。薄い赤色の緩い帽子、それを下から持ち上げている髪と同じ色の三角の耳、長いスカートの下で揺れている尾は三本。

 誰がどう見ても、きっと彼女らが姉妹であることは理解できるだろう。妖怪の里に相応しい、化け猫の姉妹。最近妹が一匹増えたと聞くが、その妹はただの獣人だそうだ。

 「……何の用だ。今日は集会じゃないだろ」

いかにも不機嫌そうに、レモンさんは紅茶を口にしながら切り出した。集会というのは、表社会の情報を集める彼女(黒猫)と、裏社会の情報を集める(うさぎ)、そして地下ネットワークを支配しているモグラ、計三人の情報屋が集まり、互いに必要としている情報を交換し合う定例会のことだ。もちろん、今日はその会合の日ではない。

 「ええ、そうですね。少し、あなたから情報を買おうと思いまして。それから、写真の現像の先約を」

端的に言葉を返しながら、私もここの店主が入れる絶品の紅茶を口に含む。彼女はこんなところで売れない雑貨屋をやっているよりも、喫茶店でも開くべきだと思う。

 レモンさんは一瞬怪訝そうな顔をするが、予定のない日に突然訪れること以外は普段と大差ないと納得したのか、すぐに頷いた。それを見て話を進める。

「中央区の西の村について、あなたは何をご存じで?」

その言葉を聞いて、ほとんど不同な表世界の情報屋の眉が僅かに上がる。……この反応は……。思わずため息が喉まで込み上げた。……大変残念なことに、彼女はすでにどこかへ情報を売ってしまったのだろう。状況的には、あまり喜ばしいことではないけれど……。

 「…………聞いて、どうする。まさかとは思うが、動くつもりか?」

唇をティーカップのふちに触れさせ、情報屋は珍しく言い渋っていた。あー……これは面倒くさそうな…………。

「その情報を渡せば、私にあなたの情報をくれますか?」

ここでいう情報屋同士の取引の対価は、どこにでも存在する金銭では成立しない。互いが必要とし、最も価値が高いと考えているモノ同士の交換、つまりは情報の対価は情報でしか支払えないのだ。その量や質は、互いの(さじ)による。

 相対する女性は深くため息をつき、ソーサーに得物を戻す。

「端的に言おう。『事務所』に売った。……だから、これ以上関わるな」

重々しく告げられた言葉は、その警告にも似た重圧を含んだいた。

 思わず私の口からも、押し込めていた深いため息が漏れる。

「どうせ、そんなことじゃないかと思いましたよ……」

胸中で呟いたはずの言葉が息に混ざった。

 「買い手はサラですか? それとも、優秀だと聞き及んでいる例の司令塔さんですか?」

「……お前にとって面倒な方だよ」

「…………つまり、後者と……」

神妙な面持ちで、彼女は首肯する。そして、互いの口から再びため息が落ちる。

 "例の司令塔さん"の話は、事務所こと『怪奇事件解決事務所』との関係を持つ彼女自身から聞いている。≪情報を知る≫というなんとも変わった、私たちの仕事を奪うような能力をお持ちの、頭脳明晰な司令塔の話は。『事務所』の戦えずとも強力な武器であるその司令塔は、私たちにとって脅威になり得る……と。しかし、できるだけ『事務所』とのいざこざを避けてきた私は、司令塔のことをほとんど何も知らないし、状況が許すのならば手を引きたい。

 「それでも買うのか?」

一瞬の静寂が訪れる。しかしそれは私に惑う時間を与えない。

「はい」

間髪入れず、短い返事が響いた。

 「……わかった。対価にお前は何を渡す?」

「何をお望みですか?」

「…………このことに私が関わったと他言しないこと」

「契約書は必要ですか?」

「……いや、いい。お前はそんな馬鹿なことをしないからな」

「それはどうも」

事務的なやり取りが続き、取引が成立する。今回彼女が要求したのは情報ではなく、口約束。この場合、私が彼女を裏切ったとしても何の不利益も被らないため、契約書を……と聞いたのだが、予想以上にこの情報屋は聡明なようだ。私がこの約束を破り、表社会の情報屋という情報網を失うことと、それによって得る利益を天秤にかけ、そして私が前者を選択することをよく理解している。

 そうして、ようやく本題が語られた。

「まずは『事務所』に売った内容。対価にあそこの新入りの情報を仕入れた。西の村、あそこでは〝獣人〟と〝人間〟が共に生きている。重労働を任されるのは〝獣人〟で、精密作業は〝人間〟が。村の西、中央区からの人権協会のお客用のゲストハウスがある」

ふむ……。よく聞くような話だ。特に何の違和感もない。これが全てであれば、だが。

 「これはそれ以外の情報。まだどこにも売っていない。件のゲストハウス、あれは外見だけだ。よく見れば違和感があるだろう。……それ以上は自分で調べろ」

「……なるほど、ありがとうございます。……それと、仕入れた情報を売っていただけますか?対価に、私がそのゲストハウスで得た情報を売ることを確約いたしましょう」

言葉に詰まるような間の後、彼女は取引を認めたようで、

「……『事務所』の新入りの名は、赤石(あかいし) 穂香(ほのか)。火属の魔法使いで、朱色の髪と若草色の目をしている。今回が初仕事だそうだ」

と口にした。今回私が表面的に敵対しなくてはならないのは、例の司令塔ではなくて、この新入りの魔法使いのようだ。

 ……魔法使いとは、これまた厄介な……。私は魔法を解さない。戦闘にでもなろうものなら、私の負けが確定する。そしてそれは、仕事の失敗を意味する。極力戦闘を避け、錯乱と奇襲に徹すべきだろう。

「あぁ、それとリンゴさん、用意してほしいものが……」

一通りの取引と目的を果たしてから、ついでの用事を済ませるために気を重くしながら口を開いた。

 

 

 

 「ありがとうございました」

その後、一言二言程度の今後の計画や取引外の情報交換、次の集会のネタや日程などを確認し、私は席を立った。無口な情報屋からこれだけの情報を搾り取れたなら上出来だろう。……まあ、私も同等の情報を吐いてしまっているのだが……。原価なくして利益は立たないのだ、許容範囲だと思うしかない。

 「またのご来店をお待ちしております」

背後からの店主の明るい声を聞き流し、店のドアを丁寧に閉じた。

 

 

 

***

 

 

 

 目的地に近い森の中、バイクを止め、鍵をかける。このご時世、古い時代の機械を盗みたいと思うものなどいないとは思うが……。まあ万が一、あるいは念のため。警戒に越したことはない。

 獣人の村がある西の森をぬけた先の村は、一見したところ何の変哲もないただの農村だと感じる。事前の情報がなければ、住民を拐われただけの哀れな村以上の思考を抱かないだろう。

 〝獣人〟と〝人間〟という同じ〝人族〟とはいえ、ほとんど他種であるこれらの共存など、そんな夢幻を私は信用しない。〝獣人〟であるテリーと同居しているからこそ、これは明白だ。旧友が経営する『事務所』は他種族共栄を実現していると聞くが、それは奇跡といっても過言ではない。同じ〝人間〟同士でさえ争いが絶えないというのに、それが一般社会で他種族となど不可能だと言わざるを得ない。そこに倫理が干渉する隙など無い。その夢幻は言ってしまえば、獣と草木が言葉を交わせる理想郷を望むようなものなのだから。……望むこと自体は否定しないが。

 

 逸れ始めた思考をおしとどめ、違和感と疑心を抱えたまま、村の奥へと歩を進める。あのレモンさんに情報を掴ませないとは、相当警備が厳重なのか危険なのか……。一種の緊張もここに入り混じっている。

 村の一番奥、違和感のある大きな建物。貧しい身なりの住人と木製の民家に比べ、この建物は豪華な装飾の施されたコンクリート製。立派な門の前には門番が二人。門番の服も住人のような貧しさを感じさせない、シルクの良い生地で作られている。あれがこの屋敷の制服なのだと考えれば、貧富の差は傍から目にも明白だ。もちろん、それ以外にも違和感を感じさせるものはあちらこちらに散らばっており、ただの貧富の差で片づけてしまってよいものではないと直感する。

 現状分かることといえば、明らかにこの村に獣人の子供が少なく、学校すら見当たらないというのに、件の門番が子供であること。日暮れは遠く、すでに村は夜闇に覆われている。そんな状況でいくら〝獣人〟だとはいえ、子供を働かせるとは思えない。……この背景にあるのは何だ?

 門番は力仕事ではない。しかし危険を伴う。子供より大人の方が良いはずだ。この村の子供の少なさと何か関係あるのか?

 確定的な情報などない。この表社会を舞台として動く情報屋ですらお手上げなのだ。確証など、この世の誰も未だに掴んではいないのだろう。……さて、仕事を始めよう。

 

 

 

 「こんにちは、本日からここでお世話になるメイドなのですが……」

緊張した面持ちと声を演じて、門番に話しかける。トレードマークのウサギ耳のフードは下ろしてある。そして一切の違和感なく、オレンジ色の髪の間から覗いているのは同じ色のウサギの耳。『果実屋』はあくまで雑貨屋。雑貨以外の多種多様なもの -例えば情報とか- も扱っているが、欲するものは大抵あそこで手に入れられる。

 その店主に先刻頼んだのは偽装耳。木を隠すなら森の中? 化けるなら同類が自然だろう。〝獣人〟の子供として紛れ込む計画だ。まあ、この外見が可愛いと -リンゴさんから- 言われたのは遺憾でしかないが。

 一方門番は、17程度の私より背の高い男子の狼の獣人だ。制服の上からでもわかる鍛えられた肉体に襲い掛かられれば、私のようなただの情報屋(・・・・・・)に勝ち目はない。この危機的状況でブラフを押し通す必要がある。

 「……? おい相棒、そんな話聞いていたか…?」

一人が首を傾げ、もう一人と顔を見合せている。まあ、それもそうだ。そんな予定は初めからないのだから。しかし、この堂々たる嘘を聞いて即座に攻撃されなかった時点で、私にはこの先の取るべき行動が見えている。

 真っ直ぐに二人の瞳を覗き込み、

「ほら、聞いているはずですよ?」

と首を傾けて、薄っぺらだが完璧な微笑みを向ける。それと同時に、深い沼に手を浸すような感覚を想像しつつ、二人の記憶へ手を伸ばす。そう、これが私の本来の能力。他者の記憶に干渉する力。人はこれを≪記憶操作≫だなんて呼ぶ。実際、そんな大層なことはできない。

 

 生れ落ちた時からこれを持っていたのか、あるいはどこかのタイミングで取得したのかは覚えていない。だが、私がこの職についたころには……あるいは、先生の下へついたころには、既に使えていた力だ。そして、こういった駆け引きの時に、重宝している。

 ……他者の記憶を覗き込み、書き替えるという行為はとても気分の良いものではない。言うなれば、他者のプライベートを、無断で踏み荒らしているようなものなのだから。そして、狙った記憶を膨大な年月から探し出すことは、≪記憶操作≫だとか≪能力≫だとかいう言葉では表現できない難易度だ。また、他者の記憶と自分の記憶が混濁し、過去も未来も認知出来なくなる危険も(はら)んでいる。潜在的な能力には、応用が利く分、使用者の負担が大きくなるという法則でもあるのだろうか……。

 彼らの記憶の中身を吟味することなく、適当な最近の記憶の中に、私が新入りのメイドであるというデマを植え付ける。直後にこみあげる猛烈な頭痛と吐き気を堪え、能力を切断した。

 

 「……ああ、そうだったな。けど、雑用は表の扉からは通せないんだ。裏口へ回ってくれ。連絡は入れておくから」

記憶の書き換えが終わり、何てことも無く私は招かれることになった。記憶を(もてあそ)ぶこんな外道な能力を知らなければ、普通は自分の記憶を疑うだなんてことは有り得ない。負荷に目を瞑り、倫理的に間違っているなどという意見を遠ざければ、重宝すべき力だろう。

 「ありがとうございます」

頭を下げ、そそくさとその場を離れる。人前では、平然を装い続けなくては。

 

 「…………はぁっ……はっ……はぁ…………」

熱い息が漏れる。他の誰のものでもない、私のものだ。人目につかない物陰で、激しく肩を上下させる。気道が熱く、脳裏が激しく点滅している。その場に膝をつき、心臓を服の上から鷲掴む。力を使うこと、それは寿命を……命を削ることと同義。

 ……しかし、こんな所でくたばっている時間はない。これから始めるここでの時間、必要とあらば終始この能力に頼らなくてはならないのだ。これだからスパイモドキはやりたくない。

 だがどう言おうと、一度引き受けた依頼は完遂しかない。……それに、今回は色々と複雑そうだし、最後まで完遂しきり、かつ運が良ければ、旧友に私の生存を知らせられるかもしれないし……。

 そう考えると、少しだけ気が軽くなり、それと同時に浮かんできた僅かな微笑みを噛み殺した。

 

 「こんばんは。あの、表の門番の方に……」

裏口へ辿り着き、一人で裏口を守っている門番へ伝える。彼もやはり子供の獣人。……確かに、獣人ならば夜目も効くだろうが、それ以前に彼らの家族はここでの労働を承知しているのか? ……もしかするとこれは、このゲストハウスのみならず、この村全体に……。

「ああ、無線で連絡があった。話は聞いている。中へ入れ。あとは中の者に聞け」

素っ気ない態度で質素で小さなドアが開かれ、招かれざる客が迎え入れられる。……よかった。こちらでは能力を使わずに済みそうだ。気づかれないほど小さく息を吐き、指示されたとおりに中へ踏み込んだ。

 

 

 

 屋敷の中の空気は、まるで葬儀場のようだった。息が詰まりそうな程に空気が重い……。ここの住民はこれを良しとしているのだろうか? そうだったとしても、ゲストハウスとは到底言えない。安らげる環境とは程遠く、論外と言っても過言ではないはずだ。

 ……とりあえず、ここの従者のコミュニティに潜入しなくては。より多くの情報を。より正確な情報を。……仕事に執着するのは、もはや性としか言えないな。まあ、こんな異様な場所に潜伏しなくてはならないのだ。目標意識でも持っていなくては狂ってしまいそうで。

 メイド服を揺らしながら、談話室を探す。サイズの合う服があったのは、偶然であり幸運だった。……しかし、今の姿を同業者に、あるいは旧友に、ましてや同居人に見られたものなら、もう二度と表へ顔を出せないと断言しよう。普段から仏頂面と営業スマイルを張り付けているおかげで、赤面することだけは免れているが、鏡の前には立ちたくない……。

 勝手に侵入した衣装室から、勝手に拝借した制服……。これでは、もう同居人の仕事に文句も言えない。そう苦笑いしてみれば、足取りが少しばかり軽くなったように思う。……ああ、仕事中なのに。集中しなくては。

 耳を立てれば -もちろん偽装の耳ではなくて- 、遠くから人の声が聞こえる。明るいとは言い難いが、子供の高い声だということは分かる。

 「失礼します」

三度のノックをして、一礼してから入室する。その先にいるのは十代の少女が七人ほど。どのメイドも私と同じ服を身にまとっており、様々な獣の一辺が見えている。…………ここに、〝人間〟はいないのだろうか?

 何気ない様相を装って、その会話の輪の中に混ざる。……全員に対して能力を使用するのはさすがに無茶が過ぎる。負荷で即倒するとしか考えられない。……なんとか、自力で騙し通さなくては。

「こんばんは、本日からここに配属されました。オーナー様へまだご挨拶ができておりませんので、私の話は皆さまにはまだ届いていないかもしれませんが……」

愛想を振り撒いて頭を下げる。それに合わせて、偽物の耳が視界の端で揺れた。

 そこにいた少女たちは口々に挨拶を済ませ、私はそれへ適当な返事をする。

「ここはどのような場所なのでしょうか……。何やら、皆さま、暗い顔をなさっておりますが……」

彼女たちに合わせて不安そうな顔を取り繕い、目的を口にする。此処で駄弁に時間を割くつもりはない。

 その言葉を聞いて、回答すべきことを想像したであろう一同は、一様に言葉に詰まっていた。……つまりはそういうことなのだろう。それでも、真実を聞かなくてはならない。言いにくくても、言ってもらわなくてはならない。それが苦だと理解したうえで。

 「……地下室」

一人が口にする。一言だけ。

「……地下室? ゲストハウスとお聞きしていたのですが……、地下があるのですか?」

先を促す。しかし彼女は首を横に振って、

「…………それ以上は、言えない。……でも、鍵……、あれは、メイド長のオフィスにあるよ。今、晩餐の時間だから……」

「おすすめはしないわ。……あなたも、ここに長くいるなら、いつかは行くことになる。だから、焦らなくても……」

「……でも、あそこに行きたくないなら、知っておくべきね……」

「どの部屋も内鍵はついてないけど……」

「でも、本当に行くなら覚悟した方が良いよ……」

口々に述べるのは、その地下室についてのことだろう。しかし、私はそこに行く他選択肢などない。ならば、行くしかない。ため息を一つ吐き、情報提供してくれた哀れなメイドたちに礼を言い、退室する。ああ、益々同居人を否定できなくなってしまうではないか……。

 長い廊下を歩く。毛の短い絨毯はいかにも高級そうで、より貧富の差を実感する。一応、先ほど服を拝借した部屋から持っていた地図を頼りに、メイド長の部屋を探す。もう、今さらの不法侵入は許してもらう方向で……。

 しばらく進み、他の小部屋と大差のない一室に行き当たる。見た目だけは他のメイドの部屋と大差ない。……いや、普通はどこもそうなのだろうが、違和感がなさ過ぎて逆に怪訝に思う。

 ……一瞬ノックすべきか迷ったが、どうせこの時間ならいないだろうと踏み、音を潜めて木製の扉を押し開けた。中は、メイド長の部屋という割には簡素で、おそらくは書斎か何かなのだろう。ほとんど物がなく、光のない部屋がぼんやりと暗がりで像を結んでいる。

 そこへ空気を乱さぬように立ち入り、奥にある事務机に歩み寄る。……鍵、か……。鍵を管理しているケースのような物があるはずだ。とりあえず、机の上にはない。……引き出しか? メイド長が肌身離さず持っている可能性は、一応情報提供者の彼女たちを信じれば、無いと断言できるが……。果たして、彼女たちはその情報をどこから仕入れたのだろうか……。

 考えていても仕方がない。順番に引き出しを開けていく。今は晩餐会の最中。まだ帰ってこないだろうが、いつ何時帰ってくるかはわかったものではないため、できるだけ手早く済ませるべきだ。しかし、急いで音を立てては元も子もない。ゆっくり慎重に……。

 「……」

机と隣接しているチェストの引き出しの上から三番目を引き出して、ようやく目的の物を発見した。ありがたいことに、一つ一つの鍵が分けて管理してあり、三つ四つ残っているだけで、無数にありそうな鍵の大半は持ち出されていた。それらが ―今の私のように― 無断ではないことを願うばかりだ。

 どれなのかがわからないため、それら全てを持ち出す。……念のため、手袋はしているが、一瞬警戒してしまう。手袋痕くらいならば許容されるだろう。四つ程度ならば片っ端からやってみれば大丈夫だろう。返却時のことは……まあ、考えなくてもよいだろう。ここに長居するつもりもないのだし。

 さあ、地下にはいったい何がある? ここまでもったいぶったのだ。多少は収穫があると良いのだが……。

 

 そうして地下室へ潜入する。埃だらけの石の階段、立ち込めた空気は冷たく、周囲を照らすのは心もとない明かりだけ。明らかに、様子がおかしい。

 そこに佇むいくつもの檻、辺りに散らばる赤黒いシミ、必要以上の拘束具……。そして、鼻を突く異臭。異様だ。ああ、それはもう。……導き出す答えなど、一つしかないと示すように。それは、日の届かない場所にいる恐怖から来る不確実な何かではないと、本能が喧しく吠えていると感じるほどに。

 一切の日の光が届かないこの場所にずっといては、閉鎖的な思考になってしまいそうだ。……まあ、この程度で恐怖を感じられるほど生易しい人生は送っていないけれど。

 石造りの床に靴音が淡々と響いていく。鍵がかかっていたことを考えれば、この先に人がいないことは確信している。残念ながら内鍵が存在していないため、追手が来ようものなら絶体絶命だ。手早く済ませよう。

 一つの檻に顔を近づけてみる。中にいた人影の肩が遠めでも震えたのを理解した。他の幾多の物の中も同様の状態だと推察できる。……ここの管理はどうなっているのだろう?

 その中にいるのはおそらく人。そのイヌに似た特徴を見れば、その人影が〝獣人〟であることは一目瞭然。しかも、その体の大きさから考えて、ほぼ間違いなく…………子供。さらによく見れば人影は女性で、猿轡(さるぐつわ)をつけられ、両手足を鎖に繋がれた、私と同じメイド服。

 …………ああ、なるほど、そういうことか。情報元が『いずれ行くことになる』と言っていたのは、これのことだろう。

 他には? ようやく闇に慣れてきた目で見渡せば、この場にはよく似合う、しかし、ゲストハウスにはあまりにも不似合いな鞭。そこから想定できるのは、耳をつんざく嫌な音、声にならない悲鳴、大きな瞳に涙をため、必死に身を捩り痛みに耐える姿。ああ、脳裏を駆け抜けていく……。

 恐怖統治は確かな効果がある。理解こそしているが、理解したいとは到底思えない。

 手の中の鍵の一つにここの鍵があることを願うが、残念ながらどれも一致しない。この鍵を持っているのは誰? 考えられるのは二つ。一つはメイド長が終始持っている可能性。もう一つは、別の誰かが……。

 背後に嫌な汗が生じ、効果音が付きそうなほどの勢いで振り返る。静寂の先の扉は、未だ沈黙を守っていた。最悪の想像は免れたようだ……。即座に視線を檻に戻し、目的を早く果たすために行動を始める。

 必要な証拠をこの目に映し、軽い物色(ぶっしょく)を済ませる。残念ながら哀れな従者たちを助け出す術を持ち合わせてがいない。この状況に目を瞑り、苦い現実を飲み込んだ。

 「あなたを助けてあげられるほどの力も、そして、優しさも持ち合わせてはおりません。手を差し伸べ、そのせいで自滅するほどの馬鹿でもありません。しかし……」

悪役が絶望を与える前振りのように間をとり、

「いえ、なんでもありません」

その先の言葉を握りつぶした。不要な絶望も、無用な希望も与えるべきものではない。私にはそんな資格もなければ、必要性もないのだから。……まあ、悪役であることは否定しないけれど。

 ……ただ、見過ごせば、それはまるで、私に手を差し伸べてくれた先生を否定しているようで。……ああ、そうだ。ただ、それだけの気まぐれ。ただの自己満足とエゴだ。

 獣人の少女の反応を確認することなく、踵を返し、地下室から退出する。その間で檻の群を振り返ることはなかった。

 

 

 

 すでに夜は暮れていたが、まだ情報提供者のメイドたちが談話室にいることを願い、元来た道を戻る。数刻前と同じように軽いノックと挨拶を伴い入室すると、幾分か人数は減ったものの、まだ数人が(たむろ)していた。抜けていた時間はほんの三十分ほどだったと、状況から把握した。

 無事に戻ってきた私を見て、興味に目を輝かせて彼女たちは土産話を求めた。

「鍵は返した?」

「はい、もちろん」

その返答に続くのは『もちろん、返していない』だ。しかし、人の脳というのは都合の良いように言語を解釈する機能でも備えているのか、彼女たちは安堵の表情で胸を撫でつけた。その様子を見て、酷くいたたまれない思いになったのは言うまでもない。

 晩餐の時間は終わっているだろう。まだメイド長が片づけに追われている可能性はあるが、今返しに行くのは相当なリスクを背負うことになる。故に導き出した -初めから決めていた- 答えは、捨て置くという判断だ。私はそれを忠実に実行し、適当な小部屋に鍵を置いてきた。このせいで、明日以降彼女たちは苦しめられるかもしれないが、それは私の知ったことではない。

 「あれはいったい何ですか? 彼女たちは何故あそこにいるのですか?」

答えを求める子供のような無垢な眼差しで、真相を探る。彼女たちは顔を歪めるばかりで、一向に語り出そうとはしない。それほどトラウマなのだろうか。あるいはほかに理由でもあるのだろうか?

「……あの子たちはミスをしたのよ。だから、(しつけ)を受けているの」

沈黙に耐えられなくなったように、メイドの一人が声を震わせながら答えた。

「……と、言うと?」

 「…………私たちはただの小間使いじゃないの。都合の良いラブドールであり、無抵抗なサンドバック。どうしようもないミスを押し付けられて、あそこに連れていかれて、家主様の好きなようにされる。それが躾」

「家主様というのは……オーナー様のことでしょうか?」

「……みんなよ。この村の」

そういって一人が制服の袖を捲ると、その下には少しばかり古い生々しい傷があった。それをきっかけに、他のメイドたちも各々の傷を示して見せた。蚯蚓脹(みみずば)れ、火傷、打撲、切り傷、銃創…………。

「私は親に売られたのよ。そして、ここでこき使われて、躾られて、家主様が飽きたら外へ売られるの。拉致被害者としてね。引き裂かれて臓器を売られようと、もっと酷いオーナーに捕まろうと、文句の一切は許されない。もしそれをしたら、今まで以上の罰を与えられるから、もう、逃げることも諦めてしまったわ……」

なるほど。私が情報を撒いた被害者も、かくして……。一人、腑に落ち頷く。

 希望を持たない者に絶望は無いのだと説いた者がいたかもしれない。しかし、私はそうではないと思ってしまった。彼女たちの表情から、声色から…………。諦めていると言葉にしていて、きっと彼女も本心から諦めているのだろうに、その深い絶望をまざまざと見せつけられてしまったから。

 そんなうら若き少女たちの絶望さえ踏み台にして、前に進もうとする私はきっと、ここのオーナーや彼女たちの言う家主様(・・・)よりも残酷で、残忍なのだろう。僅かな希望さえ与えることを良しとしないこの私こそ、悪だと笑われれば良い。…………そして、そんな悪にしかできないことをやって見せよう。世界を裏側からひっかき回す、裏社会の情報屋・うさぎとして――――――

 

 

 

***

 

 

 

 ……後始末に滞りはない。もう、ここに留まる理由もまた。もう日が昇りかけている。日が昇る前には帰るだなんて告げたにもかかわらず、私らしくもなく長居してしまった。この屋敷での滞在期間は一晩。必要な情報収集を終えたし、事前の計画通り、明日から本題に取り掛かるつもりだ。ここまで面倒な下準備をさせられたのも久々で、精神的にも肉体的にもかなり疲労している。

 今は一刻も早く家 -と呼ぶにはあまりにお粗末なプレハブ- に帰り着き、寝床 -というにはあまりに横暴なソファ- に身を泥のようぬ沈めて眠りたい。見られる夢が悪夢以外に選択できなかったとしても、今ばかりはどうでも良いとさえ思えた。

 

 求めていた情報、それはこの村の実態。ここから西にある獣人の村を訪れたとき、長老は「東の村の悪い噂」と発言した。しかし、優秀な情報屋であるレモンさんは、この村の不穏な影は感じ得ても、それ以上の悪い噂を入手していなかった。その矛盾は、この村の狂った ―部外者がその酔狂を判断するのは(いささ)かお角違いだが― 団結力にこそあった。

 ……やはり、この村に獣人虐待の事実はあった。あの檻こそ、動かぬ証拠だろう。先刻抜け出してきた屋敷の使用人達は全員獣人の子供。屋敷の持ち主は中央街の議員の1人、屋敷にやってくる客は村の住民たち。そして、彼らが自らと同じく感情も命もあり同族でもある〝獣人〟へと、感情のままに鞭を振るう。その光景を想像し、“狂った”以外の的確な言葉を見つけられなかった。

 あの館の外部では、全ての者が完全に貧相な農村の村人を装い -実際はそちらが本来の姿のだろうが- 人畜無害な態度を示す。〝人間〟……否、〝人族〟の本性を(さら)け出す場所は、あの館の中だけなのだ。故に外部の者が、容易にあの村の実態を知ることはできない。しかし、そこかしろにある違和感や矛盾に目を向ければ、その狂気を垣間見ることもできるだろう。

 西の獣人の村の者たちは、いったいどうやって悪い噂(・・・)を入手したのだろう? それは〝獣人〟ですらない私には、想像することしか叶わない。彼らの超常的な感覚神経が事実を示したのかもしれない。同族が傷つけられているということを、本能的に感じ取ったのかもしれない。はたまた、違和感に気づいた旅の者が風に噂でも乗せたのかもしれない。真相は闇の中だ。

 それでも、揺るがない事実がある。それを私は確かに掴むことができた。ほんの一片で良い。森に付けられた火が燃え広がるように、あるいは堤防が決壊するように、ほんの僅かにでもきっかけがあれば、変えられる現実もあるはずだ。私はそのためならば、放火魔でも土木工事でもいくらでもやってやろう。

 それが私の答えだ。先生から教えてもらった全てだ。

 

 やはり事前調査というのは必要だなと、胸中で呟く。全力でこれからの仕事に挑めるのだから。

 事態が動き始めるまで、まだ三日ある。その間に手筈を整えなくては。

 しかも厄介なことに情報が正しければ、旧友のところ(怪奇事件解決事務所)から、仕事を妨害しに……否、売られていく可哀想な獣人を取り返そうと、悪役であるこの私へ刺客が向けられるだろう。それは新入りで、魔法使いで、もしかすると旧友の可愛い弟子かもしれない。

 しかし、何を犠牲にしようと、私は行動を変えるつもりなどない。どんなに不利であろうと、どんな情があろうと、それら全てを踏みつぶしてでも、この仕事を完遂させてみせよう。

 

 さあ、カードは揃った。

 これから私が成すことは決して正しいことではない。

 全ては私のエゴであり、自己満足であり、仕事。

 そんな中で私はただ、我が恩師の教えに従うのみだ。

 

 

 

***

 

 

 

 「ただいま戻りました~…………」

薄暗い室内に反響した声。風雨に負けてしまいそうなボロ小屋の中身は、空き巣にでも入られたかのようなさんざんなありさまだ。出発間際とほとんど何も変わらない無造作な空間だが、朝方はいた同居人の姿も気配もどこにもない。

 ……あぁ、そういえば今日は仕事だと言っていた。今になってそれを思い出し、風の音だけがうるさく続いている静寂が、どうにも居心地悪く感じる。普段はあれほど鬱陶しいのに、いなければいないでなんだか物足りない気もする……。……そういえば、こんな感情に名前があった気がする。それを認めるのも思い出すのも、今は面倒だからと無視することにした。

 念願だった寝床(ソファー)に身を投げ、疲労に任せて瞼を下ろした。

 真っ暗な世界になれば、音ばかりが鮮明に聞こえる。自分の息遣いと、はめ殺しの窓を叩く風の音。温もり一つない空間が、春先の寒さを増幅させているように錯覚し、乱雑に毛布をひっかけた。

 考えるな。寝てしまえ。きっと疲れているだけだ。そして、起きたら仕事に行こう。そのまま、この感情など忘れてしまおう。

 言い聞かせるように固く目をつむり、意識を奈落へと突き落とした。

 

 

 

***

 

 

 

 待ち合わせ場所の空き家の前でバイクを止める。周囲の雰囲気は明らかに物騒で、表社会との違いを色濃く示していた。現在地は本日の商品(・・)の競が行われた会場近くにある、身を隠すには丁度良さそうな廃墟。私の家より幾分か造りはまともそうに見えるが、人が暮らして久しいことはよくわかる外観をしている。

 私の今日の仕事は護衛。……と、言うより、もともとこちらが本来の仕事だった。引き受けた理由は特にない。私が競の情報を撒き、それで買われた商品の受け渡しを見届ける。一種の責任のようなもので受諾しただけだ。なにせ、こんなに複雑なことになっているとは思いもしなかったのだから。

 「お邪魔します」

廃墟のドアを遠慮がちに開け、中へ。断りを入れるべき人物(家主)もいないし、なんなら私は招かれているのだが、小さく空気を震わせて頭を下げる。

 ひんやりした空気が気持ち良いような、他人の息遣いが聞こえるのが不快なような、何とも形容しがたい言葉を緊張という一言でまとめ、歩を進める。依頼主は既にお見えのようだ。……彼らは村と関係のある人物なのだろうか? 私は否だと思っているが……。きっと(てい)の良い仲介者なのだろう。この裏事情を認知していない訳ではないはずだ。

 

 「やっと来たか」

「おや、お待たせしてしまいましたか?」

居間にたどりつくと、ガタイの良い男が四人と細身の -痩せこけたとも言える- 〝獣人〟の少女が一人。向けられた十の眼球のうち、大半は私に対して「チビ」とか「子供」とか「使えなさそう」とかの感想を抱いているように感じられる。……遺憾の意。これでも彼らより長生きしているだなんて言っても、きっと鼻で笑われるだけなのだろうから口を噤む。無駄な労力を消費するつもりはない。

 「裏にトラックが止めてある。乗れ」

乱暴に概要だけを伝えられ、男たちは商品の少女を連れて席を立つ。

「ああ、そうだ。私、荷台でお願いします。コンテナの上で」

承諾を示して彼らについて行きつつ、こちらの要望を伝える。助手席、ましてやコンテナの中になど入れられようものなら、たまらない。先手は打っておくべきだ。

 「は?」

従順でないメスガキに、怒気を感じる短い音が伝えられた。……まあ、その程度で怯むようなら、この界隈にいるはずもないのだが……。

「私は護衛です。私を護衛として雇ったのは皆さまです。故に、仕事を果たせる場所を指定しただけですよ。……あぁ、護衛として働いてほしくないのでしたら、結構ですよ? 代金は既にいただいておりますから」

口元に微笑を浮かべ、それを右手の長い袖でわざとらしく隠す。若干の挑発を孕んでいた気がしなくもないが、それで掴みかかられてもこちらとしては痛い以外に損失はない。

 「……勝手にしろ」

「ありがとうございます」

そうこうして、私はコンテナに上る。梯子があればよかったのだが、生憎そのようなものは見当たらなかったため、適当な足場から運転席の上へ、そこからコンテナの上へ移った。ここからなら、周囲の警戒も容易い。森で多少の見通しが効かなくとも、ほぼ全方位へ注意を向けられるのはアドバンテージだ。

 相手は魔法使い。種族としてこそ分けられていないが、もしも〝人間〟の中で魔法使いとただの人間が分かれていたのなら、明らかに前者が優位種族だろう。私は魔法の気配 -人はこれを魔力と称する- を感知することもできないし、それを防ぐ手立ても持っていない。さぁて、どうするか…………。

 

 

 

 ゆっくりと動き出したトラックは、商品と護衛を乗せて森へと入っていく。直前に見上げた空は曇天で、いつ振り出してもおかしくないだろう。……運には愛されていないが、今降られるのは勘弁願いたい。

 生暖かい風が頬を撫でていく。見据える進行方向には、まだ人影の一つも見えない。視界は全て緑一色だ。白いウサギ耳のフードを深く被る。今日は偽装耳はつけてきていないが、先日のことを考えると囮としての他称の効果を期待できるかもしれない -その実、ほとんど一切期待してなどいないが- 。

 

 ここで、私の視界に異物が映る。視界は一面の緑、それを下へ向ければ黄土色に塗れた土くれの道……のはずだが……。即座に無線機へ口を寄せ、

「すみません、停車をお願いします。約三百五十フィート先、倒木です。生憎私は力仕事が得意ではないので、お仲間のうち……二三人ほどでよろしくお願いします」

簡潔かつ単純に指示を送る。ここ数日、酷い嵐も無かった。今朝この道の下見に来た時に異常はなかった。奇跡的にこの数時間でその気が寿命を迎えたのでなければ、あれは人為的な妨害。……それをやりうる人物は、私の中では一人しかいない。

 このまま進行を続けては、彼女の思惑通りになりかねない。……まあ、相手が例え魔法使いであっても、屈強な男四人をどうやって相手取ろうとしているのか些か疑問だが。解かっていて策にはまるほど、私も滑稽ではないので、見せつけるように躱して見せようではないか。

 無線機越しに面倒くさそうな了承が伝えられ、間もなく進行は遅くなり、そして完全に停車した。コンテナから降りていった二人の男が、視界の先で倒木と格闘を始めるのが映る。

 ……さて、当のご本人はどこにいるのやら。風に揺れる草木の音色の全てに警戒を向け、刺客を探る。……しかし、角度が悪いのか、私の運が悪いのか……一向にその姿を見出すことができない。

 そうするままでしばらく、慎重な揺れと共に車体が動く。前方へ視界を向ければ、先ほどの倒木は道のわきへ綺麗に避けられていた。時間切れか。

 ……最悪、商品さえ守り切れれば良い。そう、気落ちする心を宥めようとしたとき、

「!」

視界の端に赤色が映る。それは本当にただの偶然で、何か気配を感じただとかそういうわけではなく、ただ自然に首を向けたその先で目が合ったのだ。草木に紛れてしまいそうな鮮やかな緑色の目、その正反対に位置する色である朱色の髪、きっとトレードマークなのだろう三角帽子……。紛れもなく、妨害者だ。

 交差した視線はほんの一瞬で、私は特に気にすることなく目を逸らした。見つめていても意味がないと思ったから。この仕事の邪魔はさせない。が、今時間を取られるのも癪だ。どうせ、後で相対するのだから。

 

 またしばらく進み、コンテナから降りた男を迎え入れる。その表情には疲労の色が見えていて、妨害者の発想はその効果を十分に発揮していた。……これは、私にとっても好都合だ。

 やがて再び停車し、男たちがコンテナに乗り込む。

「……」

風が凪いだ音がした。そこまで耳の良い方ではないが、エンジンの駆動音が弱まっていたのが功を奏したようだ。その音の先に視線を向ければ、先回りした朱色の髪。……こんなところで勘づかれるとは、彼女も詰めが甘い。

 今度はしかと品定めするように、その姿を視界に収める。一見したところ、武器のようなものは見受けられない。魔法を扱えるというだけでも厄介だが、刃や弾丸による攻撃を織り交ぜられてはお手上げだ。どちらも私は防ぐ手段を持たない。

 三度走り出したトラックに揺られ、情報を整理する。相手は魔法使い、新入り、武器なし……。となれば、やはり奇襲が良さそうだ。

 フードの中へ手を入れ、『果実屋』に頼んでおいた道具を取り出す。見た目は手錠のよう。魔法使いの最大の利点は魔力であり、魔法。しかし、最大の弱点も魔力だ。奪ってしまえば、あるいは封じてしまえばただの人。世の中には≪封魔の呪≫などと呼ばれる、道具が存在する。装着させた相手から魔力を奪い、完封するための抵抗手段。今回のこれはそれほど高性能なものではなく、短時間に激しい魔力変動を起こさせることで意識を奪い、数刻後に崩壊するというものだ。これで、彼女へ危害を加えることなく、戦線から離脱させることができる。

 ……と、考え込んでいたとき、私の体の前方 ―コンテナに座っているため、トラックから見て進行方向左側― に異変を感じる。ほんの一瞬。強い熱。

「っ……!」

反射的に腕で顔を庇う。直後、殴られたような衝撃と、火傷に似た鋭い痛みが腕を襲った。素早く腕を振り払い、服で燃えそうになる火を消し去る。

 確かに、放火魔にもなってやると覚悟はしたが、私自身が燃やされる覚悟などしていない。即座に朱色の髪を探し出し、

(こちらとて、痛みも熱さも感じるんですからね)

それ以上攻撃を続けるなら発砲も(やぶさ)かではないと、警告を込めて視線を送る。今日使う予定はなかったが、必要とあらば愛銃でその心の臓を貫いたって問題ないのだと。

 しかし、彼女はそれ以上手出しすることもなかったため、今のところは何もなかったことにした。そう急かさずとも、もう間もなく到着なのだから。

 

 「……では、手筈通りに。取引先がお見えになるまでは、ここで待機をお願い致します」

手短に通話を済ませ、コンテナの上に無線機を放置する。ついでに妨害電波もまき散らして。ここからが本題だ。

 身軽にコンテナから飛び降り、すぐさま草木に姿を隠す。小柄な体も、装飾のない服も、草木をはためかせ続ける風も、全てがこれからの行動のためにあるように感じる。つまり、今、私は緊張している。

 そのまま、遠目に目標を捕捉する。目立つ朱色の髪、とんがり防止、不要な布まで組み合わせて装飾された服……。大方、私のような動きへの対応など考えてはいないのだろう。

 身を屈め、距離を詰める。素早く、しかし音と気配は消して。

「ソラッ!あの子がいない!」

半ば叫ぶような声を合図に、一気に行動を起こした。通信に夢中になって、私の監視を怠るとは……。こちらとしてはありがたいけれど。

「お静かに頼みますよ」

私の仲間 -とは思っていないけれど- にその声を聴かれては、話がややこしくなりますから。胸中で呟きつつ、右手のハンカチで彼女の鼻と口を覆い、左手で彼女の手に枷をはめる。

 小説などではよくクロロホルムを吸わせて気絶させているが、現実問題あれではほぼ不可能だ。吸引麻酔は全身麻酔をかけるための導入として使うだけであって、あまり効果は強くない。また、効き始めるにも時間がかかるのだ。もちろん、他の諸々の手段と合わせて使うならば、効果はあるのかもしれないが……残念ながら私はそんな手の込んだ仕込みとは縁遠いため、詳しくは知らない。この場合、魔法使いを気絶させたいならば、攪乱(かくらん)のためにハンカチ -何の仕込みもされていない- と枷があれば十分なのだ。

 「ご安心ください。ただの麻酔薬です」

朗らかに笑顔を浮かべつつ、息を吐くように嘘を撒く。そんなもの、一切入っていない。ただ、このままいけば魔力を吸われて、彼女は意識を失うのだから、効能的には大差ないだろう。

 「初めまして、赤石 穂香さん。そちらにいらっしゃるのは、天宮 空さんですね?」

事前に仕入れておいた情報を投げつける。動揺が枷とハンカチ越しでもよく伝わってきて、従順な反応に微笑みが漏れる。

「私はうさぎと申します。以後お見知りおきを。……と言っても、どうせ忘れてしまうでしょうけれどね……。礼儀として一応名乗らせていただきますよ」

この名を彼女が上司である旧友へ届けてくれたのなら、きっと旧友も喜ぶだろう。そのためだけの情報提供だ。情報屋からただで商品を受け取れるなど、きっと彼女はこの上なく運が良い。

 徐々に重くなっていくその体を支えていた手をどければ、解放された彼女はどさりと音を立てて、地面に倒れ伏してしまった。

「おや、そんなところで転がっていては、これから起こることが見えないではありませんか。大丈夫ですよ、私がその目にも映るようにして差し上げますから」

これ以上ない悪役のように言葉を連ね、私より大きなその体を引きずる。私はこの演劇の悪役で良い、裏方で良い。せめて、爪痕一つ残せれば、それで良い。

 取引現場が良く見える位置で、しかし、これから起こる惨劇の被害にあわない場所に、彼女を立てかける。

「道中、妨害ご苦労様でした。大変面倒で、こちらとしても歯ごたえがありましたよ」

わざとらしく両手を広げて悪役を演じる。消えてしまうその記憶に、少しでも強く印象が残るように祈りながら。

 振り返れば黒いポルシェの姿。ああ、もう始まってしまうのか。踵を返し、頭の横でひらひらと後ろ手を振りながら別れを示す。背後からの殺気に気づかないふりをして。

「さて、私はそろそろ行きますかね……。サラ・サタラによろしく言っておいてください」

悠々と告げながら、頭の横で振っていた手を素早くフードへ潜らせ、一枚の札を背後に向かって投げた。それは沈静のためのモノであり、気力を奪う類の呪いが付されたモノである。本来はこういう使い方をするのではないが……、背後の殺気がぷっつり途絶えたのならばそれで良い。

 (あなたはただ、私の存在を旧友に伝えるだけの伝書鳩になってくれれば、それで良いのですよ。おやすみなさい、良い夢を)

見えていないだろう彼女に向かって、そして遠く離れた司令塔に向かって、邪悪な笑顔を浮かべながら、足早に取引現場に向かう。

 

 …実質、ここからが勝負だ。幸い、まだ私を警戒している者はいないようだ。フードの手を入れ、スタンガンを取り出す。いつもの愛銃でないのが落ち着かないが、人死にを出すつもりはないのだから仕方ない。

 一定の距離を保ち、取引開始を静かに待つ。しばらくすると、トラックから男四人と〝獣人〟の少女が下りてぉた。そして、商品が売り手から買い手へと渡りる。その瞬間をしかとこの目に焼き付けた。見出しは……『〝獣人〟拉致被害の真実とは⁉ 暴かれる酔狂の村』なんてどうだろうか。

 

 一瞬、風が止む。

 

 全ての時間が止まったかのようなその瞬間、思考を遮断し、素早くその輪へ駆け込む。目標は男たち。買い手に興味などない。彼らは私ではなく社会が制裁を浴びせてくれるだろうから。

 まずは背後から近づき一人。身長差と体格差のせいで、首筋へ流し込むのは苦労したが、感覚だけは鈍っていなかったらしく、どうと音を立てて男は倒れた。

 続いてその音に反応した二人へ、逆の手で取り出した催涙スプレーを噴射する。もちろん、自分は吸わないようにして。そのまま、本来の用途とは違うと理解したうえで、愛銃で相手を殴る要領でスタンガンで首筋を殴りつける。銃のグリップの代用には心もとなかったが、それでも二人は無事倒れてくれた。

 が……

「⁉」

最後の一人は、私が他の三人に構っている間に背後に回っていた。自分より背も高く、筋力も強い男に羽交い絞めにされる。……とはいえ、相手が一人なら、やりようはある。

 冷静に、羽交い絞めにされたスタンガンを持つ手の先に、境界の抜け穴を開く。入り口はスタンガンの先、出口は背後の男の首筋に。黒い穴に吸い込まれた手と得物は、狙った男の首筋近くに開いた出口から姿を見せ、激しい電音を放って効能を発揮した。

 男が倒れる中、腕を穴から抜き、穴を閉じる。胃の中をかき混ぜられるような不快感はあるものの、外傷的には無傷だ。……できることなら、能力は使いたくなかったのに……。深いため息を一つ。

 周囲を窺えば、買い手の姿はすでになく、トラックの横には商品の少女が怯えた目で放置されていた。

「大丈夫ですか? 彼らが目を覚ます前に、離れましょう」

紳士的に手を差し出し、商品の……否、〝獣人〟の少女の様子をうかがう。動揺こそしているようだが、私が裏切ったことだけは理解したようだ。素直に首肯して手を重ね合わせる。

 「急ぎますよ。足元、転ばないようにしてくださいね」

身体能力の高い〝獣人〟に言うべき言葉ではないのだろうが、そう声をかけつつ森を走り抜ける。まだ、私の仕事は終わっていないのだから。

 

 

 

 この辺りで良いだろうか。音の届かない以上には離れたはずだ。走る速度を徐々に落とし、やがて立ち止まる。

「すみません、少し失礼しますね」

少女に持たされていた無線機を借りて、周波数を合わせる。先ほどの妨害電波が届かないここならば、つながるはずだ。

 

 「初めまして。うさぎと申します。この度は所員のホノカさんにお世話になりましたよ」

口元に笑みを浮かべ、その状況を楽しむように、挑発的に述べてみる。……もちろん、こちらの顔が見えていないことなんてわかりきっているが。そしてこの通信の相手は……

『…っ!?!? ホノカさんに何かしたのですか!?』

私より高く澄んだ鈴の音のような美しい声。例の司令塔、その人だ。レモンさんは実に有能で、有用で、周波数まで売ってくれるとは本当に優秀だ。

 なるほど、これが天宮 空さんの声か。聡明で策術的な事務所の司令塔。……よく似合う声だ。

「いえいえ、何もしてないですよ? 少し眠っていただいただけです。一切の怪我を負っていないと保証致しましょう」

交渉において必要なのは主導権を握ること。余裕さを声で伝えなくてはならない。同時に、判断を誤れば新入りという駒を失うのだと言外で伝える。

 「彼女の命を奪わない代わりに、一つ条件を飲んでいただきたい。できますか?」

『そんな話、乗る訳ないに決まっています!』

即座に返ってきたのはまさしく英断。しかし、この取引の主導権も決定権も、あなたにはない。

「そう仰らず。なぁに、簡単なことです。十分経っても、奪還対象である少女が、アリスさんとビターさんの所へたどり着かなかった場合、手を引いていただきたいのですよ」

『…っそれで、あなたになんの得が? 信用致しかねます』

ほんの一瞬、動揺が伺い知れた。彼女もこういった交渉のプロであるから、すぐに隠されてしまったが……。

 まぁ、心中お察しするに、私の口から “アリス” と “ビター” の名が出たことで、どういった経緯かは不明だが作戦の情報が伝わっていることに気づいた……というところだろうか。これに関しては、ある程度の証拠に基づいた勘でしかない。つまりはいつも通りの嘘だ。

 新入り一人に仕事を任せるとは思えない。しかも、最悪戦闘を伴う危険な仕事。司令塔と所長と新入りを除けば、戦力は三人。万が一、新入りを庇いながらの戦闘を強制された場合、一人では厳しいものがある。しかし、三人とも行かせてしまえば、通常業務に支障をきたすだろうし、駆け込みの依頼に対応できない。となると、来ているのはほかに二人。

 候補三人のうち、名をあげなかったもう一人は、赤石 穂香とほぼ同期。若干の先輩らしいが、入所は半年違い程度のまだまだ新人。新人の面倒を、新人に見させるとは考えにくい。そうなれば、おのずと今日来ている他のメンバーがわかった、ただそれだけのことだ。

 「私の仕事はもう終わりました。強いて言うなら、獣人の彼女の自由意志…帰るか否かの選択権のためですかね」

毅然として続ければ、

『……』

と、無言の返答が。まだ終わってはいないが……そちらの方が話が早いだろう。

 「では、私はこれで。」

『あ、ちょっt……!』

一方的に要求を伝え、深追いされる前に通信を切る。……ハッキングが成功していて、本当に良かった。ギリギリまで粘って、そこそこ危険な手段も踏んだが……天宮 空という人物を知れたことは大きな収穫だった。今となっては、周波数くらいレモンさんに頼めば買えた気もするが……まあ、気づかなかったのだから仕方がない。

 ……そして、これは同類としての予感だが、おそらく近いうちに天宮 空から私に接触してくるだろう。私ならばこんな不審な人物を目の当りにしたら、そうするから。きっとレモンさんは、私の情報を売るために再び『事務所』を訪れる。思惑通りなら、あの店のことも売ってくれるだろう。

 

 「……さて、お待たせしました。お怪我はありませんか?」

ようやく意識を〝獣人〟の少女へ向け、無線機を返す。今更返されてもいらない物だとは思うが、それは私も同じであるため、できれば彼女に押し付けて帰りたい。

 「じっとしていてくださいね、その枷、邪魔でしょう? 今壊しますから。でも、動いて怪我をしても、文句は聞きませんよ」

何も言葉を返さない少女へ、愛銃を向ける。私の愛銃・ベレッタM92が、発砲音を響き渡らせて、その無骨な枷を破壊して見せた。人に向かって打つのは正直肝が冷えるが、誤射することもなく、若干壊れた時の衝撃はあっただろうが……体の丈夫な〝獣人〟なら大丈夫だったと信じている。

 「では、私はこれで」

そのまま、何も告げずに踵を返し、歩き出す。此処でやるべき仕事はもうない。

 そうすれば……

「待って! なんで! なんで、取引を……⁉ 説明してよっ‼」

そう、聞いてくる。単純。〝獣人〟は力が強い反面、思考回路が簡略で、行動が読みやすい。だからこそ、〝人間〟に虐げられるのだ。

 ここまでおぜん立てされて、逃げる算段を目の前にすれば、もうあとは逃げてしまえば良いのに。わざわざ理由など必要あるのか? ……聞かれたから答えはするけれど……。

「仕事だからです」

実際、ドラマチックな理由などない。大抵の現実は、呆れるほどに単純で面白みもないものだ。

 「取引は破綻しました。あなたはこれからどう生きるも自由です。村に戻りたければここから南へまっすぐ行きなさい。そこにアリスとビターと言う2人の女性がいます。彼女らがあなたを村に返してくれることでしょう」

そこで一度言葉を切り、

「帰りたくないのならば、ここから西へ行きなさい。そこに獣人だけの集落があります。近くはありませんが、獣人の身体能力を持ってすれば、日暮れまでにはたどり着けますよ。私から話は伝えてあるので受け入れてくれることでしょう」

と続ける。

 そして、歩を止めることなく、

「全てはあなたの自由です。では、失礼します」

素っ気なく伝え、姿をくらます。この先のことは自分で考えるべきだ。現実を無力に嘆くだけなら、ありったけの力を持って牙をむけ。ただ与えられる道を拒みたいなら、自身で道を切り開け。さもなければ搾取されるか、不自由な現実にひれ伏す以外に道はない。

 私はそれを教えてあげるほど親切ではないし、その考えは自分で掴み取って初めて意味を持つのだから、その意味を踏みにじってあげるほど外道でもない。だから、この先彼女がどうしようと、私の知ったことではないし、彼女がどうなろうと私は無関係だ。与えるべき情報は与えた。しかも、この情報屋が、無償で。あとは自分でやれとしか言いようがない。後ろを振り返ることもしない。彼女が今、どんな表情でこちらを見つめているのか、それは仕事には不要な情報だから。

 

 誰かのために何かをするだなんて、私らしくない。

 そう、これは全て私のエゴ。

 気まぐれにかけた情け。

 どうするかの判断は、私にはできかねる。

 だから、最後の最後で選択肢を渡すという、もっとも残忍な方法を選んだ私を、きっと彼女は恨むのだろう。

 ……それでも、あなたの旅路が幸福であるように願う。

 胸中で、いつかに先生から言われた言葉を反響させて、見上げた空は、相変わらずの曇天。

 しかし、あの厚い雲の上では燦々(さんさん)(きら)めく太陽が、その雲の切れ間から顔を出す瞬間を待ちわびているのだろう。

 そう思えば、どんな暗がりでさえ進んでいけるはずだ。

 そうエールを送って。

 

 

 

 真に道を示すなら、その選択の自由まで奪ってはいけない。

 言うなれば、幼子の前に無数の道を示して放置する。最高のエゴで、それが最善だと信じている。どの道を選ぶかは本人次第。その先に付きまとう成功も失敗も、責任も後悔も重責も、その全てを背負って生きていっても良いと思える覚悟を掴み取る下準備こそ、真に道を示すこと。

 

 

 

***

 

 

 

 月の光が差し込む、薄暗く、小汚い家。八畳一間のみすぼらしい廃墟。足の踏み場もないほどに散らばった書類と服。そんな部屋の中央に置かれたソファーから聞こえる

「おかえり~」

と言う、気の抜けた声。

 「ただいま戻りました」

靴を適当に脱ぎ捨て、書類の散乱する机の上にキャッシュケースを無造作に投げる。

 ……あぁ、重かった……。それを見て同居人が満足気に笑った気がする。

「今日はどんな仕事だったの? 聞かせてよ~!」

無邪気な声を聞き流しつつ、やかんに水を張り、火にかける。とにかく、今は何か腹に入れたい気分だ。それが例え直接の養分にならなかったとしても。

「あ、ワタシも~!」

それと同時に飛んでくるカレーうどんのカップラーメン。私も戸棚から同じものを取り出した。夜食には丁度良いだろう。たまに無性に食べたくなる味をしているし……。

 「はいは~い。それで? 早く聞かせてよ!」

待てないとでも言いたげに、無邪気な声を張り上げている同居人。これが出来上がるまでのたった三分くらい、静かにしていればいいのに……。……いや、煩さだけが取り柄のような同居人が、三分も静かにしていたらそれはそれで不気味か。

 「……はぁ…分かりましたよ……」

そう呟いてから、自分の中の整理も兼ねて言葉を選びながら紡いでいく。この複雑な依頼の全容を。

 

 「今回は表向きには獣人売買取引の護衛、裏向きには〝獣人〟を虐げる村と獣人奴隷を買い込む街の癒着をマスコミに流すことでした」

そう、単刀直入に言うと、私はこれを目的に動いていた。

 一番初めに来た依頼は、〝獣人〟のオークションの情報を裏社会に流し、競に金持ちを参加させること。これは本当にただの情報屋としての仕事で、この手の依頼はそこそこ多い。やることと言えば、過去に競に参加していた裏を知っている金持ちに声をかけていくだけ。なんなら、地下ネットワークを使って、モグラに情報をばら撒かせても良い、単純で簡単なものだった。

 そしてその後に受けたのは、商品取引の護衛。引き受けた理由はただの蛇足。競に加担したついでに……という軽い気持ちだった。本来はこのまま商品を送り届け、報酬を受け取っておしまい。それ以上のことなど何もなかったはずなのだ。

 しかし、まさかこれが別の一件にここまで深くかかわっているとは……。私も読みが浅かった。

「報酬がこれ? ふ~ん、ざっと四百万ってところ?安いね。割にあってないでしょ?」

「ええ、心底そう思いますよ」

スパイモドキまでやったというのに、報酬がこれだけだなんて。まあ、取引の護衛については前金で二百万受け取っているため、合計六万ってところだが……。それでも割に合っていない。

 三つ目に受けた依頼は獣人の村からの依頼。内容は『商品の獣人を逃がすこと』。事前に二つ目の依頼で、取引の護衛を引き受けていたため、これは断るべきだった。だったのだが……依頼者がモグラということもあって、簡単には見過ごせなかった。そして、その時はまだ、取引の護衛が終わってから買い手を襲い、逃がすこともできるという計画を立てていたからだ。臨時報酬には良いと思った。善意でもなんでもなく、それだけだったのだ。

 それなのに……長老が『東の村』だなんて言うから、少し興味が湧いて調べてしまった。そして、抜け出せなくなってしまった。裏社会の情報屋として、これほどまでに面白く複雑に絡まった依頼はそうそうないし、パズルのピースをはめるように情報を露わにしていくことが楽しくて、ついやり過ぎてしまった。

 結果、マスコミに情報を売ることにした。護衛の仕事を反故にした分、そこからは前金しか取れなかったが、三つ目の依頼は失敗したら前金だけ受け取るつもりだった面もあり、それを加味すれば若干利益は増えた。

 「村では女の獣人で外見が良い者は商品に、それ以外は労働奴隷にされていたんですよ。中央区の下見までは行けていませんが、“獣人解放運動”を歌う議員が獣人奴隷を買っていただなんて、最高のスキャンダルだと思いません?」

笑みを零しながら、ラーメンに湯を注ぐ。村も村で酔狂だったが、中央区の政治家も政治家だ。今回商品を買おうとしたのが同じ政党の者かまでは調べていないが、少なからず需要があるということは、そういうことなのだろう。

 「……でも、大変でした。想定通り『事務所』の方々も手を出していましたし……。今後はより一層の警戒が必要ですね……」

三分を待つ間にため息が二つ。収入も収穫も上々だったが、その分売ってしまったモノも大きい。特に『事務所』絡みは。今までどうにかこうにか避けてきたが……こうなってしまっては、もう逃げも隠れもできないだろう。

 「勘づかれたってこと?」

「いえ、そうであればサラやイザヤから、先に連絡が入るでしょう。おそらくは単なる偶然……。しかし、私の能力に触れてしまった訳ですから、警戒せざるを得ないでしょうね……」

「確かにね……。ワタシが手伝えるところは手伝ってあげるよ~!」

「ふふ、それは頼もしい。あ、はい、ほら、出来ましたよ」

蓋をめくれば、部屋いっぱいに立ち込める独特の香りが、意識を奪っていく。気が重いのは確かだ。これからのことを考えれば、呼吸するようにため息がでてしまいそう。

 

 何気ない日常。

 守るべき我らが平穏。

 侵す者は許すべからず……。

 ……いえ、今考えるのはやめにしましょう。

 せっかくの食事時間ですからね。

 穏やかな声と共に、夜は刻々と更けていく……。

 

 

 

 真に道を示すなら、与えるべきは未来の自由だけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 -真に道を示すなら- by 天宮 空

 

ーーー

 

 

 

 軽いベルの音が鳴り、落ち着いたジャズ音楽の流れる店内に足を踏み入れると、年季を感じさせる木の床が小気味よい音を奏でました。シックな雰囲気の個人的には一見で気に入った喫茶店でしたが、お客の姿はワタシ以外に誰一人としてありません。それもそのはず、現在時刻は子の刻。つまりは夜中の一時前後。むしろ、こんな時間まで営業している店の方が不思議なのです。

 入口から少し離れたカウンターで、優雅に本を読んでいる眼鏡をかけた初老の男性。彼がおそらくここの店主でしょう。店の雰囲気に合った、落ち着いていて大人びた雰囲気を(かも)し出していて、不思議と心を委ねたくなる魅力を持った方でした。

 

 「こんばんは。えっと……まだ営業していますか?」

あまりの人気(ひとけ)のなさに、閉店後かと疑ってしまいます。声の調子を少し下げ、この店の雰囲気に合わせて話しかけましたが……まあ、入口が開いていて、明かりが灯っているのだから、否とは言われないでしょう。

 「やあ、こんばんは。もちろん営業中さ。常連のお客がまだ来ていないからね……。この店唯一のお客が」

店主は私には目もくれず、やさしく厚みのある声で続けます。

「君も、彼女に会いに来たんだろう?」

諭すように、そして、それ以外に考えられないとでも言うかのようにきっぱりと。その老眼からは、ワタシの心の内を見透かそうとする鋭さも感じませんでしたし、そもそもこちらへすら向けられていませんでしたが、その一言はワタシの体を緊張させるに足る力を秘めていました。

 返す言葉も(てい)の良い嘘も言い訳も思いつかず、無言の肯定を示すしかありませんでした。言い訳などをしてみるのなら、こんなところで取り繕う必要性も感じませんでしたし、どうせ彼はワタシの目的を見届けることになるのでしょうから問題ないのです。

 「ははは、僕に言い当てられたのが不思議かい? もっとも、初めてこの店に来る者たちは皆同じ反応をするのだけれど」

店主の近くの手近な椅子へと腰を掛けます。待ち人が来るまでの暇つぶしの会話を楽しむこととしましょう。何事も、情報無くしては始まりませんからね。

 

 「ああ、いい席を選んだね。今君が座っている席の右隣が彼女の特等席さ」

店主に注文を聞かれ、ワタシはレモンティーをお願いします。席……は、もう、偶然だとしか言い様がありませんね。本当に、ただの偶然です。

 そして目の前に置かれたのは、曇り一つ無く磨き上げられたティーカップ。それへゆっくりと美しく注ぎ込まれる紅茶。香る、華やかで落ち着いた香り……。あぁ、とても素敵ですね。仕事でさえなければ、何度でも訪れたいと感じてしまう程度には。

 静かな店内の空気を壊さぬようにそっとカップのふちに唇を寄せ、店主の手つきを真似るようにゆっくりとそれを傾けます。吸い込む空気は夏空のような、甘く爽やかな香りに包まれていました。

 私がお茶を飲む姿を満足そうに見つめながら、店主は私の右隣の席にコーヒーを置きました。これは……#例の彼女__・__#の分でしょうか? 紅茶よりコーヒーがお好きとは存じ上げませんでしたね。

「そろそろだよ。いつもこの時間なんだ。君がどこで、この店なら彼女に会えるという情報を手に入れたかは知らないけれど、この店にやってくる彼女以外のお客はね、一様に彼女と会いたがるんだよ。もちろん、なぜそれを望むのか、僕から聞くつもりはないし、わかりもしないけれどね」

店主がそうつぶやいた直後、入り口のベルの音が店内に響き渡りました。

 

 

 

 入ってきたのは濃いオレンジ色の髪をした、十歳前後に見える少女でした。うさぎ(・・・)の名に相応(ふさわ)しい華奢な体つきと、想像よりもはるかに若いその姿に、一瞬の驚きを感じます。しかし、すぐにその判断が間違っていたと思い至りました。妖怪であれば幼くても不思議ではないのです。現にワタシとて、外見にそぐわない年月を生きているのですから。

 そして、相手を外見で判断することは、大きな失敗へとつながる愚行だということもまた、ワタシは痛いほど理解しているのですから……。

 「こんばんは、うさぎちゃん。今日もお仕事、お疲れさま」

店主がやさしく微笑みかけながら、彼女のコーヒーの横にオレンジタルトを添えます。年齢不詳の少女は、ワタシの右隣 ー店主曰く特等席ー に腰を下ろし、疲労の色を隠さずに深い息を一つ。

「こんばんは。今日はオレンジタルトですか……。これまた美味しそうな」

「ははは、それはありがたいねぇ……。君からの収益でこの店は成り立っているといっても過言じゃないから。僕だって仕事に精が出るさ」

「それは言いすぎですよ。私とてこの店がつぶれてしまえば、情報の収集元と依頼主との面会の場と、そして何より、この美味しいコーヒーとケーキが食べられなくなってしまいますから。あなたの作るケーキのために日々の仕事を頑張っているといっても過言ではありません」

「うれしいねぇ……。それこそちょっと言いすぎだけどね。明日もまた頑張ろうと思えるよ」

そんな何気ない会話が耳に入って来ます。その会話のどこにも、つい先日ワタシたちに牙を向けてきた人物だと思える要素はありませんでした。

 

 さて……と、音を殺してティーカップをソーサーへ戻し、本題を切り出すための心の準備を整えます。此処の雰囲気は大変気に入りましたが、ここへは息抜きに来ているのではありません。あくまで仕事、あくまで仲間のため、自分のための工作に他なりません。

 

 「……あなたが情報屋・うさぎ、ですね? 先日はホノカさんがお世話になりましたぁ~」

少しの嫌味と憎しみを込めて口を開きます。この腹の内の全てを押し殺し、まるでいつも通りを装って。

 今日の目的はうさぎと接触し、彼女がどういった人物であるかを把握すること。そして、いつか再び会ったときにきっちり()を返させていただく。ただそのためだけであり、なれ合いなど必要としません。

 「なるほど、あなたが天宮(あまみや) (そら)さんでしたか。本日はどういったご用件でしょう?」

余裕ぶって笑う赤と金の瞳。まるでワタシを(もてあそ)んでいるかのように。ふふ、全く本当に貴方という方は、どこまでもワタシの気に障るお方だこと。

 「いえ、特にこれといった用事はありませんよぉ? ただ、あなたには一度会っておこうと思いましてね。先日の御恩(・・)もありますし……ねぇ?」

しかしこちらとて、情報を扱い交渉を行う者。その程度の挑発には乗りませんよ。これは言わば水面下で叩きつけられた果たし状。返す手でそのまま首をへし折ってしまおうと、明確な敵意を孕ませて言葉を選んでいきます。

 「そのためだけに、わざわざこちらへいらっしゃったのですか? なかなかに面倒なことをなさるのですね。まあ、私としてはどうでも良いことなのですが……」

まるで興味のないといった素振りで、コーヒーを傾ける彼女。果たして貴方は、最後まで他人事だと貫き通せるでしょうか?

 

 「単刀直入に聞きましょう。あなたは何者です? ワタシの通信のジャック、ホノカさんへの対応、そして何より……」

一度言葉を切り、まるで犯人を指さす探偵のようなもどかしい間を取って、まるで決定打を打ち込むように

「先日のニュース。あれは、貴方が情報を持ち込んだのではありませんか?」

と、言葉を繋ぎます。どこにも出回っていない情報でありながら、ワタシはこれへ一種の確信的な物を見出していました。どこにも出回っていないからこそ、あのニュースの真相を知りえたのは、目の前のこの少女しかいないのだと。

 

 

 

 先日、ワタシたちはとある村から〝獣人〟が連れ去られ、売買にかけられているとの情報を入手しました。我らが所長曰く、それを依頼してきたのは件の村の村長だったそうです。もちろん、村の総意という名実潔白な建前の下で。

 ワタシたちは所長(サラ)の指示…いや、サラが依頼を引き受けさえすれば、基本依頼内容にかかわらず仕事を遂行いたします。それがワタシたちの存在意義であり、目的なのですから。

 今回のような人攫いから奪還するような仕事は、今までにも何度か経験しておりました。痛手を受けたことも少しばかりありましたが、それらを失敗したことは無かったと、司令塔として明言しておきましょう。

 人選を担当したのはサラ自身。新人であるホノカさんにもある程度の仕事経験を積ませるべきだと、比較的簡単で安全なこの依頼を任せたです。彼女(ホノカさん)はただ、ワタシの指示に従い行動しさえすれば良い。依頼の達成、任務の遂行を確実なものにするのはワタシの仕事であり、全ての責任はワタシにしか無いのです。

 

 ……途中までは上手くいっていたと思っています。それは(おご)りではなく、事実として。客観的観点からそうだと判断しているのです。村の実態調査でも異変は確認できませんでしたし、奪還当日の作戦も、実行担当であるホノカさんの実力も、何一つ申し分なかったはすです。

 問題があったとするならば、予定外の人物の乱入でしょうか……。そして、それへの対応でしょうか。あるいは情報のアドバンテージでしょうか? ……今でさえ、これらは推測の域を出ませんが、今回の失敗はワタシの完敗だと言い切れるでしょう。

 簡単に言ってしまえば、そのときにうさぎと名乗る彼女とホノカさんは一戦を交えたでした。結果は敗北、依頼は達成されませんでした。正義が悪に負けただとか、彼女(うさぎ)の仕事は間違っていただとか、そんなどうでも良い御託を並べるつもりはありません。

 しかし……ホノカさんが疲労して帰宅した数時間後の速報。あれを見過ごすことはできないのです。その内容が、あまりに目を疑うものだったので。

 

 ワタシたちが依頼を受けたあの村では、同じ〝人族〟であるというのに〝人間〟は〝獣人〟の一切の人権を認めていないも同義でした。大人の〝獣人〟は『力の強い〝獣人〟は力仕事、手先の器用な〝人間〟はそれ以外を』という(てい)で奴隷に、子供の〝獣人〟は調教の後外部へ出荷。同じ〝人〟であると考えているのなら、決して考えられない行為でした。

 ホノカさんからの報告や、ワタシの確認した情報では協力しているようにしか見えませんでしたが……。あの村全てが完全なる偽りで形成されているという可能性を、排斥していたワタシの落ち度でした。考えなかったわけではないのです。しかし、現実問題それが可能なのかということを天秤にかけ、不可能だと判断したまででした。

 ……今となって立てた仮説としては、村の本性は全てあのゲストハウスに集約されており、そこ以外の全てを取り繕っていたというもの。それならば、外部からの突然の来訪であろうと、ボロがでることは少なくなるでしょうから。……もちろんこれはただの可能性で、仮説にすぎず、現実がどうであったのかはわかりかねますが……。だって、そこまでするメリットがわからないんですもの。なぜ、共存という道をそこまで否定するのでしょう……。

 

 あのニュースを見て、正直なところ、今回の奪還作戦が失敗してよかったと思ってしまった自分がいました。そうです、敵である彼女(うさぎ)の行動に、あろうことか賛美を送ってしまったのです。

 獣人の少女たちの幸せを考えれば、あの村はあまりに窮屈で(むご)い。ワタシたちができることは何もないけれど、少なからず、あそこに連れ戻さなくてよかったと心から思ってしまいました。

 なぜうさぎは、この情報を事前に知ることができたのでしょう? なぜワタシは、その情報を知ることができなかったのでしょう? この違いこそ、きっと敗北の原因だったのでしょう。

 今回の件について、マスコミに垂れ流した可能性がある人物は彼女で、新聞になるまでの速さを考えるに、彼女はマスコミに大きな影響力を持つのでしょう。上記を踏まえ、彼女の職業や業界での地位についても何となく想像をつけることはできました。……しかし、その実力までは、どうしても推し量ることはできないと感じたのです。実際にこの目で会わない限りは。

 

 

 

 ここまでの考察を踏まえ、まっすぐに彼女の瞳を見つめ返します。彼女はふと視線を逸らし、行儀悪くカウンターに肘をついて口元を釣り上げました。ワタシはその唇の端から、いったいどんな言葉が紡がれるのか、恐怖でも好奇心でもなく、ただ緊張して待ち続けます。

 「聡明なあなたなら、その考えに対する裏付けとなる情報をすでに集めているのでしょう?」

……この返事……それは……肯定の意、でしょう? あえて言葉にしこそせずとも、流石にその程度は分かりますとも。まあ、彼女からしてみれば、この情報をワタシに与えたところで、デメリットもないでしょうし、当然……と言った具合なのでしょうね。

 「もとから、マスメディアを使った ー拉致の首謀者と村側のー 共倒れが目的だったとでも言いたいのですか?」

これがワタシの本命の予想です。彼女を善人として考えるつもりなど一切ありませんが、その行動を評価した結果です。

 それに対して無表情な情報屋は、にやりと不敵な笑みを浮かべ、

「さあ?」

と、わざとらしく言い放つのでした。

 思考が読めませんね。貴方は一体、何を考えているです? ですが……強いて言うなら、彼女に悪意はないのでしょう。今のところは(・・・・・・)ワタシたちに対する強い敵意も。脅威にこそなりえるとしても、この底知れぬ相手を根本から叩き潰す必要は、しばらくなさそうですね。最悪、彼女がワタシたちの邪魔さえしなければ、それで良いのですから。

 

 「さてと。私はそろそろ行きますね」

年下にしか見えない少女は、カウンターの上に代金を置き、静かに椅子を引きました。しかしそれは少しだけ不自然で、彼女の注文の勘定より(いささ)か多い気がするのです。

 「今晩のお代です。そこの方の分も含めておいてください。いつも通り、おつりはいらないので、おいしいものでも食べて、ゆっくりお休みになってくださいな」

怪しげな雰囲気とは裏腹に、時々垣間見せる僅かな優しさ……。これは一体、何なのでしょう? 悪役にはあまりにも不釣り合いではありませんか。

 ……ワタシは、この行為の伝統を、一つ知っています。“誰かのための一杯(カフェ・ソスペーゾ)”。……一杯のコーヒーに対して、二杯分の代金を払う。いつかどこかで誰かが口にする、払えない一杯分のコーヒーのための前払い。遠い異国で継承されているという、優しさを紡ぐ文化の一つです。

 何の関与もない異国の文化を、まるで平然とやってのけるその姿は、明らかな善意の塊としか評価しようがありません。……ワタシを欺くための演技ですか? ありえない話ではありませんね。……しかし、自分が善人であると見せつけて、彼女に何のメリットがあるというのでしょう? そんな行為一つで、ワタシが彼女を警戒の対象から外すと考えるほど、彼女は浅はかな人物ではないでしょうに……。

 ……貴方はいったい何者なのです? 何がしたいのです? ……しかし、今はまだ、その結論を出すべき時ではありません。情報が、あまりにも足りていないのですから。……この件も含めて。

 

 「あ、そうだ。一つ伝えておかなくては」

出入り口の扉に手をかけたまま、彼女が体をこちらに向けます。特に何の思考も無く、ただ忘れ物を取りに戻るときのように。

「私の次の仕事は、壊れかけのショッピングモールでの怪異についての調査です。お会いしたのならば、その時はよろしくお願いいたしますね」

そして、ぺこりと一例をこちらに送り、足早に店を出ていくのでした。

 静かになった店内に、ただ静かに、軽いベルの音が響きました。

 

 

 

 壊れかけのショッピングモール……? そう言えば、中央街に取り壊し工事の際に、必ず怪奇現象が起きるショッピングモールがあった気がしますね……。それのことでしょうか? ……しかし、なぜその情報をワタシに……? 会いたければ、同じ依頼を受けろ、と……? わざわざ? 敵に塩を送りつけるようなことを、なぜ? 彼女もまた、ワタシに会いたがっているのでしょうか? 我々の腹の内を探るために。

 やはり、彼女の考えはよくわかりませんね……。どこまで考えても、まるで底なし沼。溺れるように湧いてくる疑問符の回答は、あまりに不足しています。

 ……ああ、しかし、次の仕事は決まりましたね。あとは我らが所長に報告して、許可をもらうだけです。受理はされていたはずですから、適当な理由をつければ、ワタシの担当にすることもできるでしょう。

 

 「ありがとうございました。とてもおいしかったですぅ~! 機会があれば、またお邪魔しますね」

店主の男性に微笑みかけ、ワタシもまた席を立ちます。目的を果たし終わったこの場所に、長居する時間がもったいないので。

「ああ、僕も久々に良いものが見れたよ。あの子、最近物騒な依頼ばかり受けていたからね。君みたいな頭がよくて、彼女の意図を察してあげられる子なら、きっと彼女と良い関係を築けるよ」

褒められているのかよくわからないですね……。別に私は、彼女と良好な関係を築くつもりなど微塵も無いのですが……。と、いうより、できることなら関わりたくないのですが……。まあ、良いです。情報屋・うさぎという問題を解決しない限り、今後障壁になることもふえるのでしょうから。

 今日の実りは時間の割にあまりよくありませんでしたが、十分に満足しました。だって、この店のレモンティーがおいしいことは分かったので。今度は昼間に来ましょう。肩肘張った仕事などではなく、ただ一匹の紅茶好きな妖怪として。

 

 落ち着いた店内に、その日最後のベルの音が響いた。

 

 

 

 真に道を示すなら、次の一歩まで責任を取るとでも言うの?




 御閲読、ありがとうございました!
 初投稿になります……。とても緊張していますし、拙い部分も多いかと存じます。
 完走できるかまだ不安ですが、ぼちぼち頑張るので、生暖かい目でご覧いただければ何よりです!
 では、また次の話でお会いしましょう。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。